5000Hit記念リク第十弾

髪結いの恋人


 蝉が鳴き始めた。
 ミンミンとかジージーとか、いろんな声が一斉に合わさって凄い音になる。やかましいはずの蝉時雨も、のんびりと聞くと夏の風物詩だ。ああ、夏が来たなあ、って思う。
「蝉が鳴き始めたね」
 そう呟けば、背後のタカ丸くんは「え、ああ、そうだね」とちょっと気の抜けたような返事を寄越す。
 その間も手は休みなく動いて、僕の髪をくしけずってくれている。でも、絡みやすい僕の髪は、ちょっと梳いてはすぐにもつれて櫛が止まる。その度にタカ丸くんは丁寧にもつれをほどいて、再び櫛を滑らせる。
 こんな風に何度ももつれをほどいて、だんだん櫛がよく通るようになってきたところだから、タカ丸くんが夢中になるのも分かる。
「休みの日とか長屋にいると、ほんと、うるさいなーってくらい、よく鳴いてるよ。四年長屋の前に生け垣があるからさ、そこにいっぱいいるみたい」
「へえ、そうなんだ」
 髪いじりに集中しているように見えても、ちゃんと会話の相手をしてくれる。さすがプロの髪結いさんだ。
 髪に櫛が通る、ただそれだけで気持ちいい。日頃から寝乱れてぐちゃぐちゃになりつつもろくに梳かさず、洗いはするけど手入れはせず、結えればいいやと高い位置で縛りっぱなしにしていた髪が、少しずつ解きほぐされていく。絡まりやもつれは丁寧にほぐされて、一本一本があるがままの姿を取り戻していく。そこへ櫛が通ると、本当に気持ちがいい。
 そうやって大きく広がった僕の髪は、首や肩や背中を覆ってちょっとうっとおしかったけれど。首筋を時たま涼しい風が通っていく、それもまた気持ちいい。暑い夏は始まったばかりだけれども、朝のうちはまだ涼しさが残っている。僕らが腰掛けてる西向きの縁側にも、爽やかな風が通っていった。
 今日が夏休み初日。昨日終業式があって、帰省する朋輩や後輩たちを見送った。学園に残る生徒は他にも何人かいて、今朝はその数人で寄り集まって朝食を食べたけれど、その後、待ちかまえていたかのようなタカ丸くんに、四年長屋に連れてこられた。
 外廊下の日陰を選んで座らされて、元結いを解かれて、僕の背後に陣取ったタカ丸くんの手元には、当然のように櫛やら鋏やらが揃っていて。そこから、わくわくと高揚した気配が伝わってきた。
「楽しそうだね」
「そりゃあもう」
 声に微笑みを感じて振り向けば、にっこり笑顔がそこにあった。
「伊作くんの髪をいじれるってだけでも嬉しいのに、今日から独り占めできるんだもんね。楽しみっていうか、楽しいよ」
 満面の笑みでそう言うと、タカ丸くんは僕の頭に手を添えて、ゆっくりとまた前を向かせた。
 だから多分、赤面した顔は見られてないと思う。
 独り占めとか、何だか照れる。
 でも確かに、今まであまり二人っきりでは会えなかった。ただでさえ編入生は大変なのに、タカ丸くんはいきなり四年生になっちゃったから、忍術の勉強が大変そうだった。手伝ってあげたかったけれど、僕も委員会の仕事が忙しくて。これまでにいろいろ紆余曲折あったけれど、思いを伝え合って、いわゆる、まあ、その、そういう仲になった僕らだけれども。こうして二人っきりでゆっくりできるのは、久しぶりかもしれない。そう思うととても嬉しくて……やっぱり照れる。
「え、ええっと」
 何か言わないと。そう思った僕は、ずっと気になっていたことを口にしていた。
「でも、タカ丸くんは、家に帰らなくていいの?」
「うん、いーの」
「え、でも、お父さんのお手伝いとか、しなくて大丈夫?」
