一番最初の先輩

「へえすけ」
 その人が俺の名前を呼べば、
 こんなにも優しい。


 振り返ればそこには、保健委員の一年生二人と二年生、そして保健委員長がいた。
「伊作先輩」
 俺は焔硝蔵の鍵をしっかりと確認してから、先輩の方へ駆け寄って行った。
「やあ。兵助も委員会?」
「ええ。先輩たちも?」
「僕らは薬草園の帰り」
 ね、とばかりに後輩たちの方を見れば、そうです、と二年生が頷く。
 医務室へ帰るなら校舎までは同じ道のりだろうと、西日の差す方へ向かって歩きだした。
「大変そうですね」
 見れば全員土にまみれて、籠を背負ったり抱えたり。しかしどの籠にも、少しずつ草が入っていた。
「この時期、雑草が凄くてね。抜いても抜いても生えてくるんだから、嫌になってくるよ」
 苦笑いしながらも、どこか楽しそうだ。そりゃそうだろう。籠の中を見れば、収穫も多いのが分かる。
「でも、今年は順調みたいですね」
 俺がそう言えば、先輩は「まあね」とにんまり笑った。
「久々知先輩、どうして順調だって分かるんですか?」
 疑問に思ったのか、眼鏡の乱太郎が小首を傾げて聞いてくる。
「そりゃあ籠の中を見れば。雑草か薬草かくらいの見分けはつくよ」
「でも、これっぽっちですよ」
 隣にいた伏木蔵が、持っていた籠を傾けて、丁寧に中身をこちらに見せてくれる。
「でもそれって、ケイセンユウだろう?貴重な薬草じゃないか。育てるのが難しいのに、それだけの量を収穫出来たのなら、大したものだよ」
 そうですよね、と顔を見れば、伊作先輩は「その通り」と頷いた。
「久々知先輩、よくご存じですね」
 二年生の左近が、目を見開いてこちらを見上げてきた。信じられない、という顔つきだ。
「だって兵助は、以前、保健委員だったんだもんね」


