雑巾片づけてきました、との左近の声に、ご苦労様、と応える。
これで掃除は完了。医務室内を見渡すと、どの隅までも綺麗に拭き清められていた。左近はとても几帳面に、数馬はとても丁寧に掃除してくれる。塵一つ落ちていないすっきりと片づいた医務室に、爽やかな秋風が通った。
やはり医務室はいつも清潔にしてるのが一番だ。ぱっくりと開いた切り傷や、大火傷の患者が運び込まれることもある。そんな傷に、塵や埃は毒だ。そう教えられて以来、医務室の掃除に力を入れるようになった。保健委員長になって掃除を下級生にまかせるようになってからは、口を酸っぱくして言い聞かせてきた。耳にたこができた下級生達には気の毒だけれども、おかげで医務室はいつでも清潔を保てるようになった。
いつ、誰が、どんな怪我をして運び込まれるか分からないのだから。
医務室はいつでも、きちんと治療できる態勢でないと。
「……あれ」
救急箱をあらためていた僕は、包帯の少ないことに気づいた。確かにここのところ怪我人が多かった。とはいえ、この量ではちょっと心許ない。
包帯といえば、今朝洗って干しておいたのだけれど、それを取りに行った乱太郎と伏木蔵はどうしたか。まだ帰って来ないのかな、と部屋を見渡せば、数馬と目があった。
「あの、伊作先輩」
「どうしたの」
思い切ったように声をかけてくる数馬の方に、心持ち体を向ける。
「えっとあの、三年長屋の前の庭で、竜胆が咲き始めたんです」
何となく頬を染めて、数馬はいきなりそんなことを言い出した。
「へえ。薬草園のはまだ蕾がついたところなのに、もう咲いてるんだ。早いね」
世間話にしては気合いが入ってるなあと思いつつ話を受ければ、数馬は身を乗り出してきた。
「そうなんですよね。でも、結構きれいに咲いてるんですよね」
「ふうん。竜胆はね、胃の薬になるんだよ。めちゃくちゃ苦いけど、よく効いてね」
「でもあの、使うのは根っこですよね」
「そうだよ。よく知ってるね」
褒めてあげれば、数馬は照れたように頭をかいた。そして。
「だからあの、もしよければ、何本か切って、医務室に持ってきて飾ってもいいですか?」
そう言う数馬の目は意外と真剣味を帯びていて、つまりこれが言いたかったのかと分かった。
竜胆の花。いつも、花が終わった後の根を掘り出すことしか興味がなかったけど、そういえばとても綺麗な青い花だった気がする。
とても優しげな水色と、気高い紫まじりの青。確かそんな色をした、釣鐘型の可愛らしい花。
それが医務室にあれば、物の少ない殺風景なこの部屋に潤いをもたらしてくれるだろう。目が慰められて、気持ちも和らぐだろうか。
しかし。僕はやんわりと「ありがとう」とまず礼を言った。
「確かに花があると気持ちが和んだりするからね。気を遣ってくれて嬉しい。だけど」
「……だめ、ですか」
「うん。医務室も茶室みたいなものでね。花とか香りのするものはちょっと」
がっかり、と顔に出ている数馬が気の毒で、僕は言葉を繋いだ。
「ほら、病気の人を診察する時、顔色を見たりお腹を触ったりするだろう?ああいうことをしながら、匂いをかいだりもするんだよ。匂いから、その人の病気が分かることもあるから。だから、余計な匂いがして、診察の邪魔になっちゃいけないんだ」
ごめんね、と声をかければ、数馬は、いいえ、と首を振った。
「こちらこそ、差し出がましいことで。すみませんでした」
「……ううん」
「あ、僕、落とし紙の補充に行ってきますね」
「……ん、よろしく」
にっこり笑ってみせると、数馬は部屋の端にまとめて置いた落とし紙を背負って、医務室を出ていった。
すっぱりと言い切ったところが、にっこり笑ったことが、かえって数馬の落胆を表しているようで、なんだか胸が痛んだ。
竜胆なんて、大して香りのきつい花でもないのに。置いてやれば良かったか。
そうしたら新野先生も秋の到来を感じられて、感慨深く思われたかもしれない。柔らかな青色に目を留めれば、心が安らいだかもしれない。その方が、喜んでもらえただろうか。そう思えば、今すぐ数馬を追いかけて、切ってきてくれるよう頼みたい気がした。
でも。医務室の基本は清潔であること。無臭であることは当然だ。花は相応しくない、僕は間違ったことは言ってない。余計な物を置くことはない。
しかし竜胆くらい。せっかく下級生が気を遣ってくれたというのに。薬草の世話をよくなさるから、先生も花はお好きだろうに。
そうは言っても、この怪我人続き、花が診察の邪魔になれば先生は……。
思考の堂々巡りにはまりそうになって、僕は救急箱の蓋を閉じた。
いつでもそう、いつだってそうだ。
医務室で僕はいつも、新野先生がどう思われるかばかり考えている。
どうすれば先生の邪魔にならないか。少しでもお役に立てるか。
……どうすれば先生の目にとめてもらえるか。
ばたん!
