11111キリリク

ばれんたいん狂想曲

*注意! 現パロではありません。室町の話ですが、チョコレートがお菓子として当たり前に存在し、バレンタインという風習が根付いていることになっています。



「あ、ちょっとお菓子屋さん寄っていい?」
 それはニ月初めのまだ寒い日、実習帰りのことだった。仙蔵と二人で学園まで帰る途中、結構大きな町を通りかかった時に、偶然お菓子屋さんを見つけた。
 なんとなく覗けば、時節柄、チョコレートも売ってるようだった。仙蔵の顔を伺えば「別に構わんが」と足を向けてくれた。
「何を買うつもりだ?もしかしてチョコか」
「そのもしかして、だよ」
「ほう。誰に渡すつもりだ?」
 入った店の中は意外に広く、多くの商品がずらりと並んでいた。お目当てのチョコも多く、そちらに目が奪われていた僕は、この時、仙蔵の目がきらりと輝いたことに気づかなかった。
「うん。新野先生にね、差し上げようと思って」
 去年、長次が南蛮料理の本を貸してくれたのをいいことに、チョコレートを手作りしてみた。ちょうどその時、新野先生が喉の調子を悪くされてたから、喉にいい成分の薬草も入れてみたのだ。ところがこれが相性が悪かったらしく、振る舞った後輩たちには悪評で、新野先生は微妙な表情をなさるし、味見を頼んだ留三郎には、もう二度と手作りはするなと釘を刺された。
 だから今年は、市販品のちゃんとしたチョコレートを買って、雪辱を果たすというか、汚名をそそぎたいと思っていた。もし実習が長引いたらそれどころじゃなかったけれど、一緒に取り組んだ仙蔵のおかげで思ったよりも早く済んで、しかもわざわざ出かけなくてもお菓子屋さんにまで行けたのだから。渡りに舟、というか、これはもう、新野先生にちゃんとしたチョコを渡せという天啓かと思われた。
 お財布の中身を勘案しつつ、あれこれ手にとってみる。そんな大げさな物ではなくて、高価すぎず、かつ上品なチョコ。西洋菓子はそんなにお好きではないかもしれないから、沢山はいらない。かといって、あんまり少ないと寂しいし……。
 あれがいいかこれがいいかと悩んでいると、仙蔵がとあるチョコを指さした。
「あれなんかどうだ?」
「どれ?」
 小さくて軽い木の箱に収められたそれは、小振りのチョコレートが六つほど入っていた。分量は申し分ない。布に包んで飾りひもとかをかければ、きっと見栄えもいい。ただ、よっぽど上等な品なのか、お値段がややお高い……が、日頃お世話になっている新野先生のためだ。
「うん、決めた。あれにする」
 僕はそのチョコの箱を手に取った。が、何故か仙蔵はその箱の上に、もう一つ箱を重ねてくる。
「え、二つもいらないよ?」
 それとも、仙蔵も買うから一緒に会計しろということだろうか。仙蔵が誰かにチョコを渡す?一体誰に。目を丸くする僕に、仙蔵はにこりと笑った。
「いいや、お前が二つ買うのだ」
「へ?だから、新野先生の分、一個あればいいんだけど」
「ほら、会計があいたぞ。手持ちが足りぬようなら貸してやるから」
「は?え?」
 訳が分からないまま、会計係だか番頭さんの方へ押しやられる。あれよあれよという間に、僕はチョコの包みを二つ、手にしていた。仙蔵に借りなくてもぎりぎり財布の中身で間に合った。というか、おかげで僕の財布はすっからかんになった。
「よし、では行くか」
「ではって仙蔵、このチョコどうするのさ。ていうか人にお金使わせといて、何の真似だよ」
「それは学園に帰ってからのお楽しみだ。さあ、学園までもう一息、頑張って帰るぞ」
 そう言って歩き出す。足取りは軽く、仙蔵はなんだか上機嫌のようだった。楽しそうだ。僕にチョコを奢らせて、学園に戻ったら食べるつもりなのかな?
 そんなの非道い、とは思うが、実習の時もずいぶん助けてもらった。しかも仙蔵相手に、僕ごときが文句を言って聞き入れられる訳が無い。文次郎や留三郎も勝てないのに。
「ちょっと仙蔵、待ってよー」
 とにかくチョコを落とさないようにぶつけないように持ちながら、僕は仙蔵の後を追いかけた。学園に戻れば、僕の予想を遙かに越えた事態が始まるのだとは、露も知らずに。


「……で、何が始まるの?」
 胡座をかいた小平太が、手を頭の後ろで組んで、のんびりと聞く。その隣には、目をつぶったまま、腕を組んだ長次が、どっしりと座っている。
「まあ待て。役者が揃ってからだ」
 帰って来た時からの上機嫌で、僕の隣で仙蔵が微笑んでいる。そのまた隣の文次郎、さらに奥にいる留三郎は、訳が分からずにむっつり黙り込んでいる。仙蔵がこんな風に機嫌のいい時は、何を言っても無駄だと分かっているからだ。つまり、仙蔵にとって何か楽しいことを企んでいる時。邪魔をするならどんな目に遭うか分からない。
 もともとこの実習が終わったら、みんなで集まろうと話はしていた。報告会を兼ねた打ち上げとでも言おうか。菓子とか酒とかあるものを持ち寄って、飲み食いしながら実習を振り返って、成果を誇ったり反省したり。そうして気持ちを切り替える。そんなことを、これまで何度もしてきた。
 だから、夕飯後、みんなが僕と留三郎の部屋に集まる約束はしていた。しかし、全員が集まったというのに、仙蔵は会を始めようとしない。
 僕は仙蔵に知られないように、こっそりと溜息をついた。まだ集まらない役者というのが誰か、僕は知っていた。みんな忙しいだろうに、言われた通りに来れるのだろうか。
 僕と仙蔵が学園にたどり着いたのは夕方、もう日が落ちようという頃だった。小松田さんのいなくなった門をくぐり、職員室に向かったところで出会ったのは兵助だった。
「久々知か、ちょうどいい」
「あ、立花先輩、伊作先輩、お帰りなさい」
 火薬委員の仕事中なのか、重そうな壷を抱えていた兵助は、わざわざ足を止めて振り向くと、にっこり笑ってくれた。そんな健気な兵助に、仙蔵は平然と言い放つ。
「五年全員を集めてくれ。夕食後、六年は組の部屋に」
「え?……全員、ですか」
「そうだ。遅れるなよ。私は人を待つのがあまり好きではない」
 仙蔵がにっこり笑ってそんなことを言う時、感じるのは好感じゃなくて恐怖だ。その辺を長い付き合いでよく分かっている兵助は、神妙に「分かりました」と頭を下げた、けれども。
 委員会の仕事もあるだろうに、そうでなくても勉強とか実習とか忙しいだろうに、いきなり何の用事か説明もなく召集されて、五年生にはいい迷惑だろうなあ。いや、五年だけじゃないか。集まったまま、反省会を開くでもなく待ちぼうけしてる僕らにもいい迷惑だ。
「ね、仙蔵」
「何だ、伊作?」
 でも、仙蔵にはこの状況さえ楽しいのかもしれない。まだ上機嫌が続いている、そんな表情でこちらを向く。
「みんなを集めてどうするのさ。何を始める気なの?」
 そこまで訊いてから、僕ははたと思い当たった。
「もしかして、さっき買ったチョコになにか関係がある……?」
「ふむ、明察だ。伊作にしてはよく気が付いた」
 伊作にしては、だけ余計だけれども、突っ込んでる場合じゃない。「それってどういう……」と言いかけた時、廊下で足音がした。
「こんばんはー。遅くなりました!」
 やあコーちゃん、こんばんは、元気?と、無駄に張り切って部屋に入って来たのは、鉢屋。後ろに雷蔵、竹谷、勘右衛門と続いて、最後に入ってきた兵助が、丁寧に障子を閉めた。
「ああ、悪かったね、呼びつけて。円座とかないけど、適当に座って」
 うちの部屋は二人部屋にしては広いけれども、さすがに男ばっかり十一人も入れば狭苦しい。空いた床に、失礼します、と呟きながら、どうにか全員が腰を下ろす。
「……で、この急な呼び出しは何のご用ですか、立花先輩?」
 鉢屋という奴は、ここが六年長屋であっても、六年全員にほぼ取り囲まれる形で座っていても、物怖じしない。他の面子が神妙に膝を揃える中で、一人胡座をかいて、不敵に微笑んでいた。
「ふむ。今日、みんなに集まってもらったのは、他でもない」
 仙蔵の手が、さも当然のように僕の荷物に触れた。さっき買ってきたばかりの、お菓子屋の包みだ。
「今日は帰りがけ、伊作が買い物をしたのだ。バレンタインデーとやらに贈る、チョコレートだな」
「ばれんたいん?」
 五年の誰かが鸚鵡返しに呟く。それを聞きつけたか、仙蔵は愉快げに眉をつり上げた。
「なんだ、南蛮の風習も知らんのか?」
「い、いや、バレンタインくらい知ってますよ!好きな人にチョコをあげる日でしょう」
 勘右衛門がムキになったように説明すれば、仙蔵は「その通り」と満足そうに頷いた。そうして包みを手に取ると、一つずつ両の手に持った。右手だけ僅かに浮かせる。
「買ったチョコレートは二つ。一つは、伊作がこの世で最も敬愛する、新野先生に差し上げるためのもの」
 最も敬愛、って言葉になんだか照れるけれども、敬愛というか、確かに、僕がこの世で最も尊敬しているのは新野先生かもしれない。とりあえず訂正はしないでおく。
「そしてもう一つ。これは先ほどのチョコと同じものだ」
 言いながら、今度は左手を少し浮かす。二つは全く同じ包みで、中身も同じ。見分ける必要もなく、全く同じものだった。
「伊作が新野先生に差し上げるのと同等のチョコでもって、賭けと言おうか、勝負と言おうか、遊びをしようではないか」
「遊び?」
「そう。内容は至って簡単」
 そこで言葉を切ると、一同を見渡した。
 一体何を言いだすつもりだろう。続く台詞を待って、なんだか緊張感が高まってくる。
「伊作が、この場にいる誰かに差し出す」
「……へ?」
 我ながら間の抜けた声が出た。
「誰かって、誰?」
「それはこれから伊作が決めるのだ」
「僕が?」
「そりゃそうだろう。おまえが買ったチョコレートなのだから」
 そりゃそうだけど。なんだか全然、納得がいかない。なんで誰かを選ばなきゃならないんだろう。みんなでチョコを食べるつもりなら、もっと安くて沢山入ってるものを買ったのに。
「なーんだ。いさっくんのチョコを賭けて、みんなで争奪戦でもすんのかと思った!」
 残念そうに小平太が呟く。小平太が口にすれば、争奪戦という響きに異様なほど剣呑さが増す。思わずおののいた五年生たちには悪いけど、でも、確かにそれなら、納得がいくのに。
 うちの六年生と五年生は、微妙に仲が悪い。といっても五年生たちは基本的に真面目で礼儀正しいから、普段は上級生を立ててよくしてくれるし協力もできる。けれど、学年対抗戦とかはっきり対立するときは、容赦なくかかってくる。当たり前と言えばそうなんだけど、その必死さ懸命さを見れば、普段の礼儀正しさは猫かぶってるんじゃないかと思えるくらいだ。
 だから。僕が新野先生に贈ろうと思ったくらい上等なチョコを賭けて学年対抗で勝負、仙蔵は高見の見物、というなら分からなくはないんだけれども。
 僕が誰かにチョコをあげるだけ?
