5000Hit記念リク第十一弾

守ること


 中天に月がかかる。
 満月とはいかないまでも充分に肥え太った下弦の月は、下界を明々と照らした。忍ぶには向かない夜。だからこそ、上手く忍べる者が忍びの上手だ。雑渡昆奈門は目の前の塀を音もなく乗り越えた。
 躑躅の植え込みの影から、ゆるやかに広がる庭を見渡す。この先、生垣に区切られた辺りまでは人の気配はない。広大な敷地を持つ忍術学園のこと、厳重に警戒されているのは、学園長の庵と教員長屋ぐらいのもの。少し離れた忍たま長屋や、校舎、図書館などは教員によってはさほど警備されていない。ましてやこんな学園の外れの庭、厳重な警備の目があるはずが無い。
 無論、曲がりなりにも忍者の学校、夜中にも鍛錬を怠らず、学園中を走り回っている者たちがいる。教員が警戒するまでもなく、そこかしこに、昼日中に劣らぬ程の人の目がある。
 しかしそれらも所詮、修行中のたまごの目だ。雑渡はそうした気配をかわし、やり過ごし、ゆるゆると目的地へと近づいた。
 その部屋には明かりがついていた。前栽に身を潜めて気配を探る。警戒の薄い校舎棟とはいえ、高価な薬を置く医務室のこと、見回りの教員が来ないこともない。しばらく植え込みに同化して様子を見たが、校舎内に他に人気はなかった。医務室にただ一人きり。その息遣いは若々しく、校医の新野のものとは思われなかった。下級生たちが寝静まっている夜中、こんな時刻に一人で医務室にいる者といえば、保健委員長ぐらいしか考えられない。
 善法寺伊作。その名を明るい笑顔と共に頭に浮かべた雑渡は、知らぬうちに頬をゆるめていた。不運で有名な彼は、怪我人を見過ごせない生粋の保健委員であった。合戦場で包帯を譲り受けて以来、顔見知りになった。警戒することを知らぬではないだろうに、夜中に突然訪れても笑顔で迎えてくれる。いつしか、仕事の暇を見つけてここへ通うことが楽しみになっていた。
 雑渡はおもむろに立ち上がった。気配を殺すのをやめ、足音の立つままに歩む。外廊下に上がり、「こんばんは」と声をかけてからゆっくりと戸を開く。
「あ、雑渡さん」
 気配で訪れを知っていたのか、戸が開くと同時に明るい色の髪が跳ね、振り向いた顔は柔らかくにっこりと笑った。
「こんばんは」
 文机の前に座って、書き物でもしてたのだろうか。素早く立ち上がると、いつものように円座を用意した。文机の前の自分の円座と向かい合う位置に敷く。
「なんだか、久しぶりな気がしますね。どうぞ、かけて下さい。今、お茶淹れますね」
「いや、すぐお暇するから。お構いなく」
「そんなこと言わないで、飲んでみて下さい。枸杞のお茶って、疲れが取れるらしいですよ」
 雑渡さんにぴったりじゃないですか。そう言って笑いながら、手は慣れた手つきですっかりお茶の支度を整えている。やれやれと思いながら、雑渡は用意された円座に腰を下ろした。
「夏ごろに枸杞の葉っぱや新芽を取って、干しておいたんです。お茶にすれば飲みやすいかと思いまして」
「ふうん」
「少し匂いが特徴的ですけれど、慣れればいい香りですよ。少なくとも、前回のように、めちゃくちゃ苦いということはありませんから」
 どうぞ、と雑渡の前に湯気の立つ湯呑みが置かれた。
 その湯呑みには「ざっと」の文字が書かれている。医務室に来た時には、いつもこの湯呑みでお茶が振る舞われた。中身は伊作特製の薬草茶であり、それは大抵、良薬口に苦しを身をもって体験できるお茶であった。
「伊作くんの淹れてくれたお茶なら、苦かろうと渋かろうと飲むけどね」
 しばらく「ざっと」の文字に注がれた雑渡の視線は湯呑みを逸れ、苔色の制服を這い上がり、にこやかな笑みをたたえた顔で止まった。
「悪いけど、君が淹れてくれたお茶は、あんまり飲みたくないなあ。……鉢屋、次郎くんだっけ?」
「三郎です」
 反射的に答えてから、鉢屋は顔をはぎ取った。明るい色の髪の鬘を外し、いつもの髪に付けかえる。一瞬としか言いようのない早業であった。
「せっかく先輩の制服まで用意したのに。バレちゃあ仕方ないですね」
 確かに変装の名人だけあって、姿形は伊作そのものだった。しかし、笑顔が違う。顔形だけ真似ればいいというものではない。雰囲気と言おうか、まわりを明るくする伊作のあの笑顔だけは、誰にも真似出来るものではない。だから貴重だしかけがえないのだ、と雑渡は改めてそう思った。
「それで、伊作くんは?」
 問いかければ、変装の名人は口元に笑みを浮かべた。その顔の本来の持ち主、不破雷蔵であれば見せぬであろう、不敵な笑みを。
「隠しました。もう、貴方には会わせません」
「……ほう」
 剣呑な気配を感じ、雑渡の目が細まった。手の込んだ待ち伏せには意味があったらしい。穏やかならざる理由が。ともあれ相手の意図を明らかにするべく、雑渡は言葉を継いだ。
「何故隠したりするのか、その理由を聞いておこうか」
「ツキヨダケ忍者、と言えば理解していただけると思いますよ」
 鉢屋の台詞に、雑渡の目が僅かに細まった。
「思い当たることがおありですね」
「鉢屋くん……そうか、鉢屋衆か」
 外に出ている目を半眼に細めて、雑渡は目の前の子供をまじまじと見た。前に会った時に着ていた制服の色からして五年生。十四歳の筈だが、中身も心も見かけ通りの年齢とは限らないだろう。あの鉢屋衆に連なる者ならば。
 急に喉の乾きを覚えて、雑渡は目の前の湯呑みに目を落とした。しかし、これを飲む訳にもいかないだろう。目の前の子供が伊作に化けていたのは、これを飲ませるためだったかもしれない。相手が鉢屋衆であれば、それも有り得る。雑渡は湯呑みから顔を上げた。
「成程ね。名字を聞いた時から、もしやとは思ってたんだけど。やっぱり、鉢屋を名乗るからには、宗家とかそれに近いところにいるのかな」
「俺のことはどうでもいいです」
 鉢屋はきっぱり言い切ると、真っ直ぐに雑渡を見返した。
「伊作先輩にとって、あんたは疫病神でしかない。もう二度と、先輩には近付かないで下さい」
 その目は何の衒いもなく真っ直ぐに真剣で、それはこの若き鉢屋衆の心根を表しているようにも見えた。この子はただ真っ直ぐに、真剣に、伊作のことを想っている。それが故のこの言葉。
 雑渡とてそのことは重々承知していた。偶然ひょんなことから顔見知りになっただけで、それ以外には縁もゆかりもない。立場の違いを考慮すれば、こちらが相手を潰しかねない。
 それなのに何度も夜中、伊作一人の医務室を訪ねたのは何故か。あの笑顔が見たかったからだ。
 伊作の笑顔は雑渡を癒した。疑うことを知らぬではないのに、偽りなく、素直に笑う顔は、雑渡の心を温めた。仕事に疲れ、強ばり、冷えてゆく心を解きほぐすには、伊作との会話がなにより効いた。
 その存在が、雑渡の中でかけがえのないものになろうとしていた。しかし、大事に思うならなおさら、軽々しく会ってはいけない。立場も年齢も価値観も、ひどく違いすぎる。
 それは目の前の小僧に今更言われるまでもなく分かっていた。覆面の下で、雑渡の口が笑みを形作った。
「そんなこと、君に言われる筋合いはないな」
「ありますよ。俺は伊作先輩の後輩ですから。先輩の為を思って言ってるんです」
「それで先輩を隠しちゃったのかい?……やれやれ、伊作くんも厄介な後輩を背負い込んだものだ」
 厄介、と聞いて鉢屋は目を剥いた。しかし激昂しそうになる自分を、すんでのところで止める。ただ、怒りや憎しみや敵意といった、ありとあらゆる攻撃的な負の感情を、惜しみなく目の前の黒装束に投げつけた。
「ともかく、伊作先輩には会わせませんから。どうぞお引き取り下さい」
「そう言われると、ますます会いたくなるよね。……奪ってでも」
 何気なさを装って呟かれた一言が、相手の負の感情に火をつけた。それらは青白く燃え上がり、焼き尽くさんばかりの殺気となって雑渡に叩きつけられる。
「会わせません、と言った筈ですよ」
「何でそれを、君が決めつけるのかなあ」
「俺が伊作先輩を守るから、です」
 一度瞬きをした後、鉢屋の目が半眼になった。その奥に底光りする暗い色を見て、雑渡は、ほう、と思った。
「伊作先輩は、いずれ菩薩になる人だ。合戦場で俺たちを救ってくれるんだ。力で押さえ込んで、汚ねえ手で独り占めにしていい人じゃねえ」
