一目置かれる

 廊下からふと教室を覗くと、庄左ヱ門が腕組みをして、目の前の机を睨みつけていた。
「……どうした、庄左ヱ門」
 その姿が何故か気になって、入り口から声をかけると、は組の学級委員長は机から顔を上げた。
「ああ、彦四郎。……お前、算術得意?」
「へ?」
 いきなり何だ。奴が机から忍たまの友を持ち上げてひらひらさせるので、僕は教室へ入ると庄左ヱ門の前に座った。すると忍たまの友の真ん中辺りを指し示す。
「この問題だけどさ。答えがこうらしいんだ。でも何でこんな答えになるのか分からなくってさ」
「ああこれか。これなら、ここがこうだからこうなって、ってことはこっちはこうで、そうするとここがこうで……」
 ふんふんと聞いていた庄左ヱ門は、途中で、そうか!と叫んだ。
「最初の置き換えさえ分かれば、後は単純な問題だったんだね!そっかー、よく分かったよ。教えてくれてありがとう!」
「いいけどさ。……は組ってまだこんなところやってるの?い組はもうとっくに、一ヶ月前くらいには終わってるよ」
 そう言うと、にこにこしていた顔が急にしゅんと暗くなった。
「一ヶ月も差がついてるんだ……」
「夏休みは一ヶ月とちょっと。このペースで行けば、夏中補習授業しても追いつかないかもな」
 からかうように軽く言えば、怒るどころか、そうだね、というしんみりした返事が返ってきた。
「ま、ほら、い組はペース速いし。ろ組がゆっくりなら、そっちに合わせればいいんじゃない」
「それでも、彦四郎の言うとおり、このままだと夏休みが危ないよね……」
 ははは、と力なく笑う庄左ヱ門に、ぼくは今まで抱いていた疑問をぶつけてみた。
「前から不思議だったんだけど。どうしては組はそんなに、教科書が進まないんだ?」
 同じテキストを同じ年頃の子供が勉強してるのに。正直、い組の生徒は全員頭がいいかというと、そういう訳でもない。あほのは組とはいえ、このテキストの遅さは異常だ。
「土井先生の授業が分かりにくいとか?」
「違うよ!土井先生の授業は分かりやすいよ。安藤先生の十倍はいい!だけど……」
「だけど?」
 言いたくなさそうに黙り込んだ庄左ヱ門だったけど、土井先生の名誉のために、渋々ながらという感じで口を開いた。
「……午後の授業の時、貴三太のなめツボからナメクジが逃げ出して」
「げっ」
「ナメクジ達を回収してる間に、きり丸がバイトで預かってた犬がお昼寝から覚めて」
「はあ?」
「その犬が金吾の硯を割っちゃって、墨をぶちまけて」
「うわ……」
「金吾が剣持って犬を追い掛け回すのをみんなで必死に止めて」
「ひゃー……」
「犬を捕まえてきり丸に帰させて、ナメクジを回収して、こぼれた墨を拭いて、硯の替えを手配してるうちに、放課後になった」
「あちゃー……」
 聞きしに勝る凄さだな。突っ込みどころがあり過ぎて、どこから突っ込んでいいか分からない。
「は組って毎日こんなんなんだ」
「毎日ってことはないよ!……まあ……よくあることだけど……」
 威勢良く否定しながらも、最後は目を逸らす。庄左ヱ門もこんな日常をよしと思ってる訳じゃないんだろうな。
 そりゃそうだ。他の面子はともかく、放課後こうやって算術の問題に悩んでるんだから、庄左ヱ門は勉強したいんだろうに。こんな環境じゃあな。
「なんでお前がは組なんだよ」
「え?」
「い組だったら良かったのに」
「……はは」
 庄左ヱ門は小さく笑った。
「確かにその方が勉強はできるかもしれないけど、でも、安藤先生の寒いダジャレを聞かされるのはゴメンだよ。それに、ぼくはは組が大好きだし」
「ふぅん」
 きっぱり言い切ったのが、なんか面白くなかった。確かに安藤先生のダジャレは寒いよ、悪かったな。
「……な、それより彦四郎、聞いていい?」
「何、また算術?」
「そうじゃなくてさ。勉強とか分からないことがあったら、誰に聞いてる?先生以外で」
「先生以外?……聞いたことないな」
 分からないところがあって安藤先生や厚着先生に聞きに行ったことは何度もあるけど。
「そっか」
「何でそんなことを?」