「決めろって言われても……」
 なんとなくぐるりと見渡してみた。六年はみんな気の置けない仲間で、五年も何かと手を貸してくれるいい子たちばかりだ。
「一人じゃないと駄目なの?」
「包みは一つしかないからな」
「選べないよ、そんなの」
「誰でもよいのだぞ、おまえが好意を寄せる者でも、尊敬する者でも、感謝する者でもな」
 仙蔵はそう言うけれども、ますますもって誰にしたらいいか分からない。みんなに好意を持ってるし、みんなそれぞれに尊敬してるし、助けてもらって一杯感謝もしてる。
「チョコを渡すのは十四日だ。十四日の夜、今と同じくらいの時刻に全員集まろうではないか。それまでじっくり悩めばいい」
 十四日と言えば三日後だ。その時、この場にいる全員の前で、僕が一人にチョコを渡す。つまりそれで、僕と誰かを晒しものにして楽しもうってことなのかな。というか。
「……もしかして、僕が誰に渡すか予想して、賭とかやるつもり?」
「ほう、今日は冴えてるな。伊作にしてはいい推理だ」
「にしては、は余計だってば!」
 今度はすんなり突っ込めた。だってさっき仙蔵自身が賭けとか言ってたし。ていうか、それなら別に、こんな上等なチョコを賭けなくってもいいじゃないか!
 続けて文句を言おうとした僕の呼吸をそらすかのように、仙蔵がさらりと付け加える。
「そうだ、そういう訳だから、伊作に誰に渡すつもりか聞くのは禁止だぞ。誘導尋問の得意な者もいるしな。無論、伊作が渡すことに意味があるのだから、事前にチョコを奪っておいても無駄だ」
「……成程ね。了解しました」
 何を了解したのか、呟く鉢屋の目がきらんと光った。見れば五年生みんな、さっきまでのぽかんとした表情はどこへやら、いつもの平静さが戻ってる。
「伊作先輩が新野先生に差し上げようと思ったほどのチョコ。興味あるなあ」
 勘右衛門が暢気そうに言えば、隣で兵助が「そうだな」と小さく呟く。
「取り合いっこじゃ勝ち目は薄いけど」
「そういうんじゃないなら、ね」
 竹谷と雷蔵が目を見交わして頷く。
 全員が鉢屋同様目がきらりとしていて……どうした訳だ、なんだか五年生はやる気まんまんのようだ。
「取り合いっこの方が面白そうだけどなー。ま、私が一人勝ちしても面白くないか」
 その自信はどこから来るのか。でも小平太ならあながち過剰とも言えないかもしれないところが怖いというか凄い。
「今更伊作にチョコもらってもな、って気はするけど。甘いもんは嬉しい」
 意外と甘党な留三郎が呟けば、文次郎はふいと顔を背けた。
「伊作が誰にチョコを渡そうが、俺には関係ねえ」
「おまえのところにもチョコが舞い込むかもしれんのだぞ」
「だから関係ねえと」
 留三郎とは反対に甘いものに興味のない文次郎は、すでに苦虫を噛みつぶしたようだ。でも、同じクラスの仙蔵が仕切っているからには、いつまでも知らん顔も出来まい。
「……チョコレートは、滋養強壮によい」
 長次がぼそりと呟く。
「では、決まりだな」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 肝心の僕が、まだ参加するって言ってない。というより、これを誰に渡せばいいのか。
「これ、大木先生とか、雑渡さんにあげるのって、なし?」
 念のため聞いてみれば、仙蔵はにっこり笑顔で答えてくれた。
「この場にいる者にしてくれ。でなければ賭が成立しないからな」
 その、笑顔が怖い、笑顔が。
 せっかくの上等なチョコレート、それに相応しいような大人にあげるという案は却下された。僕の意志には関係なく、そもそも店でこれを買わされた時から、僕はこの賭けに参加していることになっているらしい。
 それにしても。
「誰に渡せばいいんだ……」
「誰でもよいのだぞ、誰でも」
「そうは言ってもさー」
 どうやって選べばいいのか。ぐちぐち言ってると、仙蔵はあきれたように呟いた。
「そんなに悩むようであれば、アミダくじでも作ればどうだ」
「……そんなんでいいの?」
「伊作さえ良ければな。大枚はたいたチョコを、そんな方法で決めた相手に渡していいのか?」
 仙蔵は鼻で笑うけれども、それは悪くない方法に思えた。誰も選べない、でも、誰かを選ばなければならないのなら、それっていい方法じゃないだろうか。
「まあいい。では、三日後のこの時刻、またここで会おう」
 仙蔵がそう宣言して、この場はお開きとなった。五年生が出て行くと同時に、小平太や長次、文次郎に仙蔵も出て行く。そういえば反省会はどうなったんだろう。気にはなったけれど、もう僕には追いかけて聞く意力が残ってなかった。
「……仙蔵は何を考えてるんだろう」
 僕の手元に残された、二つのチョコの包み。それを見下ろしながら呟けば、「さあな」という留三郎の返答が聞こえた。
「俺にも分からねえ。……が、お前をダシに、バレンタインを楽しもうとしてる、ってのは分かるぜ」
「やっぱり?」
 何がどう楽しいのかさっぱり分からないけれど、上機嫌な仙蔵を阻止できる人など、忍術学園でもそうはいない。
 ともあれ、アミダくじでも作っておくか。僕はしみじみと溜息をついた。


「伊作先輩」
 放課後、僕が落とし紙の補充で歩き回っていると、学園のはずれで声をかけられた。
 十分な距離があったから、さほど警戒はしない。声のする方を見れば、竹谷がこちらへ歩いて来るところだった。
「やあ、竹谷」
 十分近づくのを待って声をかければ、竹谷は五年生らしく「こんにちは」と丁寧に挨拶してきた。
「先輩は、こんなところまで、落とし紙を届けに?」
「うん。この先に便所があるからね」
「大変ですね」
「でもここまで来るのは何日かに一回だよ。竹谷こそ、こんなところでどうしたの。虫でも逃げた?」
「いやー、はっはっは」
 明るく笑ったっきりで具体的なことは何も言わない、ということは、図星だったんだろうか。視線を明後日の方へそらす竹谷を見ていると、何の虫が逃げたか聞かない方がいいような気がしてきた。
「じゃあ、虫探し、頑張ってね」
 近くに得体のしれない虫がいるかもしれないと思うと、あんまりいい気持ちはしない。さっさと仕事を済ませてしまおう、とその場を去ろうとしたら、「あ、いやその」と竹谷がもごもご言った。
「虫を逃がしたとかじゃないんです、本当は」
 照れたように頭をかきながら、竹谷は一歩、こちらに踏み込んできた。
「……本当は、伊作先輩と話せる機会を伺ってたんです」
「僕と?」
「ええ。出来れば二人っきりが良かったので」
 何だろう、秘密の話なのかな。ともあれ、得体のしれない虫に怯えなくていいなら、話はゆっくり聞こう。冬枯れの木立の中、僕は竹谷に向き直った。
「先日の、チョコレートの件ですが」
「ああ、あれ」
 仙蔵が変な賭けを言い出したのは、二日前のことだった。そういえば、アミダくじを作っただけで、まだ辿ってなかったなあと、僕はぼんやり思い出した。
「こんなこと、お願いする筋じゃないかもしれませんけど。他に思いつかなかったし、俺は兵助みたいにこそこそしたくないから」
 そこまで言うと、竹谷は僕の目をまっすぐ見て、ぴしりと姿勢を正した。
「もし、もしもの話ですけれども」
「うん」
「もしも先輩がチョコをあげる相手を決めきれなくて、アミダくじでも作ろうかという時には……六年の先輩方を差し置いて非常に恐縮なのですが、その際には、ぜひ、俺にチョコレートを下さい!」
 言い切ると、竹谷は垂直に頭を下げた。
「あの、本当に、先輩が決めきれなかったら。誰でもいいかな、という時には、ぜひ。俺に下さい。先輩のチョコ、欲しいです。よろしくお願いします!」
 一言一言、叫ぶように言う竹谷には、熱意が感じられた。そんなにチョコレートが好きなのかな。
「……分かった」
 とりあえず僕がそう言うと、竹谷は弾かれたみたいに顔を上げた。
「どうするかはまだ分からないけど……とりあえず、考えておくよ」
「やったあ!!」
 ぐっと拳を握りしめて。「ありがとうございます!」と笑う顔はとっても晴れ晴れして気持ちいいくらい。根明っていうのは本当だなあと思う、一点の曇りもない、いい笑顔。
 そんな笑顔を見ていると、僕まで嬉しくなってきた。そんなに喜んでくれるなら、竹谷にチョコあげちゃってもいいかもしれない、そんな気になるくらい。
 でも、渡すまでまだあと二日ある。竹谷はにこにこ笑顔のまま、「では、失礼します!」と一礼すると、駆けていった。その足取りは、弾むように軽い。
 よっぽどチョコが好きなんだなあ。そう思いつつ、なんとなく竹谷の背中を見送っていると、見えなくなったころ、頭上でがさりと音がした。
 誰かいる、と身構えた時には、後ろから羽交い絞めにされていた。手に持っていた落とし紙がぼとりと落ちる。
「随分とストレートに物を言うなあ、竹谷の奴」
「……小平太!?」
 動かない首を動かして後ろを見れば、丸い目がにかっと笑った。上半身を固定していた腕が緩んで、甘えかかるように後ろから抱き付いてしなだれかかってくる。
「チョコあげちゃってもいいかなー、とか、思ったでしょ、いさっくん」
「こ、小平太、それより、重い!」
