ぼくの後輩
学園長の庵の横を通りかかると、下級生が一人、池の端で佇んでいた。手に箒を持っているところからして掃除中なのだろうけど、箒は持ち主の手に納まったまま、ちっとも動いていない。
「……どうした、庄左ヱ門?」
「うわあっ!」
そっと声をかけたつもりだったけれど、相手は飛び上がらんばかりに驚いた。
「あ、は、鉢屋先輩、こんにちは」
「こんにちは。どうしたの」
「あ、いえ、ちょっとぼんやりしていたようで…すみません」
下級生は丁寧に頭を下げると、箒を使い始めた。池の周りに散らばっていた落ち葉が、一箇所に集まり始める。
だがそのために庄左ヱ門はあっちへ行ったりこっちへ来たりしていて、なんとも効率が悪そうだった。つまり、庄左ヱ門らしくない。いつもなら、もっとさっさと終わらせるだろうに。
「本当に、どうしたの?」
葉っぱを塵取りに入れ終えたところで、声をかける。
「いえ、なんでもないんです。ちょっとぼんやりしちゃって…」
ほら、そう言って笑う笑顔が強張っている。
とはいえ、深入りしてはいけないこともある。
「ならいいけど。でも、もし良かったら話してごらん?聞くくらいしか出来ないけど、それでよければ」
ぼくがそう言うと、庄左ヱ門は押し黙った。じっと自分の足元を、睨みつけるようにして見ている。
「無理にとは言わないけど」
「いえあの……先輩っ」
言いたくないけど、聞いて欲しい。そんな気持ちを抱えていたのだろう庄左ヱ門は、ぼくが引きそうな気配を見せたら、すぐに飛びついてきた。
「その、あの……すみません、ごみ捨てが終わったら、聞いてもらえますか?」
とりあえずごみ捨てを優先する、そういう庄左ヱ門が律儀でいいと思う。
人のいないところを選んで、学園のはずれにある畑まで来ていた。端の辺りをふらふら散歩しながら、庄左ヱ門に話を促した。
「最近、元気ないなあと思ってたんだけど。何かあった?」
「あ、やっぱりばれてました?…あんまり表に出さないようにしようと思ってたんですけど、ふとした時に、やっぱり、思い出しちゃうんですよねえ……」
隣を歩く庄左ヱ門の顔に張り付く、暗い影。似合わないなあ、と思う。ぼくに出来るなら、取り払ってやりたいけれども。果たしてそれが出来るかどうか。
「あの、臨海学校に行ったときのことなんですけれども」
「うん」
しばしの沈黙の後。庄左ヱ門はそっと切り出した。
「ぼくはドクタケの人質になって、そのせいで、兵庫水軍の軍船を一隻、駄目にしちゃったんです……」
臨海学校の話は聞いていた。その直前には火薬を盗まれたりなんだりあったものの、結局は一年は組の大活躍!で幕を閉じたのだと思っていたら。
そういえば兵庫水軍は軍船を一隻奪われた上に、その船は座礁して沈没して、使い物にならなくなったのだった。
「兵庫第三共栄丸さんは気にするなって言ってくれたし、先生達も、ぼくが苦にすることじゃないって、言われて……。だから、あんまり気にしないようにしようと思ってたんですが。でも、これでいいのかって思って。もちろん、ぼくに軍船を弁償するなんてこと出来る訳ないんですけど、でも、船一隻作るのに、もの凄いお金とか時間とか人手がかかるんですよね?謝ってすむことじゃないような気がして」
「……でも、庄左ヱ門は人質にされてたんだろ?言ってみれば被害者じゃないか」
「そうなんですよね。ぼくは何も悪いことはしてない。だけど、もしぼくが人質に取られなかったら、軍船も奪われずにすんだんだし、あの時落とし穴に落ちなかったらとか、安藤先生…の偽者だと思うんですけど、その挑発に乗らなかったら、とか、色々考えたらぐるぐるしちゃって……もう、どうしたらいいのか、どう考えたらいいのかも分からなくなって」
ドクタケの奴らも、罪なことをしたもんだ。もっとあまり深くものを考えない、もっと責任感の薄い子を人質に連れて行けばよかったのに。よりにもよって庄左ヱ門だったから、こうやって重すぎる責任感じて、悩んで、ぐちゃぐちゃになってる。
なのにそれを表には出さないようにしてたなんて……健気にも程があるぞ。
これはやはり、何とかしてやらねば。庄左ヱ門があまりに可哀想だ。
「……なるほど、人質となったことには、自分にも責任がある、と。だったらやっぱり、庄左ヱ門は弁償しないといけないよな」
そんな台詞を聞いて、庄左ヱ門は真っ青になった。軍船一隻がいくらするのか、とか、分からないなりに考えたりしたんだろうな、やっぱり。
「うん、庄左ヱ門の運命は、決まった。お前は償いをしなくちゃならない」
「……はい」
震える声で、でもしっかりと返事をする。何を言われても引き受けようとする、その勇気、その責任感。やっぱり庄左ヱ門は大した奴だ。