 忍術学園に入学して最初に行った委員会分けで、俺は保健委員になることが決まった。
 保健委員会は別名、不運委員会よ呼ばれているらしい。不運な生徒が集まるという伝説があるそうだ、と級友から聞いた時には、どんなひどい委員会かと内心怯えていた。
 ところが。集合をかけられて行ってみた医務室は、とても明るくて清潔で、気持ちのいい場所だった。穏やかで優しげな新野先生が顧問だと紹介され、ほかの先輩たちも優しげな人たちが多くて、その中でも一際。
「二年は組、善法寺伊作です」
 黙っていれば、そこそこ綺麗な顔立ちだったかもしれない。でもひとたび笑顔になれば、人なつっこさ全開の、幼い顔になった。そう、この人は、一学年上にしては背も小さくて、年上というよりは同い年、下手したら年下に見えた。
「くくち、へえすけくん」
 その人に名前を呼ばれて、俺は呆然とするのを止められなかった。年下の者がいるはずのないこの場で、こんなに緊張感のない名前の呼ばれ方をするとは思ってもみなかった。
 忍術学園は厳しいところだ。そう聞かされて、恐れと不安をどうにか振り切って入学してきたのに、この和やかさは何なんだろう。想像と現実との違いに、頭を抱えたくなった。俺は忍者になるため、どんな修業にも耐える覚悟でここに来たのに。
 こんなに呑気そうな先輩でも二年生になれるんだから、忍術学園なんてそんなに厳しいところではないんじゃなかろうか。しかしそんなことを考えていた当時の俺には、忍びとは何たるものかが、まるで分かっていなかった。
 そしてある日、伊作先輩に薬草園に連れて行ってもらったことがあった。
「ここが薬草園だよ。忍術学園ではそこかしこ薬草が生えているけれど、あれは手入れが少なくても生えるものを生やしてあるんだ。ここにあるのはちゃんと手入れしてやらなきゃ育たないものばっかりだから、毎日ちゃんとお世話しないといけないんだよ」
 唯一の二年生である伊作先輩は、いつの間にか俺たちの世話係みたいな感じになっていた。その日も頑張って、薬草園に関することを説明してくれてた。水やりの仕方や、雑草の見分け方など、毎日の世話に関することを述べた後で、こう言った。
「他にも分からないことが何かあったら、何でも聞いてね!」
 先輩は本当に一生懸命だった。俺は本当は薬草なんて興味ないし、それでも仕事としてやるべき事は全部聞いたし、知りたいことなんて何一つなかったけれども。あまりにも先輩が一生懸命にこにこと笑顔でいるから、何か聞かなければ悪いような気になるくらい。
 そこで俺は、手近にあった草を指さした。
「えっと、じゃあ……これも薬草ですか。なんて名前ですか?」
「これ?これはねえ、ケイセンユウっていうんだよ」
「この薬草は何に効くんですか?」
 そこで、初めて先輩の笑顔が凍り付いた。
 冷や汗っぽいものが頬を伝っていくのが見えて、俺はまずいな、と思った。先輩の答えられない質問をしてしまったらしい。
 この人は、先輩風を吹かせたいらしいのに。でも、知らない・分からないでは先輩としての沽券に関わる。自尊心を傷つけてしまっただろうか。余計な事を聞かなければよかった。軽く後悔したそのとき「ちょっと待ってて!」と大声が飛んだ。そして青の制服がそれこそ飛ぶようにあぜ道を走って行った。
「……頼りになる先輩もいたもんだなあ」
「本当に」
 俺と同じ一年の、ろ組とは組の保健委員たちが呆れたように呟いた。多分こいつらは、伊作先輩があまりにも俺たちの世話を焼いてくれるものだから、少しうんざりしていたのだろう。でも相手は先輩だし、しかも善意でやってくれているのが分かるから、表立って文句は言えない。俺も似たようなことは感じていた。
 でもその時、余計な事を言って先輩の自尊心を傷つけ、走らせたのは俺だ。何も言えず黙ったまま待っていると、息せききった伊作先輩が帰ってきた。
「えっと、あのね」
 多少話が出来る程度に回復すると、先輩は荒い息のまま高らかに言い放った。
「ケイセンユウ。新野先生がお知り合いのお妨様から株を分けてもらって、この春から植えて始めたところなんだけど、元は唐に生えてたものなんだよ。初夏ごろに出てくる新芽を煎じて飲めば、鎮静効果が得られるんだって。桂皮や生姜と一緒にして、熱さましを作る事も出来るんだよ!」
 そこまで一息に語ると、伊作先輩は、どうだ!とばかりに胸を張った。
 しかしこちらとしても、先輩に対して申し訳なさを感じただけで、薬草に興味があったわけじゃない。伊作先輩が熱心に語れば語るほど、こちらはしらけて行くばかり。温度差は広がるだけだった。
「えっと……他に何か、聞きたいことはない?」
 伊作先輩もそれに気づいたのか、少し控えめに聞いてきた。順繰りに顔を見渡していく。
「いや別に……」
「特には」
 みんなが歯切れ悪く返事をする中で、俺も曖昧に首を振った。にこにこと得意げに薬効を語る先輩からは、自尊心をへし折られた悔しさのようなものは感じなかったから良かったものの、先輩の笑顔を凍らせ、走らせたのは自分だ。また余計なことを聞いて、失態を演じさせたくはなかった。
「あ、そう……」
 けれど、それが返ってがっかりさせたらしい。ここへ駆け戻ってきた時の意気揚々っぷりはどこへやら、しょぼんとした様子で、じゃ、帰ろうか、と呟いた。
「日が暮れる前に戻らないとね。ここって学園のはずれだから、校舎まで結構遠いし」
 それでも、先に立って歩き始めた先輩は、振り向いた時にはもう笑っていた。
 もしかしたら。
 ふとそこで俺は思い当たった。
 もしかしたら、先輩はここの薬草には詳しいのかもしれない。他の薬草についてなら、効能を説明することはたやすいことだったのかもしれない。
 ただケイセンユウだけ、唐渡りとかいうこの珍しい薬草についてだけ効能を知らなくて、なのにちょうど俺がそれを指してしまったのかもしれない。多分、いやきっとそうなんだろう。それが不運というものだ。
「あの」
「うん?」
 俺が声をかければ、にこにこの笑顔で振り向いた。この笑顔をうっとうしいと思ったこともあったけれど。
「善法寺先輩」
 そう呼べば、足が止まった。俺も足をそろえて、きちんと頭を下げる。
「善法寺先輩、勉強になりました。ありがとうございました」
 顔を上げれば、そこにはさっきまでの作り笑いとは違う笑顔があった。それは最初に見た、人なつこさ全開の幼いと言ってもいいような笑顔だった。
 この時の先輩の笑顔は、今も胸に焼き付いている。
 そしていつまで経っても、この笑顔は変わらない。