 うりうり、と擦り付けるようにして体重をかけてくる。図星を指されたのとその重みに対抗できずにいると、小平太はいきなりぱっと手を離した。
「うわっ!」
 いきなり背中の重みが取れて、その場につんのめるようにしてへたり込む。小平太は身軽に僕の前にしゃがみこんだ。
「じゃあさ、私も!」
「……へ?」
 小平太はにこっと笑うと、両手を僕の前に差し出した。
「私もチョコレート欲しい!いさっくんのチョコレート、私にちょうだい!」
 最上級生になっても体育委員長になっても、その笑顔は一年生の頃から変わらない。小平太は本当に、裏表がなく、開けっぴろげで、竹谷とはまた違う感じで、曇りのない笑顔。愛嬌があって可愛い。
 小平太にあげてもいい。でも、今、竹谷にもあげてもいいかなって思ったばっかりで。どうしたらいいんだろう、その逡巡を見てとったのか、小平太は「なあんて、ね」と腰を上げた。
「そりゃ、いさっくんからチョコもらえたら嬉しいけどさ。本当言うと、そんなに期待してない」
「……あ、そうなの」
 なんなんだろうまったく。気を遣ってくれてるのかなあ、とも思ったけど、そんな変な気遣いをしない、素直なところが小平太のいいところだ。
 首を傾げながら立ち上がると、小平太がずい、と詰め寄ってきた。
「でも、竹谷には渡して欲しくないんだ。いいや、竹谷以外の五年生の誰にも」
「へ?」
「だってさ、納得いかないんだもん」
 丸い目をぱっちりと見開いて、意外なほど真面目な表情になった。
「例えばさ。いさっくんが留三郎にあげるってんなら、分かるよ。ずっと同級で一番身近な奴だもんね。長次っていうのも分かる。頼りになるし。仙蔵にあげるのも分かるよ。文次郎だったら、打ん殴って奪い取ればいいし」
 なんだか最後一人だけえらく物騒なんだけれども。内心冷や汗をかく僕をよそに、小平太は続けた。
「六年の連中だったら、誰にあげても納得いくよ。でも、五年生じゃそうはいかない。あいつらに渡すのは、なんかこう、癪にさわる。納得いかない」 
「はあ……」
 小平太って、五年生のこと嫌いなんだろうか。確かに学年対抗戦とかあると、全力でかかってくる五年生を、全力で叩きのめすことが多かった。単に後輩に容赦ないだけかと思ってたんだけれど。
「だから!」
 不得要領な僕の肩を掴んで、小平太は僕の顔を覗き込んできた。
「六年だったら誰にあげてもいいけど、五年生にあげちゃ駄目だからね!」
 きっぱりはっきりくっきりすっきり言い切ると、その丸い目が緩んだ。愛嬌のある顔が、にっこりと笑う。
「じゃ、そういうことで!」
 言いたいだけ言うと、肩を掴んでいた手を離し、小平太はぱっと駆け出した。小平太が駆け出すと同時に、反対方向から紫色の影が飛び出してきた。
「七松先輩〜、待ってくださ〜い」
 滝夜叉丸だ。その後を、緑、青、井桁模様が通り過ぎる。みんないい加減へろへろみたいだ。体育委員会はマラソンでもしてるのかな。
 しばらく、とりどりの色の制服が駆けて行くのを見送った。
「なんなんだかなあ……」
 よく分からないけれども、ともあれ僕も委員会の仕事に戻ることにして、便所へ向かった。


 そんなこんなで一日も終わり、僕がお風呂に辿り着いたのは、もうすっかり夜も更けたころだった。
 食堂が閉まってからしばらく経つ。本当は夕食の後、すぐにお風呂に来たかったけれども、急な怪我人が出たから仕方ない。手当てをした後に、医務室を片付けたりなんだりしている間にすっかり遅くなってしまった。
 もう誰もいないかも、と思ったら、脱衣所には一人分の制服があった。色からして五年生。誰だろうと思いつつ、僕も制服を脱いで元結を解くと、風呂場に入った。
「……伊作先輩」
「おや、兵助」
 ほのかな湯煙の向こう、湯船に浸かっているのは五年い組の火薬委員、兵助だった。
「珍しいね。こんな時間にどうしたの」
 火薬委員は、保健委員みたいに急な事態に振り回されることが少ない。そもそも兵助が無茶を言って後輩を引っ張りまわすタイプじゃないし、それなのに、こんな時間にお風呂に来るなんて。
 補習か何かあったのかな。その時ふと、昼間、竹谷から聞いた言葉が頭に浮かんだ。
「ちょっと、用事で。でも、俺はもう上がりますから、ごゆっくり」
 会釈すると兵助はそそくさと湯船から上がった。そのまま僕の横を通り過ぎようとする。
「でもさ」
 とっさに僕は腕を捕らえた。お湯に濡れたその腕は、でも全然、温かくない。
「まだ、浸かったばっかりじゃないの?手だってあったまってないし、顔だって青いよ。この時期、お風呂でちゃんと温まらないと、冷えるばっかりだからね。ちゃんと湯船につかりなよ」
「でも」
「兵助」
「……はい」
 上級生らしく高圧的に睨みつければ、兵助はすごすごと湯船に折り返した。その態度に免じて、とりあえず、突付かないでおくことにした。何も言葉を交わさないまま、ゆっくり体と髪を洗って、それから湯船に足を入れる。
「じゃあ、俺は、そろそろ」
 僕が湯船に身を沈めたタイミングを見計らって、兵助が出て行こうとした。
「あのさ。……兵助も、チョコ、欲しい?」
 まだ充分、湯船のお湯は温かかった。ゆったりと手足を伸ばしつつ聞けば、ぎくりとしたように立ち上がりかけた足が止まった。
 律儀で、真面目で、礼儀正しい。兵助はそういう奴だと思ってたのに、竹谷は言った。『俺は兵助みたいにこそこそしたくないから』それを裏付けるみたいに、兵助は僕を避けようとする。そういえば昨日も今日も、一度も兵助の姿を見なかった。こそこそと影で何をしているんだろう。
 そんなつもりはなかったけれど、睨むような目になっていたかもしれない。兵助はぴしりと背筋を伸ばした。
「あ、いいえ!そんな、そんなつもりじゃなくて、あの、ええと」
「……とりあえず、お風呂で湯冷めするのもなんだから、湯船に浸かろうよ」
「はあ……」
 言えば、兵助はその場に沈んだ。顔だけが異様に赤い。僕の視線が気になるのか、お湯に沈めてしまいそうなくらい、顔を伏せた。
「あの」
 細い、蚊の鳴くような声で、兵助は水面に向かって話しているみたいだった。
「欲しくない、と言えば、嘘になります。ですが、六年生の方々を差し置いて、俺がそう思うなんて、差し出がましいことだと、自分でも、それは分かってて」
 思う、どころか、竹谷なんて口に出してはっきり言ったのに。なんだか僕は兵助がいじらしくなってきた。
 影でこそこそしてると聞いたら、いい気持ちじゃなかったけれど。この真面目で奥床しい兵助が、そんな仙蔵みたいに、何かを企むなんてこと、ある訳ないのかもしれない。
「だけどもし、伊作先輩がアミダくじで決めるというなら、あの場にいた者、ということで俺も数に入っていて、十分の一でも可能性があるなら。それって大きい、というかゼロではないということなら、希望を持ってもいいんだろうかと。ありえないって、ちゃんと分かってるんですけど!」
 見れば、水面からはみ出た肩が、細かく震えている。僕は気の毒になって「兵助」と声をかけた。
「分かってるんですけど……それでも、期待してしまう自分が浅ましくて。みっともないから、だから、しばらく伊作先輩にはお目にかからないようにしようと。それで、こそこそ隠れまわってて……それがかえってお気に障ったようでしたら、申し訳ありません」
 ここが湯船だから不可能だけど、兵助は手をついて謝りかねない勢いだった。
「ごめん」
 僕も兵助のように項垂れて、水面すれすれまで面を伏せた。
「え……?」
「僕が誤解してた。兵助が何か、僕を避けなきゃいけないようなことを企んでるのかと思ってたんだ。兵助に限って、そんなことある訳ないのにね。ごめん。悪かったね」
「あ、いえ、そんな」
 顔を上げれば、狼狽しきった兵助がそこにいた。意味もなく手をばたばたさせて、お湯をはねかしては、腕を沈める。
「元はと言えば、俺が、先輩を避けてこそこそしてたのが悪いんですから。先輩は何も悪くありません。謝ることありませんよ」 
「でもなんだか、いじめちゃったみたいだし」
「そんなこと……!」
 目が合えば、兵助は耐えられないというようにくるりと顔を背けた。その後で手を顔で覆い、「す、すみません」と声が上がる。
「……いいけど」
 なんだか無性に動揺しているらしい。落ち着くまで待つことにして、僕は湯船の中で伸びをした。
「あのさ。そんなに思いつめないで、アミダくじに当たったらラッキー、くらいに思っといてよ」
「はあ……」
 本当を言えば、まだアミダくじにするかどうか決めきってはいないのだけれども。なんだか他に、どうしようもないような気がしてきた。
 それにしても。仙蔵の始めた賭けは、結構回りに波紋を及ぼしているようだった。


「……と、いうことが昨日あってさ」
「うむ」
「どうしたもんかなあ」
 口をあけたついでに、ごはんの大きな塊を箸で口に運ぶと、文次郎はちらりと僕に目を走らせた。
「どうにかするのか?」
「んー……」
 咀嚼中で返事出来ない、という以上に、なんと言えばいいのか。僕は口の中でゆっくりごはんを噛んだ。