 台詞はともかく、その心意気は買った。この小僧は、伊作のために命を懸けるつもりでいる。たかが保健委員の、不運で出来の悪い上級生一人のために。鉢屋衆の、この世の裏の闇を牛耳る組織の中枢に近いところに位置する若造が。命を賭してまで守ろうというのか。
 それほどまでに慕っているのだ、伊作を。その意気や良し。しかし守り抜くことが出来るのか。お前にその力はあるのか。
 試してやる。雑渡は軽く吹き出しながら、笑みの形に顔を歪めた。
「大袈裟だねえ、菩薩とか。伊作くんが聞いたら、照れて困って怒っちゃうよ」
「……知ったような口をきくな!」
 瞬間、鉢屋の手が不自然に文机にかけられたと思うと、横から大きな質量が襲いかかってきた。薬箪笥だ。鉢屋の手が何らかの装置を動かしたのだろう、雑渡の座る方へ突然薬箪笥が倒れてきた。
 とっさに横に飛んで避ける。そこへ風切音。不穏な気配を察知し、避けるべく空中で身をよじった雑渡は、無様にも背中から落ちた。馬乗りになる体、首に突きつけられた忍者刀、轟音をあげて倒れる薬箪笥。
「相変わらず物騒な子だねえ。票刀(当て字)を三つも投げつけてくるなんて」
「貴方相手に手加減しても仕方有りませんからね」
 忍者刀の刃は、ぴたりと雑渡の首に添えられていた。月明かりに光るそれは、なかなか手入れが良さそうだ。
 馬乗りになった体は巧妙に足が雑渡の腕を押さえ、体重だけで上手く相手を封じ込めていた。薬箪笥を倒し、雑渡を飛び退かせ、空中にいる間に票刀を放ち、運が良ければ手傷を負わせ悪くても相手の体勢を崩す。そこを封じる。なかなか手の込んだ作戦と言えた。
「……いい眺めですね。泣く子も黙るタソガレドキ城の忍び組頭を組敷くなんて。部下の方々がご覧になったら、なんと思われるか」
 半眼に目を眇めたままくすくす笑う相手を見上げて、ただし、と考えた。詰めが甘い。止めを刺すつもりなら、とっととやれば良かろうに。
「雑渡さんって、意外に部下のみなさんに慕われてますもんねえ。俺なんか三回は殺されちゃうかもなあ。……部下の人達が居なくて、良かった」
 その時、雑渡の目に倒れた薬箪笥が映った。
「成程。時間稼ぎ、か」
「なっ……!?」
 雑渡は渾身の力で身を捻り、態勢の崩れたところで腕を抜き、自分の上の体を引きずり倒した。その間、忍者刀が首をかすったが気にしなかった。相手に自分を殺すつもりなどないのだ。
「この……っ!」
 態勢を立て直すと、相手はすぐ切りかかってきた。苦無で受け止めると火花が散る。憤怒の形相で押してくるが、所詮は子供、力同士のせめぎあいで負ける筈がなかった。
 苦無を振って横に力を流すと、一歩踏み込んで鳩尾に膝を叩き込んだ。崩れおちる体に、止めの一撃、苦無の持ち手を遠慮なく、こめかみに叩き込む。
 名状しがたい声を上げて、どさりと体が倒れた。
「悪いね。……あと、意外に、は余計だよ」
 苦無を懐にしまうと、雑渡は医務室を飛び出した。
 なかなかやる。しかし、まだまだ甘い。
 覆面の下で楽しげな笑みを浮かべると、雑渡は再び音もなく塀を越えた。


 どーん、という音が聞こえた気がした。ついにやったか。布団を敷く雷蔵の手が止まりかけたが、なんとか動作を続けた。傍にいる人に緊張を気取られてはならない。
「今、何か音がしなかった?」
「音ですか?」
「どこか遠くの方で、大きい音がしたような気がしたんだけど。校舎の方かな」
 隣の布団に枕を置きながら、伊作が首を傾げた。それにつられて、ふわふわの髪が肩から滑り落ちる。白い寝巻に髪を下ろして、もうあとは寝るだけというくつろいだ姿をしていた。
「さあ。僕には聞こえませんでしたけれど。……布団をばたばたさせてたせいかな、すみません」
「いや、謝るようなことじゃないよ。雷蔵に聞こえなかったんなら、僕の気のせいかもしれないし」
 本当は気のせいではない。あれはきっと、医務室で薬箪笥が倒れた音だ。校舎からはやや遠い五年長屋だが、それでもその音は聞こえた。三郎は首尾よくやれただろうか。首尾よくいこうと駄目だろうと、その結果が自分のところへ伝わるまでは時間がかかる、これはそういう作戦だと分かっていても、気になって仕方が無い。
 三郎は無事に、あの忍び組頭に引導を渡せたのか、否か。
 「そういえば、鉢屋ってさ」
 三郎の事を考えていた時にその名前を聞いて、雷蔵は文字通り飛び上がりそうになった。考えていたことを気づかれたかといらぬ心配をしたが、そんな雷蔵を尻目に伊作はのんびりと続けた。
「今夜はどこに泊まってるのかな。ちゃんと落ち着いて寝られたらいいけど」
「え、ああ、そうですね」
 枕を置き直す振りをして乱れてもいない枕の位置を直すと、ぽんぽんと意味もなく叩き、それから雷蔵は隣の布団にいる先輩に向き合った。
「適当に何とかする、みたいなことを言ってましたから、僕にもはっきりとは分かりませんけれども。適当な空き部屋に潜り込むなり、裏山の小屋に行くなり、何とかしてると思いますよ。今夜は雨とか降ってませんから、野宿するにしても、そんなに辛くありませんし」
「そうだね、鉢屋なら大丈夫かな。……なんて、部屋から追い出して布団奪っておいて、こんな風に言うのもなんだけど」 
「いや、そんなの当然です!」
 雷蔵は語気強く言うと、伊作に向かってぺこりと頭を下げた。
「今回は三郎がご迷惑をおかけしちゃって、すみません、本当に」
「あ、いや、そんなに気にしないで。……大体、悪いのは鉢屋で、雷蔵じゃないんだし」
「いやまあ、そうなんですけれども」
 恐縮がる雷蔵の気持ちをほぐそうとしているのか、それとも単に思い出し笑いなのか、伊作はくすりと笑った。
「委員会の後輩たちと、水鉄砲を作ったんだってね」
「はい。よく出来たから、ついつい試してみたくなったらしく、水場で遊んでたら、夢中になってしまって、その近くに干してあった伊作先輩の敷き布団に直撃させたとか……」
「鉢屋らしいよね」
 くすくす笑う顔にかげりはなくて、この先輩はもう三郎のことを許しているのだ、ということが雷蔵にも分かった。
 この懐の広さ。不運な目に遭い続けたせいか、物に拘らないおおらかさも、伊作の魅力の一つだった。
「むしろ僕の方こそ、布団を借りるついでに、いきなり泊まりに来ちゃって、ごめんね」
「ああいえそんな、お気遣いなく。本当は布団を先輩の部屋に持っていけば良かったのに、三郎の奴、面倒がりまして……僕が持って行っても良かったんですけど」
「雷蔵にそこまでさせるのも悪いよ。それに、まだ、足の傷が治りきってないんじゃない?」
 そこでふと、伊作の表情が曇った。視線が夜着越しに自分の怪我を見ているのかと思うと、とっさに雷蔵は怪我の箇所を手で覆った。
 手の下、寝巻と包帯の下には、ツキヨダケ忍者に切られた傷がある。
 先日、灯りの付いた医務室の傍で遭遇し、不審者と思い誰何したところ逃げられ、深追いの末に切りつけられた。
 追い払うだけに留めておけばよかったのかもしれないが、追わずに居られなかったのは、遭遇した位置が位置だからだ。覆面ごしに見えた目は、蜥蜴か蛇のように冷たかった。あんな忍者が伊作の傍をうろちょろしていたかと思うとぞっとしない。
 ともあれ雷蔵は、怪我の箇所を撫でさすりながら、笑顔を作った。
「いえ、もう大丈夫ですよ。すっかりふさがってますし、痛みとかもありませんから」
「そう?」
「ええ。今日も昼休みに新野先生に診ていただいて、経過は良好だと伺いました」
「それならいいけど」
 ほう、と伊作は溜息をついた。
「えっと、あの、それより、そろそろやすみませんか。布団も敷き終えたことだし、明日も授業がありますし」
 なんとか伊作の注意を怪我からそらそうと、雷蔵は早口で言った。その気配を察したのか、伊作は雷蔵の顔を見て、一つ頷いた。
「そうだね。もう遅いし、これ以上夜更かしするのも良くないね」
「じゃあ、明かり消します」
「うん、ありがとう」
 雷蔵は、文机の上に置いてあった手燭の火を吹き消した。途端に部屋が闇に包まれる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 雷蔵は自分の布団に潜り込んだ。枕に頭を落ち着け暗闇の中で丸くなれば、雷蔵の手は、いつしか太股の包帯に触れていた。
 今でもあの冷たい目を思い出す。狡猾で容赦ない、蛇か蜥蜴のような目。自分にこの傷を負わせたのは、間違いなくプロの忍者だ。相手も二人組で、恐ろしく腕が立った。傷を負うだけで済んだのは、ひとえにその場に三郎がいたからだ。もし三郎が居なければ、自分は殺さていたかもしれない。
