火鉢の傍で

「ただいま」
 障子を開けて部屋に一歩踏み込めば、炭の匂いがした。
「あ、留三郎、おかえり」
 衝立から顔を出して伊作が答える。あの位置、この暖かさからすると、今は火鉢を使ってる筈。
「悪い、伊作、ちょっとあたらせてくれ」
「いいよ、どうぞ」
 返事も待たずに衝立の中に踏み込むと、暖かな空気が俺を包んだ。
「散らかってるけど、その辺適当に片付けて」
「ああ」
 散らかってると言っても、無造作に物が放り出されている訳じゃない。薬の瓶や素材を入れた甕なんかを僅かにずらして隙間を作ると、伊作と反対側、火鉢の前に腰を下ろした。
「ああ……あったけぇ」
「外、よっぽど寒かったみたいだね」
「おう。明日の朝には霜が降りてるかもな」
「だとしたら初霜だね」
 そりゃ寒そうだ、と伊作はちらりと俺の顔を見て笑った。
「さて、こっちはもういいから少し冷まして、と」
 伊作は火鉢にかけてた土瓶を下ろすと、脇にあった盆に置いた。そのまま立ち上がって戸棚の方へ行く。空いた五徳の上に手をかざすと、真っ赤に熾きた炭に触れた訳でもないのに、凍えた手がじんじんと痛んだ。
 すぐに戻ってきて炭の状態を見て取ると、同室の友人は小さな鍋を火にかける。半分ほど水の入った鍋に、あれやこれやと粉っぽいものを入れていく。
「粉末の生姜か。いい匂いだな」
「生姜には発熱とか発汗の作用があるからね。これからの時期には重宝するよ」
 伊作はその重宝する素材を、惜しげもなく鍋にぶち込んだ。こぼしたりはしないが、粉末のいくらかは飛び散り、俺の鼻腔をくすぐった。
 薬臭いこの一角の中でも、この生姜の匂いだけはいい匂いだと思えた。無論、薬味などで食べるのが好きなせいもある。
「夕飯は食べた?」
「おう。ちょうど飯食ってる最中に呼び出されたとこだ。……二年長屋の天井に穴が開いてな」
「長屋の天井に穴?」
 おう、と答えながら頭巾を外す。ようやく少し温まってきた感じがする。でもまだ耳が指に触れると冷たい。しかし耳が冷たいのか指先が冷たいのかよく分からない。
「なんでそんなところに穴が」
「小平太の蹴り上げた砲弾が、ちょうど長屋の屋根に落ちたんだと」
「あちゃー……」
 砲弾というものは、地面と平行に撃って城壁を打ち崩す時に使うものだ。そんなものが上から落ちてきたら、長屋の天井なんかひとたまりもない。
「もちろん床板もぶち抜いてな。そこがちょうど、池田三郎次の部屋で」
「うん」
「あいつも気が強いから、どうしてくれるんですか、とか小平太に食ってかかって。小平太もしれっと、悪かった、ってあの調子で終わりだからな。補修のために三郎次を部屋から追い出すだけで一苦労さ」
 解散したばっかりの用具委員を集めて。資材を持ってこさせて。
「そうこうしてるうちに日が暮れてきたから、俺と作兵衛が屋根に上って一年には床を任せてたんだが、月明かりじゃ手元が暗くて、作兵衛が自分の指を金槌で打っちまってな。痛えって悲鳴上げたら、しんべヱやら喜三太が大丈夫ですか、って心配して屋根に上ってきて。……天井板を、踏み抜いた」
 伊作はと見れば、ぽかんと口を開けて二の句が継げないようだった。そりゃそうだ。屋根の補修の最中に、また天井に大穴開けたんだから、世話ない。
「そ、そうなんだ。それでこんなに遅くまで」
「まあ、床は結局、穴塞いで余りあるでかい板があったもんだから、それ敷いて後は明日なんだがな。三年とか一年とかに夜更かしさせる訳にもいかんし、そこであいつらは帰したけど」
「留三郎はその後も一人で、屋根の修理をしてたんだ」
 小平太が開けた分と、しんべヱ達が開けた分の穴を。
 それはお疲れ様、と、伊作が火鉢の向こうで頭を下げた。
「そりゃいいんだけどさ」
 それはいいんだけど。俺は何となく、小鍋の中でかき回される液体を眺めた。
「どうしたの」
