五年ろ組の昼休み・鉢伊編

 去年はずっと通っていたのに今は用事でもなければ通らなくなったなあ、と、わずかな感慨を覚えながら、五年の教室前を通る。一年前はこの先のは組が僕の教室だったけれど、今日はその手前、ろ組に用事がある。
 開けっ放しになった戸口から、僕は中をのぞき込んだ。すると。
「伊作先輩」
 教室にいた二つの紺色の制服が振り向く。
「鉢屋、いるかな」
 雷蔵と竹谷だった。教室内に他に人影はない。残念ながら、鉢屋はいないようだ。どこへ行ったか、二人に聞けば分かるだろうか。
「珍しいですね、五年の教室にみえるなんて、何か用事でも?」
 でもそんなことを考えている間に、明るい笑顔の竹谷に腕を引っ張られた。そのまま教室へ連れ込まれる。
「こら竹谷、ちょっと強引だよ。……でも先輩、せっかくですからどうぞこちらへ」
 二人が向かい合って座っていた机の前に引っ張って来られると、待ちかまえてた雷蔵がにっこり笑った。
 せっかくって何だよなあと思いつつも、鉢屋を探す以外に特に用事はなかったから、すすめられるままに腰を下ろす。
「三郎に用事ですか?生憎、日直の用事で席を外してるんですけれども」
 でも僕が腰を下ろすと同時に、竹谷は腕を離し、すっと教室から出ていった。あれ、と思ったけれども、見送る間もなく雷蔵から質問される。
「ああうん、まあ、用事ってほどのことでもないんだけど……」
 人を引っ張り込んでおいてなんだって言うんだろう。分からないけれども、急用を思いついたのかもしれないし、突然厠へ行きたくなったのかもしれない。とりあえず竹谷のことは置いておく。
「昨日借りた手ぬぐいをね、今朝洗って干しておいたんだけど、もう乾いていたから。返そうかと思って」
「ああ、そうなんですか。じゃあその手ぬぐい、僕が預かりましょうか?」
「え」
 いつもの人の良い顔で申し出てくれるけれども、どういうことなんだろう。日直の用事なら、鉢屋もすぐ帰ってくるんじゃないかな。少なくとも、午後の授業までには。それならわざわざ預ける必要はない。
 教室に引っ張り込んだのは、ここで鉢屋を待ってろってことじゃないのかな。何だろう、おかしなことは何一つないのに、何か微妙に噛み合ってないような。
「分かってないなあ、雷蔵」
 するとそこに、頭上から声が降ってきた。
「竹谷」
 いつの間にか教室に戻ってきた竹谷は、僕の隣に腰を落ち着けた。
「先輩と三郎はまだ付き合い始めたばっかりなんだぜ。いつでも会いたい、ちょっとでも長く傍にいたい、って時期じゃないか。手ぬぐい一枚でも会うにはいい口実なんだからさ。それを奪うなんて、野暮なことすんなよ」
「ちょ、ちょっと竹谷」
 いきなり何を言い出すんだと慌てれば、目の前で雷蔵はゆっくり頷いた。
「それもそうだね。すみません先輩、出すぎたことを言いまして」
「いやそんな、ていうか雷蔵まで……」
 何を言っているんだか。しかしちらりと顔色を伺えば、二人ともにやにや笑って僕のことを見てる。おもちゃにされてるらしい。
 後輩にまでからかわれるなんて。とはいえ、確かにさっきから頬が熱い。僕は態勢を立て直すべく、咳払いした。
「えっと、野暮とかそんなんじゃないけど、わざわざ雷蔵の手を煩わせるのも悪いから。気持ちだけ受け取っておくね」
「はい」
 雷蔵が丁寧に会釈する。顔を上げると。
「あ、そうだ先輩、甘い物はお好きですか?」
「へ?」
 聞くなり雷蔵は僕の返事を待たず、立ち上がると別の机に向かった。そこに置いてあった風呂敷包みを持ってくる。
「実は昨日、そろそろ三郎の誕生日だなあと思って、ボーロを焼いてみたんですよ」
「へえ」
 南蛮人は誕生日にボーロを食べるものらしい。それは先日ひょんな事から得た知識だった。
「ていうか、中在家先輩に話を聞いてみたら、面白そうだったので、作ってみたくなって」
 照れたように笑いながら、雷蔵はゆっくりと包みを解く。
「でも、焼くところまでは上手くいったと思うのですが、最後の鍋から取り出す行程で失敗したらしく……」
 風呂敷の中から現れたのは、おにぎりを包むときに使うような竹包み。でもそこから、ふわりと甘い匂いがした。
「なんか、ぼろぼろになっちゃって」
「うわあ……」
 竹包みの中には、なにやら得体のしれないふわふわした物が入っていた。全体的に薄い黄色、ところどころ茶色。
 ごくごく小さな穴が、不規則に無数に開いてる見たこともない物体は、でも凄くいい匂いがした。甘い匂い。そういえばボーロには、砂糖をたくさん使うんだと聞いたことがある。