 いつもなら怪我をすればすぐ医務室へ向かう雷蔵も、今回ばかりは医務室を避けた。否、伊作がいる時間を避け、新野先生に診てもらうようにした。自分を傷つけた忍者がツキヨダケ忍者と知れる前から、あの忍者たちは伊作と何か関わりがあるような気がしていた。伊作に気を遣わせてはならないと、傷を見せることを避けた。
 そして後から、その予感は的中していることを知った。
 伊作先輩の身に危険が及ぼうとしている。その事実は怪我よりも雷蔵を戦慄させた。
 その危険を放っておくわけにはいかない。自分を切りつけたあの忍者に、自分は敵わないかもしれない。でも、それでも。
 この学園に長くいて、伊作先輩に手当てしてもらったことのない者などいない。みんなが伊作先輩の世話になっている。伊作先輩は、この学園になくてはならない人だ。伊作先輩を守ることは、この学園を守ることにも繋がる。学園を守ることは、在校生として当然の義務だと思えた。
 伊作先輩を守る。この不運な先輩が医務室で穏やかに微笑んでいることこそ、学園が平和であることの象徴のように感じていた。
 その微笑を思い出しただけで、雷蔵の口元にも笑みが浮かんだ。
 もう、眠ってしまわれただろうか。雷蔵はそっと布団をずらして、隣の布団に目をこらした。するとその音を聞きつけたのだろうか、不意に「雷蔵」と名前を呼ばれた。
「はっ、はいっ!」
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
 もぞもぞと寝返りをうつ気配。伊作がこちらを向いたのだろうか。
「ごめんね。まだ起きてるかなと思ったから」
「あ、いえ、別に、その」
 まさか寝顔を盗み見ようとしていたなどと言える訳がない。ここは寝ていたことにした方がいいのだろうか、迷った雷蔵は、口の中でごにょごにょと呟いた。
「それで、あの、何か」
「うん。あのさ、僕、いびきとか歯ぎしりとかしたら、ごめんね」
「へ?」
 だんだん暗さに慣れてきた目には、障子越しにぼんやりとした月明かりが入るのが分かる。そんな中、わりと真剣な目がこちらに向けられているようだった。
「先輩、いびきかくんですか?」
「うーん、いびきはあんまりないらしいんだけどね。歯ぎしりはたまにしてるって、留三郎が言ってた」
「はあ」
「そうしょっちゅうじゃないらしいから、大丈夫だろうとは思うんだけどさ。一応、先に謝っておこうと思って」
 あまり表情は見えないが、苦笑いしている気配は伝わってくる。気を使ってくれてるんだろうか。
 ありがたいな、と素直に雷蔵は思った。自分は今夜、眠れそうにない。少なくとも三郎から首尾は上々だと聞かされない限りは、眠る訳にはいかない。
 いびきでも歯ぎしりでも、構いませんからなんでもして下さい。しかしそれをそのまま伊作に言う訳にもいかず、雷蔵は「じゃあ僕も」と言った。
「僕も、いびきとかかいたらごめんなさい。なんか、たまにやってるらしいんですよね。三郎に、寝息がうるさい、とかよく言われるんです」
「寝息といびきって、違うんじゃない?」
 薄闇の中で、大きな目がぱちぱちと瞬きをした。
「ていうか寝息ってそんなにうるさいもんかなあ」
「そうですよねえ。僕もよく分からないんですけども、ともかく、うるさかったらごめんなさい」
「いやいや、泊めてもらってる身で、文句は言わないよ」
 枕の上で、伊作がにっこりと笑うのが見えた。よくは見えなくても、笑っている、その気配は伝わってきた。
「……そろそろ、寝ましょうか」
「そうだね。ごめんね、寝るの邪魔しちゃって」
「いいえ。……おやすみなさい」
「おやすみ」
 伊作は寝返りをうってあちらを向いてしまった。だから雷蔵は、ぼんやりと伊作の潜る布団を眺めた。
 いつもの部屋、いつもの布団。
 でも、今夜、三郎の布団に三郎がいない。
 慣れ親しんだ物の中に、見慣れないものがある。それはどうしても雷蔵の心の中に違和感を呼び起こした。しかし、それは不快な感覚ではなく、むしろ不思議な感動を伴っていた。
 障子越しにぼんやりと月明かりが入る。薄明るい部屋の中に、伊作がいる。手を伸ばせば触れられるほど近くで、寝ている。
 ただそれだけのことが、不思議と雷蔵の胸を満たした。穏やかな幸福感が雷蔵を包み込んでいる。
 ただ、そこにいるだけでいいんだ、伊作先輩は。雷蔵はそう思った。五体満足なまま、ただそこにいてくれたら。穏やかな佇まいで、緩やかに時を過ごして、たまに笑ってくれたら。その笑顔は自分に向けられなくてもいい。遠くから眺めるだけでもいい。言葉を交わせなくてもいい。ただそこに、そうしていてくれたら。
 雷蔵は祈るような気持ちで、目を閉じた。瞼の裏に、さっきの伊作の笑顔がよみがえる。それはとても柔らかで優しい顔の筈なのに、何故か胸が痛んだ。痛みは甘く、熱く胸を刺した。
 もちろん、いずれ卒業の日が来ることは知っている。でも、それまでの間、医務室にずっといてくれたら。僕達の傍で笑ってくれたら。
 しかしその祈りは、たったの一言で吹き飛ばされた。
「見いつけた」
「…………っ!」
 雷に撃たれたかのように、雷蔵の全身が総毛立つ。不吉過ぎる声。この声、三郎は。
 しかし雷蔵は何を考えるより早く、声のした方向に棒手裏剣を放った。
「え、なに」
 隣の布団がもぞもぞと動く。雷蔵は身を起こしつつ叫んだ。
「先輩、伏せてっ!」
 叫びつつ手は枕の下の棒手裏剣を探り、気配のする方へ投げた。手応えはない。薄闇の中、更に濃い闇の気配に向けて何度も手裏剣を打つ。気配がすれば即座に打ち込むため、雷蔵もどこへ投げているかなど考えている場合ではなかった。こんな状態で伊作が立ち上がれば、打った手裏剣が刺さりかねない。いや、不運な伊作なら必ず刺さる。
「な、何してるの、雷蔵?」
 しかし六年生ともなれば何が起きているのか分からずとも、不穏な気配が飛び交っているのは分かるのだろう。布団に伏せたまま問いかけてくる。しかし雷蔵に答える余裕はない。
 天井に鴨居に床にと縦横無尽に駆け回る影めがけてひたすら手裏剣を打ち込む。あれを近づけさせない。仕留める。そのため枕の中には、用具倉庫から箱ごと拝借した棒手裏剣がごっそり詰まっていた。
 わずかの間に部屋の中は、針鼠の皮を敷き詰めたようになっていた。それでも走り回る影の動きは衰えず、一本たりともかすった気配はない。雷蔵は焦った。このまま打ち続けては足場がなくなる、その前に敵を引きつけて接近戦に持ち込むかそれとも……。
 影は一瞬の迷いを突いた。
 ほんのわずか、半瞬だけ迷った雷蔵の目の前に飛び降りると、その顎を蹴りあげた。
「うぐっ!」
 反射的に歯を食いしばり、舌を噛むことを避けた雷蔵が、跳ね上がるようにして起きあがった時、影は白いものを纏っていた。いや、白い姿を前面に抱えていた。
「雷蔵!大丈夫!?」
 白い姿は身をよじってこちらへ来ようとしていた。しかし後ろからそれを抱える黒い腕が、その動きを許さない。
「雷蔵くんは大丈夫だし、動かないよね」
 どこか機嫌の良さそうな声で、伊作を抱えた黒装束が腕を動かす。
 かすかな月明かりを受け、伊作の喉元に一本の棒がきらりと光るのを見て、飛び出しかけた雷蔵の動きが止まった。
 棒手裏剣。さっき自分が放ったもののうちの一本。
「あの、雑渡さん?何するんですか?」
 流石に不審に思った伊作が振り向こうとし、棒手裏剣の先が首筋をかすり、それだけで雷蔵は息を飲んだ。
「君も鉢屋くんに負けず劣らず物騒だねえ。よっぽど強力な毒が仕掛けられていると見える」
 雑渡は棒手裏剣を持ち直すと、伊作の首筋にあてがった。そのまま、棒手裏剣の軸で伊作の首筋をさする。
「毒?」
 事態を飲み込めていない伊作は、自分の首筋に当てられた棒手裏剣を見ようとし、雑渡の顔を見上げようとし、雷蔵の顔を見た。その視線を受け止めきれず、雷蔵は目を反らした。
「じゃあ、そういうことで」
「え、そういうって、どう、雑渡さん?」
 伊作を抱え込んだまま、雑渡は部屋を突っ切った。伊作は抗いながらも効果なく、引きずられるようにして雑渡に従う。
「……伊作先輩……!」
 連れ去られる。連れて行かれる。奪われてしまう。
 胸が潰されるような痛みを感じて、雷蔵が追いすがろうとした丁度その時、雑渡が部屋の障子を開いた。
 ぱぱぱぱぱぱんっ、ぱぱぱんっ、ぱんっ!