救急箱を閉める時、蓋に勢いがついて大きな音を立ててしまった。小さな桶を部屋の隅に積んでいた左近の背中が、びくりと震える。
「ああ、ごめん。驚かせたかな……」
「はい、ちょっとびっくり」
しました、という左近の声に被さって、廊下をばたばたと走る音が聞こえてきた。一年生かな。乱太郎……じゃなくて伏木蔵。
「こら。廊下は静かにね」
「ごめんなさい、伊作先輩、あの」
飛び込んできた伏木蔵の腕には、包帯を入れた籠があった。でも、干したばかりの畳んでいない包帯にしては、少し嵩が少ないような。
「どうした、何かあった?」
「干してあった包帯の半分くらいに、鳥が落とし物してました……」
あはは、と伏木蔵は笑ったが、少しも楽しそうな笑みではなかった。
僕は言葉を失い、左近はそんな僕から目をそらす。
そう、保健委員として最低限の仕事、せめて医務室くらいは整えておかなければならないのに。こうした不運な事態はしょっちゅう起こってそれすらままならない。
きっと新野先生は僕を不甲斐なく思っていらしゃることだろう。
鳥の糞なら誰の責任でもないとか、そういうことじゃない。今怪我人が運び込まれたらどうするんだ。忍者は結果が全て。ちゃんと結果の出せない僕は、疎まれても仕方ないのだ。
「それで、乱太郎は?」
ともあれ、いつまでも絶句している訳にもいかない。僕は伏木蔵から籠を受け取ると聞いた。
「鳥の落とし物で汚れた包帯を洗ってます」
「そっか」
とりあえず無事なものをより分けて、先に届けてくれたのだろう。さすがは乱太郎、やるべきことを分かっている。
「とにかく今は、包帯が足りないんだ。伏木蔵、乱太郎を手伝ってあげて」
「はい」
「左近は用具倉庫へ行って、包帯になりそうな布をもらってきてくれる?少し分けてもらえるよう、留三郎には頼んであるから」
「はい」
用を言いつけると、二人とも気持ちよく返事をして、医務室を出て行った。
今年は例年に比べて、とりわけ不運な子が集まっているような気もするけれど。みんなよく気がつくし、動くことを惜しまないよい子たちばかりだ。とても助かる。
それに引き替え、僕は。
一生懸命働いている、その自覚はある。でもその動機はひどく不純だった。後輩たちのように、人の役に立つ喜びで働いてる訳じゃない。
思えば昔からそうだった気がする。僕が役に立てば、先生が褒めてくれたから。だから医務室の仕事を一生懸命した。薬の名前を覚えたら先生が頭を撫でてくれたから、だから医術を学んだ。教科書を後回しにしても、医術書を読みあさった。
あの穏やかな笑顔が自分だけに向けられることが嬉しくて、ただそれだけを期待して。
でも先生はきっと、そんな僕の不埒な心を見通していらっしゃるに違いない。ここ数年、医術を教えてもらっていない。質問すれば答えを返してくれても、それだけだった。そこから何も教えてはくれない。
当たり前だ。医は仁術。僕のような不純な動機で取り組んでいいものじゃない。
本当は保健委員などとっとと辞めるべきだったのだ。委員会を通して忍術を学ぶこの学校で、六年も同じ委員を務めるなんて普通あり得ない。
それをいつまでも執念深くしがみついているから。新野先生が呆れてしまわれるのも、仕方のないことなのだ。
……しかし、落ち込んでいても仕方がない。とにかく今出来ることをしようと、洗いあがった包帯に手を伸ばした時だった。
「こんにちは」
声と共に気配がして、急いで振り向けば、開け放した戸口に立っていたのは。
「雑渡さん」
「や、お邪魔するよ」
黒の忍び装束は、真昼の光の中でははっきりと目立つ。上背もありがっしりした体つきのその人は、ひょいと医務室に上がり込んだ。
「こんにちは。今、お茶でも淹れますね」
手の中の包帯を籠に戻し、火鉢に向かいかけた僕の進路を、雑渡さんの手がおもむろに邪魔した。
「ああ、お茶は結構。長居はしないよ」
「そうですか?」
「うん。ちょっと伊作くんの顔を見に寄っただけでね。今日はもう本当に、すぐ帰るから」
