挨拶は、基本

「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
 からりと障子が開いて、伊作が帰ってきた。と思ったら、その後ろに続くのは。
「あ、留三郎先輩、こんにちは」
 ぼさぼさ髪が頭を上げると、そこに竹谷八左ヱ門の顔があった。
「おう」
 短く返事をする俺に会釈を返すと、竹谷はふと横を見て笑いかけた。
「よぉ、コーちゃん、久しぶり!」
 何でだろう、この後輩は真面目な割に根明ないい奴なんだが、どういう訳か、うちの部屋に来るたびに、骨格標本にも挨拶を欠かさない。
 伊作と同じく骨格標本好きなのかと思いきや、挨拶だけすると、すたすたと部屋の中に入り込んだ。伊作が何やら探し物をしている薬箪笥の前に立つ。
「竹谷、この薬で良かったんだっけ?」
「あ、はい、これです」
 伊作が出してきた薬を受け取ると、竹谷はほーっと溜息を吐いた。
「この解毒薬、いつも生物園に常備するようにしてたんですけどねえ。うっかり切らしてたのに気がつかなくて。助かります」
「いやいや。確か持ってたはずだなーと思ってね」
「お手間を取らせてしまってすみません。次の休みには必ず仕入れて来ますから」
「いいよー、そんな焦らなくても」
 ひらひら手を振る伊作に、しかし竹谷は頭を下げた。
「本当に、助かりました。どうもありがとうございました!」
 生物委員会代表として、きっちりお礼を言うと、竹谷は俺の方にも軽く頭を下げた。
「留三郎先輩も、どうもお騒がせしました。ではこれで失礼します」
 そうしてすたすたと障子へ向かう。外へ出てから、律儀にも「失礼します」と一礼し。
「じゃあな、コーちゃん」
 微笑みながら手を振ると、静かに障子は閉められたのだった。
「何なんだ、あれ……?」
 俺が苦無を磨く手を止めて見送っていると、伊作が笑顔で説明を始めた。
「あ、生物委員では毒消しを普段常備してるらしいんだけどね、こないだ毒虫たちが逃げ出した時にあらかた使っちゃったらしくて、どうしよう、って竹谷が慌ててたから、確かうちにあったなーと思って。怪我人もまだ出てないのに医務室のを持ち出す訳にはいかないし……」
「いや、そういうことじゃなくて」
 竹谷が骨格標本に挨拶していく事を、伊作はなんとも思ってないんだろうなあと思うと、俺は溜息を吐いた。

「こんばんは。不破です。失礼します」
 廊下から声がして、おう、と返事してやると、すっと障子が開けられた。
 雷蔵は部屋に踏み入ると、「やあ、コーちゃん」と真正面に向けて微笑みかける。
 それからくるりとこちらを向くと、「留三郎先輩」と近づいて来た。
「中在家先輩から伝言です。この前リクエストいただいた本についてですが」
「おう」
 雷蔵は、手甲鉤を磨く俺の傍に膝をつく。堅苦しいので座るように手振りで示すと、腰を下ろした。
「現在、出入りの本屋さんに在庫が無いので、取り寄せることになりそうです。そうなると、あと二月ほどかかるそうです」
「二月かあ……」
「ですが、戦記ものは人気がありますし、これからもぜひ増やしていきたい、他にも何かおすすめがあれば教えて欲しい、とのことでした」
「おすすめねえ」
 何かあるかな、と考えていると、衝立からひょっこりと伊作が顔を出した。
「へえ、留三郎は戦記ものなんてリクエストしたんだ」
「あ、伊作先輩。いらしたんですか」
 こんばんは、と笑顔で会釈する雷蔵に、伊作もこんばんは、と返す。
「留三郎先輩にリクエストいただいた本は何冊かありますけど、どれも人気なんですよ。留三郎先輩のおすすめだっていうと、みんな借りていきますから。図書室の常連の間では、有名なんですよ」
「へええ。読書家だとは思ってたけど。凄いんだね」
「そんなことねえよ」
 俺を立てるようなことを言っておきながら雷蔵の笑顔は始終、伊作に向けられている。別にどうでもいいんだが、そんな奴に煽てられてもあんまり嬉しくは無い。
「僕も今度、リクエストしようかな」
「ええどうぞ。ただあまり専門的な本になりますと、やっぱり在庫がないとかで、時間がかかりますけど」
「そうだよねえ」
「それでも良ければ、是非。何かリクエストして下さい」
「うん、じゃあ考えておくよ」
 それでは、と雷蔵は立ち上がった。
「では、留三郎先輩、伊作先輩、失礼します」
「おう、ご苦労様」
 きっちり頭を下げて戸口へ向かった雷蔵は、「じゃあね、コーちゃん」と骨格標本に微笑みかけた。
 それから「失礼します」と再び声をかけ、障子をすとんと閉めた。
 それを見て、伊作の姿が消える。衝立に区切られた内側では、場所にもよるが、座り込むと完全に衝立の外からは姿が見えなくなるのだ。
 さっきの雷蔵も、伊作が部屋に居るとは思ってなかった様子だった。それなのに、コーちゃんに挨拶してたのか。
 なんだかなあ。不可解さが喉につっかえて、すっきりしない感じだ。