 その瞬間、百雷銃の爆音が辺り一帯に鳴り響いた。


「さあて先輩、ちょっと狭いんですけど、我慢して下さいね」
「……それはいいんだけどさ、あのさ」
 文句を言おうと開いた口に、土がぱらぱらと落ちてくる。伊作はとっさに口を閉じると、顔を背けて口に入った土を吐き出した。
「あ、すみません。もう終わりますから……はい、これで大丈夫!」
 辺りが暗いせいで、よく見えない。でも声の調子からしても、竹谷はにっこり笑っているようだった。
 根明という評判はその通りだよなあ、と、伊作はしみじみ思った。こんな状況だというのに、明るくにこにこと笑っている、らしい。伊作は思わずため息をついた。反動で、ずずっと鼻をすすり上げる。
「あ、先輩、鼻かみますか?どうぞ!」
 普段なら、他人の手拭いで鼻をかむなんて、相手に悪くて憚られる。しかし今は自分の手拭いを持ってないし、相手には十分迷惑をかけられているような気がするので、遠慮しないことにした。受け取ると盛大に鼻をかむ。
「あー、それにしても、沁みた」
 手拭いを返すと、寝巻の袖で目の端を拭った。
「百雷銃と一緒にもっぱんも使ってたみたいだけどさ。ひょっとして、保健委員会特製の奴だったりする?」
「はい。医務室から拝借しました」
 悪気なくにこにこと笑う顔を見て、伊作は更にため息をついた。うちのもっぱんはよく効く。えげつないくらい効く。覆面の上に包帯をしている雑渡さんでも、これではひとたまりもなかったんじゃないかと、密かに同情した。がっちり拘束されてた気がしたけれども、竹谷がそれをもぎ取るように引きはがせたのも、あのもっぱんが効いて押さえる腕の力が緩んだせいだろう。
「……で、それで?」
「それでって……あ、無断でもっぱんを持ち出した上に使っちゃって、ごめんなさい」
「いや、それはまあ後に置くとしても」
「はあ」
「あのもっぱんは何なの、百雷銃は。何で雑渡さんから逃げなきゃいけないの。何で雷蔵は雑渡さんを攻撃してたの。そこへ何で都合よく竹谷が現れたの」
 まくし立てた伊作は、最後にぎろりと竹谷を睨みつけた。
「何で僕らは、こんな穴蔵に隠れてなくちゃいけないのさ?」
 一人用の塹壕、すなわち蛸壺のようだった。普通なら一人で立ったり座ったりする余裕しかない穴に、竹谷と伊作、二人が詰め込まれている。先に入った竹谷の膝の上に、伊作が座るような格好になっていた。そうして収まったまま、外に出るまで姿勢を変えられそうもない。
 そして竹谷には外に出ようという意志がないらしい。この穴に潜ってすぐ、穴に筵をかけてしまった。その筵の上には土が乗っていたらしい。落とし穴の偽装としてはよくある手だ。
 伊作に睨みつけられて、竹谷は「いやー、あはは」と頭を掻いた。
「俺もまさか、こうなるとは思ってなかったんですけど。っていうか、俺の出番は五分五分であるかないかと思ってたんですけど」 
 こうなった以上は仕方がない。俺が伊作先輩を守る。用意は万全だ、必ず守り抜いてみせる。竹谷はさっきまで頭をかいていた手をぎゅっと握りしめた。
 伊作が本当は強い、しなやかに打たれ強い、決して折れない強さを持ち、時にはえげつないことをやってのける強靱さを持ち合わせていることは知っている。
 でも今こうして自分の膝の上にいる体は華奢で、とても儚げだ。その強さは決して、腕力じゃない。
 だから。誰かが守らなければならないんだ。竹谷は白い寝巻の細い肩に目をやった。
 そうしないと、伊作先輩は。
 つい先日のことだった。委員会やら夕食やら風呂やらを終えた竹谷は、伊作の部屋に遊びに行った。委員会を通じて薬を分けてもらうことが多く、何度か出入りしているうちに、用がなくても入り込んで、世間話に興じるようになっていた。伊作の薬づくりを手伝うこともある。
 その日も伊作は、後は寝るだけという夜着姿で薬を煎じていた。手にした団扇で火鉢をぱたぱたとやりながら、不意に「あ、そうだ」と呟いた。
「何です?」
「百足の傷に塗る軟膏、こないだ作った余りをそこの引き出し、下から二番目の一番右に入れてあるから。何かあったら使って」
「はい。ありがとうございます」
「この前、ここの薬箪笥もちょっと整理してね」
 何故か自室にある巨大な薬箪笥を振り返って、その持ち主は団扇であれこれと指図した。
「上の方は素材を入れたんだ。主に調合に使うものとかだけど、下の方にはすぐ飲める丸薬とか、軟膏なんかを入れてあるから」
「はあ。便利そうですね」
「下から三番目の段には、全部下剤が入ってるんだ。四段目には吐剤。どっちも、右から左に行くにつれて強力になるようになってるから。まあ、大体、だけどね」
「はあ」
 それなら一番左に入ってる吐剤やら下剤はどんなにえげつないんだろうと、竹谷は少し背筋が寒くなる気がした。いや、それだけではなく。
「毒を飲んでしまった時には、どっちもいるからね。飲んだ頃合いや経過時間、毒の種類なんかにもよるけど、どっちが必要か、よく見極めてから使うようにね。それから、塗り薬の類は下から二段目に入れてあって」
「あの、伊作先輩?」
 何だって薬箪笥の中身の説明なんか始めたんだろう。竹谷の胸にうすら寒い感じがわいた。薬の種類や効能について、いきなり語り出す事はこれまでもよくあった。それは竹谷にとって勉強になることも多々あったし、何より夢中になって語る伊作を見るのが好きだった。しかし、今日の伊作は違う。竹谷は思い切って尋ねてみた。
「でも、先輩の大事な薬箪笥を、勝手に開けて使う訳ないじゃないですか。吐剤と下剤の見極めも、先輩が診て下さるでしょう?じゃなきゃ医務室で新野先生に診てもらうし、今、薬箪笥の中身について聞いたって……」
 無駄じゃないですか。最後は歯切れ悪く、口の中で呟く。
「うん、まあ、そうなんだけどね。でもほら、僕も実習で部屋を空けることもあるし。医務室だって夜中は閉まってるし。そういう時に、この箪笥が使えると便利じゃない?」
 団扇を置くと、伊作は顔を上げた。いつもと変わらぬ笑みで、にっこりと笑う。
「中身は僕が適当に集めた物なんだけどね。みんなの役に立てるなら、いいよ。いくらでも使ってくれて構わない。……ただまあ、ある程度知識がないと、使いこなせないと思うけど。竹谷なら大丈夫だよね、虫とかの毒に対処するのは、僕より経験あるもんね」
「何でそんなこと言うんですか。一生懸命集めた薬でしょう、なのに、そんな」
 こみ上げる悪い予感を押し殺しながら、竹谷も何とか笑顔を作った。作ろうとした。
「だから、竹谷にも使って欲しくて。毒を持つ生き物もたくさん飼ってるんだから、解毒剤は必要だよね。要るもの、いつでもここから持って行っていいから。竹谷なら……」
「まさか伊作先輩、いなくなっちゃうんですか?」
 話の区切りを待てず、遮ってしまった。しかし伊作はただ困ったように、首を傾げた。
「さあね」
「さあね、って……!」
 いなくならないよ、何言ってるんだよ竹谷、そんなことあるわけないじゃないか、卒業するまでここにいるよ。
 笑ってそう答える筈なのに。いつもの伊作ならそう言った筈なのに。伊作の返答に竹谷は絶句した。
「何があったんです」
 無意識に竹谷は伊作に詰め寄っていた。火鉢の横を回り、間近に迫る。
「何って……いやまあ、別に、何かあった訳じゃないよ」
 いきなり寄ってきた竹谷に少し驚いた伊作は、火鉢にかけられた土瓶に目を転じた。
「ただ、この前、その……とある城に勧誘されてね。すぐにでも来て欲しい、みたいな勢いで」
 申し訳程度に団扇をぱたぱたさせながら、目は土瓶など見ていないようだった。
「なんだか凄く真剣に請われたから、僕も考えちゃって。まだ在学中のたまごだって分かってて引き抜こうというんだから、何か理由があるのかもしれない。それを聞かなきゃいけないかな、と思ったり」
「でも」
 竹谷は土瓶と伊作の間に身を入れて、その顔を正面から見た。
「聞いていいんですか、その理由を。聞いちゃって、それで、聞かなかったことに出来るんですか。やっぱり行きませんって返事、出来るんですか」
 目の前の顔から目をそらし、行き場を失った伊作の視線は床に落ちた。出来ないだろう、おそらく伊作もそう思っている。理由を聞いてしまったら、おそらくもう、後戻り出来ない。在学中の学生を引き抜こうなんて、公に出来ない裏があるからに決まっている。
 そしてそれがタソガレドキ城、雑渡昆奈門が勧誘したのだとしたら、理由なんか容易に想像がつく。何かと保健委員を構っているように見せかけて、その実、あの男の狙いはただ一人。伊作先輩が欲しいのだ。
「でもさ」
 床から薬箪笥へ移り、一渡り眺め回した後、伊作の視線は目の前に割り込んだ顔に戻った。
「立派なお城の立派な忍者隊の偉い人がじきじきに、勧誘してるんだよ。しかも切実な様子でさ。何があるのか分からないけれど、僕で役に立てるんなら、そうするべきかな、とも思うし」
「……何でそんなに人がいいんですか、あなたは!」
 とっさに肩を掴んでいた。軽く揺さぶったかもしれない、毛先で髪を結わえていた紐が落ちた。
「先輩は風来坊になるんだって、前に言ってませんでしたか。卒業したら、合戦場に行って、怪我した人の手当がしたい、って。なんとか食べていければいいから、だからどこの城にも属さないで、自由な立場でいたい、って。俺はそれを聞いたから、だから……!」
 だから。それ以上言葉が出てこなくて、竹谷は口を噤んだ。目の下で、伊作が大きな目を見開いている。
「……すみません、つい、かっとなって……」
 掴んでいた肩を放した。いつの間にか膝立ちになって詰め寄っていたのを、少し下がって腰を下ろす。
「いや……」
 床に落ちた紐を拾うと、伊作の手はそれを畳もうとようとした。けれど、うまくまとめられず、解けて端が床に落ちる。
「そうだね、竹谷の言う通り。どんな立場にも縛られず、どんな人でも助けることが出来たらいいって、ずっと思ってる。今もそう思ってるよ」
 それなら。竹谷は睨むような目で伊作を見つめ直した。しかし。
「でもね。そこは本当に強力なお城の強力な忍者隊でね。どんな理由があるにせよ、どうしても僕が必要なら……僕の意志なんか、関係ないかもしれないよ」
 がん、と頭に大岩をぶつけられた気分だった。目がちかちかして、星まで見えそうだ。
 先輩の意志に関係なく、その人を請う、……それは、さらうということか?かどわかし?
 ただの修行中の忍者のたまごの一人くらい、かっさらって閉じこめるくらい、簡単なことだろう。プロ中のプロを集めた、組織の頭ならば。
 しかし生徒を奪われて、先生達が黙っちゃいまい。こちらの面子もある。伊作先輩の意志を踏みにじり、学園と事を構えるようなことを、奴が選ぶだろうか?
 分からない。分からないけれども。
 先輩は感じているんだ。自分がこの場からいなくなるかもしれないことを。実際にそれを企む者がいる、ということを。それなら。
 先輩が身の危険を感じるというのなら。卒業でもないのに、ちゃんと引き継ぐ暇もなくこの薬箪笥を誰かに渡そうというのなら。
 俺が守る。
 俺が伊作先輩を守る……!