「はあ」
「実はついさっきまで、新野先生とお話してたんだ」
「……え?」
タソガレドキの忍び組頭が。新野先生に、何の話があるというのだ。
傷が悪化したのだろうか。僕の手当が悪くて傷が酷くなったと、新野先生に文句をつけにきたとか?まさかそんな。
分からない。一体何の話が。目を丸くするばかりの僕に、雑渡さんは柔らかく言った。
「何の話か、知りたい?」
「伺ってもいいんですか?」
「勿論。だって、君の話をしてたんだからね」
「……は?」
どういうことだ、それ。もはや頭は考えることを放棄して、僕はやや高い位置にある目を、じっと見上げた。
「正確に言うと、君の卒業後の進路についての話をね、少し」
「……はあ」
「私はね」
面白そうに、楽しそうに。見上げる僕の視線の先で、包帯に囲まれた右目が眇められた。
「君が欲しい、と新野先生に申し上げたんだ。是非、タソガレドキに迎えたい、とね。そうしたら新野先生は何て仰ったと思う?」
欲しいのか、僕なんかが。まずそのことに驚いた。ああでも、前に確か、手当の得意な者が傍に欲しいとか何とか言っていたっけ。包帯を巻くのが得意な僕は、それに当てはまるのだろう。
それに対して、新野先生がなんと仰ったのか。
ドキドキした。もの凄く興味があった。知りたい。でも、知るのが怖い。
胸の奥が早鐘を打つ。でも。
僕は一度目を伏せた。一呼吸おいてから、ゆっくりと開く。雑渡さんの顔を見る。
「新野先生が何と仰ったとしても。僕はそれに従いたいと思います」
そう告げれば、眇められた右目が、意外そうに見開かれた。
「いいのかい、君はそれで」
「はい」
「……ふうん。君には、新野先生がなんと答えるか大体分かってるんだ」
「いいえ。まったく想像もつきません」
嘘ではなかった。先生が何をお考えかなんて、さっぱり分からない。ここ一二年はずっと、あまり医務室におられず、自室で医術の研究に打ち込まれているのだから。
必要最低限の申し送りと、打ち合わせの機会はある。でも、親しく話すことなんてなかった。先生が僕について何を考えているかなんて、知るはずもなかった。
「じゃあ、先生が君を厄介払いしたくて、今すぐどうぞ差し上げますと答えたとしたら?」
「その時は、タソガレドキへ行きます。よろしくお願いします」
僕はぺこりと頭を下げた。
「君はそれでいいのか?」
顔を上げれば、雑渡さんの右目が大きく見開かれてる。声にも焦りがあって、驚いてるみたいだ。
「君はそれで……そう、忍術学園を卒業しなくても?」
「それは確かに心残りですが……いずれ忍びとしてどこかの城に就職するために入った学校です。就職先が決まったならば、卒業にこだわることもないでしょう」
必要な課程を修了しない訳だから、その場合損するのは、そんな未熟者を迎える雑渡さんの方で。
しかしそう言えば、雑渡さんは、ふむ、と顎を捻った。
「まあ、新野先生は、今すぐとは仰らなかったけどね」
それはそうかもしれない。校医とはいえ、学校教育に携わる方なのだから。卒業を阻むようなことを仰ったりしないだろう。
でも、今すぐ、ではないだけで、厄介払いしたい気持ちはあるのかもしれない。こんな無能で不埒な僕よりも、もっと優秀な子が保健委員長になれば、新野先生もやりやすいだろう。僕には何も教えてくれないけれど、例えば仙蔵のように頭の良い子が委員長になれば、文次郎のように気持ちの素直な子が委員長になれば、もっと色々なことを教えてあげようという気になるかもしれない。
優秀な朋輩と新野先生が医務室にいる姿を想像すると胸が痛んだ。でも、新野先生がそれを望まれるなら。
「君は、厄介払いされてもいいんだ?」
「……良い悪いということではなく」
一瞬、雑渡さんの目がきらりと剣呑に光った気がして、僕は曖昧に微笑んだ。