「よかったら、召し上がって下さい」
「え、いいの?」
 三郎の誕生日のために作ったんだろうに。そう思って顔を見れば雷蔵は、あはは、と困ったように笑った。
「こうぼろぼろになっては、贈り物として人にあげるのもどうかと思いますし……」
「それに三郎って、意外と完璧主義なところがあるから。型くずれしたこれを見たら、こんなのボーロじゃない!とか言いそうですしね」
 確かに、ぼろぼろっていうか、ちゃんとした形にはなってないけど、凄く美味しそうないい匂いがするのに。しかし手を出しかねてる僕の前で、竹谷がひょいとひとかけら摘んで、口に入れた。
「おお、甘い。ちゃんと卵の味がする」
「竹谷からもらった卵、いっぱい使ったからね」
 そうか、ボーロの材料は卵と砂糖なんだ。もちろん、他にもいろいろ使ってるんだろうけど。
 ともあれ、それで見知らぬ食品への警戒が少し薄れた。僕も小さめの欠片を摘んでみた。
「わ、軽い」
 見た目に反してと言おうか見た目通りと言おうか、摘み取った分量の割に、それは軽かった。甘い匂い。そのまま口の中へ入れてみる。
「……何これ!」
 初めて食べるボーロの衝撃に二人の顔を見回せば、竹谷も雷蔵も、にんまり笑って頷いた。
 なんていうか、美味しい。甘い。ていうか軽い!
 ふわふわだ。積もりたての雪をそっとすくって食べるよりも軽い。雲を食べればこんな風だろうか。舌に乗せればふわりと溶けていく。それなのに甘い。すっごく甘い。
 だって甘味と言えば、団子とかお饅頭とか飴とかで、どっしりと重いかがちがちに固いか、どっちかなのだから。それに比べれば、このボーロというお菓子は、奇跡のように軽い。そして柔らかい。ふわふわしていて。
「美味しい……!」
 思わず大きめの塊を手に取って口に放り込めば、口中に広がる甘さ。溶けていくかと思われるそれを噛みしめれば、信じられないほど軽い噛み心地。そして卵の風味。
「ボーロってこんなに美味しいものだったんだね!」
 南蛮人っていつもこんなものを食べてるんだろうか。こんな美味しいお菓子を作れる南蛮人って凄い。世界って広いんだなあ。
 思わずしみじみしながら、もう一口と手を伸ばす。そこで気づいた。
「あ、ごめん、なんか僕ばっかり食べちゃってる……?」
 そういえば、二人はあんまり手を出していないのだった。竹谷は最初の一口を食べたっきり、雷蔵はまったく手を出してすらいない。
「いえ、先輩が余りにも可愛い……あ、いえ、美味しそうに食べて下さるから、なんだかこう、胸が一杯になってきまして。その、作り手冥利に尽きるというか」
 なんだかよく分からない理屈を述べて、雷蔵は竹包みを僕の方に押し出してきた。
「同感。ていうか、俺ちょっと昼飯を食いすぎたかして、腹苦しいんですよね。ほら、今日って唐揚げ定食だったじゃないですか。俺、唐揚げ好きだから、ついご飯とかお代わりしちゃって」
 ははは、と腹を押さえながら、竹谷は豪快に笑った。
「そっか、今日のお昼は唐揚げ定食だったんだ」
 しかし、僕がぼそりと呟くと、二人の眉根が寄った。
「先輩もしかして……」
「お昼、食べてないんですか?」
 心配そうに顔をのぞき込んでくる二人に、僕は慌てて、いやいや、と手を振った。
「ちゃんと食べたよ。ただ、いろいろあって食堂に行くのが遅れたから、僕が行った時にはもう、定食は売り切れてて」
「いろいろ」
「うん。で、おばちゃんがうどんなら出来るっていうから。おばちゃんの作るおうどんは最高だよね!」
 僕はにっこりと笑って見せたのだけれども、竹谷はそっと目をそらし、雷蔵は何気なさを装って目頭を押さえていた。……負け惜しみじゃなかったんだけどなあ。同情されたんだろうか。
「……じゃあ、遠慮なくもらうね」
 僕は再びボーロに手を伸ばした。甘くて軽くてふわふわして、食べるだけで幸せな気持ちになれる。
「鉢屋は幸せ者だね。誕生日にボーロを焼いてくれる友達がいるんだから」
 そう言って二人を見れば、なぜか二人は顔を見合わせた。
「鉢屋が幸せ者っつったら……」
「それは僕たちがいるからじゃなくて……」
 ねえ。なんて目と目を見交わして、二人で頷きあって納得している。何なんだろう。
「でもほら、先輩だって、中在家先輩がボーロ焼いてくれてたじゃないですか」
「そうそう」
 竹谷が早口に言えば、雷蔵もうんうんと頷く。
「そういえばそんなこともあったねえ」
