5000Hit記念リク第八弾

愛してると言って下さい


「あー……」
 落とし穴にはまった僕は、気の抜けた声を上げた。サインにはちゃんと気づいて、避けようとしたんだけれど。その時急に横から突風が吹き付けてきて、体勢を崩してたたらを踏んで、結局、避けようとした落とし穴にすっぽり落ち込んでしまったらしい。
 よっこらせ、と体勢を立て直す。すると、右の足首がずきんと痛んだ。落ちた時にひねったらしい。体重をかけると痛む。
 穴自体は、ちょうど僕が縦に収まるくらいの深さだ。自力で登れない深さじゃないけど、この足だとちょっと難儀だな……。
 どうしたものかと思案にくれていると、すぐ近くで、はっはっ、という息づかいが聞こえた。息づかい?こんな地面すれすれというか地面の下みたいな場所で一体誰が……。
「わん!」
「のわっ!」
 そっちの方を見て、僕は仰け反った。犬が一匹、地面の匂いを嗅いでいた。犬は僕を見ると、一声大きく鳴く。
「どうした、何かいいものでもあったか?」
 声と一緒に近くの藪ががさがさと鳴った。軽い足音がして、ひょっこり穴から顔を覗かせたのは。
「伊作先輩?おほー、こりゃまたいいもの見つけたなー!」
「竹谷!」
 五年ろ組の生物委員、竹谷八左ヱ門だった。ぼさぼさ髪の中で、丸っこい顔がにっこりと笑う。
「どうしましたか、また落とし穴ですか?」
「そうなんだよ。落とし紙の補充の帰りでさ」
 穴に近づくと、竹谷は僕に手を差し出してくれた。僕はその手に引き上げてもらいながら、自分でもどうにか這いずり出る。
「あー、助かった。ありがと、竹谷」
「いえいえ、どういたしまして」
 僕がすっかり穴から這いあがると、竹谷は傍らの犬を抱くようにして撫でた。全身真っ白のその犬は、きっと生物委員で飼ってるんだろう。気持ちよさそうに竹谷に撫でられていた。
「これぐらいの穴、なんとか登れないことはないんだけど、足を挫いてたから丁度助かった」
 軽くひねった程度で、体重をかけなければなんという事はない。でも片足だけで穴を登るのは至難の業だし、竹谷が通りかかってくれて本当に良かった。
「え、足、挫いたんですか?」
 しかし、それを聞いて竹谷の顔色がさっと変わった。
「大丈夫ですか、痛むでしょう?すぐ医務室に行きましょう!」
「いや、そんなに痛くないし、へい……」
 き、と言い終わる前に、僕は竹谷に抱き上げられていた。
 背中を通して脇の下と、膝の後ろを抱えられて。まるで赤ちゃんか小さい子のように。
「ちょ、ちょっと待って、竹谷!」
「急ぎましょう、早く手当をしないと。行くぞ!」
 最後の掛け声は傍らの犬に対してらしい。犬がわんと吠えるより早く、竹谷は駆けだした。僕の意見はまるで無視か、こら。ていうか、走るのか!?
 背中とか膝とか支えられてはいるけれど腕一本だし、結構怖い!しかも走って揺れるとなれば、なおさら不安定だ。僕は思わず腕を伸ばして、竹谷の首にすがりついた。
「ね、竹谷、降ろして」
 首に抱きついておいて言うことじゃないけれど、それでも一応言ってみた。しかし竹谷からは一言「嫌です」という返事があって、しっかりと抱え直された。
 ……なんか、先輩として相当みっともない姿なんだけれど。
 落とし穴の近くは人気がなかったから、まだ良かった。でも校舎が近づくと、やっぱりその辺に誰かいて……う、四年生に見られた、そこの三年生も目を丸くしてる。恥ずかしい。でも落ちるのが怖くて首から手を離せない!