「五年間、ずっと新野先生のお世話になってきました。そのご恩を返すためにも、傍で役に立ちたいと願いつつ、未だにそれが叶いません。僕が未熟なせいで、先生の足を引っ張るばかりです。ならばせめて、先生のご意向に従うことで、少しでも恩に報いることが出来れば、と思っています」
どう言えばいいのか、悩みつつどうにか言葉を重ねた。
自分でも、何だか卑屈な物言いだと思わなくもない。でも、僕では何の役にも立てないのだから。
ふと影が近づいた気がして顔をあげれば、目の前すぐ近くに雑渡さんが立っていた。これまでみたいな、会話をする距離じゃない。手を伸ばせば触れられる距離。
「……気に入らないな」
雑渡さんの右手が動いて、思わず身をすくめた。
「君にそんな顔をさせて。それが師弟の絆ということかい?」
けれどその手は僕の首を素通りして、何故か頬に触れた。軽く上を向かされると、目の前には覆面と包帯に覆われた顔。口調とは裏腹に、真剣な目。
「あの」
新野先生と僕は師匠でも弟子でもありません、と言おうとした。言うつもりだった。でも、雑渡さんが声を発した方が先で、雑渡さんの言ったことの方が、ずっとずっと重みを持っていた。
「決めた。私は君を手に入れるよ」
宣言すると、目の前の顔がにっこりと笑った。顔の大部分は布で隠れて見えない筈なのに、でも楽しそうに、嬉しそうに笑ったことだけははっきりと分かった。
「どんな手を使っても、必ず君を手に入れてみせる」
「雑渡さん……」
手に入れるって、どういうことだろう。タソガレドキ軍の忍び組に就職させる、ということだろうか。手当ての得意な者が欲しいって言ってたし。
そうしたら僕は、雑渡さんの傍に仕えて。雑渡さんの指示で仕事をして。雑渡さんの包帯を換えたり薬を塗ったり、手当をして。
そうやってきっと、雑渡さんのことばかり考えるようになるのだ。どうすれば雑渡さんの為になるのか、雑渡さんの気に入ってもらえるか。
どうすれば雑渡さんに認めてもらえるか。
そればかり考えて、ずっと雑渡さんを見つめ続けるに違いない。そうすれば雑渡さんは僕を目に止めてくれるだろうか。少しは振り返って、気にしてくれるだろうか。
目の前には、僕を見つめる瞳。不気味な相好の中で、そこだけは優しくゆらめいて、僕の姿を映しだしていた。
「だからそれまでは、この学園の中で、しっかり勉強しておきなさい」
頬に触れていた手は、いつの間にか頭上に移されると、ぽんぽんとそこを叩いた。
その後で、じゃあね、の声とともに軽く振られたと思うと、黒装束の姿、そのものが消えた。
「雑渡さん……」
姿の消えた戸口から、一緒に風も抜け出ていく。もうすっかり秋めいた、湿度の低い、冷たい風。
出て行った風と行き違いに、ぱたぱたと足音が運び込まれる。手に大量の布を抱えた、左近だった。
「ただいま戻りました」
「おかえり、ご苦労様。……それにしても、凄い量だね」
「食満先輩が、あれもいいぞ、これも持ってけ、と沢山出してくれまして」
僕が持ってきて敷いた畳の上に、抱えていた布の山を下ろす。左近の腕の中で纏まっていたそれらは、解き放たれた途端、雪崩が起きたかのように山がぐちゃぐちゃに崩れた。
黄ばんで染みた、でも清潔に洗われた白い布。これらは元は何だったのだろう。生徒の敷布だったか夜着だったか、褌だったか。
古びてしまって本来の役には立てなくなっても、他で活用しようと取って置かれた布。
今の役割には拘らなくても、他で用立ててもらえるなら。要るというなら。
大して役に立っていないのなら。さっさと欲しい人にあげてしまえば。
その人が、僕を必要としてくれるなら。
「……伊作先輩?」
心配そうな声に横を向けば、左近が不安な表情をして、僕を覗き込んでいた。
「ああ、ごめん、ちょっとぼうっとしてた」
何を考えていたのだろう。役に立たないなら要らない、なんて。
そんな考えで僕が職場放棄したら、それは余りに無責任だ。後輩たちに示しがつかない。有能だろうが無能だろうが、今の保健委員長は僕なのだから。
それに。