「五年い組、久々知兵助です。失礼します」
 声と同時に障子が開く。普段律儀で真面目なこの後輩が、相手の返事も聞かずに障子を開くのは、つまり緊急時のサイン。
「こんばんは。あの、伊作先輩は、ご在室ですか?」
「どうしたの、久々知」
 そのサインを受け取った伊作が、火鉢の前から俊敏に立ち上がる。
「一年生が怪我をしまして。十キロ算盤を担いでランニングしていた会計委員会が、体育委員会の掘った塹壕に落ちて」
「うひゃー……」
「運悪く、一年生の手に算盤が落ちたとかで、手が血まみれになってます」
「新野先生は」
「お風呂に行かれたとかで、医務室にはいらっしゃらなくて」
「ああ、それじゃちょっとかかるかも」
 伊作は手近に置いていた頭巾を被ると、ひらりと衝立を跨ぎこした。
「怪我した一年生はどこに」
「今、潮江先輩達が医務室に運んでいます。俺は偶然その場に居合わせて、一足先に医務室に知らせるようにと」
「分かった。じゃあちょっと行って来る」
「おう」
 俺に言い残すと、伊作は部屋を飛び出した。俺に会釈して続こうとした久々知を「ちょっと待て」と呼び止める。
「何でしょう?」
 久々知はその長い睫毛を瞬かせて俺を見た。怪我したのはこいつの後輩じゃなさそうだし、こいつまで急ぐ必要はないだろう。
「あのさ。なんで一々お前らって、うちの部屋に入るとき、コーちゃんに挨拶して行くんだ?」
 こんばんは、って、この緊急時に。最後の方でこそ俺と目があって俺に聞いたんだろうけれども、最初の一言は、はっきり真正面を見て言ってたよなあ。伊作先輩は、辺りまではやっぱり、骨格標本に向けて挨拶してたんだと言わざるを得ない。
 しかし久々知の返答は、俺の予想とは違ったものだった。
「いえあの……じゃあ、留三郎先輩は、コーちゃんに挨拶とか、しないんですか?」
「へ?……するわけないだろう」
 そりゃあ確かに、伊作がいないと分かっていても、部屋に入るときに「ただいま」とか言っちまうことはあるけれども。あれは習慣でそう口にしてるだけで、別にコーちゃんに挨拶してる訳じゃないぞ、と言いたい。大体、出て行く時には何も言わないし。
「ああ、そうなんですか。留三郎先輩はなさらない……」
「いや普通そうだろ」
 何か考え込む様子になった久々知に、俺は突っ込みを入れた。確かにコーちゃんは伊作のお気に入りでずっとこの部屋に居る事は居るが、ただの骨格標本だぞ。人形遊びの人形ですらないのに。
「今思い出したんですけど」
「何だ」
「三郎が言い出した気がします。コーちゃんにも挨拶すればいいんじゃない、みたいなことを」
「鉢屋が?」
 また人形遊びに無縁そうなのが言いだしっぺか。一体何を考えてるんだ。
「……まあ、どうでもいいけどな」
 呟くと久々知がぺこりと頭を下げた。
「では、俺はこれで。失礼します」
「おう、ご苦労さん」
 久々知はそのまま部屋を出て行くように見えた。が、しかし。障子を閉める前の一瞬、目の前の骨格標本に微笑みかけ、手元で小さく手を振ったのを俺は見逃さなかった。
 どうでもいいっちゃいいのだが……まったくこいつらは、何なんだか。

