いとしい人
廊下を歩めば目的の部屋に辿り着く寸前に、見知った影に行く手を遮られた。
相手は長く美しい髪を揺らし、私の前に立ちはだかる。いつになく真剣な面持ちだ。
「私の邪魔をするつもりか、仙蔵?」
そんな状況じゃないからこそ殊更冗談めかして問えば、「ああ」とにべも無い返事。
つれないなあ、と口に出した訳ではないが、顔には出ていたのだろう。眦をあげて更に鋭く私を睨んでくる。
「誰のせいで伊作があんな怪我を負ったと思っている」
「誰のせいって……」
私のせいか?目を丸くすれば、真剣な表情はやや崩れ、はあ、と溜息を吐いた。
「お前にその自覚はないのだろうな。お前はただ藪漕ぎをしつつ山道を進んでいただけなのだろう。だがそのせいで伊作は崖から落ち、岩場を滑り、泥地にはまり……さんざんな目にあっているのだぞ」
崖から落ちた、までは私にも責任はあるのかもしれない。知らぬうちに突き落としていた可能性はある。だがその後はむしろ、いさっくんの不運のなせるわざじゃなかろうか。しかし私が口の端にそれを乗せるよりも先に、仙蔵は再び表情を険しくし、私を睨みつけてきた。
「ともかくだ。お前はもう伊作には会うな」
「えーっ」
駄々っ子のような声を上げれば、まさしく駄々っ子にするように、仙蔵は大上段から決め付けた。
「お前のような奴が傍にいては、伊作の身がもたん!いいか、伊作の怪我が治るまで、絶対に近寄るなよ」
何故お前がそれを決める。私は会いたいのに。会おうとここまでやってきたのに。
「えーやだよー、今からお見舞いしようと思ってたのにさー」
「しなくていい。まったく、大体、どの面下げていけしゃあしゃあと……」
「ていうかさ、私のせいなら余計、謝らなくちゃじゃん!」
私が仙蔵に食ってかかったその時、そろそろと仙蔵の後ろにある障子が開かれた。
「お前ら、うるせえよ」
顔を出したのは留三郎だった。何故かげっそりとやつれた顔でぼそりと呟くと、その三白眼で睨みつける。
「今ちょうど寝入ったとこなんだぞ。小平太、見舞いなら後にしろ」
それだけ言うと、また音を立てないように注意しながら障子をたてる。ちらりと見やれば、仙蔵は留三郎の様子に毒気を抜かれているようだった。
だが私がその顔を見ているのに気付けば、気を取り直したか、また私を睨みつけてきた。
「ともかくだ。小平太、怪我が治るまで伊作には会うなよ」
いいな、と無言で念を押せば、ようやく踵を返して立ち去った。美しくなびいて、長い髪がその動きに付き従う。
美しい髪が廊下の端に消えたのを見て、私は思いっきり舌を出した。声を出さないで大きく口を動かす。
「い・や・だ」
翌日の忍術学園は、いつにも増して活気に満ちていた。
何やら、三年の伊賀崎孫兵の飼っているペットが集団でお散歩に出たらしい。そりゃそうだ、この陽気のいい頃だから、誰かが戸を開けてくれればペットも散歩したくなるというものだろう。
また、今日はよく一年生や二年生が落とし穴に落ちているらしい。綾部の落とし穴に少し意見してみたところ、美しい狼穽を作って見せると息巻いていたから、そのせいかもしれない。長屋前に塹壕を掘ったのは私だが、落とし穴ではないのだから、間違えて落ちる者はいなかろう。埋め戻すのに手間がかかるとか、留三郎なら文句を言いそうだが。
しかし、用具委員の一年生達には、仙蔵が火薬作りで行き詰っている、励ましてやれ、ということをそれとなく吹き込んでおいた。ほうろく火矢の口を閉じるためには、ぬるぬるした素材が有効だがまだ仙蔵はそれに気付いてないらしい、とも。根は真面目なよい子達のこと、今頃熱心に仙蔵の力になろうと努力してくれていることだろう。
学園中がなんやかんやで放課後の活気に満ちていたが、六年長屋だけは静かだった。
「いさっくん。……大丈夫?」
この前の留三郎に負けず劣らず注意して障子を開く。そっと声をかければ衝立の向こうで何かが動く衣擦れの音があった。
「小平太?」
「うん。お見舞いに来た」
障子を閉めて衝立から覗き込めば、白い寝巻姿が起き上がろうとしていた。その様子がなんだか辛そうだったから、私は慌てて駆け寄ると、そっと布団を押さえた。
「無理に起きなくていいよ。楽にしてて」
「うん……大丈夫なんだけどね、ごめんね」
枕に頭を預けてほっと息を吐きながら、その顔は紅潮していた。目が潤んでいる。
「熱ある?」
額に手を当ててみれば、じんわり熱かった。結構、熱が高めなのかもしれない。保健委員でない身には分からず、見下ろすことしか出来ない。