 今日は珍しく、お昼前の授業が早めに終わった。昨日の修繕箇所を見てくると言った留三郎を置いて食堂に来てみれば、早めにお昼を済ませる先生方に混じって文次郎が一人でいたので、前に座って一緒にお昼を食べていた。今日は焼き魚定食。
「でもさ。竹谷も兵助も、チョコの行方が気になるみたいだし。あんまり振り回すのも可哀想だし」
「ならさっさと誰に渡すか決めて、渡しちまえ」
「そうすると、仙蔵が怒らない?」
「仙蔵が気になるんなら、腹くくって十四日まで待て」
「うーむ……」
 確かに、文次郎の言ってることは正しい。仙蔵の賭けに僕は乗らされてしまっているのだから、今更どうしようもない。どうにかしようと思ったら、賭けから逸脱するしかない。
「仙蔵って、何考えてるのかな」
 魚をほぐしながら、ふと思いついて顔をあげた。
「もしかして、仙蔵って、僕が絶対仙蔵にチョコ渡す、って自信あるのかな」
「さあ。どうだろうな」
 しかし、返ってきたのは気のない声。文次郎は味噌汁をすすり上げた。
「でもさ、それだと、みんなの前で僕が仙蔵にチョコ渡して、仙蔵の一人勝ちっていうか、なんか、そういう感じになるんじゃないの?」
「あいつが言い出しっぺなんだぜ。ルール決めた奴の一人勝ちじゃ、ちょっとそいつは賭けとして面白くねえんじゃねえか」
「うーん」
 確かにそうだ。でも、あの仙蔵が勝ち目のない賭けなんかするだろうか。仙蔵はどうするつもりなんだろう。僕が誰を選ぶと思ってるんだろう。
「……何だよ」
 魚をほぼ平らげたところで、一つの可能性に気が付いた。ついつい、隈の浮いた顔をまじまじ見つめてしまう。
「もし、仙蔵が、自分にチョコが渡されると思ってるのならさ。僕が文次郎にあげたりしたら、かなりショック大きいんじゃない?」
「は?」
 あり得る。当然自分に来ると思っていたものが他所へ行くとそれだけでがっかりだけど、身近な人、自分により近しいところに行くともっとがっかりかもしれない。
「そっかー。仙蔵の鼻を明かすためには、文次郎に渡すっていうのもアリかも!」
「おまえな……」
 今まで仙蔵に振り回されっぱなしだったけど、これで一矢報いることが出来るかも。そう思って僕は浮かれたけれど、文次郎は似合わない溜息をついた。
「だから、仙蔵は自分に来るとは考えてないかもしれないつっただろうが、このバカタレ」
「えー」
 久しぶりに文次郎のバカタレが出て、僕は浮かれていた気持ちが一気に落ち込んだ。魚の頭をお箸で突付く。
「じゃあさ、仙蔵は何を目論んでるの。僕がどうすると思ってるの。で、それが仙蔵にとってどんな意味があるの」
「さあな」
 愚痴っぽく呟けば、気のない相槌を返して文次郎はごはんをかき込んだ。
 しばらく沈黙が続いた。八割くらい食べ終わったところで、文次郎が「多分」と呟いた。
「もしかしたら、仙蔵は勝つつもりはないのかもしれん」
「へ?」
 勝つつもりがない?それってどういうことだろう。負け戦なんて仙蔵に似合わない。とはいえ、この場合、勝ちって、誰に勝つことなんだろう。
「それって、どういうこと?」
「だから。さほど大層なことは考えてないんじゃないか、ってことだ」
 大層なこと。ただでさえ僕が誰かにチョコを渡すという些細なことなのに。それが『大層』じゃないと言われても、なんだかぴんと来ない。
 何だろう。仙蔵が何を考えているかも不明だけど、文次郎の言葉もまたよく分からない。頭を抱えていると、ばたばたと軽い足音がした。
「伊作先輩!いた、良かった」
 食堂に駆け込んできたのは数馬だった。いきせき込んで、僕のいるところまで駆けてくる。
「お食事中すみません。至急、医務室へ来てもらってもいいですか」
「どうしたの、怪我人?」
「はい」
 確か今日は新野先生が出張で不在だ。僕はお味噌汁に残ったご飯をぶち込んで、猫まんまにしてかき込んだ。
 ごちそうさま、と手を合わせて立ち上がりかけたら、文次郎がぼそりと呟いた。
「だがもし、お前がどうしても仙蔵に一矢報いるってんなら……チョコ、受け取ってやってもいいぞ」
「へ?」
 受け取ってやってもいい、とは随分偉そうな物言いだな、と一瞬思ったけれど。
 よく考えれば、仙蔵への意趣返しのためだけに、人にチョコをあげようという僕の方が間違っている。バレンタインに、多少なりとも気持ちを込めて渡すなら、そんな受け取る相手のことを無視した理由で渡したりしちゃいけないんだ。僕は文次郎に甘えてた。
 なのに文次郎は受け取ってもいいって言ってくれた。ぶっきらぼうに、僕から目をそらしたまま、ぼそっと呟くように言うのも、文次郎の優しさだ。
「うん。でもやっぱいいや。ありがと!」
 でも、今は医務室で怪我人が待ってる。ごめんとか弁解してる暇はない。代わりににっこり笑うと、お盆を持って、慌ただしくその場を離れた。


 ずるっ……どさ、ばたばた、ずるっ、どん、どん、ばた。
 夕飯後、お風呂でも行くかと部屋で準備していたら、何やら不穏な足音が聞こえた。
 医務室はもう閉まってる。そうでなくても上級生は、怪我をした時、医務室よりもうちの部屋へよく来る。後輩たちも頻繁に出入りする医務室で、怪我や病気といった弱みを見せたくないのだろう。薬箪笥が充実していることもあって、五年生や六年生は、具合の悪いときにうちの部屋へ来ることが多かった。そのせいでうちは溜まり場になることが多いのだけれど、まあ、それは別にいいとして。
 廊下の不穏な足音も、そういった訪れを予感させた。ふらつきながら無理に歩こうとしているような。
 いったい誰がどうしたのか。こんな足音では判別出来ず、とりあえず廊下に出てみようと障子を開けたところで、何かが倒れ込んできた。
「わあ!」
「いさ……く、せんぱい……」
 とっさに抱き止めれば、鉢屋だった。雷蔵の顔に苦悶の表情を浮かべて、すがるように僕の腕を掴む。
「鉢屋、どうしたの」
 制服に汚れや乱れはない。血の匂いもしない。外傷はなさそうだ。僕は半ば引きずるようにして、鉢屋を部屋の中へ入れた。床に座らせる。鉢屋はお腹を押さえてうずくまった。
「お腹痛いの?」
 押さえているのは鳩尾のあたり。胃だろうかと思っていたら、鉢屋が僕にしがみついた。
「せん……ぱい……チョコ……」
「は?」
 うずくまったまま抱きつくようにしがみつく鉢屋の顔を見れば、青白い顔に冷や汗が滴っている。
「チョコ食べれば治ります……だから」
 そんな病気があるだろうか。とりあえず体調をみようと額で熱を計ったり脈を取ったりしたいのだけれど、鉢屋は僕の袖にしがみついて、腕が動かない。
「先輩、お願いです……」
 苦しげな息、痛みに喘ぐ口元、辛そうにすがむ目。いかにも苦しそうだけど、こんな演技、鉢屋にしてみれば朝飯前だ。
 つまり、鉢屋もチョコ、欲しいのかなあ。僕は試しに言ってみた。
「新野先生に渡す方ならあげてもいいけど」
「……だから、なんでそうなるんですか!」
 苦しいはずの鉢屋は、勢いよく顔を上げた。丸い目はきっぱりと僕をにらみつける。
「なんだ、やっぱり元気そうだね」
「俺のことはいいんですよっ!なんで新野先生に渡す方のチョコをあげちゃうんですか。普通、逆でしょう!?」
 腕を組んで、むすっとした表情で僕を睨みつける鉢屋は、もう青ざめた顔色なんてしてない。むしろ怒りのために赤くなって血色がいい。体調は悪くなさそうだ。万が一のことも考えていただけに、ちょっとほっとした。
「……なんでそこまで、立花先輩に義理立てするんですか」
 しかし、鉢屋の怒りはおさまらないらしい。相変わらず、こちらを睨んでくる。雷蔵が愛嬌のある顔をしているだけにそんなに迫力はないけれど、鉢屋は結構ちゃんとご立腹のようだった。
「今のはまあ、仮病だった訳ですけど。本当に誰か病気になって、治療のためにどうしてもチョコレートが必要だ、ってことになったら、チョコくれるんじゃないか、って話をしてたんですよ」
「へえ」
 五年生たちはそんなことを相談してたのか。たかだかチョコに、相変わらずチームワークのいいことだ。
「ただし、新野先生に渡す方をくれるんじゃないか、って。……読みは大当たりでしたね。なんで立花先輩の方をくれないんですか。新野先生より立花先輩の方が大事なんですか」
「どっちか、なんて比べようもないんだけど」
 そりゃあ、友人の一人である仙蔵と、生涯の師匠である新野先生を比べたら、新野先生の方に軍配があがるに決まってる。が、しかし、ものはチョコレートだ。
「とりあえず今回は、実習長引いたら、バレンタインどころじゃなかったしさ。新野先生にも、差し上げることが出来たらいいな、くらいの気持ちだっただけで。別に渡せなくてもしょうがないし、新野先生も期待されてないと思うし」
 多分、西洋菓子はあんまりお好きじゃないんじゃないかなあ。そんな風に言えば、鉢屋は、むっつりと押し黙った。
「それに、仙蔵には実習で世話になったからさ。もし、帰り道で団子でも奢れって言われたら、奢ってたと思う。その程度のもんだよ。義理立てとかそういうんじゃないけど、仙蔵がなんか遊びたいようなら、付き合ってもいいかな、くらいの」
 僕は机の上に並べられた、二つのチョコの包みを見やった。