「やだもう、自分で歩けるから……竹谷」
「着きましたよ」
 不意に速度が落ちたかと思うと、そこは見慣れた医務室前の廊下だった。犬はちゃんと、外廊下に面した庭に座ってる。竹谷は開け放しにしていた戸から、医務室の中に入っていった。
「い、伊作先輩!どうしたんですか!?」
 包帯を片づけていたらしい数馬と左近が、血相を変えて飛んでくる。……そりゃあこんな態勢じゃあ、よほどの大怪我をしたのかと思うよなあ。
 竹谷は、それまで走っていた勢いからは考えられないほど丁寧に、そっと僕を床に降ろしてくれた。
「足を挫いたらしいんだ、手当を」
「いや別に、全然大したことないから」
 泡を食った表情の二人を取りあえず落ち着かせようと、笑って手を振る、と。
「先輩!」
「はい?」
 根明が評判の生物委員は、いつになく真剣な表情で僕の手を握って止めた。
「そう言って先輩はいつも自分のことは後回しにして他人の事を気にかけてくれますけれども。怪我をした時くらい、ご自分の手当を優先して下さい!」
「はあ……」
 いや別に、後回しにした訳じゃないけど。何なんだろう、この竹谷の勢いは。握った手を離した後も、思い詰めたような表情で僕を見つめてくる。その視線に耐えかねて横を向けば、数馬も左近も呆然として竹谷を見ていた。
「もし先輩に何かあったら俺はどうすればいいんです。俺は、俺は、先輩のこと……」
 そこで、かあっと竹谷の頬が赤くなった。しかしそれぐらいでは竹谷の勢いは止まらない。一気に叫んだ。
「俺は、伊作先輩のこと好きですっ、愛してますからっ!」
「……え、えええっ!」
 嘘だろう?いやまあ、嫌われてるとは思ってなかった。よく慕ってくれるいい後輩だと思ってた。でもそれがこんな気持ちだったなんて。ていうか、人目のある医務室で堂々と叫ぶことか。
 数馬も左近も、あまりのことにぽかんと口を開け放したまま。新野先生がいなくて良かった……なんて、一瞬でも安堵している場合ではなかった。
 思いを口にしたことで弾みがついたのか、竹谷が身を乗り出してきた。思わず座ったままだけれど後ろに下がる。けれど竹谷はすぐにその間を詰める。僕は下がる。そうこうしているうちに、すぐに壁際まで追いつめられてしまった。
 どうしよう!?辺りを見回しても、呆然とする数馬と左近が見えるばかり。第一後輩に助けを求めるなんてみっともないし。でも竹谷の上気した真剣な顔が間近に迫って、肩に竹谷の左手が乗せられた。
「伊作先輩、俺ずっと前から、先輩のこと好きでした……」
 右手が、まるで宝物に触れるかのようにそっと頬に触ると、その手は僕の顔を上向けた。
「愛してます。だから先輩、どうか……」
「ちょ、ちょっと待って、竹谷!」
 そうは言っても聞いてくれない。そのうちに竹谷の顔が少しずつ近づいてきて、なんかまずいんじゃないだろうか。なんだかよく分からないけど、これはやばい!