「……竹谷?」
 細い肩の線が、今の姿と重なって見えた。ただ、背景が違う。ここは薬臭くも居心地がいい六年長屋の一室ではなく、狭苦しい蛸壺なのだった。濃厚に立ちこめる土の匂いに、今自分が何をしているのかをはっきりと思い出す。
「大丈夫、どうしたの、竹谷?」
「あ、いや、その」
 いぶかしむような声音に、心配の色が混じっていた。守るべき相手に心配をかけるようじゃいけない。竹谷が慌てて握り締めた拳を緩めれば、伊作は顔に手を伸ばしてきた。
「熱はない、よね」
 額に当たる小さな手を心地よく感じていたが、そのうちふと気がついた。
「先輩、寒くないですか?」
 冬はまだ先だとはいえ、夜は冷え込む。それを寝巻一枚の姿で引っ張り回しているのだから、寒くない筈がない。 
「大丈夫。穴の中だし、それほどは……って、だからどうして僕たちは、こんな穴の中にいるのさ」
「いや、だから、その、えーと」
 誤魔化し笑いを浮かべながら、竹谷は伊作の視線をやりすごした。
「ここが安全だから、かな。囮役を果たしつつ、罠の推移を見守れるっていうか」
「罠?」
 伊作は首を傾げた。一体誰をどんな罠にかけようというのか。そう問おうとした伊作の耳に、低い唸り声が入ってきた。
 低く唸るその声は、上方、少し離れた地面の上から聞こえるような気がする。明らかに敵意のこもった呪うような低い響きが、近くからいくつも沸き上がってきた。
「……犬?」
 伊作の背筋に悪寒が走った。あれは犬が威嚇する時の声だ。数からして五、六頭はいるだろうか。子犬ではない。体躯の堂々とした、中型から大型の犬、もしかしたら、狼。
 攻撃する意志を持った犬や狼に集団で襲われたら、どんなに武芸が達者であっても、あまり意味がない。噛み殺される。爪は容易に服を切り裂き、牙はやすやすと肉を食いちぎるだろう。こちらに武器があればともかく、いや、あったところで、大勢の犬が一斉に、または連続で飛びかかってきたら、為す術がない。
 だから穴蔵なのか。飛び込んできた奴だけ対処すればいいから、だから安全なのか。でも今の自分は丸腰の上に頼りない寝巻姿だ、制服の竹谷はどんな武器を持っているのか。振り返れば、竹谷はにっこりと笑っていた。
「大丈夫ですよ。あれは俺が訓練した犬達です。間違っても先輩を襲ったりしませんから。大丈夫です」
 そういえば竹谷は生物委員だったと伊作は思い出した。犬は忍者にとって仲間。学園で飼っている犬は、みな生物委員が忍犬として厳しく躾ている。
 竹谷が育てた犬ならば、竹谷の手下みたいなものだ。きっとみな優秀だろう。無闇に人を襲うまい。
 それならばあの威嚇の声は。竹谷は、罠、と言った。伊作は顔から血の気が引くのを感じた。
「まさか竹谷、雑渡さんを、犬に……!」
 襲わせるつもりか、という声は途中で切れた。威嚇の声が途切れたからだ。代わって咆哮。獲物を前に猛る声。地を蹴る爪の音、肉と肉がぶつかる音。
「大丈夫です、すぐ終わりますから」
「すぐって」
 穴蔵で少し姿勢を変える振りをして、竹谷は伊作に寄り添った。寝巻から薬の匂いがかすかに漂ってきて、自然と笑みが浮かんだ。
 いかに熟練の忍びといえど、多数の犬に襲われてはひとたまりもない。また、犬を相手に戦って長らえたならば、そのうちに教員が様子を見に来る。そうなればやはり片がつく。
 その場合、自分は下手人としても生物委員会を預かる身としても、責任を問われるだろう。そもそも、忍者隊の長を死ぬような目にあわせて、ただで済む訳がない。ましてや犬に襲わせるなど、卑怯の謗りを免れないだろう。
 でも仕方がない。一対一で尋常に勝負したところで、体力技量経験のすべてにおいて自分はあの男に劣る。勝てる訳がない。
 それでも、あの男さえいなくなれば。
 伊作先輩を独り占めしようとする、あの男さえいなくなれば、先輩は自由でいられる。思うとおりにいられる。その為には、手段など選んでいられない。
 先輩は誰の事も贔屓しない、すべての負傷者に優しくしてくれる。先輩は誰のものにもならない。だから、だから俺は。
「……竹谷、震えてるの?」
 それまでとは違う冷静な声にはっと気がつけば、いつの間にか腕が伊作を抱きしめていた。まるで、すがりつくかのように。
 みっともない姿に慌てて手を離すと、伊作は腰を上げようとした。
「先輩!まだ、出ては駄目です」
「でも、犬達を止めないと」
「伊作先輩!」
 むしろを取り払って、立ち上がろうとした伊作の手を引いた。
「雑渡昆奈門を庇うつもりですか」
「それもあるけど」
 そう遠くない箇所で、まだ犬達の咆える声は続いていた。まだ決着がついていない。まだ獲物を仕留めていない。
「雑渡さんも負けてないよ。きっと、犬達もただじゃ済まない。殺されるかも」
 蛸壷から半身を出し、月明かりを受けた伊作の顔は、冷静だった。冷たいともとれる端正な顔が、それが事実だと竹谷に告げていた。
「……いいんです、あいつらは忍びとして躾けられたもの。使命を果たすためなら、死んだっていいんです。そのために、訓練を受けてきたんですから」
 掴んだままの伊作の手が持ち上がったと思うと、もう片方の手が竹谷の手を握った。
「そりゃあ忍びとは、そういうものかもしれないけどね」
 そこで伊作が笑ったから、竹谷の手から力が抜けてしまった。それはいつもの笑み。いつもの、柔らく、穏やかに、人を包み込むような笑み。許されていると、救われたのだと感じずにはいられない笑み。
 するりと竹谷の手から自分の手を抜いて、伊作は穴蔵から飛び出した。
「……先輩っ!」
 急に目の前から消えた姿を追いかけて、竹谷も蛸壺から飛び出す。その頃にはもう、伊作は犬と雑渡が繰り広げる死闘に、あともう少しというところまで辿り着いていた。
 犬達は興奮している。伊作や生徒には襲いかからいないように躾ていても、今そんな理性を働かせる余裕はない。本能のままに敵を襲っている今は、新たな闖入者を敵とみなし攻撃するか、そうでなくても巻き添えを食って怪我をする。だってあの人は不運だから。
 雑渡昆奈門はまだ手足を動かし犬達と戦っているようだったが、黒装束がぼろぼろだ。瞬殺されなかったのは流石だが、多数の犬を相手に苦戦しているのだろう。あの忍び組頭をここまで追い込んだのだ。あと少し。あともう少しなのに……!
 伊作の足は止まらない。竹谷は渾身の力を込めて指笛を吹いた。
 夜空を切り裂く甲高い音に、犬達の動きが止まる。それが襲撃終了の合図だった。びくりと身を震わせて動きを止めた犬達は、襲撃対象を放り出して、四方八方に飛び散った。
 後には一匹も残らなかった。伊作は全ての犬を見送った後、立ち尽くす黒装束に目を戻した。袖や袴がいくらか破れてはいるが、手も足も食いちぎられてはいない。あまり血の匂いがしないところを見ると、重大な怪我はしていないようだ。
「雑渡さん」
「いやあ、酷い目にあったよ」
 呼びかければ返事があった。しかも声にはいつもの飄々とした響きさえある。
 大丈夫だ。ほっとして、雑渡の方へ足を進めた、その時だった。
 火縄の匂いがした。ごろごろと物の転がる音がして、どこから、と見れば、足下にいくつも転がってくる。それは狙ったように雑渡と自分の間に止まり、いくつ転がってきたのか、数える間もなく爆発した。


「確かな筋の情報なんだが」
 前置きすると、低いぼそぼそとした声でしゃべり出した。
「ツキヨダケ城忍者隊の小頭の一人に、雑渡昆奈門を死ぬほど恨んでる奴がいるらしい」
 その場に揃った四人に、静かに衝撃が走った。ツキヨダケと言えば、この前、雷蔵と三郎が追い払ったばかりだ。竹谷が雷蔵を見、雷蔵が頷く。
「詳しい事情は聞いてない。が、相当憎んでるのは確かだそうだ」
 三郎が低く呟く時、すなわち鉢屋衆からの情報を明かす時、無駄口は叩かないという決まりが、五年生達にはいつの間にか出来ていた。兵助も口数少なく、実習先で得た事柄をひけらかす。
「しかしツキヨダケと言えば戦好きの悪い城、しかもタソガレドキとは犬猿の仲。この冬にでも合戦になりそうだと聞いたが?」
「そうだ。今はその前段階、情報合戦が盛んに行われているところだ。だからこそ、俺たちが追い払うだけで済んだ」
「どういうことだ?」
「それどころじゃない、ってことさ。恨み百倍の敵であっても、個人的に行動していい時期じゃない。伊作先輩のことは、運良く雑渡昆奈門の弱点を突けるなら、ぐらいで手を出して来たに過ぎない。だから、正体がバレるよりはととっとと逃げてったのさ。……まあ結局、バレてんだけどな」
 鉢屋は小馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「だから、今はまだいいんだが」
「今は?」
 竹谷の問いかけに、すぐに真剣な表情が戻る。
「いずれツキヨダケが追いつめられてなりふり構わなくなった場合……どんな手段でもいいからタソガレドキに一矢報いたいと考えた場合、今度こそ、伊作先輩の身が危ない」
 なんという不運、なんだってあんな疫病神に目を付けられたりしたのか。しばらく誰も何も言わなかった。いや、言えなかった。縦じわが寄るほど眉根を寄せた同じ顔が二つ。沸騰寸前の何かを懸命に堪えてふるえるボサボサ髪。
「……どうすればいい?」
 自分も仲間達のように必死な表情をしているだろうか。いや、していないだろうな、と兵助は口にした自分の声の調子から判断した。
「奴を潰すか」
「いや、それは出来ない」
 短い言葉を最後まで言い終わらぬうちに、鉢屋が割って入った。
「相手はプロ中のプロ、一国の忍者隊を率いる身だ。俺たちが敵う相手じゃないし、もし学園内で奴が死ねば揉め事になる。そうなれば確実に先輩が巻き込まれる」
「ならどうする」
 兵助が鉢屋を見れば、竹谷も、雷蔵も、皆の視線が鉢屋に集まった。充分に間を取ってから、おもむろに口を開いた。
「奴を伊作先輩から引きはがす。二度と忍術学園の敷地を踏ませない」
「だからどうやって」
 今、俺たちが敵う相手じゃないと、鉢屋が言ったばかりだ。焦るように竹谷が言った。
「教員の力を借りる。……奴が学園内に侵入しているところを、教員に取り締まらせる。次に奴が侵入してきた時、俺たちは騒ぎを起こせばいい。事態を明るみに晒せば、先生方も奴の侵入を見過ごすことは出来まいさ」
 成程、その考え方は忍者的だと兵助は思った。使える物は何でも使う。自分達が敵わないならば、対抗出来る力を使うだけのこと。しかし、そう上手くいくのか。