「大丈夫。店が大変なようだったら、知らせてくれたら帰るって言ってあるし。家までそんなに遠くないから、すぐ帰れるし」
「そっか」
「伊作くんこそ、帰らなくていいの?」
 なめらかに滑っていた櫛が、絡まった毛に当たって止まった。櫛をいったん外して、タカ丸くんの指先が丁寧に絡まりをほぐした後、再び櫛が通る。
「いいんだ、僕は別に。薬草園の世話もあるし……ほら、予算会議でろくに予算がもらえなかった分、自分たちで稼がなくちゃいけないから。薬作りとか、やることは一杯あるし」
「ふうん」
 何事かを察したのか、興味がないのか。どっちとも取れるような口調で相槌を打ちながら、タカ丸くんは僕の髪をひたすら梳いていく。
「ね、伊作くん」
「何?」
「毛先、だいぶ痛んでるよ。先の方、揃えちゃっていい?」
「うん、お願い」
 よっしゃ、とばかりに櫛を鋏に持ち変えると、今度は背後から、ちょんちょんと景気のいい鋏の音が聞こえてくる。
「長さはそのままに、今とあんまり変わらないように気をつけるね」
「いっそすっぱり短くしてくれてもいいよ」
「それはダメだよ」
 鋏の音が一瞬止まって、僕の提案に、タカ丸くんは珍しくすっぱり答えた。
「だって伊作くんの髪、ふわふわして柔らかくて気持ちいいんだもん。すっぱり切っちゃうなんて、もったいないよー」
 背後で髪が持ち上げられて、手の中で弄ばれてるみたいだ。普段は絡まりやすくて結いにくい髪だと思ってたけど、タカ丸くんに気持ちいいと思ってもらえるなんて。こんな髪で良かったと、心から思った。
「プロの髪結いさんから見て、結構いい髪してるってこと?」
 高く売れるかなあ、と冗談めかして聞いてみたら、それはどうかな、と、珍しくも至極まじめな答えが返ってきた。
「伊作くんの髪は色が茶色っぽいし、何もしなくても自然にうねるし、細い分切れやすいし、かもじには向かないね」
「あ、そう、なんだ」
「高く売るんなら、立花くんみたいなのが最高だよ」
「ふうん……」
 そりゃあ仙蔵の髪は綺麗だけれど。そうか、やっぱり僕の髪は、さほどいい髪ではないのかと思うと、ちょっとがっかりだ。
「でも僕は、伊作くんの髪、好きだよ」
 僕が少し落ち込んだのを感じたのか、プロの髪結いさんは付け足すように慌てて言う。
「……色は薄いしうねって絡まるし切れやすいのに?」
 僻みっぽく言ったのは、拗ねるような気持ちがあったからだけど。
 それを知ってか知らずか、タカ丸くんはこちらが赤面するようなことを言ってくれた。
「だって、大好きな人の髪だからね」
 ちょんちょんと再び始まる鋏の音。何の気負いもない声色だった。何でタカ丸くんはこうもさらっと、凄いことを平気で言っちゃえるかなあ。
 どうしよう、顔が熱い。今すっごく赤面してるに違いない。後ろを向いているから、顔は見られてないだろうけど……耳!折り悪しくタカ丸くんの指が耳の上の髪をかきあげる。見られただろうか。耳、赤くなってないといいな。
 でも胸は、もの凄く高鳴ってる。大好きな人、って。僕のことだよね。びっくりした分、すごく幸せで、苦しいくらい鼓動が早くて、どうしたらいいんだろう。
 この気持ちを伝えたい。タカ丸くんに好きだって言ってもらえたら、とても嬉しいこと。凄く幸せな気持ちになること。
 僕もタカ丸くんのことが大好きなんだってこと。
「あのね」
「ん?」
 切り出せば、鋏の音が止んだ。続きを待っている。それなのに、気持ちは溢れそうなのに、胸が高鳴って、目の前が潤んで、上手く言葉が出てこない。