 何の薬だろう、とろみのついた液体が、小鍋の中で渦を描く。焦がさないように、跳ねないように、注意深く描かれる渦。中心に向かう螺旋。
「結局俺達……用具委員は、便利にこき使われてるような気がしてな」
「そんなこと」
「三郎次は凄え形相で睨みつけてくるし、小平太はとっとと逃げるし。……追いかけて捕まえてもあの体力バカに補修が出来るとは思えねえしな。三郎次の剣幕に他の二年生も手ぇつけられなくて、結局、滝夜叉丸が一瞬だけ頭下げてその場は収まったけど」
 そう、滝夜叉丸は偉かった。あの自尊心の高い男が、先輩のために、一瞬とはいえ後輩相手に頭を下げたのだから。
 だから俺は屋根に上がった。しんべヱが天井をぶち抜いた責任を取って。
 それで三郎次は文句を引っ込めたし、その場は収まったし、屋根の補修ぐらいなんということはない。文句はない。何も言うことはない、が。
「使えるものは何でも使うのが忍者だろ。その意味で、あいつらの態度は正しい。だとすると使われる俺達は……俺は、何なんだろうなと思ってな」
 日が暮れて、月明かりのみの寒空に、屋根の修理をするお人よし。
 仙蔵なら放っておくだろうか。文次郎なら屋根があるだけありがたいと思えと言うだろうか。
 俺だって、月のない闇夜なら、補修なんかしてない。強風でも諦めただろう。
 今日だって、もう日が暮れてたんだから、明日にまわしても良かったかもしれない。それなのに、今日出来ることを明日に伸ばすのが気持ち悪くて、片付けてしまった。それで疲れて凍えている。
 やらなくてもよかったかもしれないことをやって、疲れている俺は何なのだろう。最上級生のくせにいいようにこき使われて、こんなことで一流の忍者になれるだろうか。
 小鍋の中で渦を巻く、堂々巡り。小鍋に巻き込まれそうだ。眠い。疲れた。
 もうここから動きたくない。
「んー……いいんじゃないかな」 
 のんびりした声に顔を上げれば、伊作がちょこんと首を傾げていた。
「三郎次は屋根直してもらって、とても助かったと思うよ。誰だったか忘れたけど、その同室の子も。だってさ、霜がおりようかって寒さの日に、屋根に穴の空いた部屋で寝ろっていうのは、二年生には辛いと思うし」
 そう言うと、伊作は鍋から杓子を持ち上げた。行儀悪く杓子に口をつけると、うん、とか頷く。
「本格的な冬支度を始める前だからさ、この時期に寒くなるとほんと、辛いよね。真冬より寒いんじゃないかと思うこともあるよ」
 脇に置いてあった盆に湯飲みを用意すると、鍋つかみを持って鍋を持ち上げた。そのまま中の液体を湯飲みへ移す。
「そんな寒い日に、下級生を凍えさせなくて良かった、って。確かにちょっと、上級生として甘いというか、人がいいかもしれないけどね。……なんて、僕も人のことは言えないんだけど」
 そして伊作は、はい、と俺に湯飲みを差し出した。
「……何だこれ、俺に?」
「葛湯だよ。風邪の引き始めにはこれが一番」
 そう言って万年保健委員はにっこり笑った。
 受け取ると、湯飲みからはふわりと生姜のいい匂いが立ち上ってきた。
「生姜と砂糖、たっぷり入れといたからね。これ飲んで体の中からしっかり温まって、もう今日は寝た方がいいよ。お風呂で温まるのもいいけど、この時間だともう冷めてぬるくなってるかもしれないしね」
 説明しながら、冷ましておいた方の土瓶を傾けて、中身を別の湯飲みに移す。小さな盆に、湯飲みと、口直しだろう、小さな菓子の入った皿を載せると、伊作は立ち上がった。
「じゃあ、僕はこの薬を届けてくるから。ちゃんと温まっておきなよ」
「……おう」
 ためらいもなく障子を開けて寒い外へ出て行った伊作に、返事が届いたかどうか。
 両手の中の湯飲みは熱く、最後まで凍えていた指先が、今度こそ温まっていった。

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