 そこで僕を救ったのは、伏木蔵の一声だった。
「伊作せんぱ〜い。湿布の用意、出来ましたよ〜」
 緊張感のないマイペースな声。……いたんだ、医務室に。気づかなかった。
 竹谷も意表を衝かれたらしい。動きが止まったのをいいことに、腕力にまかせてその体をなぎ倒す。僕はその場の雰囲気を変えるべく「ありがとう伏木蔵!」と大声で叫んだ。
「軽い怪我でも早めの処置って大事だもんね!でかした伏木蔵、偉い!」
 痛みをこらえながら伏木蔵のところまで歩いて行くと、その頭をよしよしと撫でた。「えへへ」と伏木蔵が笑う。
「……それであの、あちらは……どうしたらいいでしょう?」
 忍び足袋を脱いで、用意してくれた湿布を当てて手当する。包帯で固定して、再び足袋を履きなおした時、左近が控えめに声をかけてきた。
 あちら、と左近の視線が指す方を見れば、僕になぎ倒されたままの姿勢で、竹谷が固まっていた。
 どうしよう。どうしたらいいのか、僕の方が聞きたい。放っておきたいけれど、いつまでも転がしておく訳にはいかないし……そう思ってる先で、濃い青の塊がいきなりがばりと起きあがった。
「伊作先輩!」
 忍びらしく一度の跳躍で距離を詰めると、竹谷はまたもや僕に詰め寄った。
「怪我の手当はなさいましたか?」
「う、うん、終わった……けど」
 また何かやばいことになるのかと包帯用のはさみを思わず胸元に寄せて答えると、竹谷はにっこりと笑った。
 いつもの、根明と称される通りの、お日様みたいな笑顔で。
「なら良かった」
 すっと立ち上がると、ぺこりと一礼する。
「じゃあ俺はこれで。失礼しました」
 そしてそのまま、すたすた歩いて去ってい行った。竹谷が歩み去れば、庭で控えていた犬もそれについていく。
「……一体、なんだったんでしょうね」
 数馬がぽつりと呟いた。それは僕の方が知りたい。
 ありがとうを言いそびれたことに気づいたけれど、追いかけてまで言いに行こうという気にはなれなかった。

 軽く足首を捻ったことを新野先生に告げると、当番を免除された。数馬も左近も賛同してくれたので、ありがたく部屋に戻ることにした。
 そして夕飯をとりに食堂へ行こうと思ったのだけれど、今日が返却期限の本があったから、ついでに図書室に寄っていくことにした。
「遅くなって悪かったね」
「いいえ、まだ期限内ですから。全然大丈夫ですよ」
 カウンターにいる雷蔵に渡せば、にっこり笑って返却手続きをしてくれた。
「じゃあ、棚に戻してくるね」
 手続きの済んだ本を受け取って、棚に向かう。この本は確か、こっちの奥の棚だった気がする。そこへ向かえば、後ろから足音が追いかけてきた。
「伊作先輩、足、どうかなさったんですか?」
 雷蔵だった。ちょっと足を引きずるみたいにして歩いていたのを、気にしてくれたらしい。
「ちょっと落とし穴に落ちた時に捻っちゃったみたいでさ。でも大丈夫。特に痛みもないし、手当もちゃんとしてあるから」
「でも言って下されば、棚に戻すくらいしますのに」
「え、でも雷蔵も忙しいのに、悪いよ。今だってほら、カウンター空けてきて大丈夫?」
「平気です。久作がいますし、怪士丸も手伝ってくれてますから」
 僕があんまり遠慮するから、気を悪くしたのかもしれない。雷蔵はほんの少し、眉をしかめた。
「でも本当になんてことなくて、大丈夫だから」
 平気、ということを実演するために、僕は痛くない方の足でつま先立ちになってみせた。ちょうど一番上の棚に置いてあった本で、さっさと返してしまおうと思ったのだ。でも。
「先輩、僕がやりますから……!」
 雷蔵は、いきなり僕が伸び上がったから、足首を痛めると焦ったのかもしれない。僕の手から本を奪おうとした。その雷蔵の予期せぬ動きに、僕はバランスを崩した。
