「あっつー!」
部屋の片隅で悲鳴が上がった。
そこは伊作が薬品の調合に使っている一角で、さっきから火鉢に火をおこして何かやっているとは思ってた。しかし、大方また何かの薬を煎じているのだろうと思ってたらこの悲鳴だ。まさか火鉢をひっくり返したんじゃあるまいな。そうなれば同室の俺にも累が及ぶ。仕方ない、俺は読みかけの本を文机に置いて、様子を見ることにした。
衝立に囲まれたその一角を覗いてみる。……火鉢は無事のようだ。その上には小ぶりの鍋が乗っかり、火事の危険はない。しかしその代わり俺は、微妙におぞましい物をみることになった。
「伊作……それは……」
「あはは。薬を煎じてたんだけど、かきまわしてるうちに勢いがつき過ぎたのか、飛ばしちゃって」
夜着をたくし上げた伊作の手首に、どす黒い緑色にところどころ紫のどろどろしたものが、点々とこびりついていた。
あまり日焼けしない手首の内側は白く、そこに変な色のおそらく薬であろうものが散っているのは、伊作が妙な病気にでもかかったみたいで、ぞっとしない。
「あー、せっかく煎じてたのに、勿体無い……」
呟きながら、手拭でぬぐいとる。変な色は取れたが、変わりに妙に赤い色が残る。
「おいそれ、火傷してるんじゃねえか?」
鍋の方はと見れば、ぐつぐつ泡が立っている。沸騰したお湯を被れば、そりゃ火傷ぐらいするだろう。
「そうかもね。でも大丈夫だよ。大したことないし」
「んなこと言って……」
一番大きな火傷の箇所で、直径一寸ほどはある。そんな火傷が手首に何箇所もあって、大したことないはないだろう。
「それに、冷やした方が熱を持ったりして痛いんだ。しばらく放っといて大丈夫だよ」
「ってお前なあ……」
俺は頭を抱えたくなった。全くこいつは。
「でももし他の誰かがそんな火傷したら、絶対放っておかないだろう?」
「そうだね。四の五の言わせずに、井戸端まで連れて行くかな。この程度の火傷なら、まず流水で冷して……」
「よぅし、よく言った」
衝立を回り込んで伊作の後ろに陣取る。
「とりあえず鍋を火からおろせ」
「え?でもまだ、煎じるのが途中で……」
「火事の危険があるんだ。いいから降ろせ」
「え?火事って……え?」
薬の調合を途中でやめさせられるのが嫌いな伊作でも、火事は怖いのだろう。素直に火鉢から鍋を下ろした。
火鉢の中は、穏やかに炭が熾ってるだけで、とりあえずしばらく放置しても大丈夫そうだ。
それだけ確かめると、俺は伊作の脇の下に手を入れ、後ろに引きずるとその場から引き剥がした。
「え、留三郎、何すんの?」
火鉢から充分離れたところで、今度は担ぎ上げる。そのまま大股に歩いて部屋を出る。
「ちょっと待て、まだ煎じ終わってないし、どこ連れてくんだよ、留三郎ー!」
「暴れるな。落とすぞ」
そんな脅しが効く訳もなく、伊作は俺の肩の上で暴れたが、放してやらない。しかし、しばらく行くと伊作にも目的地が分かったらしい。
「そんな、大丈夫だよ、これぐらい」
「四の五の言わせず、井戸端だろ?」
「大体、水かけた方が熱もっちゃって痛いんだから。やだ」
「おいおい、火傷の時はとにかく冷やせ、といつも言ってるくせに。あれは嘘なのか?」
「嘘じゃない。けど、こんな軽い火傷の時は、いいんだよ」
「言ってることが無茶苦茶だぞ」
流石に夜中もこんな時間には、井戸端に人の気配はない。伊作をへりに座らせ、急いで水を汲む。火傷した手首を出させると、そこへ向けてそっと水を掛けた。怪我に直接掛けないように、まんべんなく行き渡るように注意しながら、少しずつ水を流して行く。
「……痛い。熱いし、痛いよぉ」
「泣きごと言うな。いや、いくらでも言え。聞かねえから」
「留三郎の莫迦。こんなの放っておけば治るのに」
「そんなこと言って、俺が火傷したら絶対放っとかないで手当てすんだろ」
「そりゃあね、保健委員だし」
「保健委員なら手当てされなくていいのか」
「だって、すぐ治るって知ってるし」
「……お前はもうちょっと自分を大事にしろ」
「しょっちゅう喧嘩して、傷ばっかり作ってる人に言われたくないね」
ああ言えばこう言う。全く可愛くないったら。
そこで桶の水が尽きた。桶を井戸に戻して、もう一度水を汲む。
「……あのさ、留三郎」
「何だ」
「いちいち水を掛けるのは面倒だろう。その辺の盥に水を入れてくれたら、そこに手を突っ込んで冷やすから」
「その方法だと衛生的に問題があるんだろ。効率よく冷やすためにも流水の方がいいって言ってたじゃねえか」
「そりゃそうだけど……大変じゃない?」
「いつもお前がやってることだろ。つべこべ言わずに腕を出せ」
強い調子で言うと、渋々ながら腕を出してきた。桶の角度を調節して、そこへ少しずつ水を流す。
「いつもの僕って偉いんだねー」
「何しみじみ言ってやがる」
偉いというより、保健バカだ、お前は。
いつも他人の手当てにばかり気を揉んで身を粉にして。自分のことは『大丈夫』で済ませやがって。
「ちゃんと手当てしといた方が、傷の治りがいいんだろ」
全部こいつの受け売りだが、でもこれだけは分かる。ちゃんと『手当て』を、文字通り手を当てて労わってもらった傷の方が、治りが早い。それは俺が何度もこいつに手当てしてもらったから、実感として分かる。
「うーん、ものの本にはそう書いてあったけど、実際のところはどうなんだろうね」
……おいおい。しかしこいつは明るい顔で、更にとんでもないことをぬかしやがった。
「あ、今度実験してみようか。両腕に同じような火傷作って、片方はちゃんと手当てして、片方は放置しておく。それで治りにどれぐらい差があるかどうか調べるのは、面白いかも……」
「この、阿呆がっ!」
きらきら目を輝かせてる伊作の頭を、思いっきり拳骨で殴った。
自分が何言ってるのか分かってんのか、この保健バカ!
「痛いって!なんでこんな殴られなきゃいけないんだよ〜」
「胸に手をあてて聞いてみろっ!……火傷した方の手は置いとけっ!」
バカは死ななきゃ治らないというが。こいつの場合本当に、いっぺん死んでみないといけないのかもしれない。
俺はその白い腕に水をかけつつ、心の底から溜息をついた。