「でもさ」
 水を打ったような静けさの中で、雷蔵が控えめに口を開いた。
「もう、ツキヨダケの忍者隊には、伊作先輩と雑渡昆奈門が通じてるってことは、知れちゃってるんだよね。今更、あの組頭を遠ざけても、意味ないんじゃ……」
「だからって、通ってくるのをずっと見過ごしてる訳にも行かねえだろ」
「そりゃそうだけど」
 雷蔵と竹谷の言い合いを耳にしながら、兵助は考えていた。騒ぎ。具体的にどんなものになるか分からないが、その機に乗じて仕留めることが出来るなら。身元がばれないように細工して、裏々山にでも埋めておけばいい。あの組頭だって、堂々と「忍術学園に行ってきます」と宣言して出てくる訳じゃあるまい。白を切ればいい。
 もし、仕留めることが出来るなら。
 不意に視線を感じて顔を上げれば、鉢屋がこちらを見ていた。兵助と目が合えば片目だけ眇めてみせ、その左右非対称な表情が、先走るなと言っている。
「ともあれ、あの御仁にツキヨダケ忍者のことをご注進申し上げる必要がある。そのためにも一度、機会を設けるべきだ」
 具体的な作戦は、各々練っておいてくれ。そんな打ち合わせをしたのが、数日前。
 がちゃり。大きな音を立てて、錠前が下りた。焔硝蔵の扉は、鉄製の丈夫な扉だ。扉自体が重く、普通に開け閉めするだけでも力がいる。その扉に、内側に錠前を付け変え、しっかり鍵をした。これでこの扉は、外側からは開かない。兵助は鍵を懐に、上着ではなく下に着ている袖無しの袷に作った隠しに入れた。
 最初からこうすれば良かったんだ。振り返って火薬壷の並ぶ焔硝蔵の内部を見渡し、兵助は思った。焔硝蔵は学園のどの建物よりも堅牢だ。入り口は一つ、明かり取りの窓こそあれ、高い位置に一つ、大人の拳程度の大きさ、しかも鉄格子がはめ込まれている。猫の子一匹入る余地はない。
 石の床は冷たいが、床下に潜られる心配がない。天井にも特別頑丈な板を渡しており、そう簡単には破れまい。どんなに優秀な忍者であっても、ここに忍び入る事は不可能だろう。
 その堅牢な作りは、中に居るものに息苦しい重圧感を与えた。石造りの床や壁に暖かみはなく、容赦なく冷え込む。だが、兵助が管理を任されているこの焔硝蔵こそ、忍術学園で一番、安全な場所だ。
「ねえ、兵助……」
 その焔硝蔵の中に、一つ年上の先輩がいた。髪はぐしゃぐしゃにもつれ、白い寝巻は所々土で汚れ、顔色は青白く、その姿は頼りない。土まみれの細い素足を見下ろして、兵助は黙ったまま上着を脱いだ。それを簡単に四つほどに折って、床に敷く。
「どうぞ、座って下さい」
「え、でも」
 ためらう伊作の手を引いて、半ば強引に座らせた。この位置ならば明かり取りの窓から入る月明かりが届く。
「……手当、しますから」
 上着に腰を下ろした伊作の足をそっと取ると、脹ら脛には大きな赤い傷があった。竹谷はもっぱんを使ったらしいが、竹筒が破裂した際に破片が刺さったのだろう。刺さった破片は抜けているようだが、小さなささくれが見えた。そっと摘んで引き抜くと、小さく呻く声が聞こえた。
「すみません」
「ううん」
 痛くとも、異物は取り除かないと傷の治りに障る。兵助は細心の注意を払ってささくれを取り、伊作は息を止めて声を殺した。
 最後のひとかけらを取ると、水筒の水を流して傷口を洗う。伊作の座る上着を濡らさぬように気を付けて、床に水を流した。焔硝蔵は火気厳禁であるのと同様、湿気も厳禁だが、構うまい。後で拭いておけばいいことだ。
 今朝、洗ったばかりの手拭いで傷口を覆う。幸いなことに深くはなさそうだし出血も止まっているようだが、臑が大きく傷ついていた。
 痛ましさから目を上げれば、寝巻にかかる髪の一部が焼け焦げているのが見えた。ふわふわの柔らかそうな髪が無惨に焦げ跡で断ち切られているのを見て、兵助の胸が痛んだ。最初から、伊作先輩を焔硝蔵に避難させておけばよかったんだ。そうすれば、こんな土まみれにさせたり、至近距離で宝禄火矢を爆発させ、かつ間一髪のところで助けるという荒技に巻き込まずに済んだものを、三郎の奴は。
 でも、もう安心してもいい。この焔硝蔵が伊作先輩を守ってくれる。奴がどんな手段を使おうとも、この焔硝蔵に忍び入り、または打ち壊すような事は出来やしない。今、自分が持っているこの鍵を使わないことには誰もここに入ってこれないし、夜が開けるまで、自分がこれを使うことはない。それは確かだ。胸元の鍵を手で押さえて、兵助はおもむろに息をついだ。
「……兵助」
「はい」
「手当してくれてありがとう。だけど、その……兵助は、寒くない?」
 自分を気遣ってくれる人の顔を見れば、月明かりのせいもあるだろうが、その顔色は青白かった。無理もない、焔硝蔵は寒い。甘酒でも用意しておけばよかったと、兵助は心から悔いた。
「俺は大丈夫です。慣れてますから」
 そう、と呟くと、伊作は口を噤んだ。何か話の糸口を見つけようとしていたみたいなのに、断ち切ってしまったのかもしれない。言い方がきつかっただろうか。兵助は少し気を揉んだ。
 自分が他人に堅物とか天然とか言われても、気にしたことはなかった。自分がどんな受け答えをしても、伊作は他の人のように変な目で見たりしない。いつも優しく接してくれた。だからこの先輩のことが好きだった。
 笑って欲しい、と思った。春の日溜まりのような、伊作の温かな笑みが好きだった。ふざける鉢屋に驚いたり、竹谷の身振りに吹き出したり、雷蔵とじっくり話したりしながら、穏やかに微笑む伊作を見るのが好きだった。自分は口下手で、鉢屋や竹谷のように面白いことは言えない。雷蔵のような話し上手ではない。だから伊作が仲間たちと楽しそうにしているのを一歩下がったところから眺めるのが、兵助の幸せだった。
 でも、今ここに仲間がいない。話しかけて伊作から笑顔を引き出す自信のない兵助は、早く夜が明けることを願った。しかし、夜が明けてすべてが白日の下に晒されたら、この焔硝蔵から伊作が出ていってしまう。そう思うとやはり、兵助の胸のどこかが痛んだ。
「……ね、兵助」
 思い切ったように伊作が顔を上げた。きつい言い方ならないよう、兵助は気を付けて応える。
「何でしょう」
「兵助は、ううん、兵助だけじゃない。みんなは、何をしてるの?」
 伊作は大きな目を見開いて、真剣に一つ年下の後輩を見つめた。
「……伊作先輩」
 兵助は自分に向けられる真剣な眼差しを、同じく真剣な目で受け止めた。
「伊作先輩は俺達を、信じてくれますか?」
「信じてるよ、もちろん。兵助達が何の理由もなく、無駄に学園を騒がすようなことはしないって」
「それならいいです」
「兵助」
 切迫した声が咎めるような響きを帯びる。しかし兵助には、理由を説明するつもりなんて無かった。
 ただ、伊作が自分を信じて傍にいてくれる、不自由な筈の焔硝蔵に留まってくれる、そのことは兵助に言いようのない喜びを与えた。知らず知らずに、口元が笑みの形に開く。
 ここにいれば、絶対に安全ですから。
 俺が必ず、伊作先輩を守り抜いてみせます。
 兵助は胸にこみ上げる思いの全てを視線に込めて、伊作を見つめた。
 しかし、伊作の目はそれを受け止めかねた。視線は戸惑うように兵助の顔をさまよい、火薬壷や床をさまよい、そして。
「ねえ」
 不審感で一杯の声が口から漏れた。
「なんだか変な匂いがしない?」
「匂い?」
 言われて兵助も感覚を研ぎすませた。火薬や硝石は独特の匂いがあるが、それを言っているのではないだろう。すぐに、何かが焦げるような香ばしい匂いが兵助の鼻にも届いた。
 その瞬間、とっさに立ち上がっていた。焦げる、火の気、火気厳禁、と連想が働くよりも先に、匂いの元へ向かう。
 焔硝蔵の端、明かり取りの窓の真下の床に、橙色の光が見えた。それが何か確認する前に、忍者足袋で踏む。踏みにじる。
 火が消えた跡からは、白い煙が一筋、細く立ち上った。
「兵助、覆面をして」
 いつの間にか傍に来ていた伊作が、自身も袂で口を覆いながら言った。
「いいから覆面をして、早く!」
 兵助が切羽詰まった口調に驚いていると、伊作は手を伸ばして頭巾をいじろうとした。それでは伊作の口元を覆うものがなくなってしまう、と、兵助は慌てて覆面で口と鼻を隠した。
「毒、ですか」
 何歩か後ずさってその場から離れる。しかし焔硝蔵もさして広くはない。壁際に寄り添って、二人とも目は得体の知れない草を固めたようなものに釘付けになっていた。
「多分ね。沢山吸うと、そのうち息が出来なくなるよ。辛うじて息が出来るようになっても、手足に痺れが残って動けなくなる。この匂いは、そういう種類に独特のものだ」
 口に袂を当てたまま淡々と説明する伊作は、薬同様毒にも詳しい。その説明に嘘があろう筈がなかった。
「俺はともかく、伊作先輩を殺す気ですか」
 焔硝蔵にこんな毒を投げ入れる者など、雑渡昆奈門以外にいる筈がない。憤りを込めて兵助は歯噛みした。
「分からないけれど、燻し出すつもりじゃないかな。もっぱんを投げ込むのは、さすがに危険だしね」
 焔硝蔵に火のついた爆発物を投げ入れたらどうなるか。それこそ、火を見るよりも明らかだ。
 熾き火のついた草の塊を、そっと投げ入れるくらいなら。真下に口を開けた火薬壷でもなければ、すぐに延焼ということもない。しかし草の塊を捨てようにも、この堅牢さが災いして、どこにも持って行きようがない。
 そうやって毒の煙をたて、じわじわと追いつめてゆくつもりなのか。
「ねえ、兵助。焔硝蔵の扉を開けて」
 伊作の声はこれまでに聞いたことがない程、切羽詰まっていた。
「このままじゃ、煙に巻かれて二人とも死んでしまうよ。その前に、扉を開けて」
「しかし……」
 開けたらきっと、例の組頭がいる。燻し出された獲物を狩ろうと、両手を広げて待ちかまえている。
 ここが一番安全なのに。ここより安全な場所などないのに。
「兵助」
 そんな兵助の心の揺れを嘲笑うかのように、また、窓から何かが投げ込まれた。空を切って明るい橙色が光る。
「兵助、駄目!」
 炎で無くても火気は厳禁、とっさに消しに行こうとした兵助の腕を、伊作が掴んだ。
「煙を吸ってしまう。近づいちゃ、駄目……」
「……先輩!」
 腕を掴む時に口元から袂を離し、煙を吸ってしまったのか、伊作はむせ込んだ。咳を繰り返し崩れそうになる体を支える。
 ひんやりとした布の感触をむき出しの腕に感じて、寝巻越しにも伊作の体が冷えきっていることが分かった。袖無し一枚の自分よりも、ずっと寝巻であちこち引き回された伊作の方が冷えきっている。さっき掴まれた手も、氷のように冷たかった。