 あの時はしんべヱの宝禄火矢で、ボーロが吹っ飛んだんだっけ。
 吹っ飛んでなければ、この美味しいお菓子を食べられた訳だ。あの時は何とも思わなかった、むしろ鯨肉の方に気を取られてたけど。よく考えたら凄く悔しいというか惜しいことになってたんだなあ。
「六年生って、みんなバラバラに行動してるようで、いざとなれば凄く団結してるし。仲がいいですよね」
「えー、そんなでもないよ」
 あれは単に蚊帳の外に置かれてただけなんだけども、はたからはそう見えるのかなあ。
「大体長次だってさ、別に僕と留三郎のために、ボーロ焼いてくれた訳じゃないし」
「え、そうなんですか?」
 ボーロを摘みながら言えば、よほど意外だったのか、雷蔵が身を乗り出してきた。
「うん。多分だけど、僕と留三郎はおまけだと思うよ。長次がボーロ焼こうと思ったのは、木下先生ときり丸のためじゃないかな」
「木下先生?」
 今度は竹谷が身を乗り出してくる。そういえば、木下先生は竹谷のいる生物委員会の顧問なんだっけ。
「きり丸は何となく分かりますけど、なんで木下先生なんですか?」
「だってさ、木下先生は長次の恩人だもん」
「え、何でですか」
「何かあったんですか?」
 僕はその時のことを思い出して、話す前からくすくす笑いだしてしまった。
「何なんですかぁ」
「笑ってないで話して下さいよ」
 この二人も五年生になって背も僕と変わらないくらいだけど、拗ねたように唇をとがらせると、まだまだ可愛いなあ。そんなことを思いながら、僕はようやく笑いを納めた。
「ごめんごめん。これは僕らが一年生の時のことなんだけどさ……」

 かーん、と半鐘が鳴った。
「あれ、もうそんな時間」
 すっかり話し込んでしまった。長次と木下先生の話から、お互いの一年生の頃の話になって、食堂のメニューの変遷や進級試験のことと、まったく話題が尽きなかった。
 竹包みにあったボーロは、あらかたなくなってしまっている。ほとんど僕が食べてしまったらしい。
「ごめんね、雷蔵。せっかくのボーロを」
「いいんです。三郎には別の形で、誕生日を祝ってやりますから」
「うん、そうしてやって。でも、この埋め合わせはするからね」
 ごちそうさま、と手を合わせると、僕は慌ただしく立ち上がった。
「でもなんか、すっごく楽しかった」
 戸口から振り返って二人の顔を見れば、竹谷も雷蔵も同じ気持ちみたいだ。満足げな顔で頷いてくれる。
「また遊びに来て下さいね」
「いつでも歓迎しますから」
「ありがと。また来るね!」
 二人に手を振って、僕は五年ろ組の教室から出た。
 すると、何故か廊下には鉢屋がいた。壁に寄りかかるようにして立っている。
「あれ、鉢屋。いたんなら、入ってくればよかったのに」
 なんで廊下に立ったままなんだろう。しかもなんだか不機嫌そうな顔をして。鉢屋は僕の顔を見ると、はーっと溜息を吐いた。
「ついさっきまで兵助に足止めされてたんですよ」
「久々知に?」
 なんでそんなことするんだろう、と目を瞬かせれば、鉢屋は明後日の方を向いた。
「ハチに頼まれたみたいですね」
「竹谷に?」
 そういえば、一瞬姿を消したっけ。久々知にそんなことを頼みに行ってたのか。一体、何のために?
 鉢屋は、訳が分からずにいる僕の肩に手を置いた。わざと人の悪そうな表情を作って、にやりと笑う。
「でもいいですもんね。俺はいつでも好きなだけ、先輩と二人きりになれますからね」
 そしてそう言うなり、僕の頬に触れた。鉢屋の、唇が。
「こら、鉢屋!」
 廊下でなんてことを。慌てて突き放そうとする僕を余裕でかわすと、鉢屋はろ組の教室へ飛び込んだ。
「先輩、また夜にでも!」
 残された僕はというと、怒りやら興奮やら嬉しいやらの感情が煮えたっていたけれど、五年の教室の前で憤慨していても仕方がない。自分の教室に向かうべく、歩きだした。
 走らない程度の早足で歩きながら、気づく。
 そういえば、鉢屋に手ぬぐいを返しそびれた。
 やっぱり雷蔵に預けておけば良かったかなあ。しょうがない、鉢屋の言う通り、また夜にでも会うしかないか。その時に、今日の竹谷の妙な行動について聞いてみよう。あ、雷蔵にボーロをごちそうになったことも話さなきゃ。そう考えるうちに足取りが軽くなっていた僕は、先生方の目も気にせず、六年教室までまっすぐに駆け抜けた。

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