   伊作先輩がそう告げれば、その後輩たちからは、へえええーっという声が上がった。
「以前ったって、一年生の時だけだけどね」
 乱太郎と伏木蔵と、川西左近。こいつらのように、俺が井桁模様の制服を着て、伊作先輩が青い制服を着ていた時期があった。
「じゃあ、久々知先輩も、昔は不運だったんですか?」
 遠慮なく物を訊ねる伏木蔵に、左近から「こら」という声が飛ぶ。
「不運だったかなあ。どうだろう。俺、不運でした?」
 聞けば六年連続不運委員の委員長は、からからと笑った。
「僕に聞かないでよ。兵助がどんなに不運だったとしても、僕よりは良かったんじゃない」
「それもそうですね」
「こら。そういう時は嘘でも、そんなことありませんよ、とか言うもんだろ」
 先輩が笑えば、俺も笑う。上級生二人の和やかな雰囲気に、後輩たちからも笑い声が漏れた。


 不運委員会というのは、何かと大変な委員会だった。忍術学園自体が毎日何かしら騒ぎの起こる大変なところなのだが、保健委員会というのはその大変の中で、いつも悲惨な目にあう。そうして原因をよくよく突き詰めると、大抵誰も悪くないのだ。もしくは、そう責められなくてもいいような誰もがやりそうな失敗が、とんでもなく悲惨な事態になって返ってくる。それが保健委員会というところだった。
 その中で伊作先輩という人は、取り分けて不運な人だった。先輩に責任がなくても、難儀なことが降り懸かってくる。しかし保健委員の先輩方は、そんな伊作先輩を疎むどころか、逆に可愛がっていた。
「僕は入学した時から保健委員だったんだけどさ。先輩たちには本当によくしてもらったんだよね」
 あれはいつだったろう。先輩がふと打ち明けてくれたことがった。
「だから後輩が出来たら、よくしてあげよう、うんと可愛がってあげよう、と心に決めていてね。無事に二年生に進級出来たことも嬉しかったけど、兵助たちが後輩として入ってきてくれた時の方が、もっと嬉しかった」
 しかしそれを聞いて、俺は胸が痛んだ。
 忍術学園は、噂に違わず厳しいところだった。俺と同じ保健委員だった二人は、二年生になるのを待たずに学園を辞めていた。一人については家業を継ぐためとか又聞きしたけれども、実は授業について行けなくなったからとか、進級試験に落ちたからだとかいう噂もあった。
「へえすけ」
 最初に俺の名を呼んだ時と同じ、少し舌っ足らずな幼さの残る発音で、いつも先輩は俺の名前を呼んだ。
「だから君は、僕の初めての後輩なんだ」
 にっこり笑えば、人懐っこい感じがする。愛嬌に満ちたその笑顔で、その時も先輩は笑っていた。
「これから進級していくに連れて、どんどん後輩は増えて行くけど。でも兵助は、保健委員じゃなくなっても、僕の後輩だよ。大事な後輩だよ。それは確かだ」
 二年生に進級してから、俺が保健委員になることは二度となかった。それでもその言葉通り、先輩は俺によくしてくれた。会えば話をし、様子を聞いて、困っていることがあると漏らそうものなら、いつでも助けてくれた。
 でも何よりの助けは、先輩がそこにいてくれることだった。
 先輩はいつもそこにいて、俺に笑いかけてくれた。あの時と変わらぬ笑顔で、微笑みかけてくれた。そのことがどれだけ救いになっただろう。
 忍術学園は厳しいところだった。忍者になるということ自体が厳しいことだからだ。
 そんなことで忍者になれるかと、何度も実力を問われた。しかしそれより辛かったのは、覚悟を問われることだった。こんなに辛い目にあって、こんなに苦しい思いをして、友を見捨てて、蹴落として、それでもお前は忍者になるのか、なりたいのか。そう自問することが何より辛かった。
 実習のため何度も合戦場に出て、自分が変わっていきそうだった。辛さ苦しさを感じない代わりに、楽しさも喜びも忘れてしまいそうだった。自分のもたらした情報一つで、合戦の趨勢が左右される。数十、数百、あるいは数千人の命運が決まる。それはこの手で人を殺めるよりも恐ろしいことだ。その責任の重さに押し潰されそうになった。
 そんな時にも、伊作先輩はそこにいてくれた。俺に微笑みかけてくれた。話しかけ、笑いかけ、いつも通りに接してくれた。
 先輩もこの試練を乗り越えた筈だ。そしてなお、これまでと同じ、あの頃と変わらないままでいてくれる。変わらない笑顔で、あの頃と同じ口調で俺の名を呼んでくれる。
「へえすけ」
 先輩の口の中でいきなり丸みを帯びる自分の名前を面映ゆく思いながら、俺はどれだけ救われただろう。先輩は変わらず昔のままいてくれる。それなら俺もきっと変わらないまま、あの頃と同じへえすけのまま、忍者になれる。恐れと不安を振り切って、決意のままに、前だけ向いて進んで行ける。
 先輩が乗り越えた道を、俺も乗り越えたい。先輩のように微笑みながらは無理でも、歯を食いしばってでも、血の涙を流してでも、泥にまみれてもいいから、きっと乗り越える。
 そして辿り着きたい。先輩のいるところへ。一人前の忍者になって、先輩と並んで立って、そして。
 その笑顔を守りたい。
 意識して作った笑みも、心からの笑いも、全て。
 先輩を支えて、守りたい。――それが今の俺の、大それた望み。