「わっ」
「危ないっ……!」
 本棚を倒したら長次に叱られる。そう思った僕は、とっさに、倒しても長次に叱られない物を掴んでいた。
 すなわち、僕は雷蔵の襟首を掴んでしまったらしい。自分が転ぶだけならともかく、雷蔵を引き倒すようにして、一緒に転んでいた。
「伊作先輩、大丈夫ですか!?」
「あはは、ごめん、大丈夫……」
 上にのしかかる雷蔵の体が重い。でも、僕が引き倒したんだから、早く退いて、とは言えなかった。
 雷蔵が床に腕を突っ張ったらしい、腰から下はまだ僕にのっかったまま、上半身だけ持ち上がる。一尺と離れていない、近い位置に雷蔵の顔。
 僕が引き倒したのだけれど、まるで雷蔵に押し倒されたみたいな姿勢に、なんだかどきんとする。
「伊作先輩……」
 普段の大ざっぱで穏やかな雷蔵とは違う、押し殺した、切なげな声。
「あんまり、無理しないで下さい。見てるこっちがはらはらして、胸が潰れそうになります」
「雷蔵?」
 声だけでなく、表情までもが切なげだった。胸が潰れる、その言葉通りに、雷蔵は辛そうな、悲しそうな顔をしていた。
「僕、いつもずっと先輩のこと見てました。だから分かるんです。先輩がいつも、人に心配をかけまいと無理してること……」
 いやそんな、無理してたっけ?さっきのだって、本当に大丈夫だからやってみただけで、別に全然無理してる訳じゃないんだけどな。
「先輩の痛みや苦しみを受け止めたい。僕なんかじゃ無理だって分かってるけど、でも、せめて、僕の前では無理しないで下さい。後輩なんだから、こき使って下さっていいんですよ」
「雷蔵……」
 言ってることは的外れだけれど、僕を思って言ってくれてるのは分かった。だから、重いから退けとは更に言いづらくなる。竹谷の時みたいに力づくで押し退けてもいいけど、下手に暴れて本棚を倒したら、やっぱり長次に怒られるし。それだけは避けたい。
「先輩のためならなんでもします。どんなことでも出来ます。僕、先輩のこと、好きですから……」
 その時、足下の方で人影が動いた。青色が目のはしに映って、二年生だろうか。わ、とか、え、とか意味をなさない声が聞こえる。気が動転してるんだろう。無理もない。信頼する五年生の先輩が、こともあろうに図書室で、上級生を押し倒しているとあらば……!
 違うんだ久作。これは事故で、僕が雷蔵を引き倒しただけで。でも説明する暇もなく、派手な足音と共に青い影は去っていく。
 ていうか。
 ていうか、今、雷蔵、何て言った?
「僕、伊作先輩のこと、好きです」
 心の声を読んだんだろうか、雷蔵ははっきりとそう言った。
「ずっと好きでした。今も好き……いいえ、大好きです」
 はにかんだ雷蔵の顔が近づいてきた。ちょっと待て!慌てる僕の額に、雷蔵の額がこつんとぶつかる。
「愛してます」
「あの、その、雷蔵?」
 何をそんな睦言めいたことを。ていうか僕は雷蔵にのしかかられて、額と額がふれあって、信じられないほど顔が近くにあって。前言撤回、今や僕は雷蔵に押し倒されてる。
 男が女を押し倒すのは、その貞操を奪う為で。いや僕は男だけれど、睦言まで囁かれて、身動き取れなくて、これってやっぱり貞操の危機!?
「やだな、先輩、そんなに驚かないで下さい」
 雷蔵の声には苦笑いの気配。でも、ふつうにしゃべってるだけで、その息は顔にかかった。雷蔵がもう少し動けば、その唇が僕の顔のどこかに触れる。
 雷蔵もそう思ったのか、僕の額が軽くなった。代わりに、雷蔵の息が近づいて。
「やっ……!」
 声を上げようと思ったのに、喉からは引きつれたような変な音しか出なかった。
 助けて、誰か、久作でも誰でもいいから早く……!