僕が要るのか要らないのか、判断を下すのは新野先生だ。そしてその新野先生が、今すぐとは仰らなかったのなら。僕にはまだ少し、時間があるはず。
……どうせ卒業したら、新野先生には会えなくなるのだから。
「あまりに大量だからね。どっから手をつけようか悩んじゃってさ。留三郎もさ、好意だとは思うけど、もうちょっと加減ってものを知った方がいいよね」
「ですよねー」
しゃべりながら、鋏を用意する。左近も手元の布を少しずつまとめて選り分ける。
僕が新野先生の傍にいられるのはあとわずか。それでもまだもう少し、ここでこうしていられるなら。
これまで通り、力を尽くすだけ。少しでも、新野先生のお役に立てるように。少なくとも、邪魔にはならないように。
少しでも、先生の目にとめてもらえるように。……あわよくば、あの穏やかな笑みを、僕にも向けてもらえるように。
どんなに不埒な動機でも、それが今の僕を動かしているのだから。それを原動力に、やるべき仕事を成し遂げるだけ。
「じゃ、これを広げるから。そっちの端、おさえて」
「はい」
床に広げた大きな白い布。そこに僕は存分に、鋏をふるっていった。
書状をしたためるべく、机の上の雑物を整理していると、ふと一冊の日誌に目が止まった。
先月の医務室日誌。つい先日、医務室から届けられたまま、仕舞うのを忘れていたらしい。
日誌を手に取ると、棚へ戻す前につい表紙をめくっていた。どの日も同じ筆跡が残り、医務室での業務を書き留めている。
綺麗な字を書くようになった、と思う。
一年生の頃は、蚯蚓が這いずった跡のような字を書いていたのに。見違えるほどだ。
多少の癖があるから、いわゆる美しい字というのとは少し違う。でも一文字一文字丁寧に書かれていて、とても読みやすい。
ほぼ毎日がこの手跡で綴られている、ということは、ほぼ毎日医務室に来ているのだろう。来るだけでなく、薬草園の世話や薬箪笥の整理、物品の手入れと、何かと仕事してくれているようだ。勿論、保健委員の後輩たちを使ってのことだろうが、それにしてもよく働いてくれている。
あの子が保健委員長になってから、私は医務室で不自由な思いをしたことがない。診察や治療に必要な物がすぐに出てくる。それでいて余分な物は一切ない。いつでも掃除が行き届いて、清潔が保たれている。本当に、いつもよくやってくれていると思う。
流石に五年も務めれば、保健委員の仕事をよく理解しているのも当たり前か。いやしかし、あの子の性格は決して几帳面とは言えない。むしろ大雑把、物に拘らず、細かいことを気にしない方だ。それなのにああまで完璧に医務室を整えられるのだから。よほど気をつけて、注意深く日々の仕事をこなしているのに違いない。
随分と成長したものだ。あの子のことは、一年生の時からよく知っている。そして六年も連続して保健委員を務めるなど、私が知る限りあの子が初めてだ。
指が、善法寺伊作と書かれた署名をなぞる。
蕾がほころぶように、花が開くように。にっこりと笑う顔が脳裏に浮かんだ、その時だった。
ふと、廊下に人の気配が感じられた。
「失礼します」
聞いたことのない低い声。少なくとも、学園の者ではない。
しかし私には、その声に心当たりがあった。はいと応え、戸口に立ち、閉めてあった障子を開く。
そこには見慣れぬ黒装束がひざまずいていた。
「新野洋一先生でいらっしゃいますか」
「ええ、そうです。……どうぞ中へ」
「お邪魔します」
黒装束は影のように私について中に入った。円座を敷き、影と私は向かい合って座る。
「突然の訪問で申し訳ない。私は」
「存じておりますよ」
相手の呼吸にそっと言葉を挟めば、目の前の黒装束は押し黙った。
「手紙を頂きましたから。ただ、今日見えるとは思ってなかったもので。何も準備しておらず、ろくにおもてなしできなくて申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず」