 口元を押さえて咳をこらえようにも、こらえきれるものではないらしい。苦しげな咳をしながら目から涙がこぼれるのを見て、兵助は覚悟を決めた。
 袖無しの袷から鍵を取り出す。
「……少し、待ってて下さいね」
 顔をのぞき込むと、伊作は苦しげに咳き込みながらも頷いた。一人でちゃんと立っていることを確認して、背中を支えていた手を離す。
 がちゃり。大きな音を立てて錠前が外れた。
 重い重い扉だが、長らく責任者として火薬委員を務めている兵助は、開くこつを心得ている。
 兵助が一気に扉を引き開ければ、蔵の前に広く開いた地面、そこに月明かりに照らされた黒装束が立っていた。
 待ち伏せしなかったことだけは褒めてやる。兵助は覆面を取り去った。
「ざっ……わ、へいすけなにす……うぎゃあっ!」
 申し訳ないけれど、力一杯真横に突き飛ばしたきり、伊作のことにはこれ以上構っていられなかった。
 兵助は思いっきり息を吸い込みつつ、正面の黒装束に向け真っ直ぐに走り込んだ。唯一露出した顔、右目に向けて貫手を放つ。かわされるがすぐに側面に入り、足を払う。相手が身を捻ってかわせば股間を狙って前蹴りを繰り出す。軽く脛で凌がれても、攻撃を止めはしなかった。躊躇なく踏み込んで拳を繰り出す。狙うは鳩尾、脇腹、装束の破れ。
 兵助の連続する攻撃を避けながら、雑渡は感嘆の息を漏らした。同年代の仲間たちと日頃から鍛錬しているのだろう。動きに無駄がない。そして速い。さっきの殺気だけ迸らせて殺す気の無かった子とは違う。卑怯なまでにこちらの弱点を突き、容赦ない。殺気も感じさせないのに殺す気は十分だ。犬との死闘を掻い潜ったばかりの雑渡を翻弄するように、前に横にと動き回る。
 流石に雑渡も後ろは取らせなかった。攻撃をせず防御に徹することで相手の動きを見切る。右側頭部に向けて放たれた蹴りを僅差で避けることはたやすかった。しかし振り上げられた足は踵落としとなって雑渡の鎖骨を襲った。燃えるような痛みにたまらず距離を取ろうと下がれば、思い切って飛び込んだ兵助が回し蹴りを放つ。身を捩って避ければ脇腹を拳が狙う。
 面白い。ずきずきする鎖骨の痛みに、覆面の下で雑渡の口が笑う。
 これは忍者同士の戦いだ。美しい敗北も汚い勝利もない。ただ利害の一致せぬ者同士、どちらが目的を達成できるかそれに尽きる。勝負に負けようと目的を果たすことが出来れば、忍者としては勝ちだ。そうした忍者としての戦いにまで自分を追い込んだ兵助を、雑渡は評価した。
 この子の勝ちは自分を排除することだろう。ならば自分の勝利は。
「……兵助!」
 その瞬間、悲鳴のような声が上がった。眉一つ動かさず執拗な攻撃で雑渡を追いつめていた兵助の顔に、一瞬だけ動揺が走る。
 それを見逃す雑渡ではなかった。一瞬で良かった。前後に開いた両足はそのまま、後ろ足で地面を蹴り込み、その力を腰の回転に乗せて下から突き上げる拳に流す。鳩尾の手前、拳が袖無しの布地に触れた瞬間、軽く握った手を内側に抉るように握り込んだ。
「……ぐえっ!」
 声と吐瀉物が続けざまに兵助の口から吹き出す。それで終わりだった。雑渡が身を翻した後の地面に、兵助の体が突っ伏す。
「兵助っ!」
 声のした方を振り返れば、伊作が落とし穴から這い上がるところだった。兵助は真横に突き飛ばしただけだったが、ちょうどそこに落とし穴があったらしい。咳き込みながら変な体勢で穴に落ち、無駄に足掻いた結果、ようやく出られたのだろう。伊作は今度こそ土まみれになっていた。それでも落とし穴から這い上がると、真っ先に後輩の元へ駆け寄った。
「兵助……兵助!」
 吐瀉物の中に血の色が無いことを見て取ると、うつ伏せになった顔の口の中に指を突っ込んだ。汚れるのをものともせず残りの吐瀉物を口からかきだす。
「大丈夫かな?」
 かけられた声にぴくりと身を震わせると、伊作はその場に腰を下ろし、座った膝の上に、庇うように兵助の頭を乗せた。
「雑渡さん。……一体、何をなさってるんです?」
 月明かりの下、顔を上げた伊作の目の端には、光るものがあった。
「雑渡さんが手加減して下さってるのは分かります。だから僕も協力しました。焔硝蔵に投げ込んだ草、あれは毒でも何でもなく、ただその辺に生えてる草に火を付けただけでしょう?」
 涙をにじませて、真剣にこちらを見上げる伊作の目を、綺麗だと雑渡は思った。とても美しく、とても尊い。
「教えて下さい。五年生達と何をしていたんです。彼らが、雑渡さんに何か失礼なことでも働きましたか?」
「そんなことはないよ」
 奪って行こうか、そう思った。この子を守る者達を蹴散らした、自分にはその権利がある。宣言通り、奪い去る。そうすれば、この子はもう厄介な事に巻き込まずに済む。危険に晒される心配もない。そうして笑顔も涙も独り占めにする。
 誰も辿り着けないところで二人きり。そうなれば自分はどんなに癒されるだろうと思うと、覆面の下で口元がいつしか笑っていた。
 鉢屋くんの言は正しい。大袈裟でも何でもなく、この子はいずれ合戦場で、菩薩になるかもしれない。でも。
 伊作の前に膝をつをつくと、雑渡は伊作の前髪についた土をそっと払ってやった。その顔を覗き込む。
「まあ、そんなことより、挨拶がまだだったよね」
 雑渡は、伊作と目が合ったところで、にっこりと笑った。
「伊作くん、こんばんわ」


 見上げれば下弦の月が中天から落ちかかっている。伊作は見上げた状態から首を回し、軽く背筋を伸ばした。膝の上に乗せた頭が落ちないよう気をつけて伸びをすると、ほうっと息を吐いた。
 兵助には悪いけれども、やっぱり焔硝蔵は息が詰まる。
 普段、紙や木や土で出来た風通しのよい建物に住んでいる身としては、あの堅牢な作りには重圧感がある。吐いた息がそのままそこに残るようでどうにも息苦しい。おまけに、火薬や硝石の独特の匂いが籠もっている。よく毎日こんなところで仕事出来るなと思うものの、そういえば自分の部屋も相当に薬臭いらしかった。あまり人のことは言えないか、と、膝に眠る顔を見下ろして、伊作は笑った。
 辺りはしんと静まり返って、虫の声ひとつしない。焔硝蔵の前には、荷捌きのため土の平らな地面が広く取られている。さっきまでプロ忍者と下級生が大立ち回りを演じたそこには、月明かりが降り注ぐほか、何の気配もなかった。少し離れた木立の様子をうかがうが、特に何ということもない。もしかしたら教員が様子を見に来たかもしれないが、気配を潜めているのなら、干渉しないということなのだろう。
 一任されている、ということなのだろうか。伊作としてはそう考えざるを得なかった。タソガレドキの忍び組頭、雑渡昆奈門と知り合いになってしばらく経つ。出かけた先でひょっこり出会うこともあれば、医務室に遊びに来ることもあった。こうして外部の忍びと繋がりを持つこと、部外者が侵入して来ることを先生方はどう思っているのか不思議に思っていたが。やはり、雑渡昆奈門とどう付き合うかについては、自分に任されているらしい。
 確かに、出会い、知り合うきっかけを作ったのは自分だ。それは当然のことかもしれない。しかし相手が大物過ぎる。それで大丈夫なのかと思っていたが、信頼されているのは自分ではなく雑渡さんなのだろうということが、今夜分かった。
 兵助たちは全く、とんでもないことを仕出かしてくれた。棒手裏剣を雨霰と降らせたり、間近で宝禄火矢を爆発させたり、挙句の果てには犬に襲わせたり、と。一歩間違えば大怪我、いや、死んでもおかしくないことを繰り返した。
 それなのにこの忍び組頭は、そんな兵助たちに手加減してくれた。それは現在、兵助が五体満足でいることが何よりの証拠だ。お返しとして死ぬような目に、半殺しにされても文句は言えないのに、この人なら容易く出来るだろうに、そうしなかった。恨みに思うような素振りもない。
 自分に目をかけてくれることといい、やはりあの人は子供好きなのだ。黒装束に全身包帯の不気味な姿に子供好きという言葉が似合わない。でも、教員からは信頼されている。
 信頼されているのは雑渡さん、しかしその責任を負うのは僕。――伊作は溜息をついた。今夜の大騒ぎも、自分が責めを負わねばならないのだろう。
 でも仕方がない。雑渡さんが学園と関わりを持つ原因を作ったのは僕だし、何より可愛い後輩達のためだ。みんなよく戦った。それぞれに工夫をこらして、よく頑張った。
 兵助の寝顔を見守る伊作の耳に、枯葉を踏む足音が聞こえた。
 二人分。振り返って見れば、木立から雷蔵と竹谷が姿を現したところだった。
「伊作先輩」
「……兵助!」
 伊作の姿を認めると、二人は駆け寄って来た。そのまま伊作の前、横たわった兵助の傍らに膝を下ろす。
「兵助は、無事ですか」
「先輩は」
 勢い込んで聞く二人に怪我の様子はない。でも随分と憔悴しているなあ、と、伊作はまじまじと二人の顔を見比べた。
「うん、僕は大丈夫。兵助も、鳩尾を殴られて気を失ってるだけだよ。じきに目を覚ますと思う」
「良かった……」
「ところで、あの、忍び組頭は」
 胸を撫で下ろす雷蔵とは正反対に、まだ勢い込んだまま、竹谷が聞いた。
「雑渡さん?タソガレドキの人が迎えに来て、さっき帰って行っちゃったよ」
 近くの木立の暗がりを見やりながら、伊作は思い出してくすくすと笑った。
「合戦の前で忙しいみたい。凄く気合い入ってたよ。ツキヨダケは絶対潰す、蟻一匹逃がさないからね、とか言ってた」
 そのまま視線をもとに戻すと、竹谷の顔を見てにっこり笑った。
「雑渡さんがそう言うんだから、きっとそうなるんだろうね。やっぱりツキヨダケに行かなくて正解だったなあ」
「正解って」
「あれ、竹谷には言ってなかったっけ?」
 意外そうに目を瞬く伊作を見て、竹谷の胸にあの時と似た嫌な予感がこみ上げてきた。
「ちょっと前に、ツキヨダケに勧誘されたことがあったんだよね。医者がいなくて困ってる、忍術学園辞めて今すぐうちに来ませんか、みたいに言われて。その時は、学校辞めるなんて考えられなかったし、今すぐは無理だって返事してたんだけど、しつこくてね。留三郎とかに協力してもらって追い返してたりしたんだけれど。……そっか、元々あんなしつこくて強引なやり方をする城だったのかな。雑渡さんは随分嫌ってるみたいだったし」
 伊作の言葉に、雷蔵と竹谷は顔を見合わせた。ツキヨダケが勧誘、ということは、雑渡昆奈門に伊作をかどわかす意図は無かったということか。自分達は誤解していた……?