「……じゃあ、俺は職員室に鍵を返してきますから」
 医務室は校舎内にあるけれど、職員棟は少し離れている。先輩たちはまっすぐ校舎に入って行くのだろうけれど、俺はその横手に回ることになる。校舎の前で分かれることになるかと、軽く会釈した。
「うん。じゃあまたね」
 それに応えて先輩が、ちらちらと胸元で手を振る。その手を目にした途端、思うより先に声が出ていた。
「あの、伊作先輩」
 夕映えの中、籠を抱えた伊作先輩がちょこんと小首を傾げる。
「雑草取り、大変なようだったら、俺、手伝いますよ。委員会ない日でよければ行きますから、いつでも声かけて下さい」
 先輩の大きな目がくりっと見開かれた。
 いくら元保健委員だからって、出しゃばり過ぎだろうか。しかし先輩はふんわり微笑んだ。
「うん、そのうち頼むかも。その時はよろしくね」
 一年生二人が「やったあ!」とか「ぜひ!お願いします」なんて声をあげるのを、二年生が「お前たちなー」と怒りながらたしなめる。
「……ありがと、兵助。でも無理しないでね」
 じゃあね、と背を向ける委員長にならって、後輩たちも俺に一礼すると去って行った。その後ろ姿に、俺も一礼する。
 一年生が先輩の手にじゃれついて、何事かを話しかける。先輩はそっちを見て返事をする。すると二年生が何かを言ったか、笑い声が起きて。
 伊作先輩は、今の後輩たちからとても慕われているみたいだ。分かる気がする。伊作先輩は、後輩思いの人だから。
 あの頃の俺たちにしてくれたみたいに。でもきっと、もっと洗練されたやり方でもって。
 二年生の頃の伊作先輩の、うっとおしい程の後輩思いを思い出して、俺は少し笑った。
 この学園に、伊作先輩の後輩は大勢いる。最上級生になったからには、すべての下級生は後輩だとして、でも、直接保健委員だったことのある者に限定しても、伊作先輩の後輩は大勢いる。
 その中で、俺は伊作先輩にとって初めての後輩なのだ。
 これまでに、尊敬できる先輩は大勢いた。見習いたいと思うような先輩も。
 でも俺は、伊作先輩の後輩であることを何よりも誇りに思う。先輩にとって、初めての後輩が俺であることが、何よりも嬉しい。


「へえすけ」
 丸みを帯びた柔らかな声に、ふと気がつけば、いくつか並んだ中で飛び抜けて大きな影が、こちらに向けて手を振っていた。
 色の薄い髪が、西日に透けて金色に光る。それをとても美しいと思いながら、俺も大きく手を振り返すと一礼し、今度こそ職員室へ向かって、その場を去った。
copyrignt(c)2009 卯月朔 all rights reseaved.
a template by flower&clover