「先輩。もし俺が死んだら、泣いてくれますか」
ぽつりと呟けば、猫のような大きな目が更にまん丸に見開かれた。
「何だよ鉢屋、やぶからぼうに」
「ま、例え話なんですけどね」
夜中、一人で薬を煎じる伊作先輩の部屋にお邪魔していた。先輩の同室者はどこへ行ったか。いつも留守を狙ってしけ込むのだが、今夜ばかりは留守でなくても、かっさらってでも、先輩と二人になりたかったかもしれない。
「ほら、秋も深まってきましたし」
折りよく、ちんちろりんとかぎろろろとかすいっちょとか、秋の虫が鳴く。籠城に備えてとか訳の分からない理由で草ぼうぼうの校内では、奴らも住処には困らないだろう。時にはやかましいくらいの大合唱になる。
「それでなんだか、切なくなっちゃった?」
そうなんです。切なさが高じてもうたまらなくなって。なんてこと、先輩には言わない。こんな季節になっても火鉢に風を送るために使っている団扇を顔にあてて、上からのぞく目が笑ってるんだから。
「違いますよ。年を越したら、進級試験があるじゃないですか」
どんな理由であれ、伊作先輩が笑っててくれると嬉しい。そんなことを考えてる俺は、相当おめでたいのだろうな。だけど、おめでたい自分に気付かれたくなくて、頬が緩んでしまわないように、わざと目をすがめる。
「六年への進級試験は、相当厳しいって聞きますよ。かなり難しいんでしょうねえ」
大仰にため息をついてみせる俺に、伊作先輩は顔から団扇をはずして、そんなの、と呟いた。
「大丈夫だよ。鉢屋は優秀だし、僕だって通ったんだから」
「でも、先輩は先輩、俺は俺、です。……そりゃあ総合的に見たら、俺の方が先輩より優秀かもしれませんけどねえ。先輩はその不運により培った打たれ強さがありますけど、俺はそういうのありませんから。なまじ優秀すぎて器用貧乏っていうか、底が浅いっていうかね。優秀だからいいってもんじゃないんですよ、きっと」
自慢してるのか謙遜してるのか分からないようなことを言うと、先輩の眉間にしわが寄った。褒められてるのか貶されてるのか、一瞬考えてから、やはり後者だと思ったのかもしれない。
「武芸十八般に通じたところで、役に立つとは限りませんからねえ。何があっても生き抜こうっていう、ガッツですか。そういうのを試されると弱いっていうかね。こう、ポッキリと折れるかもしれなくて」
嫌味にせよ愚痴にせよ、いい迷惑だと感じているんだろう。げんなりした顔の伊作先輩の前で、俺は、そうだなあ、と腕組みをした。
「試験中に重傷を負った俺は、まず医務室に運ばれるんですよ。で、伊作先輩が駆けつけてくれるんですけど、時既に遅し。医務室の畳の上の、俺の顔には白い布がかけられてて。白布を剥いだ先輩は、怒ったような険しい顔をしてるんですけど、一言『馬鹿』って呟く、そしたらその拍子に、涙が一滴、ほろりとこぼれて頬を伝う……」
無論、その大きな目には一杯に涙が溜まってるんだけれども、先輩は泣くまいと堪えてる訳だ。後輩達の手前もあるし、何より泣いたりしたら、俺が本当に死んだと認めるみたいだから。それで懸命にこらえる、しかしこらえきれずにこぼれる、一粒の涙。
「……ああ、それだったら俺、死んでもいいかもしれない」
「馬鹿」
中空に自分の臨終を思い描き、うっとりと見つめる俺に、先輩は冷たく呟いた。もちろん、涙なんて一粒もない。
「そんな人死にが出るような試験じゃないよ。第一、試験監督の先生方がちゃんと見張ってるんだから。よっぽどのことがあったって死人なんて出ないって」
「……そりゃあそうでしょうけれども」
分かってないなあ、と俺は口を尖らせた。
分かってない。先輩はなんにも分かってない。
俺たちの進級試験の次には、先輩方の卒業試験があるじゃないですか。