「うわっ」
 その瞬間、急に、体の前がすーすーした。全身が楽になって、今まで僕に多い被さっていた体がなくなったことに気づく。
 自由になった体を起こしてみれば、長次が襟首を摘んで雷蔵を引き上げていた。怯えたような呆れたような表情の久作が、向こうの本棚からこちらをのぞき込んでいる。
「雷蔵、……長次」
「中在家先輩、あの、これは……どわっ」
 長次は雷蔵の体をずるずると引きずって、図書委員の控え室に、文字通り放り込んだ。ぴしゃりと戸を締め切るときびすを返して戻って来て、僕の前に立つ。
「……図書室でふざけた真似はするな」
 僕は悪くない!と言いたいけれど、最初に雷蔵を引き倒したのは僕だし。
「はい。ごめんなさい……」
 結局、長次に怒られてしまった。僕はその場に手をついて謝った。

 さんざんな目にあった。そう思いながら食堂へ行くと、僕の不運はまだ続いているのだと思い知らされた。
「唐揚げ定食ー?もうとっくに売り切れちゃったわよ!富松くんが最後だったかしら?」
 おばちゃんの声に呼ばれたと思ったのか、奥の卓にいた三年ろ組の富松作兵衛がこちらを振り向いた。僕と目があうと、軽く会釈してくる。
「じゃあ、魚の煮付け定食は?」
「それがね、今さっきの子で終わりだったのよねえ」
 作兵衛の隣にいた三年は組の浦風藤内が、こちらに会釈する。おばちゃんの視線の向きからして、最後の煮付け定食にありつけたのはこいつなのだろう。
「えーと、じゃあ、おうどんとかは……?」
 定食ほど腹持ちがよくなくても、おばちゃんのうどんは最高だ。これを食べられるならよしとしようと思って聞いてみると。
「それがうどん玉を切らしちゃって。三時のおやつにしんべヱくんが全部食べちゃったのよねえ」
 それを聞いて、目の前が真っ暗になった。
「ということは今夜は、夕食抜き……?」
「ごめんねえ、かわいそうにねえ。……ああでも、定食のご飯とお味噌汁ならたくさんあるから。良かったら食べてって!」
 良かったらも何も、それでいいから下さいと頼んだところ、おばちゃんはどんぶり鉢にご飯を大盛りにしてくれた。サービスとして、香の物も二皿つけてくれる。
 とりあえず空腹だけは満たせそうで良かった。さて、どこが空いてるかな、とこみあった食堂を見渡せば、「先輩」と声がして、濃い青色の手が上がった。
「兵助」
「俺の隣、空いてますよ。良かったらどうぞ」
 兵助の前には作兵衛と藤内が並んでいたけれど、確かに隣には誰もいなかった。ありがたく隣に座らせてもらう。
「あれ、先輩それだけですか?」
 兵助が隣の僕の盆をのぞきこんで言った。
「うん、定食がもうみんな売り切れちゃったみたいで」
 僕がそう言えば、目の前の席に座る作兵衛と藤内が小さくなった。
「いや、遅くなった僕が悪いんだしさ、気にしないで。大丈夫だから」
 これが同学年なら、嫌味や愚痴を言ったっていいところだけれども。さすがに三年生相手ではそういう訳にもいかない。
 慌てて手を振りながら笑顔を作れば、兵助が横から何かを差し出してきた。
「先輩。あの、これ、良かったら……」
 中くらいの小鉢にちんまりと収まった、それは煮魚定食のメニューの一つ、冷や奴だった。
「え、いいの?」
「はい」
 兵助が頷けば、食堂中にどよめきが走った。
 久々知兵助と言えば、豆腐好きで有名だ。久々知と言えば豆腐、豆腐と言えば久々知。その兵助が、他人に豆腐を差しだそうとは。
 僕だって差し出された当事者じゃなければ、えー!とか言って騒いでたかもしれない。
「今日は味噌汁の具も野菜ばかりで、このままではタンパク質が足りません。どうか、これで補って下さい」
「え、でもこれ、最後に食べようと取っておいた分じゃないの?」
 兵助のお盆はあらかた片づいていて、後はこの冷や奴しか残っていなかった。最後の楽しみにとっておいたに違いないのに。
「ええ。ですが先輩どうぞ。召し上がって下さい」
「いや、そんなの悪いよ。僕は大丈夫だから、兵助が食べなよ」
 最後の最後でその楽しみを奪われては気の毒だ。僕は遠慮したけれども、兵助は小鉢を僕に押しつけてくる。
「いいえ、栄養の偏りは不健康の元です。それは先輩もよくご存じの筈」
「そりゃそうだけど……あ、でもほら、味噌汁には味噌が、大豆製品がちゃんと入ってるし」
「そんな少量では心もとないです」
 兵助は小鉢を持ったまま、じっと僕の顔を見つめた。心なしか目が潤んで、頬が赤らんでいるような……?