「ただし、今は無理だ。庄左ヱ門が大人になってから、の話だがな」
ぼくは立ち止まって鹿爪らしい顔を作ると、庄左ヱ門の前にしゃがみこみ、正面から顔を覗き込んだ。
「いいか、よく聞くんだぞ。庄左ヱ門、お前は将来、どこかの子供に迷惑をかけられる。おそらく、これまでお前が築いてきた全てを、ぶち壊しにされるようなやり方で。だけどお前は、それを許さなくちゃならない」
「え……?」
「中には取り返しのつかないこともあるかもしれない。だけどお前は、何をぶち壊しにされようと、泣こうと怒鳴ろうと喚こうと、最後にはその子を許さなくちゃならないぞ。その子に罪はなかったり、ちゃんとごめんなさいを言ってきたらな」
「あの……それって……」
ぼくは立ち上がって伸びをすると、傍らの、まだ不安そうな小さな顔を見下ろした。
「そうやって人の世は回っていくんだよ。第三共栄丸さんは立派な海賊で、今更船を弁償して欲しいとは思わないと思う。それにもしかしたら、第三共栄丸さんも、若い頃、誰かにもの凄い迷惑をかけてたのかもしれない。お前を許すことで、その罪滅ぼしをしようとしてるのかもしれないな」
「………」
そんな風には考えたことが無かったんだろう。この責任感の強い一年生は、しばらく呆然としていた。でもやがて、おずおずと口を開いた。
「でも……あの、それでいいんでしょうか?そんなことで……」
「そんなことって。今ぼくは、将来お前は苦労するって宣言したんだぞ?どんな苦労が待ってるかは分からないし、もしかしたら、今の第三共栄丸さんよりもっと凄い苦境に立たされるかもしれない。それでもお前は許してやらなきゃいけないんだからな?」
「でも……でも、そんなの、それこそ分からないじゃないですか。大した迷惑をかけられないかもしれないし……」
「いいや、迷惑かけられるね、絶対」
きっぱりと言い切ると、庄左ヱ門はちょっと鼻白んだようだった。
「どうしてそう言い切れるんです?」
「基本的に、子供はみんな莫迦で無鉄砲で、大人に迷惑をかけるものだから。それが子供というものだからさ」
そしてお前はそんな子供を放っておけない、面倒見のいい大人になるだろうから。
そう思ったけれど、とりあえず今は口には出さないでおく。
「お前は、いつか、どこかの子供に迷惑をかけられる日がくる。きっと来る。だからその日のために、あの軍船のことは、忘れちゃいけない。……だけど、もう、思い出さなくていい。悩んだり、責任感じたりしなくていいからね。そういうことは全部、その日が来たら、思い出せばいいんだから」
庄左ヱ門は口をぐっと引き結んで、しっかり目を見開いて、懸命に何かを考えているようだった。ぼくが言った言葉を、噛み締めて、飲み込もうとしているような。
「思い出さなくていい……だけど、忘れちゃいけない」
「もっとも、ぼくは忘れたっていいと思うけどね。実際、庄左ヱ門には何の罪もないし、だから責任を感じる必要はないと思うし」
「いいえ、そんな訳にはいかないと思います。だけど……だけど……」
突然、庄左ヱ門は掴みかからんばかりの勢いで、詰め寄ってきた。
「先輩っ!ありがとうございますっ!」
「い、いきなりどうした」
「今の言葉でなんだかすっきりしました。腑に落ちたっていうか、目から鱗っていうか……その、ありがごうございますっ!」
目から鱗。その例えの通り、鱗の落ちた目は本来の煌きを取り戻して、きらきら輝いていた。
「やっぱり先輩は大人だな。そんな風には考えたことなかった。どうしよう、どうしたらいいんだろうって、ずっと考えてて、でも級友たちには言えなくて、でも抱えてるの辛かったんです。先輩に聞いてもらえて、本当に良かった。やっぱり先輩は凄い!」
「凄いって……そんな大層なことは言ってないよ。ごく月並みなことしか言えないし……」
「そんなことありません!ぼく、すっごく楽になりました。先輩のおかげです」
そこには尊敬とか、憧れとか、崇敬とか、何かとてもいいものが沢山詰まっていて、見つめられるのが気恥ずかしかった。
でも、きらきらした目をして、表情に明るさと活発さを取り戻した庄左ヱ門を見るのは、悪くない。
「じゃあ、話を聞いた甲斐はあったかな」
「大ありですっ!」
歩き出したぼくに合わせて、弾むように歩き出す後輩の頭を、それこそ鞠か何かのようにぽんぽんと叩く。
きっと庄左ヱ門は、下級生が何かに悩んでいたら、その悩みを聞きだして、解決しようと努力する、いい先輩になってくれることだろう。
それは火を見るよりも明らかなことのようで、学級委員長委員会も安泰だな、とぼくは呟いた。