この世の果ての雪


 話が途切れた途端、ばちん、と大きな音がして炭がはぜた。
 その後に訪れるのは、完全な静寂。風の音どころか、家鳴り一つしない。
「……静かだね」
 今まで下級生の話で盛り上がっていたのが嘘のような、しんみりした声。
「ああ」
 返事をする俺の声にも、似たような響き。
「まだ、雪降ってるのかな」
 言いながら障子の方を見やっても、答えが判ろう筈も無い。障子を閉めた上に板戸も立ててある。これで外の冷気が入ってくることは無いが、外の様子も判らない。
「降ってんじゃねぇか。これだけ静かなんだし」
 ぱちん、とまた炭の音。雪の夜だというのにこの火鉢のおかげで、俺たちはそれなりに暖かく過ごすことが出来ていた。
「雪は音を吸収するっていうよね。本当かなあ?」
 言いながら火箸で炭を一つ摘み上げると、それをふーっと吹いた。吹かれたところは赤くなるが、すぐまたもとの真っ黒に戻ろうとする。何度か繰り返して、半分くらい真っ赤になったところで、伊作はそれを火鉢に戻した。
「さあな。でも、雪が降ると妙に静かに感じられるよな」
「夕方頃はうるさいくらいだったのにね」
 火鉢の向こうで、見慣れた顔が笑う。
 今日の夕方過ぎに雪が降り出した時、一年生達は歓声を上げて校庭に出てきた。雪だよ、積もるかなあ、雪だるま作ろう、雪合戦しようという声は本当に賑やかで、夕食だからと先生達に追い立てられるまで、その騒ぎは続いていたのだけれど。
 今はもうすっかり収まって、校庭も静けさを取り戻しているだろう。騒ぎの主だった一年生達も、みんな長屋で床についているだろう。
 隣の部屋の住人も、もう眠りに就いたらしい。少し前まで物音がしていたが、一刻ほど前にその音も途絶えた。いつも夜間に走り回っている鍛錬バカとその友人はどうしたろう。雪の夜こそ鍛錬には適している筈だが、流石の体育委員長も地獄の会計委員長も、今夜ばかりは諦めたのだとしか思えない。それほど、外には何の気配もなかった。
「……静かだねえ」
 ぱちぱち、と音がして火花が散る。火箸で意味も無く炭を突付きながら、何度目かの同じ台詞を伊作が呟く。
「ああ」
 答える俺の相槌も、代わり映えしない。ぼんやりと、炭の赤を見守っていた。
「こうも静かだと、なんていうか」
 火箸の先で、炭が割れる。断面まで紅く輝かせながら、塊は二つに分かれた。
「この部屋だけ、別のところにあるみたいな。そんな気がする」
「別のところ?」
「うーん、ちょっと違うな。なんていうか、何て言ったらいいのか……」
 少し言いあぐねてから、おずおずと伊作は切り出した。
「なんていうのかな。こう、僕たち二人を残して、みんな死んでしまった、みたいなね」
 言葉を息と共に吐き出してから、伊作は慌てて微笑んだ。
「もちろんそんなこと、あり得ないけど」
 ああ、と俺は感嘆するように息を吐き出した。
「あり得ない。……でも俺も、同じこと考えてた」
「留三郎も?」
 びっくりしたように、元から大きな猫みたいな目をさらに見開く。
「ああ。例えばさ。例えばの話なんだけど」
「うん」
「例えば、どこか遠くの国で戦が起こる。激しい戦で、その国の男はみんな、百姓から何から一人残らず徴発される。村や畑が焼かれて女子供も死ぬ。戦はどんどん規模を大きくし、近隣諸国を巻き込んで、広がるばかりで一向に収まらない。この辺りの村も、ドクタケもタソガレドキも、みんなみんな戦に巻き込まれる」
 俺の語る物騒な物語を、伊作は黙って聞いていた。
「忍術学園も然り。戦の手伝いを頼まれて、先生方を始めとして、生徒全員が戦に向かうんだ。……ところが、俺とお前だけは、不運のせいで戦に参加できなくて」
「おやおや」
 不運、と聞いて伊作の頬が崩れた。炭火の紅い炎が、柔らかな笑顔に照る。
「最初は嘆くんだよ。武功をあげそこなった、って。みんな活躍するだろうになんで俺達だけ、って。でも気付いたら、戦は終わって、みんな死んでいた。一兵残らず死ぬ。それが戦の終わりで」
 言葉を切ると、わざと間を取った。ことさら冗談めかして言う。
「生き残ったのは俺達だけ。……なんてな」
 ぱちぱちん、と炭がはぜる。やけにその音が部屋に響くほど、他には何の音も無かった。
「無理があるよなあ。俺たちは不運だとしても、普通、下級生や小松田さんは合戦場へなんか行かないよな。食堂のおばちゃんとかも。説得力ねえな」
 その方がいい。語りながら、頭の中には地獄絵図があった。それは小さい頃寺の天井に見て震え上がったものであり、実際に自分が合戦場に立って体感したものであり。どうにせよ、そんなものが忍術学園を巻き込んで展開していい筈が無かった。
「でもさ。どこか遠くの国で戦が起こる、っていうのは、ありそうだよね。ううん、今もどこかで戦の火種が撒かれてるだろうし、合戦は始まってるかもしれない」
 静かに言いながら、伊作は火鉢の中身をかき回した。小さく火の粉が上がって、熱と光が撒き散らかされる。