「いや、先生方がいないときは、誰に聞いたらいいのかなって思って。ほらみんな、委員会の先輩とかに勉強教わったりしてるじゃない?」
「……成程」
 庄左ヱ門の言いたいことはなんとなく分かった。僕達学級委員長委員会には、先輩と言えば一人しかいない。
「すると庄左ヱ門も、まだ鉢屋三郎先輩のところには、勉強を教わりに行ったことはない、と」
「そういう彦四郎だって!」
 ふふふ、ははは、と笑いあいながら睨みあっていたけれど、そのうち二人して溜息をついた。
「……聞けば教えてくれるとは思うんだけど」
「でもなんか……なんていうかね……」
 鉢屋三郎先輩というのは五年生ながら六年生に勝るとも劣らない変装の名人で、千の顔を持つ男という異名を取る。
 普段は温厚で誠実な人柄の不破雷蔵先輩の顔を借りていることが多く、その顔をしている時は性格もかなり似ているようだけれど。誰も鉢屋先輩の本当の顔を知らない。
 でも多分、僕と庄左ヱ門が鉢屋先輩のところに勉強を教わりに行き辛いのは、鉢屋先輩が怖いからじゃないのだ。
 僕はふふん、と鼻を鳴らした。
「何?」
「庄左ヱ門でも聞きに行かないんだ」
 あほのは組のくせに、と言うと、顔を真っ赤にして怒った。
「そ、そりゃあ僕だって……!」
 でも怒った顔を僕からふいと逸らして、あらぬ方を睨みつける。
「僕だって……鉢屋先輩に認められたい」
 可愛いバカと思われるよりは、憎たらしくても一目置かれる後輩になりたい。
 それは学園一の変姿の術を持ち、大会で優勝するほどの武道の達人であり、当然学業も優秀である先輩を尊敬すればこその思い。
 そんな先輩に憧れ、認められたいと思うからこそ、例え愛されたってバカにはなりたくない。
 そのためには、簡単な算術の問題なんか聞きに行けないのだ。こんなのも分からないのかと思われるくらいなら、先生に怒られた方がマシ。
 その気持ちは分かる。よーく分かる。
 というか、庄左ヱ門が可愛いバカに甘んじていないのが不思議だった。は組はみんな、可愛いバカとして先輩に気に入られてるんだと思ってたのに。
 やっぱりは組の中でも庄左ヱ門は違う。こいつは特別だ。
「この前さ、は組つながりだと思って、浦風藤内先輩に算術の問題を聞いてみたんだ」
「うん」
「そしたら逃げられてさ。……兵太夫とか、委員会の後輩だったら教えてもらえたのかなーとか思うとね」
「うん。一学年か二学年上くらいの、気安く相談とか出来る先輩が欲しいよねー」
 い組とは組の委員長同士、二人で顔を見合わせて、はー、と盛大に溜息をついた。
「……でも、ぼくはまだいい方かな」
「どうして?」
「分からないところがあればさ、彦四郎に聞けばいいから」
 そう言うと、庄左ヱ門はにっこり笑った。
 どうしてかその笑顔が眩しくて、ぼくはそっぽを向いた。
「そんな頼られても、いつもいつも教えられるとは限らないぞ」
「でも、い組は一ヶ月以上もテキスト進んでるんだろう?余裕でぼく達よりいっぱい勉強できてるんじゃないか」
「そういう問題じゃなくて」
 きょとん、と首を傾げる庄左ヱ門に、なんか無性に腹が立つ。い組とは組は仲が良くないんだから、ぼくが意地悪して教えないとか嘘を教えるとか、どうしてそういうことを疑わないのかな。
「あ、そうか。同学年なのに、いつもいつも聞いてばっかりじゃ悪いよね」
 むっつり黙り込んだぼくに、何を思ったか庄左ヱ門はこんな提案をする。
「じゃあさ、勉強教えてもらったら、お礼にお茶をご馳走するよ。こう見えても、お茶を淹れるの趣味なんだ!結構美味しいって評判だよ」
 庄左ヱ門のお茶を淹れる腕前は知ってる。いつも委員会の時に淹れてくれるから。でも。
「いいってそんなの。……分かった。出来る限りは教えてやるから。また分からないところがあれば、聞いていいよ」
「うん。ありがとう彦四郎!」
 そのにっこり笑顔を見て、こりゃいつ何を聞かれてもいいように、習ったことはちゃんと復習するようにしなくちゃな、とぼくは心に決めた。
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