神妙に目を伏せながら、黒装束はほくそ笑んでいるかもしれなかった。相手が書状を受け取ってから返信を寄越す頃合いを見計らっての登場。こちらに準備の時間を与えなかったのは、計算通りなのだろう。流石に保健委員のよい子達を相手にするのと違って、少しは警戒したらしい。
「それで、お手紙によれば、何やら私に聞きたいことがあるとか」
「はい」
七面倒な挨拶は抜き、というこちらの意向を汲み取ったか、相手は面を上げると背筋を伸ばした。
「こちらに在学の善法寺伊作くんのことで伺いたい事があり、参りました」
善法寺伊作。
その名を聞いて、やはりなという思いがこみ上げた。目の前の男――タソガレドキの忍び組頭と私を繋ぐ接点といえば、あの子しかない。
それでも、別の可能性も考えていた。怪我を完治させるべく他の医師へのツテが欲しくて頼ってきたか、など。あり得ないと思いながらも期待をかけていたのだが。
「はあ、善法寺くんのことで。何でしょう」
この男があの子をどうしようというのか。おもむろに聞いてみた。すると、意外な言葉が男の口から飛び出てきた。
「先生は、彼を医者にするおつもりでしょうか?」
思わず目を瞬かせて凝視してしまったが、男は存外真剣な様子だった。背筋をぴんと伸ばし、手を腿に置いたまま、微動だにしない。
「……何故、そのようなことをお尋ねになるのですか?」
園田村の一件以来、タソガレドキとは立場を明確にしないまま微妙な関係が続いている。敵地とは言わないまでも、互いに警戒する間柄だ。そこに乗り込んでまで聞きたいことなのだろうか、それが。
「ご承知の通り、私は彼に怪我の手当をしてもらったことがあります。その際に、タソガレドキオーマガトキに関わりなく、夫丸だろうと足軽だろうと分け隔てなく手当を行う彼に、感銘を受けました」
質問に質問で返した私に気を悪くすることなく、タソガレドキの組頭は、滔々と語った。
「怪我人を見捨てることの出来ない彼は、忍者には向いていない。しかし、私は彼を応援したいと思っています。いつでも彼の味方でありたい。そこで彼の行く末、卒業後の進路が気にかかり、こうして尋ねに参った次第です」
善法寺くんのことを語る時に、男の目は和らいでいた。余程気に入られたらしい。
タソガレドキといえば、戦好きの城だ。穏やかなあの子には似つかわしくない。それなのに、そこの忍び組頭に目を付けられたとは。これがあの子の不運なのかと思うと、胸がふたがれる心地がした。
「ええと。何か、思い違いをなさっておられると思うのですが」
しかしそんなことはおくびにも出さず、私はこほんとひとつ咳払いをした。
「思い違い、と申されますと?」
「学園の仕組みなどは部外秘になっておりますから、ご存知ないのも無理はありません。ですから、思い違いが生じることもあるのではないかと思います」
そうは言ってもこの海千山千の凄腕のことだ。学園のことで調べられることはすでに調べ尽くしてあるのだろう。それを証拠に、男は口を挟まず、私の言葉を待った。
「私はただの校医です。学校付きの医者というだけで、教師じゃないんですよ。私には彼の進路を指導したり、ましてや決定したりする権利も資格もありません」
「しかし彼に医術を教え、今日まで彼を導いたのは、新野先生でしょう?」
「いいえ」
そう応えれば、一つしかない男の目が見開かれた。
「私は彼に医術を教えたりはしていませんよ」
全く、と言えば嘘になる。彼が低学年の頃には、体のことや病気のことなど、何くれとなく教えてあげていたのだから。
しかし学年が上がるにつれて、私は彼に医術を教えるのをやめていた。ここ数年は聞かれたことに答えるのみで、知識も方法も何も授けてはいない。
「ああ勿論、保健委員として、薬草の見分け方や乳鉢の使い方くらいは教えましたよ。でもそれは、忍者にとって一般常識の、六年生ぐらいになれば当たり前のように知っていることで」
「そんな」
私の言が余程信じられないのか、男は見開いた目を何度も瞬かせた。男の周りに満ちる驚きの気配に、この男にしては珍しく、動揺しているのだろうと気づいた。