「みんなも結構、ノリノリだったじゃない」
「まあ、チョコもらえるかもって聞いた時は、燃えましたけどね」
 鉢屋は一呼吸置いてから、はああああ、と長くため息をついた。
「伊作先輩って、ほんっと、忍者に向いてませんよね」
「あ、そう?」
 僕が忍者に向いてるか向いてないかはともかく、なんでここで忍者に向いてるとかいう話になるんだろう。首を傾げていると、鉢屋は思いがけないことを呟いた。
「ま、もっとも、俺も向いてないんですけどね。あいつらも」
「……なんで?」
 僕が忍者に向いてない、っていうのは、たまによく言われることだ。だからそれはいいとして、なんで鉢屋が向いてないんだろう。変装名人で、武芸十八般に秀でて、術では六年生に勝るとも劣らないと言われる鉢屋が。
「なんで鉢屋が、忍者にむいてないのさ」
 心持ち膝を進めて顔をのぞき込めば、雷蔵の顔はふいと余所を向いた。
「だってこれって忍務でしょう。伊作先輩が自分にチョコを渡すようにし向ける、ないしは、チョコをくれる約束を取り付ける、っていう」
 僕はぱちぱちと瞬きしながら、鉢屋の横顔を見つめた。
 成程、そういう考え方もあるのか。
 目から鱗が落ちたと思った。もしかして、仙蔵が企みもその辺りにある?みんなの出方を見て、実力を計ってるとか。……いやしかし、忍びのワザと言うには竹谷はストレートすぎるし、兵助は奥手すぎるし、六年はほとんどアプローチして来ないし。どうなんだろう。
「忍務、ねえ」
「そう思えば、いろいろやりようもあると思うんですよ。でも、出来なかった。あいつらの協力も得られなかった。……先輩を罠にはめるようなやり口は、どうにも気が進まないんだそうですよ。ほんっとに、そんなお優しいことで忍者になんかなれるんですかねえ」
 つまらなさそうにそっぽを向いて話していたのが、最後だけちらりと僕の顔を見た。
 これは当てつけというか、皮肉というものかな。そう思ってると、鉢屋はいきなり「あーあっ!」と大きく伸びをした。
「それでも、こんな三文芝居しか打てない俺も同類かあ……」
 大きく伸びた分、反動で背中を丸めてうなだれている様子は、がっかり、という言葉を体言しているようで、なんだか気の毒だった。
 思わず、よしよしと頭をなでてやると、そっと手首を掴まれた。苦笑い、といった感じの顔が持ち上がる。
「伊作先輩。お願いがあります」
「何?」
 チョコをくれっていうのかな。この流れでそんなことを言われると、なんだか断りがたい。でも、鉢屋はそうは言わなかった。
「実を言えば、俺にチョコをもらえるとは、あんまり思ってないんですよ。最初っからそんなに期待してません。だから、俺はいいんです」
 まっすぐに僕の顔を見上げながら、鉢屋はふと真面目な表情になった。
「ただ、先輩が、誰にあげてもいいって思うんなら……アミダくじ作って引くくらいなら、雷蔵か八左ヱ門か兵助か勘右衛門か、誰でもいいから、あいつらにやってくれませんか」
「どうして?」
 掴んだ手首を離してくれるのかと思ったら、鉢屋は手のひらを滑らせて、僕の手を握った。
「なんかシャクなんですよ。六年生のとこに行くかと思うと、負けた気になる。でも、五年の誰かのところに行くんなら、俺じゃなくても、誰であっても、そうは思わない。ねえ先輩。チョコが欲しいのに、先輩を罠にかけるような真似は出来ないっていう、健気な奴らなんですよ。たまにはいい目をみさせてやって下さいよ」
 ぎゅ、と握られた手は意外と力強くて、健気なのは仲間思いの鉢屋じゃないかと思わせた。けど。
「……そういえば小平太も、そんなこと言ってたなあ」
「え」
 小平太、と聞いて、鉢屋の手がぱっと離れた。
「七松先輩が、なんて」
「六年だったら自分じゃなくても誰にあげても納得いくけど、五年生だったら納得いかない、ってなんかそんなことを言ってた」
「げー」
 雷蔵の顔が、何かもの凄く苦いものを飲み込んだ顔になった。舌まで出してる。
「俺、七松先輩と同じことしてるんですかあ?うっわあ、がっかりだなあ」
「そう?」
 何がそんなにがっかりなのか分からないけれど、鉢屋はそれが心底嫌そうだった。
 同じようなことを考える似たもの同士のくせに、うちの学年と五年生は、仲がいいのか悪いのか。
 ふてくされてる鉢屋の顔を見てる限りでは、ちょっと分かりそうになかった。


「あのー、すみません」
 鉢屋が、障子ごしにおずおずと声をかけてきたのは、翌日の朝だった。
「どうした」
 たまたま入り口近くにいた留三郎が障子を開ける。すると困ったような愛想笑いを浮かべた鉢屋が、「おはようございます」とぺこりと頭を下げた。
「すみません伊作先輩、朝っぱらから申し訳ないんですけど、ちょっと五年長屋に来ていただいていいですか」
「雷蔵がどうかした?」
「……はい」
 思いついたままを言ってみれば、図星のようだった。愛想笑いの、眉がひくりと跳ねる。
 ともあれ、僕を呼びに来るということは、怪我か病気か何かだ。昨日、僕を罠にはめるような真似は出来ないとかなんとか言ってたし。運良く今朝は早めに支度が済んだところなので、まだ授業までだいぶ間がある。
「顔が赤くてだるそうで。でも熱はあるんだかないんだか微妙な感じで。医務室行くほどのもんじゃないと本人は言うんですが……」
「うん、分かった」
 僕は手早く頭巾を被ると、留三郎を振り返った。
「ちょっと行って来る」
「おう。一時間目に遅れるなよ」
「うん」
 留三郎とコーちゃんに見送られて、僕は鉢屋と五年長屋へ急いだ。
 鉢屋と雷蔵の部屋に入ると、中には敷きっぱなしの布団があって、枕元に竹谷が座っていた。
「あ、伊作先輩。おはようございます。朝からすみません」
「おはよう。様子はどう?」
 竹谷の隣に座って布団を見れば、雷蔵は起き上がったところだった。
「ああ、いいよ。無理しないで寝てれば」
「いえ、そんな訳にも……わざわざすみません」
 ぺこりと頭を下げる雷蔵は、確かに顔が赤い。額と首の後ろに手のひらを当ててみると、平熱よりはやや温かい気もする。脈をとってみると、早いけれど力強く、深刻に具合の悪そうな感じはしない。
「食欲は?」
「あんまり……でも、食べられなくはないと思います」
「だるい?」
「はい。でも、大丈夫です」
「とか何とか言ってるんですけどね。この顔色だし、今日は一日休んでた方がいいと思うんですけど」
 そこで竹谷が口を挟んだ。確かに、風邪の引きはじめというか、あんまりちゃんとした病気という感じはしない。でも、風邪は万病のもと。今のうちに安静にして、大事を取るという手もある。
「今日の授業は?」
「全部、座学です。実技とかはありません」
「だから大丈夫だって言いやがるんですけれども……」
 鉢屋も横から雷蔵の顔を覗き込んだ。同じ組の二人は心配らしい。
「うーん、でも、それは雷蔵が決めることだよ」
 僕は正面から雷蔵の顔を覗き込んだ。
「熱はあると思うけど、大したことない。実技がないんだったら、授業も出られると思う。でも、自分の体の調子は、自分にしか分からない。成績のことも考えて、自分で決めるべきだよ」
 ひとたび忍者になってしまえば、任務次第では、風邪引いたから休みます、って訳にはいかない。不慮の怪我をすることもある。調子の悪いときも含めて、自分の体との付き合い方を知っておくべきだった。
 だから、僕の理屈は正しいのだけれども。
 傍らでは竹谷が微妙な笑顔を浮かべ、その向こうで鉢屋が何だか渋い顔をしている。
 もしかしたらこの二人が僕を呼んだのは、僕から雷蔵に休めって言って欲しかったからかもしれない。二人の表情を見て、なんとなく思った。
 でも、雷蔵の具合はそう悪くはなさそうだし。自分のことは自分で決めるようにするべきだ。僕がそう言い募ろうとしたら、ぼそぼそ呟く声が聞こえた。
「うーん……成績は多分大丈夫、あの進度なら次の単元には入らないだろうし……ああでもゆっくり進めてるってことは、それだけ重大な事柄だってことなんだよね。やっぱり授業に出るべき……でもここで無理して後で寝込んだりしたらそっちの方が困るし……でも体は辛くない。なのにだらだら寝てるなんて……でもやっぱだるいかな。熱っぽい感じするし。でもこのくらいなら大丈夫。授業に出るくらい出来る。だけど集中できないかも。集中して話聞けないんだったら、出ないで寝てた方がましかな……いやでも」
 そうか、迷い癖。雷蔵は迷い出すと止まらないんだった。今もぼそぼそ呟きながら頭を抱えて、全く結論が出そうにない。
「そりゃ授業には出る方がいいに決まってるけど、それでぼんやりしたり居眠りするんだったら……どうせ今日は授業どころじゃないし。かといって休んだらサボりみたいだし、それは嫌だな。ああでも授業は出た方がいいって。ちょっとでも聞いておいた方が……いやしかし」
 聞いてると僕の頭が痛くなりそうだった。なんだかこのまま迷わせていると、それだけで病気になりそうな気がする。ただの風邪の引きはじめが、本格的な風邪になりそうだ。
「雷蔵」
「……はっ、はい!」
 名前を呼ぶと、雷蔵はぼそぼそ呟くのをやめて背筋を伸ばした。