「こんばんはー。学級委員長委員会です。お菓子の配給に参りました」
「……おう」
 すらっと障子が開いて、図書委員の五年と同じ顔が入ってくる。奴は敷居を跨ぎ越すと
「やあ、コーちゃん!元気だった?」
 と、旧知の友人にするように、挨拶した。
 そしてそのまますたすたと部屋の中に入ってくる。
「あ、伊作先輩には井戸端でお会いしました。これからお茶を淹れるそうですね。なら学級委員長委員会で余ったお菓子をお持ちするということで、ご馳走になろうかと」
 そう言って手にした風呂敷から出てきたのは、煎餅に羊羹にきんつばに。どれも量は多くないが、こいつらは予算でこんなもん食ってんのかと思うと、やっぱり会計委員長をシメたくなる。
「ところで鉢屋。お前に聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
「……なんでお前らは、うちの部屋に入る時に、コーちゃんに挨拶するんだ?」
「へ?」
「しらばっくれんなよ。お前だって今、入ってくる時元気だったかとか聞いてたじゃねえか」
 骨格標本に元気も何もあったもんじゃないと思うのだが。もはやその辺は突っ込む気がしない。
「いえ、そうじゃなくて。……へえ、僕以外にも、挨拶してるんですね」
「久々知に聞いたら、お前が言いだしっぺだと言ってたぞ」
「ああ、そんなことを言ったかもしれませんねえ」
 何でだよ、と重ねて問えば、変装名人はにっこり笑った。
「ほら、あれですよ。将を射んと欲すれば、まず馬からって言うでしょ?」
「馬かよ!」
 あまりにもあんまりな例えに、反射的に俺は叫んでいた。
「コーちゃんが馬!?じゃあなんだお前は、コーちゃんに取り入っとけば、そのうちコーちゃんがお前と伊作の間を橋渡ししてくれるとか期待してんのかよ!?」
 掴みかからんばかりにまくし立てれば、どうどうどう、と宥めてくるからその頭をぽかりとやった。
「痛いなあもう……。いえ、そんなことを期待してる訳じゃなくて」
「じゃあ何だよ」
「ほら。人は、自分が大事にしている物を邪険にされると嫌でしょう?逆に、大事に扱ってくれると嬉しいし」
「まあな」
 鉢屋は出入り口のコーちゃんをちらりと見ると、こいつにしては珍しく、優しい表情で笑った。
「コーちゃんは伊作先輩のお気に入りでしょう?大事にされてるの、分かります。だったら僕たちも大事にするべきじゃないですか。……といっても、いきなり骨格標本を愛でるようなことは流石に出来ませんから、まあ、出来ることからこつこつと、ですかね」
「……成程」
 そうなのだ。どういう訳か、こいつらはみんな伊作のことが好きで。
 独占とか横取りとかは考えないらしい。ただ慕うような、愛でるような想いでいるらしくて。
 結局、コーちゃんに挨拶するのも、その気持ちの延長線上な訳か。
 骨格標本がどうとかいうのではなく、ただ伊作が大切にしてるから、それで。
「他の三人はともかく、お前にしちゃあ、殊勝な心がけだよな」
「えええ?その言い方、酷くないですか。まるで僕だけ極悪人みたいに」
 雷蔵の顔でむくれてみせる鉢屋。やっぱり、顧問の権限でおやつ代をちゃっかり通してしまうやり手ではあっても、中身はまだ可愛げがあるってことか。
 廊下から聞こえてくる緊張感の無い足音に頬を緩めたこいつをみて、何となく思った。
 伊作が卒業するまで、コーちゃんへの挨拶が欠かされることはなさそうだ。

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