「なんだかおかしいなとは思ってたんだけど。やっぱりちょっと変な城だったのかもね。今回ばかりは運が良かったかな」
「そりゃ良かったですね」
 顔色を失いそうになりながらも、それを伊作に気取られる訳にはいかない。無理に明るい笑顔を作って、竹谷は朗らかに言ってみた。
「先輩あの時、誰が勧誘してたか言わなかったじゃないですか。だから俺はてっきり、タソガレドキに勧誘されてるんだと思ってましたよ」
「雑渡さんに?うん、あれは勧誘だったのかなあ」
 その時の事を思い出したのか、伊作はくすくすと笑った。
「どこか山奥の温泉でゆっくり湯治したい、伊作くんが主治医として来てくれるなら言うこと無い、とか言ってたけどね。雑渡さんも仕事が忙しいんだから、そんなこと出来る訳ないのに。……ああ、でも、かなり真剣な目で言ってたところを見ると、だいぶ疲れてたのかなあ」
 今度枸杞のお茶でもご馳走しようか、と暢気に付け加える伊作に、二人は顔を見合わせて溜息をついた。やはりあの忍び組頭は、この先輩から遠ざけておくに越したことはないのだ。
「でもそんなに仕事が忙しくて疲れてるのに、訓練に付き合ってくれるんだから、雑渡さんもよっぽど子供好きなんだよね。面倒見がいいっていうか」
「……訓練?」
 意外な単語を雷蔵が繰り返せば、え、違うの?と伊作は目を丸くした。
「だって雑渡さんがそう言ってたよ。忍術学園に曲者が忍び込んだ場合にそなえての訓練をしたいって五年生達が言ってたから、協力することにしたんだ、って。生徒の実力を計れるし、面白そうだし、何より自分は曲者だからね、って言ってたけど」
 きょとん、とした目を見れば、伊作がその説明を信じきっているのが分かる。あの組頭の言う事を肯定するのは癪に障った。しかし、真実を正直に話すのも躊躇われる。
 真実を話せば、命懸けで雑渡昆奈門を殺そうとしていたのだと告げれば、伊作はどう反応するだろう。二度と雑渡昆奈門を学園に寄せ付けぬように手を打つだろうか。だとしても、その結論に至るまで、悩み、苦しむに違いない。どれぐらいかかるか分からないが、その間、きっと伊作から笑顔が失われる。あの組頭も知り合いであり、そう簡単には切り捨てられない。
 ならば仕方ない、と竹谷は頷いた。あの組頭の口車に乗るのは悔しいが、どうせそんな感じの適当な理由で切り抜けるつもりでいた。
「いや、まあ、そんなもんです。……訓練、っていうか、限りなく実戦に近い気分ではいましたけどね」
「そうだろうね。犬まで使ったりしてさ、本当に雑渡さんが死ぬかもしれないって思ったよ」
「いやー、はっはっは」
 殺すつもりでした、など言うわけにもいかず。微妙な笑顔で竹谷は誤魔化した。
「ところで、鉢屋は?」
 突然、伊作が雷蔵に尋ねた。
「訓練してたのって、兵助と竹谷と雷蔵だけ?鉢屋には会わなかったけど、鉢屋だけ参加してないの?」
「ええと」
 雷蔵は言い淀んだ。このまま鉢屋は不参加にしておいた方がいいのかもしれない。でも、いずれ倒れた薬箪笥を見れば、何か察するかもしれない。その時嘘をついた事になっては困る。どう答えるべきか、雷蔵は迷った。
「なんかね、迎えにきた人の顔を見て、雑渡さんが言ってたんだよ」
「何て?」
 月明かりに白い頬を輝かせながら、伊作はちょこんと首を傾げた。
「そういえば、うちにも鉢屋衆がいたなあ、って。それって、鉢屋と何か関係がある?」
「ありませんよ」
 不意に伊作の頬に影がさしたと思ったら、その背後に紺色の影が現れた。影はくず折れるようにして膝をつき、慌てて振り向こうとする伊作を押し止めるように、その肩に額を預けた。
「俺は何もしてません。……出来なかった、何も」
「鉢屋」
 伊作は振り向こうとするが、その肩に乗せられた頭が邪魔で振り向けない。元々、膝に兵助を乗せており、自由の利く体勢ではない。
 そうか、と雷蔵は思った。自分達は、鉢屋衆に踊らされていたのかもしれない。でもそれは、三郎に踊らされていた訳じゃない。それはこの三郎の落ち込み具合を見れば分かる。長く傍に居れば、演技かそうでないかの見分けはつく。
 だとしたら、鉢屋衆の狙いは何だ。雑渡昆奈門の暗殺か、逆に雑渡を焚きつけてツキヨダケを根絶やしにすることか、それとも、単に三郎を試したのか。
 鉢屋衆が何を考えているのかは知らない。ただ、タソガレドキの中に抑え役がいることを教えて三郎の希望を叶える素地があることを示した。
 この事は自分達にとって、また三郎にとって、伊作先輩にとって、吉と出るのか凶と出るのか。
 分からない。でも、色々な必然や偶然や思惑が絡み合う中で、伊作先輩はここにいる。忍術学園に、自分達の傍にいる。
 雷蔵は思わず、伊作の手を取った。その氷のような冷たさを、両手でそっと包みこむ。
「雷蔵?」
「こんなことに巻き込んで、ごめんなさい。でも」
 伊作先輩がいなくならなくて良かった、無事で良かった。自分と伊作の手に額づけるようにして項垂れる雷蔵はそう言いたいのだろう。そう、竹谷には分かった。
 そんな雷蔵から目を逸らすと、竹谷の目は、兵助の胴体とは反対に流された伊作の足、臑に巻き付けられた手拭いを見つけた。
 こんなところに手拭いを巻きつける理由など、一つしかない。怪我をしているのだ。しかし、二人で蛸壺に隠れていた時、怪我をしていただろうか。自分は怪我に気付かなかった。でも、無かったとも言い切れない。伊作が怪我をしているかどうかも分からない程、必死だった。
 でも伊作先輩は冷静だった、と竹谷は思った。あの時俺は、伊作先輩のためなら手塩にかけた犬達を死なせてもいいと思った。先輩のためなら死地に追いやることも致し方ない、と。でも今、犬達が死なずに済んでほっとしている。安堵している。先輩があの場から飛び出して行ったのは、雑渡昆奈門だけでなく、犬達を守るためだったのかもしれない。犬を、ひいては俺を、守ってくれたのかもしれない。
 なのに俺たちはこの晩秋の寒い夜、寝巻一枚であちこち連れまわして、怪我をさせた。土まみれにさせた。おまけに医務室に戻れば、倒れた薬箪笥が待っている。伊作先輩を守るつもりで、余計にひどい目にあわせているのかもしれない。
 いつしか竹谷の手は、巻かれた手拭いに触れていた。傷に障らぬよう、そっと手を当てる。
「……竹谷?」
 呟く伊作の膝の上では、兵助がぼんやりと意識を取り戻していた。顔を見なくとも、確かめなくとも、分かる。自分が今頭を乗せている温かな膝は、伊作先輩のものであるということを。ずっと、庇うように包み込むように、守られていたのを感じていたから。
 だから今度は、俺が守りたかったのに。
 自分の膝の上で一度兵助の目が開き、しかし声をかけるより早く閉じられたのを見て、伊作は溜息をついた。
 仕方ない、とりあえず、もう少しこのままでいようか……と伊作が見上げた時、下弦の月は中天を逸れ、西の空に傾こうとしていた。

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