「どうか先輩、俺の豆腐、食べて下さい」
「いやでも」
 豆腐好きから豆腐を奪うなんて。受け取らずにいると、兵助は爆弾発言をかましてくれた。
「俺、自分で食べるよりも、先輩に食べてもらった方が嬉しいんです。豆腐より先輩の方が大事だし、俺、先輩のことが好きですから……!」
 その発言は、さっきのどよめきに負けないくらいの音を呼び起こした。おお、という驚きの声に食堂中が揺れる。
 豆腐より僕が大事って。いや、それって当たり前だと思うけど。豆腐以下だと思われてたら嫌だけど。でも兵助にとって多分それは、この世の中の何よりも、森羅万象生きとし生けるその全てのどんなものよりも大事だ、ということかもしれない。しかも僕のことが好きだって、言ってたような。
「先輩……どうぞ」
 おもむろに差し出される豆腐の小鉢。しかしこれを受け取ってもいいんだろうか。もはや豆腐好きから豆腐を奪うということに止まらず、これを受け取るということは兵助の気持ちを受け取ることに他ならない。
 そんな大事なもの、すぐには受け取れない。でも、周り中の視線を浴びて、突き返せるような雰囲気じゃない。
 しかし豆腐、たかが豆腐だよ!?箸ですくえば二口で食べ切れるもの。第一今はお腹が空いてるんだっていうのに、なんでそんな面倒な選択を突きつけられなきゃいけないんだ……!
 葛藤する僕の横に、救いの神のように現れたのは。
「伊作せーんぱい。何してるんですか?」
「雷蔵……じゃなくて鉢屋」
 さっき間近でその顔を見まくってたものだから、つい間違えてしまった。でも、顔は雷蔵のものであっても、その物腰や体格は鉢屋そのもの。
「飯なんてさっさと食い終わって、遊びましょうよー。俺の部屋でいいコトしませんか?」
 鉢屋は兵助と反対側に座ると、僕の顔をのぞきこんできた。兵助と豆腐の圧力から逃げたくて、僕も鉢屋の方を向く。
「いいことって?」
「そりゃーもう、凄くいいコトです」
 鉢屋は楽しそうににやにや笑う。何だろう。首を傾げていると、横から殺気のようなものが沸き上がった。
「三郎。先輩はまだ、俺と食事してる最中なんだ。邪魔するな」
「へ、へいすけ?」
 いつになく低い声に僕は怯んだが、鉢屋は何とも感じていないようだった。
「別にお前とじゃないだろ。先輩はまだ食べ始めてもないんだし。ほら、さっさと豆腐置いて委員会行けよ」
「こら、鉢屋」
 その言い草はないだろう、と鉢屋をたしなめると、兵助はぐっと僕の腕を引っ張った。
「伊作先輩っ!俺の豆腐、食べてくれますよね?」
 いきおい、上半身が兵助に寄りかかる。腕を引っ張った乱暴さとは逆に、兵助はそっと背中を支えて優しく僕を受け止めてくれた。
「えっと、その」
 その目の前に差し出される小鉢。白さがなんだか眩しくて、何度か瞬きをしてしまう。
「せんぱーい。さっさと食い終わって、俺と遊びましょうよー」
 歌うように鉢屋は言うと、兵助に寄りかかる僕に、すっと顔だけ近づけた。
「一緒に遊んでくれるんなら、俺、先輩に素顔見せてもいいなー」
 その発言に、みたび、食堂がどよめく。さすがにざわざわが止まらない。あの変装名人、千の顔を持つと噂される鉢屋三郎が、自分から素顔を晒そうと言うのだから。
 さすがにこれには心引かれた。長年の謎だった鉢屋の素顔、見れるもんなら見てみたい。でも。
「先輩はまだ、食事中だっ!」
「だからとっとと食い終わって下さいよー」
 鉢屋まで袖を引っ張る。一体僕はどうすればいいんだ!?