「しかし、彼は薬について相当詳しかった。手当も的確で上手でしたよ。先生が教えたのでないなら、どこでそんな知識や腕前を」
ふと言葉を切ると、男の目は再び私の顔を見た。
「まさか彼は、独学で?」
「その通りです」
覆面に隠された口が、息を飲んだのが分かった。信じられない、というように、再び目が見開かれる。
男の驚きはよく理解出来た。私も、よくぞここまで、と思っていたからだ。
学年が上がるにつれて、私はあの子に医術を教えるのをやめていた。何故なら、あの子に適性があったからだ。術の名前や道具の名前など教科書に書いてあることを覚えるのが苦手なあの子が、難しい薬の名前をすらすらと覚えられた。知識欲が旺盛で、私が教えたことを何でも吸収した。さながら、乾いた砂に水がしみこむように、どこまでも貪欲に。
彼は血を怖がらなかった。汚物を嫌がらなかった。人の痛みを感じ取り、癒したい労りたいという気持ちを手で表すことが上手だった。この子は医者に向いている。そう思ったから、医術を教えるのをやめた。請われるまま医術を教えていては、私はあの子を医者にしてしまいそうだった。
そうして理由も告げず教えることをやめたのだが、あの子はそれでも保健委員であり続けた。医務室の医術書を貪るように読んだ。積極的に当番を務め、怪我人に触れることによって手当てが上達した。
何があの子をそうさせるのだろう。これが適性というものか。それともあの子は医者になる宿命でも抱いているのか。
「……いや、驚きました」
しかしそう口にする男からは、すでに衝撃は抜けているようだった。気配も表情も、落ち着いたものに戻っている。
「まさか彼が、独学であれだけの知識を身につけていたとは。私はてっきり、身近にいる優秀な師匠の指導を受けてこそのものだと思っていましたよ」
「私は師ではなく、善法寺くんも弟子ではありませんよ」
「では新野先生は、彼を医者にするおつもりはないのですね」
「もとより、私にはその資格も権利もありませんから」
私はおもむろに頷いた。
「善法寺くんの進路は、善法寺くん自身が選び、決めることでしょう。もし善法寺くんが医者の道を選ぶというなら私にも出来ることもあるかもしれませんが、しかし彼も、この学園に入学したのは、貴方のような一流の忍者になるためなのでしょう。その初志をねじ曲げるようなことは、何であっても許されないと思います」
そう、ここは忍術学園。忍者を目指す者の学校なのだから。
みなが一流の忍者を目指して勉強している。それぞれの得意分野に磨きをかけたところで、目指すところは一つのはず。
「成程。納得がいきました」
男が伏せていた目を開けば、それはきらりと光った。
「先ほどは、感銘を受けた、応援したいうということを申し上げましたが、ありていに言えば私は、彼が欲しいのですよ。ぜひ、タソガレドキに頂戴したい」
黒目の小さな、白目は黄色く濁りがちの決して美しいとは言えない目が、笑みの形ににやりと歪む。
「左様ですか」
わざとそんな表情をして、人が不快になることを言って、私を試しているのだろう。
相手が狐なら、私は狸。そう心に念じて、私は人のよさげな苦笑いを浮かべた。
「しかし、貴方が欲しいと仰って、ではどうぞ差し上げますと私が申し上げて、それで受け渡すというものでもないでしょう。善法寺くんは品物ではないのですから」
「そういうものだと思っておりました」
「はあ」
いけしゃあしゃあと述べる相手に、何と返してよいか。戸惑う私の前で、組頭は目を伏せた。
「彼には人を癒す不思議な力がある。それが何なのか分かりませんが、それでも私は彼が欲しい。手元に置いて守りたい。彼の不思議な力を私だけに向けてくれたらどんなにいいか、と思いますよ」
何の怪我をしているのか詳しく聞いていないが、全身包帯まみれの男は、夢見るように呟いた。