「うん。ちょっと足を挫いてね。いつも足を挫いた時、熱が出るんだ。泥だらけの田んぼにはまっちゃったりもしたから、風邪ひいたのかもしれないけど」
あはは、と苦く笑う顔を、そっと撫でる。
「私のせいかな。……ごめんね、いさっくん」
「え、なんで」
自然に口をついて出た私の言葉に、手の傍にあった目がまん丸く開く。
「小平太は別に、関係ない、っていうかさ。僕の方が小平太の邪魔になるところにいたんでしょ。だったら、藪こぎしてた小平太が、気がつかずに押しのけちゃった、っていうか、力入れたところで僕が運悪く崖から落ちちゃっただけでさ」
「でも」
仙蔵は私のせいだと言った。それは言わなくても伝わったのだろう。熱があって辛いだろうに起き上がると、真っ直ぐに私の目を見つめ、私の手をぎゅっと握った。
「小平太は悪くないよ!だから気にしないで」
「いさっくん……」
真っ赤な顔で、真剣な目で。いつもならここで微笑んでくれる筈が、今日はその顔がくしゃりと歪む。
「ていうか、僕が不運すぎっていうか……ひよわ過ぎるんだよね。ちょっと崖から落ちたくらいでさ、こんな寝込んじゃって。小平太にも迷惑かけて。なんていうか、ごめん」
俯くと、ふわふわの髪に顔が隠れる。触り心地によい、この髪も好きだ。でも今日は、この髪に隠しているだけでその下に辛い表情があるのかもと考えたら矢も盾もたまらず、その髪を払いのけた。
「いさっくん、かばってくれてありがとう。でもやっぱ、私が悪いんだよ。ごめん、ごめんね、いさっくん」
案の定、辛そうな顔を両の手で挟みこむ。その顔は、私の手の中で左右に揺れる。
「ううん、小平太は悪くないよ、だって、だってさ」
言いかけて咳き込む。何かが喉に詰まったように。私はその背中に手を伸ばして撫でさする。力を入れすぎないよう気をつけて、上下に、何度も。
咳をこらえていたのか、袂を押し当てていたから口元は分からない。でも、ある瞬間、目元がふとゆるんだ。
「どうした?」
不審に思って顔を覗き込めば、やっぱり少し微笑んでいる。そして何度か咳き込んだ。
「ごめん。……あのさ、小平太の手が気持ちいいなあって思ったんだ」
「手?」
私は自分の手を見た。節くれだってごつごつとした、普通の手だ。しょっちゅう苦無を握り締めているから、むしろ固い。そんな手が気持ちいいのだろうか。
「温かくて、おっきくて。頼りがいがある、っていうかさ」
ほんのり上気した頬は、熱のせいなのか照れたせいなのか。でもなんだか優しげな眼差しで私の手を見ている。
「でもさ、固いよ。いさっくんのみたいな、柔らかくて優しい手じゃないし」
「それがいいんだよ」
こんな手のどこがいいのか分からないが、それでもいいと言うのなら。私はいくらでも貸す。そう思って、背中をなでるのを再開した。
「うん、やっぱり手、温かい。……気持ちいい」
ありがとう。呟いてにっこり微笑むから、私はその肩を引き寄せた。自分に寄りかからせて、背中を撫で続けて。
ほんのり温かい、華奢な体が腕の中にある。私に身を預けてくれている。私はいつしか背中を撫でるのをやめて、その体を抱きしめていた。
このまま時が止まればいい。
ずっと私の腕の中にいてくれたら。そうしたら守れるのに。どんな不運からでも、必ず。
「小平太……?」
「大好きだよ、いさっくん」
呟けば、僕もだよ、と小さな声がした。
「ん?」
その口から、その言葉を聞きたくて。私は腕の力を緩めると、顔を覗き込んだ。
「今、何か言った?」
本当に聞こえなかった、そんな振りを装って目を丸くして覗き込めば、元から赤い顔に更に赤みが差して、視線が逸れる。
「えっと、だから、その」
はにかむ姿が本当に可愛い。どうしてこんなに照れるんだろう。照れ屋さんで恥ずかしがりやさんで、蚊の鳴くような声だけど、でも、いつも私が望む言葉をちゃんと言ってくれる。
「……僕も、小平太のことが好きだよ」
それだけ言うと、耳まで赤くして私の胸元に倒れこむように顔を埋める。可愛い。いとおしすぎる。私はたまらなくなって、やや強引にその顔をあげさせると、口付けた。
留三郎が何と言おうと、仙蔵がどんな邪魔をしようと構わない。私はいさっくんが好きだし、いさっくんも私が好きだと言ってくれている。二人を引き離すことなど、誰にも出来ないはずだ。
「小平太……」
大好きだよ、呟くともう一度今度は深く口付け、勢い込んだせいか体勢を崩し、そのまま二人して布団に倒れこんだ。
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