「どうしたの」
 俯いた僕の前に、タカ丸くんがしゃがみこむ気配。タカ丸くんの指が、僕の顔に垂れた髪を耳の後ろに流す。そうやって開いた視界に微笑む顔が見えて、ああきっと、タカ丸くんは僕の言いたいことが分かってる。
 忍術では後輩だけれど、同い年だから。牡羊座で早生まれの僕よりも半年以上年上で、ずっと学園にいた僕よりも、ずっとずっと世慣れているから。
 こんなうぶで幼い僕の相手なんて面倒だろうなと思ったら、胸が痛んだ。だけど。
「伊作くん」
 頬に触れる手が優しいから。触れてくれることが嬉しいから、言わずにはいられない。
「大好きだよ。……僕も、タカ丸くんのこと」
 一度引いた赤面が、また戻ってきた。顔が熱い。それこそ、火を噴きそうなくらい。
 それを見て、タカ丸くんがぷっと吹き出した。
「……もおっ、笑い事じゃないだろう!」
 人が決死の覚悟で伝えたのに!怒りに照れが吹き飛んで、ふてくされてそっぽを向いたら、ごめんごめんと、半年年上の後輩が肩を抱いてきた。
「だって伊作くん、可愛いんだもん。最高。もう、大好き!」
 さっきまで怒ってたはずなのに、ぎゅっと肩をつかまれて、引き寄せられて、それで幸せな気分になれるんだから、僕は相当おめでたいのかもしれない。
 でも、いつの間にかタカ丸くんに、座ったままぎゅっと抱きしめられていたのだから、仕方ないと思う。
「伊作くんに会えただけでも、忍術学園に入ってよかったなあって思うよ」
「タカ丸くん……」
 至近距離にある顔が、にっこり笑う。いつもにこやかな彼だけれど、笑顔は格別、心に沁みる。
「好きだよ、伊作くん」
 見とれている間に笑顔は近づいてきて、唇が僕の唇に触れた。軽く当てたり、ちゅっと音を立てて吸ったり。何度も何度もついばむように唇で唇を挟んだりしてくるから、僕も同じようについばみ返してみる。そんなじゃれるような口づけを交わす。
「今日はこの後、髪洗って、リンスしてトリートメントして、乾かして、それから結ってあげるね」
 唇が離れた後、にっこり笑顔でぎゅっと抱きしめてくれるから、僕は夢見心地でその背に腕を伸ばす。
「……うん」
「この続きは、その後、ゆっくりね」
「うん。……って、ええと、あの、その」
 続きって、それってつまり。赤面して慌てて離れる僕に、タカ丸くんはにっこり笑った。
「だって、夏休みの間中、伊作くんを独り占めするって、決めたんだもんね!」
 あっけらかんとした満面の笑みは、まるでひまわりのよう。大きくて揺るぎなくて、可愛いけれど力強いその笑みに、僕は思わず頷いていた。
「で、とりあえず今は、伊作くんの髪を、心ゆくまでいじりたいな」
「……その辺、なんていうか、本当、髪結いさんだよね」
 まず髪の毛が先、なんだから。きっと手入れの悪い僕の髪を、許しておけないんだろうな。二人っきりでゆっくりする前に、何とかしておきたいに違いない。
「ダメ、かなあ?」
「ううん、いいよ」
 居住まいを正して元の通り座り直せば、タカ丸くんはその背後に陣取る。鋏の音の合間に、すうっと櫛が通っていく。
 日差しはどんどん高くなって、涼しかった風も熱を帯びていく。
 蝉もやかましく鳴いて、ああこれから夏本番なんだなあと思うと、それだけで何だかのぼせてしまいそうだった。
 のぼせそうなほど、幸せな夏が始まる。

 >リクエスト下さった方へ 
Copyright(C)2009 卯月朔 All rights reserved.
a template by flower&clover