「ですから本音を言えば、彼が医者になろうと忍者になろうと構わないのです。ただ、忍者であれば私にもツテがありますからいくらでも手を回せますけれども、医者というのであればね。勧誘の方法から考えなければならないかと、少々悩んでおりました」
タソガレドキの忍び組頭は、覆面の下で小さく笑ったようだった。しかし笑みを含みながらこちらにちらりと寄せられる視線は鋭い。視線が刃物であれば、私の胸などやすやすと貫通してしまえるほど。
あの子をどうしても手に入れるつもりなのか。
私から奪いたいと思っているのか。
もはや、私の膝下にあの子がいるのは、ただその役職に縛られてのことなのに。手の内にいるように見えるのは、ただあの子の責任感が強いから私の手の内にとどまっている、それだけなのに。
「先ほども申し上げましたが、善法寺くんの進路は、善法寺くん自身が決めることです。卒業生全員がそうであり、これは私一人の意見ではなく、忍術学園全体の考え方ですから」
「そのようですね」
そこで忍び組頭は目を伏せた。再び開いた時、そこに人を刺せるかという程の鋭さはなく、むしろ僅かな笑みさえ浮かべているようだった。
「もし彼が忍者を目指すというなら、彼のために私にも出来ることがある、といったところでしょうか。それが分かっただけでも大収穫でした。新野先生、今日は会って下さってありがとうございました」
円座を滑り降りて手をついて頭を下げる相手に、こちらも手をついて礼を返す。
「いいえこちらこそ、なんのお構いもせずに」
組頭はその場を辞すると忍者らしくなく障子から去って行ったが、歩いて帰る足音はしなかった。
ここは教員長屋のはずれ。まっすぐ帰ったか、校舎にある医務室にいるであろう善法寺くんの元を訪れたか。私には知る由もない。
円座を片づけると、元の文机の前に座った。出したままの先月の日誌が目の前に置かれている。
いつしか指は表紙をめくり、見慣れた筆跡を辿っていた。
……何故あの男は、ああも素直に欲しいなどと言えるのだろう。
私も同じようなことを、あの子に告げることが出来たら。
校医見習い。その言葉はずっと昔に、蓋をして心の奥底にしまいこんでいたものだった。だがあの男の鋭い視線が私の胸を切り裂き、この言葉を抉り出してきた。
しかし。私はあの子に言えるだろうか。今まで医術から遠ざけてきたくせに、どの面下げて校医見習いになど推薦できる。何を今更、と呆れられるかもしれない。
だがこれ以外に方法はない。卒業すれば、あの子は私の元を飛び立ち、二度と振り返らないだろう。それは分かっていた。卒業生の行方は追わないのが決まりだ。それでよかった。笑って見送ろうと思っていた。だが、見送ったその先で、あの男がてぐすね引いて待っているというなら。
タソガレドキは戦好きの城だ。しかも近頃勢力を伸ばしてきた新興の城だ。ただでさえ忍者の世界は殺伐としているというのに、内側では生き馬の目を抜くような出世競争がなされているに違いない。そこへ放り込まれるのか、あの穏やかで優しい子が。
迎えられてすぐはいい。あの男が生きているうちは。しかしあの男が死んだり、あの子への興味を失ったりしたら。その時善法寺くんは、タソガレドキでやっていけるのか。辛い思いをせずにいられるのか。遅かれ早かれそうなることが分かっていて、私は何の手も打たずにいていいのか。
だが、校医見習いとして忍術学園に就職しないかと誘ったところで、あの子はどう反応を示すだろう。躊躇うだろうか、困るだろうか。とっくに進むべき道を決めているのだろうか。私はそれすら知らない。
もうあと半年足らずで、あの子は卒業を迎える。
傍にいてくれと告げれば、あの子は私についてきてくれるだろうか。
それとも……。
私は手元の日誌を閉じると立ち上がった。障子を開けば、秋の風が吹き込んでくる。湿度の低い、からりとして心地よい、それでいて冷たい風。
見下ろした庭の片隅には、竜胆がもう花開いていた。
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