「僕はね、流行り病、かな」
「流行り病?」
 鸚鵡返しに問えば、保健委員長は、うん、と頷いた。
「その病に罹ると、眠るように死んでいくんだよ。何の痛みもなく、苦しみもないまま。病は風に乗って運ばれてね、山や川を越えて、遠くの国まで広がって行く。男も女も、年寄りも赤ちゃんも、みんなみんな眠るように死んでいってね。人という人はみんな死に絶えるんだ」
 少し落ち着いたのか、火鉢の中で、炭は静かに燃えていた。紅くかんかんに熾った炭が、炎を吹き出すことも爆ぜることもなくただ燃えている。
「もちろん忍術学園にも病が来てね。みんな眠るように死んで行くんだ。下級生達はおやすみなさいを言った後で、病に罹って死んでしまって。教員長屋でも打つ手が無くて。火薬の調合をしていた仙蔵も、図書室で本を読んでいる長次も、鍛錬で裏々山を走り回っている文次郎と小平太も。みんなみんな眠るように死んでいくんだ。……偶然、部屋を閉め切って寒さを防いでいた僕たちだけが罹らずに済んでね。こうして生きているのだけれど、板戸を開けたら、みんなもう死に絶えていて」
 音の無い暗闇の中、伊作の声だけが響く。さして広くも無い部屋の中を淡々と流れていく声に、俺は身を委ねていた。
「なんて、悪趣味だよねえ。僕たち二人が生き残って、何になるんだよね」
 笑う伊作に合わせるように、炭がはぜた。軽く火の粉が飛ぶ。
「文次郎や小平太が聞いたら怒るよね。勝手に殺すな、って」
「だろうな」
 同意すれば、ふふ、と唇から笑みがこぼれた。
「でも」
「……でも?」
「俺は、それでもいい」
 小さく言い切ってから、俺は目を閉じた。
 俺の脳裏には、部屋で転寝をする仙蔵や、本棚にもたれて眠る長次の姿が思い描かれた。きっと安らかなな表情をしているだろう。下級生達温かな布団の中で優しい夢を見ながら。先生達も打つ手がないことを残念に思いながらもきっと穏やかな表情で。
 そうやって眠るように死んでいくみんなの上に、ただ雪が降る。
 しんしんと雪が降り積もっていくのだ。
 同じように人の死を思い描いても、伊作の描いたものはとても優しかった。それはある意味、理想のように思えた。少なくとも、俺の地獄絵図なんかよりよっぽどいい。
「……え?」
 この世に生きているのは、俺と伊作の二人きり。
 もちろん、それが嘘だというのは分かっている。すぐに朝が来て、板戸を開ければ一面の銀世界が俺たちを待っている。学園総出で雪かきをし、俺は屋根の雪下ろしに駆り出され、伊作は凍傷の手当てにおおわらわで、明日もまた大忙しの大騒ぎだ。そんな日々を俺は愛しているし、伊作だってそうだろう。先生達が見守ってくれて、下級生達は手がかかる分可愛くて。競い合う朋輩達とやり甲斐のある勉強。この騒々しい日常をかけがえのないものだと思っている。
 でも。
 それと引き換えにしてもいいと思った。
「留三郎……?」
 目を開ければ、ずっと俺の顔を見ていたらしい伊作と目があった。しかしその瞬間、奴は目を逸した。
 炭のはぜる音が響く。
「……静かだね」
 どれぐらい沈黙を続けた後だろう。伊作がふいに呟いた。
「ああ」
 それは一刻も二刻も続いたようで、小半時も無かったかもしれない。
 相変わらずの静けさの中、俺たちは火鉢を挟んで向かい合っていた。
 吹雪く様子も無ければ、霰や雹が降ってくることもない。板戸の間から透かし見ても、夜明けの気配もない。
「僕らも早くやすまないとね」
 そう言いながら、火箸は炭を突付く。意味も無くひっくり返しては、またもとに戻す。
「明日はきっと、雪上マラソンだよ。それとも雪かきかな。うわ、どっちにしろキツそうだなあ」
 ちゃんと眠っておかないと、すぐにばてて倒れちゃうよ。苦笑いしながらも、火箸は炭を突付くばかり。
「この分だと、相当積もってるだろうからなあ」
 のんびり相槌を打ちながらも、目は伊作の火箸を追っている。
「教員長屋の一部に、雨漏りしてるところがあったんだよな。あそこ大丈夫だろうか」
「今頃凍ってるかもね」
「ありそうだ……うわ、溶けるまで補修できねえ」
 どうでもいい話をしながら、伊作の手は火の始末をするつもりがなさそうだった。炭を灰に埋めるどころか、ひっくり返しては満遍なく空気にあてていた。
 伊作もまた、この夜を終わらせられずにいる。
 闇の極まる日の、最も長い夜。
 この部屋だけがあの世から切り離され、別の蓮の葉の上に置かれたかのような、ひどく静かな夜。
 俺たちは、長いこと傍にいすぎたのかもしれない。
 口をすぼめた伊作がふうっと吹けば、黒ずんだ炭が赤く熾きた。
「用具委員も大変だね」
 無責任なまでににっこり笑う伊作に、俺はわざとらしくふくれてみせる。
「大変なんだぜ。この間も用具倉庫で……」
 火鉢の中で炭がはぜる。それだけがこの世の全てだった。

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