「あの、その、えーっと、あのさ」
 まあまあまあ、と、手を意味もなく振って、とりあえず二人を落ち着かせようとする。
「ほら、一応ここ、食堂だし。下級生たちみんな見てるよ。そんなところでさ、こういう変に注目を集めるようなことはやめようよ」
 なるべく穏便な笑みを浮かべながら、双方の顔を見やる。すると。
「俺たち、自重するのやめたんです」
「……は?」
「この前の実習で軽く死にかけましてね。その時、後悔しないことに決めたんですよ。この世に未練を残さない為にも、言いたいことは言う、やりたいことはやる。いけいけどんどんですよ」
 軽い口調でとんでもないことを言ってくれる鉢屋の後を、なぜか兵助が続ける。
「俺たちこれまで、先輩に迷惑をかけないよう気持ちを抑えてきましたが、そういうの、もうやめようと思うんです。変に人の目を気にするのは馬鹿みたいです。素直に気持ちをぶつけた方が、後悔しなくてすみます」
 そう言いながら、兵助はずいっと僕の方へ近寄ってきた。鉢屋も更に、顔を寄せてくる。
「伊作先輩……ずっと先輩の事を慕ってきました。俺の気持ち、どうか受け取って下さい」
「俺は素顔で先輩といいコトしたいなー。じゃないときっと、死んでも死にきれないですよ」
 右に兵助、左に鉢屋。二人とも五年生ながら優秀で、腕力でも武術でも楽に勝てる相手じゃない。しかも二人がかりで目の前には豆腐があって、なんていうか逃げられない……!
「伊作先輩って、凄いモテモテですよね」
 そのとき不意に、目の前の席に座る藤内がそんなことを呟いた。
「どうして伊作先輩ばっかり、こんなにモテるんですか?」
「ふむ、いいところに気づいたな、藤内」
 偶然その場に通りかかった人が、長い髪を揺らす。立ち止まって横から藤内を見下ろすのは、仙蔵!
「それには中二病という病が関わっている」
 ちょうど良かった、仙蔵、助けて、という僕の声はしかし、口の中で止まった。中二病?何それ、そんな病、聞いたことがない。
「中二病って、どんな病なんですか?」
 藤内の隣に座る作兵衛がタイミングよく聞くので、僕もその答えを待つ、と。
「まあ五年生くらいの年頃になると、色々悩みが増える訳だ。その上、実習とかがだんだんキツくなってきてな。自分は何故ここにいるのかとか、それに何の意味があるのかとか、悩んじまう訳だ」
 何故かそれに答えたのは、留三郎だった。いつの間にか作兵衛の隣、作兵衛を挟んで藤内の反対側に座っている。
「心の病気ですか?」
「まあ、そんな感じかな」
「やっかいな病気ですね」
「そうだな」
「で、その病気と、伊作先輩のモテとどんな関係が?」
「うむ。伊作は保健委員長だろう?すなわち、人に癒しを与える仕事をしている」
 今度は仙蔵が答えた。藤内と作兵衛の視線も仙蔵の方へ切り替わる。
「中二病で悩み疲れた連中が、伊作に癒されてみろ。そうでなくても怪我や病気をすれば、心が弱る。そうした時に丁寧な看護を受ければ、看護してくれた人に感謝と同時に愛着を抱いても不思議はない」
「また伊作が医術については真面目一徹だからな」
 留三郎が苦笑混じりに口をはさんで、三年生の顔がまたそっちへ向く。
「本人は医術に夢中で仕事熱心なだけなんだが、それってつまり看護が丁寧ってことだろ?受ける側としては、心が籠もってる、伊作先輩はなんて優しい人なんだ、とか思っちまうんだよ。実体はちょっとずれてんだけどな」
「なるほどー」
 藤内がうんうんと頷いた。
「中二病と伊作先輩の真面目さが斜め上でクロスして、みんな伊作先輩に癒しを求めてしまうんですね」
「それで伊作先輩はあんなにモテるのかー」
 作兵衛までうんうんと頷く。成程、そういう訳なのか、よく分かった。……って、納得してる状況じゃなかった!