「今日は授業はやめて、おとなしく寝てなさい」
「はい……」
 きっぱりはっきりすっきりくっきり言い切れば、雷蔵はこくりと頷いた。
 勝手に休むことを決めたけれど、もともと成績優秀な雷蔵だ、一日や二日ずる休みしたって、差し障りはないだろう。
「すみません伊作先輩、わざわざ来てもらって……」
 そして済まなそうに頭を下げる。本当に雷蔵は、この迷い癖さえなければ優秀でいい奴なんだけどなあ。
「いいよ、気にしないで。それより、ちゃんと寝てるんだよ。今日はもうずっと、一日安静だからね。ちょっと具合が良くなっても、念のためにちゃんと寝てること」
 ほらほら、と僕は肩に手をかけて、雷蔵を寝かしつけた。ちゃんと布団もかけてやる。前髪が顔にかかってうっとおしそうだったから、そっとはらった。
「お昼休みにまた、様子を見に来るからね」
「……はい。ありがとうございます」
 横になると血の巡りのせいか、雷蔵の顔に赤みが増した。やっぱり今日は安静にしてた方がいいかもしれない。
「先輩、ありがとうございました」
「わざわざすみませんでしたね」
 竹谷と鉢屋もほっとした表情をしている。ううん、と僕は手を振ると、遅刻しないように教室まで駆けだした。


「あれ、伊作先輩」
 昼休み、寒風吹きすさぶ中庭を食堂から五年長屋へ向かって歩いていたら、後ろから声をかけられた。この声は勘右衛門。
「雷蔵のお見舞いですか?」
「うん、ちょっと様子を見にね」
 俺も行きます、と勘右衛門は小走りに寄ってくると、並んで歩きだした。
「熱が出たらしいですね」
「うん、まあそんなに大した熱じゃないんだけどね」
 午前中いっぱいちゃんと寝てたら、もうすっかり下がってるかもしれない。そう言おうかと思ったら、勘右衛門が先に言った。
「明日にはきっと治ってますよ」
「うん、そうだと思う」
「だってあいつのって、知恵熱だろうし」
「知恵熱?」
 なんで雷蔵が、と思ったけれど、朝のあの様子を見れば、何かに迷った雷蔵が知恵熱を出すことは充分あるように思えた。
 でも、今朝は授業に行く、行かないで迷ってたけれど、それは熱が出たからであって。じゃあ、雷蔵は何に迷って熱を出したんだろう。
「すっごく迷ってましたよ。伊作先輩のチョコのこと気にして」
「へ?」
 仙蔵が言い出した、あれ。そういえば今日がバレンタイン当日だった。今日の夕方、僕は誰かにチョコを渡さなければならない、のだけれども。
「八左ヱ門みたいに堂々と欲しいって言いに行くか、兵助みたいに先輩の目につかないように隠れ回るか。それだけでも滅茶苦茶迷ってましたが、伊作先輩の目につかないようにすると本当全然会わなくなってそれはそれで寂しい、とか。でも偶然会っちゃったら何を言えばいいのか、とか。なんだか色々気にして」
「へえ……」
 それは迷ってるというか、気を回しすぎなんだというか。それにしても、チョコ一つで熱まで出しちゃうとは。雷蔵の迷い癖がキツすぎるのか、チョコに対する思い入れが強すぎるのか。
「なんかみんな、チョコ欲しいみたいだね。そんなに甘いものに飢えてるのかな」
 みんなが欲しいのに、誰か一人を選ばなきゃいけない。その事実がなんだか重く感じて、冗談っぽく軽く言ってみたら、あっさり「違いますよー」と返された。
「そりゃまあみんな甘いもの好きですけど、でも、今回は違いますよ。伊作先輩のチョコだから、欲しいんですよ」
「……え?」
 僕のチョコ、だから?それってどういうことだろう。顔を見れば、勘右衛門は、ちょっとバツが悪そうに頬を掻いた。
「いやそりゃ確かに、新野先生にあげようと思うほど上等なチョコ、っていうのにも興味ありましたけど、やっぱそれだけじゃなくて。伊作先輩から直接もらえる、ってのが嬉しいって言うかなんていうか」
 いつの間にか二人とも足が止まっていた。立ち止まる二人の間を、冷たい風が吹き抜けていく。指先で掻いてた頬をほんのり赤くして、勘右衛門はまっすぐ僕の顔を見ていた。
「みんな、伊作先輩のことが好きなんですよ。……もちろん俺も、ですけど」
 そう言って、はにかむように笑う。えへへ、とか照れた笑い声が僕に届いた時、何故か勘右衛門の後ろから突然、兵助が現れて、勘右衛門の首根っこを掴んだ。
「こら!お前なに言……あ、先輩すみません、こいつのことは気にしないで」
 兵助は僕と勘右衛門の間に体をねじ込むと、後じさって、僕から勘右衛門を遠ざけようとした。
「なんか時々、変なこと口走るんですよ。嫌ですね天然で。本当すみません、気にしないで下さい!」
「なんだよ兵助ー」
 いきなり首根っこを掴まれてしかも話しに割り込まれて、文句を言おうとした勘右衛門の口を、何故か兵助はがっしりと手のひらで覆った。口を掴む、と言った方がいいような強引さだった。
「いやどうも、すみませんでした。忘れて下さい。それじゃあまた、後ほど!」
 にっこり笑ったこめかみに、一筋の汗。そしてそのままずるずると勘右衛門を引きずって、遠ざかっていく。僕はどう反応していいのか、その姿が渡り廊下に消えるまで、見送ることしか出来なかった。
 一体、今のはなんだったのか。なんだか嫌な感じが胸にせりあがって、頭が考えることを拒否している。
 雷蔵の様子を見に行くんだった。そう気がついた時、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
 授業に出なくちゃ。でも僕は反射的に、校舎棟でも五年長屋でもない方向に駆け出していた。


 困ったり悩んだり、どうしていいか分からなくなった時、医務室以外に駆け込む場所がある。そこへ行けば、相談できる相手がいる。話したくなければ、ゆっくり放っておいて、心ゆくまで一人にさせてくれる。心落ち着く、大事な場所だった。
 そこでは騒がしくすることは許されない。だから、扉はそっと開いた。でも、少しくらいの音はたつ。僕が中へ入れば、この部屋の主は、読みかけの本から顔をあげた。
「授業は」
「午前中、自習だったから。午後も多分」
 そうか、と一つ頷く。この時期、卒業試験の準備とかあるらしくて、授業はあまりない。長次のクラスも同様なのだろう、午後の鐘が鳴ったというのに、まだ図書室にいるんだから。
 僕は長次の座る貸出机の前の、閲覧用の机の前に腰をおろした。きっちり正座で座る気分になれなくて、膝を抱える。
 図書室に来たのに本を読もうともしない僕に何かを感じたのか、しばらく長次の視線を感じた。僕も長次に何か相談したかった。でも何と言えばいいのか、何を相談すればいいのか。分からずに膝を抱えてうずくまっていると、やがて視線もやんだ。ページをめくる音がして、長次の関心は読みかけの本に戻ったらしい。
 はらり。……はらり、……はらり。
 長い間を置いて繰り返される、かすかな優しい音。何度かその音を聞いているうちに、ようやく僕の心も静まってきた。落ち着いて穏やかな気持ちになってみれば、さっきまで自分がひどく動揺していたのがよく分かる。
「勘右衛門がね」
 何度目かの、はらり、に合わせて口を開いてみた。読書の邪魔したら悪いかな、と急に思いついて顔をあげれば、長次と目が合った。
 話しをしてもいいんだ、そう思うと少し気楽になって、僕は続けた。
「勘右衛門が言ったんだ。みんな、僕のことが好きなんだ、って。そしたら血相を変えた兵助が飛んできて、気にしないで下さいね、って、勘右衛門を抱えて逃げて」
 逃げる。そうだ、兵助は逃げたんだ、あの場から。逃げるように去っていった。
「それってどういうことなのかなあ」
 好き、って。そりゃ僕も五年生たちのことが好きだ。みんな先輩思いのいい子たちで。同級生のことも好きだ。欠点もあるけどみんないい奴で。四年以下の後輩達も、先生方も、食堂のおばちゃんも、みんなみんな、この忍術学園のことが大好きだ。
 でも、勘右衛門の言った『好き』は、それとはちょっと違うんじゃないだろうか。でなきゃ、兵助が血相変えて飛んで来たり、無理やり連れて逃げたりする必要はない。勘右衛門の言った『好き』は、もうちょっと特別な意味の『好き』じゃないだろうか。
「僕、みんなに好かれてるのかな」
 そりゃもちろん、嫌われるより好かれたい。嫌な奴だと思われるよりは、好きだと、いい奴だと思ってもらいたい。
 でも、そんな特別に好きだと思われるほど、僕は大した奴ではなくて。光栄なんだけれど荷が重いというか。みんなのことが好きだから、尊敬してるから、余計に信じられなくて。
 しかも。
 しかも、仙蔵があんなことを言い出して、なのに僕は決められないでいるのだ。
「僕は、みんなのことを、もてあそんだのかな」
 そんなつもりはなかった。ただの遊びだと、ゲームだと思ってたから。でも、もし、ちょっとでも僕に、特別な『好き』って感情をもってくれていたなら。チョコ欲しい?この一言が、どんなにみんなの気持ちを揺らしただろう。からかうつもりなんて無かった、もてあそぶつもりなんて無かったのに。避けようとした兵助をわざと捕まえたり、雷蔵を発熱するくらい追い詰めたりして。
「……伊作は」