卒業試験がどんな試験だか想像もつかないが、先輩方は誰であっても、落第するとは思えなかった。どんな課題を出されても、この人たちならこなして行ける、そういう底力みたいなものが、六年生全員にあった。
伊作先輩も然り。試験を受け、合格し、そして卒業していく。
どこぞの城に就職するならば、卒業後も連絡を取ることは不可能ではないだろう。でも伊作先輩はきっと、どこにも就職などしない。立場を定めないまま、必要とされるところならどこへでも行くのだろう。
卒業したらきっと、もう二度と会えない。
いや、お互いが生きてさえいれば、また会えるだろう。しかし、その可能性はしんべヱのテストの点数よりも低い。そんな僅かな可能性にすがって生きるくらいなら。
先輩が学園を去る前に、俺がこの世を去りたい。そうすれば、先輩が俺の元を離れて行くことはない。
大体、旅立ちというものは、旅立つ者よりも置いて行かれる側の方が辛いのだ。先輩に置いて行かれるくらいなら。そんな思いを、先輩はちっとも分かってない。
「死の間際、いや死んだ後に、愛する人が涙を流してくれる、これは男の理想ですよ。号泣もいいけど、一粒ほろりと流れる涙もいい。うん、俺、先輩が泣いてくれるなら死んでもいいです」
「はあ……」
もうついていけない、という表情で、相槌ともため息ともつかない声をもらしていた伊作先輩だが、ふと表情を引き締めた。
「よし、決めた」
「何です?」
伊作先輩が急に真面目になるのは、だいたい突拍子もないことを言い出す前触れである。今回も何を言い出すのかと、身構えながらもちょっと楽しみにしていた、が。
「鉢屋が死んだら、僕は雷蔵に乗り換える!」
拳を握りしめて、高らかに伊作先輩は、とんでもないことを宣言してくれた。
「はあ?」
乗り換えるって、ちょっと。なんか言い方があけすけだというか何というか。
しかし呆然とする俺の前で、愛しい想い人は、傲然と胸を張った。
「おんなじ顔なんだから、雷蔵でもいいだろう。きっと雷蔵なら優しいから、僕のことを無碍に拒んだりしないだろうし」
「いや、そりゃそうかもしれませんけど」
ていうかむしろ、俺を亡くして悲しみに沈んだ伊作先輩を見てられなくて、積極的に慰めたりしそうな奴だけど。
「ふふん。最初は『鉢屋といるみたいで落ち着くんだ』とか言って雷蔵に接近する。で、そのうち頃合いを見て『実は本当は雷蔵の方が好きだった』とか告白するんだ。後は既成事実でも作ってしまえば、責任感のある雷蔵のこと、迷い癖につけ込んで、一気に口説き落とせる!」
俺はもう、開いた口が塞がらなかった。
なんだその具体的な手順。説得力がある、というか、その通りにしたら本当に雷蔵を落とせそうだ。
ていうか、既成事実を作るって。迷い癖につけ込むって、おい。凄まじいというかえげつないことを今、さらりと言わなかったか。
いざとなったら、目的のために手段を選ばない、こういうところに六年生の図太さを感じる。いざとなるまでは良き先輩の皮を被っているくせに、土壇場でぎりぎりの選択をすることを躊躇わないのだから。
この人も、図太い六年生の一人で。胆力があって打たれ強くて、そう簡単には死にそうにない。先輩が雷蔵を欲するなら、口説き落としてしまえるだろう。
「……先輩には参ります」
俺は両手を上げて、降参、の意を示した。
「雷蔵に後がまに座られちゃあ、俺のことなんてすぐ忘れられそうですね。せいぜい生き延びて、先輩にまとわりつくことにしますよ」
「うん、そうしなよね」
そう言って笑う、この勝ち誇った顔の可愛いこと!
ああ、もうダメだ。この可愛くもえげつない人を残して死んだり出来ない。そんなのもったいなさすぎる。俺は火の前にいるにも関わらず、先輩を力一杯抱きしめた。
相変わらず外からは虫の大合唱が聞こえ、先輩は、まだまだ先のことだよ、と呟いた。