「先輩、俺の豆腐を……」
「早く俺といいコトしましょうよー」
 右から兵助が、左から鉢屋が。今や双方から僕の腕を引っ張って、食事どころじゃなくなってる。
「ちょ、留三郎!仙蔵、助けてよ!」
 両腕を取られながら叫ぶ。でも、朋輩二人はにやにや笑うばかり。
「思えば留三郎も必死だったな。誰にも触らせたくないと、懸命にかばって。なのに伊作はその手をすり抜けて、人の手当に行って」
「大した怪我じゃないと伊作にそっけなくされるのが怖くて、怪我しても医務室に行けなかったのは誰だよ」
 え、そんなことがあったのかとつい仙蔵の顔を見たけれど、今は過去を詮索している場合ではなかったのだった。
「俺、豆腐よりずっと、伊作先輩のことが好きです!」
「俺も。きっと自分から素顔を晒すのは、伊作先輩が最初で最後だろうな」
 掴んだ腕に身を寄せあって、二人の顔が一度に近づく。
 食堂には留三郎や仙蔵以外にも大勢の人がいるのに、固唾を飲んで見守るばかり、誰も止めに入らない。伏木蔵も長次もいない。
 自力でどうにかするしかない。僕は勢いよく立ち上がった。
「もう!二人とも、いい加減に……」
 しかしその瞬間、捻った足首に激痛が走った。目の前にあったお椀や箸が飛ぶのも構わず、その場に倒れ込んでしまう。
「先輩!」
「伊作先輩!」
 助け起こそうとする、腕。どよめき。後輩の驚きの声、朋輩のしたり顔。なんだよ中二病って、みんな勝手な気持ちばっかり押しつけて、勝手に理想の僕を作っちゃって。違う、僕はそんないい人じゃない!
 足が痛い。痛いったら痛い。手当した筈なのに、急激に痛んで、熱くて、痛くて痛くて……
 痛い!
「あー……」
 足が痛かった。でも、悲鳴を上げるほどの苦痛でもない。故になんだか気の抜けた声を出せば、青空が見えた。
 むせかえるような土の匂い。例によって例のごとく、僕はまた、落とし穴に落ちたらしい。
 しかもなんだか変な夢を見ていた気がする。落ちた時に打ち所が悪かったのかな、足首も捻ったみたいだし、よっぽど変な落ち方をしたのだろう。
 ともあれ、ここから出なくては。僕は立ち上がると、周囲の状況を調べてみた。
 穴自体は、ちょうど僕が縦に収まるくらいの深さだ。自力で登れない深さじゃないけど、この足だとちょっと難儀だな……。
 どうしたものかと思案にくれていると、すぐ近くで、はっはっ、という息づかいが聞こえた。息づかい?こんな地面すれすれというか地面の下みたいな場所で一体誰が……。
「わん!」
「のわっ!」
 そっちの方を見て、僕は仰け反った。犬が一匹、地面の匂いを嗅いでいた。犬は僕を見ると、一声大きく鳴く。
「どうした、何かいいものでもあったか?」
 声と一緒に近くの藪ががさがさと鳴った。軽い足音がして、ひょっこり穴から顔を覗かせたのは。
「伊作先輩?おほー、こりゃまたいいもの見つけたなー!」
「竹谷……」
 なんだか悪い予感がひしひしと胸にせり上がってきた。
 さっきまで見てた夢と、同じな気がするんだけど……?
「どうしましたか、また落とし穴ですか?」
「そうなんだけどさ」
 穴に近づくと、竹谷は僕に手を差し出してくれた。一瞬迷ったけれど、他にどうしようもないので、その手を借りて引き上げてもらいながら、自分でもどうにか這いずり出る。
「ええとその……ありがと、竹谷」
「いえいえ、どういたしまして」
 にっこりと明るい笑顔。でも、この笑顔が曲者なんだ。
 僕が訝しげに竹谷をにらんでいると、根明な竹谷も不審に思ったらしい。首を傾げている。
「あの、先輩?俺の顔に何か……」
「竹谷」
 夢と同じ展開になったら困る。僕はきっぱりはっきりすっきりくっきり言い切った。
「自重しようね」
「はあ。……?」
 首をひねりながら犬と共に去っていく竹谷に、杖になる棒でも拾ってきてもらえば良かったかと思ったけれど、後の祭り。
 赤子みたいに抱かれて下級生の注目の的になるのも、ずるずる足を引きずって歩いて哀れみの目で見られるのも、どっちも恥ずかしいことに代わりはないなあと思いつつ、僕はどうにか自力で医務室までたどり着いたのだった。

 >リクエスト下さった方へ 
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