 不意に発せられた声にびっくりして顔をあげて、僕は自分が膝に顔を押し当てていたことを知った。結構力を入れて押し付けていたようで、不自然な姿勢を強いられてたらしい首や背中が痛い。
「忍者に、なるのか?」
 声の主は、いつもと変わらぬ調子で、もそりと呟いた。表情は淡々として、天気の話でもしてるみたいだったけれど、それは僕にとっては、重要なことだった。
 どうして今こんなことを聞くのか。分からない。でも、無口な長次が前後の文脈を無視してでも聞いてくるなら、答える必要があるのだろう。僕は、真剣な今の気持ちを答えた。
「……分からない。でも多分、ならない」
 忍者を、忍びの仕事をする者、と捉えるならば。僕はどの城にも属するつもりはなかったし、フリーの忍者として自分で忍びの仕事を取ってこようという気概もなかった。かといって、医者になるほどの知識も腕前もない。ただ、合戦場に行って、無駄に死にそうになっている命を救うことが出来たらいい。それだけが僕の希望する生き方だった。そのためには、ただ食べていければいいから、忍びの仕事である必要は無い。
 確かなのは、僕は怪我人を見ると放っておけない、ということだった。保健委員として放っておけない。この本能にも似た衝動は、卒業しても変わらないだろう。元保健委員として、に変わるだけだ。
 でも、僕だって一応、一人前の忍者になるために、この学園に入学した筈だった。六年かけて忍びの術を一渡り習得しておいて、そんな結論でいいのか、と思うと空しい。本当にそれでいいのかと思う。逡巡する気持ちを抱えて、でも、心は忍者を諦める方向に傾きかけていた。
 僕がそう告げると、何故か長次は納得したように、深く頷いた。
「だから、いい」
「……だからって、何が?」
 六年も同じ学校で一緒に学んで、長次は僕が忍者にならなくても平気なんだろうか。長次はいい奴だから、馬鹿にしたり見下したりはしないとしても、自分の勉強を否定されたような、嫌な気持ちにならないだろうか。
 しかし僕の心配を他所に、長次はおもむろに口を開いた。
「伊作が忍者にならないから。我々と競う必要もないし、敵対する心配もなくて済む」
「競う、必要?」
 鸚鵡返しに問えば、こくりと頷いた。みんなそんなに競ったりしてるんだろうか。
 ああでも、よく考えれば、分からなくはない。長次や文次郎や小平太は、いつも鍛錬に明け暮れている。仙蔵も留三郎も、自分を鍛えることに容赦ない。それは自分を磨くことだけれど、人に先んじることでもある、のかもしれない。
 僕はいつも、夜間演習や朝練に置いていかれる。みんなが鍛錬している間、医務室や自室で薬を調合している。予算が少ないんだから仕方ないと思っていたけれど、みんなはそんな僕をどう思っていたのだろう。
 長次の顔を見れば、眉間に縦皺が寄っている。真剣な目が、それでいいんだ、と言っている。
 そうだ。敵対する心配もない、と長次は言った。忍者になるみんなは、多分どこかの城に属するようになる。みなそれぞれに地縁や血縁があるんだから、きっとバラバラになる。そうしたら、いずれ敵対する可能性もあるかもしれない。でも、忍びにならない僕には、その可能性はない。
「だから、素直に好意を寄せることが出来る」 
 今から将来のことを考えて、友達付き合いを減らさなきゃならないなんてあんまりだけれど。でもみんな、僕にだけは、その心配なく友達付き合い出来る、ってことかもしれない。
 そしてその理屈は、五年生にも通じる。五年生が、学年対抗戦の度に六年に敵対心を燃やすのは、やっぱり競い合う相手だと思ってるからだ。優秀な五年生たちみんなは、いずれ忍びとしてこの学校を巣立っていく。そうしたら、たとえ先輩といえども、馴れ合うようなことはしたくないのかもしれない。忍びにならない、僕を除けば。
「だから、みんな僕を好いてくれるんだ?」
「おそらく」
 人の気持ちのことだから、断定は避けたようだけれども。長次のその言葉が出たら、僕には太鼓判を押してもらったのと同じだった。
「そっか」
 好き、っていうのはそういうこと。何もそんなに特別な気持ちという訳じゃないんだ。
 ただ僕の立場が、あまりにも特殊過ぎるだけで。
 そう思えば、忍びにならない選択も、いいもののように思えてきた。そのせいで、友達付き合いを制限しなくていいっていうなら。思う存分、仲良くしていいんなら。僕がみんなの好きって気持ちを繋げていけるなら。その方がいい。無理に忍びの仕事を請け負うよりも、僕には合ってる。
「そっか。そうなんだ」
 図書室に来た時には、抱えきれないほど重っ苦しかった気持ちが、すっかり軽くなっていた。忍びにならない、それでいいのかと悩んでいた気持ちまでも、解決してもらったのだから。
「ありがとう、長次!」
 嬉しくなってにっこり笑いかければ、長次は眉間の皺を深くして、何事もなかったかのように、手元の本に視線を戻した。


 鼻歌でも歌いたい気分で障子を開けると、部屋の中には留三郎がいた。
「あれ、留三郎、授業は?」
「そういう伊作こそ、どこ行ってたんだよ」
 手裏剣を磨いていたのかな、振り向いた手元には、八方手裏剣と厚手の布がある。そろそろ午後の授業が終わって、委員会が始まろうという時間だった。
「自習だったからいいけどさ。サボるんならせめてそう言っとけよ。一人で自習してんのも空しいし」
「そうだね、ごめん」
 一人で自習が空しいから、部屋に戻って手裏剣磨いてたのかな。なんだか僕としては、一人部屋に籠もって忍具を磨くのも空しいような気がするけれども、留三郎はそうじゃないのだ。いつも楽しそうに用具の手入れをしている。手裏剣とか磨いてると、無心の境地に入れるらしい。さすが用具委員長だなあ、と、いつも思う。
「ちょっと図書室でさ、長次と話してたんだ」
「ふうん」
 僕が悩みを抱えている時、図書室に行く癖を留三郎は知ってる。今も、これだけで何かを察してくれたのかもしれない。それとも関心がないだけなのか、同室の友人の相槌はそっけない。
 衝立を回って、文机の前に座った。傍の行李から、上等な包みを取り出す。ずっと僕を悩ませ続けたこれ。もう、いっぺんに解決しちゃってもいいかもしれない。
「だからか?なんかご機嫌だな」
「へへ、そう見える?」
 そりゃそうかもしれない。これまでの悩みが片付いて、今現在の問題も解決しちゃったのだとしたら。ご機嫌にもなろうってもんだ。
「つーかそれ、誰にあげるか決めたのか?」
 いつの間にか、衝立まで寄ってきた留三郎が、僕の手元を覗いていた。二つならんだチョコの包み。
「うん!……長次にさ、渡そうと思って」
「へえ」
「いつも悩みとか聞いてもらって、凄く世話になってるし。感謝っていうかさ」
 本当に、長次にはいつも助けてもらってる。本当にありがたいと思ってるし、感謝の気持ちを伝える、これはいい機会かもしれない。
 それに、何となく、長次ならみんなも納得してくれるんじゃないかな、と思った。仙蔵だって、長次には一目置いてる感じがある。仙蔵が、僕が誰にあげると予想してるか知らないけど、長次なら、文句ないんじゃないかと思う。
 これで決まりだ。そう思って、僕はうんうんと頷いていたのだけれど。
「凄く世話したってんなら、俺のほうがお前の世話をしてたと思うけどな」
 不意にそんなことを言われて振り向いて顔を見れば、同室の友人は、そうだろう?と言わんばかりににやりと笑う。
「……確かに」
 同じクラスで、同じ部屋で、ずっと一緒にいた。これまでいろんな目にあったけれども、ことごとく留三郎に助けてもらってた気がする。同室なんだから、たまには僕の方が世話をすることがあったとしても、やっぱり、僕が留三郎に世話になってる分の方が多いと思う。そして僕の不運に、どれだけ留三郎を巻き込んだか。
 そう思えば、留三郎には感謝するだけじゃなく、頭が上がらないというか。
 と、いうことは、このチョコレートは、留三郎にあげるべきなんだろうか。せっかくの決意が揺らぎだした。でも、浮かれ気分の上機嫌が収まって、じっくり考えてみれば。
 ……そう、かもしれない。
 長次がピンポイントで僕の苦しいときに助けてくれるとしても、総量で考えれば、やっぱり留三郎の方がより多く世話になってるような気がする。同級で、長屋でも同室で、一番僕に近いところに居るってことで、みんなも納得するだろうし……。
 長次には申し訳ないけれど、チョコあげるとか本人には何も言ってないし。やっぱりここは留三郎にするべきかな。二つの包みを睨みつけていると、ふと、気配が衝立の傍を離れた。
「ま、お前には、俺なんかよりずっと頼りにしてる仲間がいると思うけどな」
「……へ?」
 もといた位置に戻って、ちらりとこちらを見る。その顔が笑っている。そしてそのまま、手裏剣磨きを再開する。
 僕が、留三郎より頼りにしてる仲間?
 文脈からして、長次ではない、ような気がする。おそらく。
 じゃあ一体誰だ。留三郎は本当に面倒見がよくて、物凄く世話になってて、とても頼りがいがあるし、頼りにしてるのに。この学園で、一番信頼出来る人は誰かと問われたら、留三郎と即答するくらい、信頼してるのに。
 その留三郎よりも、僕が頼りにしてるって?
「誰のこと?」
「さあな」
 留三郎は手裏剣磨きに没頭し始めたらしくって、もう生返事以外返ってきそうになかった。


 日が傾き始めると、途端に寒さが身にこたえる。そういう季節だけれど、うちの部屋は暖かかった。夕飯を食べ終わってなんとなく体が温まってるというのもあるし、火鉢もある。でも、六年全員と、五年のほぼ全員が集まってるから、という理由が最たるものだろう。
 僕の隣に座った仙蔵は、僕の膝の上にあるチョコの包みを見た。
「新野先生には、もう差し上げたのか?」
「うん。委員会の時にね、持っていった」
 決めていた訳じゃないけど今日は全員医務室にいて、新野先生も出張の予定とかはなく、普通に医務室にいてくれた。だから、医務室をそろそろ閉めようかという時に、そっと渡した。
「せっかくだからみんなで食べましょう、ということになって、僕もお相伴に預かったんだけどね。このチョコ、美味しかったよ」
 でも、僕がそう言うと、仙蔵は長い指で眉間を押さえた。
「……お前は、新野先生に、差し上げたかったんだろう?」
 保健委員会全体に配りたかった訳ではあるまいに。仙蔵はそう言いたかったんだろう。僕もそう思わないではない。新野先生にだけ、食べていただきたかったのだけれど。
「でも、後輩達が美味しそうにチョコ食べるのを、本当に嬉しそうに見ておられてさ。結果として先生に喜んでいただけたのなら、誰の口に入ったかは、どうでもいいと思ったんだ」
 仙蔵が薦めてくれただけあって、本当に美味しいチョコだった。ありがとね。そう言うと、苦い顔が苦笑いになった。
「まったくお前は」
「おめでたい奴だって言いたいんだろう?」
「おめでたい上に人がいい。まったく忍者に向いていないな、伊作は」
 言葉を交わしながら、苦笑いから苦味が抜けていく。それを見てると、忍者に向いてない自分もいいかもしれない、と思えてくるから不思議だ。これも僕がおめでたいせいかな。
 なんて呑気に思ってると、ばたばたと廊下で足音がした。
「五年ろ組、鉢屋三郎です」
「同じく、不破雷蔵です。……遅くなってすみません」
 相次いで入ってきたのは、五年ろ組の名物コンビ。雷蔵は寝てたんだろうに、きっちり制服を着こんで、頭巾までしていた。
「雷蔵、具合どう?無理して起きてこなくてもよかったのに」
「あ、いえ、もともと大したことありませんから。大丈夫です。お気遣いなく」
 それに、どうしても気になったし、と小さく口の中で呟きながら、鉢屋が見つけたスペースに、二人して納まる。
「さて、これで全員かな」
 わざとらしく仙蔵が部屋全体を見渡す。僕の隣に仙蔵、その向こうに文次郎。反対の壁際に小平太と長次がいて、更に奥の自分の文机の前に留三郎。その六年生たちに囲まれるようにして、五年生たち五人が、居心地悪そうに座っていた。
「では伊作」
 部屋を見渡していた仙蔵がくるりとこちらを向けば、そのさらさらの髪が一瞬遅れて仙蔵に従う。全員の視線がこちらに集中しているのを、おそらく仙蔵も意識しているだろう。
「賭けの刻限だ。……そのチョコレートを誰に渡すか、もう決めたか?」
「うん。決めたよ」
 さらりと答えれば、息を詰めた気配がつのる。みんなの期待や視線がそこに集まってるような気がして、僕は膝の上をちょっとくすぐったく感じた。
「ほう」
「で、もうその人に差し上げた」
 そう、僕が言えば、部屋の中からは「へ?」とか「何?」とか「ええ?」とか、疑問に満ちた小さな声がいくつもあがった。
「ふむ。では、その膝の上の包みは何だ」
 確かに、みんなが疑問に思うのも無理はないだろう。もう誰かにあげたんだとしたら、今この場になくて当然だ。でもその、無くて当然のチョコが、僕の膝の上にあるんだから。
 しかし、仙蔵は至って冷静な様子で、僕の膝の上の包みを指した。
「うん、その人に差し上げたんだけどね。差し上げて、受け取ってくれたんだけど、自分には消化器官がないから、代わりに食べて欲しい、って、僕にくれたんだ」
「消化器官……?」
 五年の誰かが鸚鵡返しに呟く。そのうちに「あ!」という叫び声があがった。
「コーちゃん!?」
 中腰になった勘右衛門が指さした先。いつもの通り、廊下を向いて立っている、僕の大事な骨格標本のコーちゃんがいた。
「つまり伊作。お前はコーちゃんにチョコをあげたんだな」
「その通り」
 僕が留三郎より頼りにする仲間。ここにいる誰よりも、僕に近しい存在。
 六年生と五年生の中で誰か一人、なんて、選べるはずがなかった。みんな大好きで大事な、かけがえのない仲間だから。でも、コーちゃんは違う。もはや生きてないんだから当たり前といえばそうなんだけど、みんなとは大事さが一段階違う。
 みんなの視線がコーちゃんに向かう。僕の大事な骨格標本は、いつも忍者服を着て、衝立越しに外を見ている。あの日も当然、この部屋で僕の帰りを迎えてくれたし、今もいつも通り、みんなに横顔を見せながら、入り口を向いて立っている。
「仙蔵は、この場にいる者にしてくれ、って言ったよね。あの時コーちゃんも、この部屋にいたよ。だから、コーちゃんでもいい筈だ」
 僕にとってコーちゃんは、仲間というより相棒だ。でも、他の人にはただの不気味なモノにしか見えないらしい。仙蔵もそうだろうか。人ではないから駄目と言うだろうか。ちょっとドキドキしながら言いつのると。
 仙蔵の薄い唇が、笑みの形に釣りあがる。目を伏せてそっと微笑んだ……?
「そうだな。もちろん、コーちゃんでも構わない」
 目を開けて、にこやかに笑む。何だろう、意表をつかれたり、目論見が破れた表情じゃない。むしろすっきり晴れ晴れとした、我が意を得たり、といった表情。
 もしかして、仙蔵は、僕がコーちゃんにチョコを渡すと、最初から分かってた?
「では、これは私から」
 どうして。僕は悩みに悩んでコーちゃんに渡すことにしたのに。どうして仙蔵にはそれが最初っから分かってたんだろう?戸惑う僕の膝の上、チョコの包みの上に、何か置かれた。下にある僕の包みとそう変わらない大きさの、やっぱりなんだか上等そうな包み。
「なに、これ?」
「今日この日にこのような包みを渡されれば、かなりの高確率で、チョコレートだと思うがな?」
 ということは、これもチョコレート?どうして、仙蔵が、僕に?
 戸惑いは更に深まって、もう訳が分からない。いやでも、仙蔵はかなりの高確率って言った。チョコだと断言してない。実は新型の埋め火みたいなもので、開けたら爆発するとか。
 ひどい話だけど、なんかその方が納得がいく。そんなことを考えていたら、五年生のなかから「うわ!」と悲鳴のような声があがった。
 見れば兵助が、なにやら青い顔をして頬を引きつらせている。
「しまった……なんてことだ、まさかそんな……」
 どうした兵助、と五年みんなが顔を覗き込む中、兵助は、実に悔しそうに呟いた。
「つい、貰えるかもしれないことに気が行ってしまって……差し上げようと思っていたのに、用意するのを忘れていた……!」
 うをっ、とか、げっ、とか、俺もだ、とかいう声が立て続けに上がる。何を、と聞こうとしたら、小平太がすっくと立ち上がった。
「ふーん、残念だったねー、私達、来年には卒業しちゃってていないのにねー」
 ね、いさっくん、とまん前に座った小平太が笑いかけて、僕に何かを差し出した。反射的に受け取ったその包みは、仙蔵曰く、高確率でチョコレート。
「まったく、たるんどる!」
 文次郎も怒った顔で、小平太をまたぎこさんばかりの勢いで立ち上がる。
「小利に気を取られて、本来の目的を見失うとは。なっとらんぞ!」
 五年生に向かって怒りながら、何故か後ろ手に持っていた包みを落としていった。僕の膝に、チョコと思しき包みが増える。
「まあ、あれだ。日ごろの感謝と愛を込めて、って奴だな」
 いつの間にか後ろにいた留三郎が、ほれ、と何かを差し出す。とっさに受け取って、流石に膝の上の包みの山が崩れそうになって、慌てて支えれば、もう一つ、新たに包みが乗った。
「……チョコレートは、滋養強壮によい」
 何故か六年みんな僕の周りに集結していて。しかも、みんな僕にチョコをくれて。
 六年と対立するような構図になってしまった五年生達は、みな悔しそうだった。歯軋りしてこちらを睨む中、すっくと竹谷が立ち上がる。
「伊作先輩!チョコ調達して来ますから、ちょっとだけ待ってて下さいね!」
 さっきまで歯噛みしてた気がするのに、にっこりと僕に向かって笑いかけてくる。さすが根明、気持ちの切り替えが早い、と感心していたら、「俺も行く」と兵助も立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待って!」
 調達するっていったいどこへ。もう日も暮れて、お店なんかも閉まってるだろうに。どこで何を用意するつもりなのか。まさか、忍びの技を使って、良からぬ事をしでしたりしないだろうか。五年生はあれで六年には対抗意識が強いから。何やりだすか分からない。
 というか、たかがチョコレートのことで、ヤバいことはして欲しくない!
「どこへ行く気?手荒なことはしちゃ駄目だよ!マズいこととか……」
「分かってますって!」
 何を分かってるのか、片目を瞑りながら勘右衛門が飛び出していく。
「三郎、僕の分も頼んでいい?」
「おう、任しとけ」
 鉢屋も足早に部屋を出て行き、おもむろに雷蔵が「お騒がせしました。失礼します」と丁寧に障子を閉めた。
 部屋の人口がいきなり半分減って、ぽっかりスペースが開く。
 一体何なんだ。僕はあっけに取られた。
 が、あっけに取られているのは僕だけらしい。見れば、回りのみんなはみんなにやにや笑っている。長次でさえ、文次郎でさえ、口元がにんまりと緩んで、なんというか、してやったり、という表情。
「……一体、何だっていうのさ」
 呆然と呟けば、仙蔵が思い出したように「ああそうだ、伊作」と声をかけてきた。
「何」
「来月は無理しなくていいぞ。三倍程度でいいからな」
「は?」
 来月って。三倍ってなんの話だ?首を傾げていると、小平太がぽんと手を打った。
「あ、そっか!ホワイトデーって、来月だったっけ」
 ホワイトデー?そう言えば聞いたことがある。バレンタインにチョコをもらった者は、お返しをしなければならないんだっけ。僕は膝の上の包みを見た。
 物をもらった以上、お返しをするのはやぶさかでない。五人からいっぺんにもらって、五人分お返しするのは大変だろうけれども、まあ、しょうがない。
「でも、三倍って何?」
 見渡せば文次郎と目が合った。何故か文次郎は腕を組みながら目を伏せた。
「以前、くの一たちが話しているのを聞けば、五倍返しは当たり前とか」
「ご、五倍!?」
 当たり前ってそんな。でもそれは多分、相手がくの一だからであって。慌てる僕に、更に留三郎が追い討ちをかけた。
「いや、俺は七倍返しだって聞いたことがあるぜ」
 七倍って。チョコ一個もらったら、七個にして返せっていうこと!?一体、いくつ用意すればいいんだ!
 空いた口が塞がらない。しかし隣の仙蔵は、僕の肩に優しく手を置いた。
「さすがにそんな無茶なことは言わない。無理しなくていいからな。三倍くらいで」
 そしてにこやかな顔で晴れやかに笑う。いや、三倍ったって凄い量なんですけれども。しかも五人分、普通にお返しするだけでも大変なのに。
 ……そういえば、これから五年生達もチョコ持ってくるんだっけ?
 長次はあんな風に言ってたけど、本当に僕はみんなに好かれてるんだろうか。実はいじめられてるんじゃないだろうか。
 なんとなく情けない気持ちでコーちゃんを振り返れば、いつもの忍者装束で、澄ましてそこに立っている。僕はコーちゃんにチョコをあげたけれども、コーちゃんからお返しをもらえるはずも無く。
 はあ、と溜息をつくと、僕は、お返しは薬草チョコにしようと、心に決めた。

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