「ああ、竹谷先輩、いた!」
そんなことを言いながら、五年ろ組の教室に駆け込んで来た井桁模様の制服二つ。一つは一年は組の虎若で、後ろにはろ組の孫次郎もいる。
「どうした、そんなに慌てて」
竹谷はそれまで使っていた教科書を懐にしまいながら、なるべくのんびり答えた。駆け込んで来たのが生物委員の二人であることから、生物委員絡みのトラブルが起きたに違いない。
「あの、あの、大変なんです!」
「竹谷先輩、早く来て下さい!」
「うんうん、急いでるのは分かったから、何があったのかちゃんと説明しろ、な」
生物委員でトラブルと言えば、孫兵。ジュンコが家出をしたか、ジュンイチが散歩に出たか。
また学校中に頭を下げつつ毒虫探しに駆け回らねばならんのか。うんざりしつつも覚悟を決めたのだが、一年二人の口からは、思いがけない人物の名前が出てきた。
「三治郎が猫を拾って……」
「伊作先輩が大変なんです!」
三人の間で、一瞬空気が固まった。
「……は?」
三治郎はまあ、自分たちと同じ生物委員だからまだいいとして、何でここに伊作先輩が出てくる?竹谷は目をぱちくりと瞬いた。
しかし一年生二人の表情は至って真剣、焦りも見える。冗談や間違いででた名前ではなさそうだ。しかしこの二人に、何の接点がある?
「三治郎が猫を拾って、伊作先輩が大変……?」
なんとか事態を推理しようとしている竹谷なのだが、切迫している二人にはひどく悠長な態度に見えたらしい。虎若はがっしと先輩の手を引っ張った。毎日筋トレを欠かさないという噂通り、凄い力だ。
「ともかく、来て下さい!先輩が来てくれないと、伊作先輩がもっと大変なことに……」
「あ、おい」
引っ張られるままに教室を出る。もちろん、伊作先輩が大変となれば駆けつけないではないが、一体何が起こっているのか。ともあれ、行ってみるしかないらしい。竹谷は虎若とともに駆けだした。
たどり着いたのは医務室だ。虎若は戸を開けようとした竹谷を押しとどめると「入ってもいいか?」と中に声をかけた。
おいおい、普通は「失礼します」と声をかけてから入室するものだろう。と、竹谷は先輩として咎めようかと思ったが、中から返ってきたのも、また普通とはかけ離れた返事だった。
「いいよ。今、薬箪笥の上にいる。そーっとね」
声は三治郎のものだった。三治郎が薬箪笥の上にいるのか?そりゃあ身軽な奴だから不可能ではないだろうが、何でそんなところに。疑問のあまり声も出ない竹谷の前で、虎若がこれ以上ないほどに真剣な表情で、ゆっくり戸を開けていく。
医務室の中には、三人の忍たまがいた。
伊作と乱太郎と三治郎。三治郎は薬箪笥の上ではなく、その前にいた。そして、出入り口にほど近い、薬箪笥の上には。
「猫……?」
虎縞の猫が、すっくと立ち、警戒するように下をのぞきこんでいる。
「ほーらほら、怖くないよ、大丈夫だよ、だから降りておいでー」
薬箪笥の前では、ねこじゃらしを持った三治郎が、懸命に背伸びをして猫に手を伸ばしていた。しかし、一年生の身長で、薬箪笥の天辺に手が届くはずもない。
「や。ご足労かけるね」
そう言って近づいてくるのは、この場の最上級生にして保健委員長、なのだが。
「い、伊作先輩!」
その顔を見て、竹谷は虎若の焦りと『大変なこと』の内容を理解した。
「どうしたんですか、その顔……!」
女顔というほどでもないが、男にしては綺麗に整ったその花のかんばせに、縦横無尽に走る赤い筋。よく見れば、顔だけでなく手にも無数のひっかき傷。そして制服も何カ所かほつれて、ひどい有様だった。
竹谷にも何度か経験がある。何らかの理由で興奮して、暴れる猫を無理矢理押さえつけようとすると、こういうことになる。
「あの猫ですか?」
「うん、そう」
伊作はため息をつくと、薬箪笥の上を見上げた。つられて竹谷も見上げる。
「あの猫、後ろ足に怪我してるんです」
伊作の側にいた井桁模様の制服が振り返ると、眼鏡がきらりと光った。乱太郎だ。
「三治郎が見つけて、拾ってきたんです。で、前に伊作先輩が犬の手当をしたって聞いたことがあったから、乱太郎に手当してもらえるか聞いてみたら、とにかく医務室に連れていこうってことになって」
虎若も寄ってきて、ことのあらましを補足してくれる。
「で、医務室に連れてきたら、これはすぐ手当した方がいいって、伊作先輩が薬を塗ろうとしたのですが……」
いつの間にか追いついた孫次郎が、その後を引き取って話した。
「後は聞かなくてもわかる気がする」
竹谷は腕組みをすると、薬箪笥の上を見つめた。
「猫が手当を嫌がって暴れ回った挙げ句、薬箪笥の上に逃げた、と」
「それだけじゃありません」
薬箪笥の前で、三治郎が振り返った。
「この子、はずみで薬箪笥の上にのっかっちゃったのはいいけれど、多分、自力では降りられないんです」
「あちゃー……」
薬箪笥の大きさは、竹谷の背丈と同じか、それより少し高いくらいある。普通の状態ならまだしも、後ろ足に怪我をしていては降りるに降りられないのだろう。
「僕がおろそうと思ったんだけどね」
そう言うと、伊作は寂しげな笑みを口元に浮かべた。
「僕が近づくとあの猫、威嚇するんだよ。三治郎とか虎若が近づいてもなんてことないのに。手を差し出すだけで、引っかかれる始末でね」
白魚のような、と形容するのは言い過ぎにしても、指の長い、形のいい手は、赤い筋だらけだった。水仕事を多くする保健委員だというのに、あんなに傷を作っては、仕事に障るだろうなと思うと、何とも痛々しい。
「すっかり嫌われたみたいだなあ」
しかし伊作にとっては、猫に痛めつけられたことよりも、猫に威嚇されることの方がこたえるらしい。猫好きなんだろうか、すっかりしょげてしまっている。
「でもほら、仕方ないですよ」
がっかりしてる先輩を見かねたのか、乱太郎が伊作を励ました。
「猫だって臭いに敏感だから、薬の臭いが嫌だったのかもしれないし」
「先輩に薬の臭いが染みついちゃってるから、それが気になるだけかもしれないし」
「治療の時痛い思いをしたから、この人は痛い目に合わせるひとだって、思いこんじゃったのかもしれないし」
「薬塗る時に、足を押さえつけたのが悪かっただけかもしれないし……」
一年生が口々に慰めようとしているのだが、かえって傷口に塩を擦り込んでいるような。竹谷がちらりと見ると、伊作は「あ、あはは」と乾いた笑いを浮かべていた。
「えーと、まあ、それはともかく」
それまでの流れを断ち切るようにぴしりと言うと、その場にいた全員の背筋が伸びた。
「とにかくあの猫をおろして、手当を受けさせればいいんですね?」
「うん、そう」
竹谷の視線の先で、さっきまでの乾いた笑いはどこへやら、伊作は保健委員長の顔に戻っていた。
「とにかく、化膿止めを塗って包帯を巻きたい。さっき見た限りでは、結構深い傷だった。化膿すれば酷いことになるし、薬を舐め取ったらお腹を壊しかねないから。せめてそれだけはやっておかないと」
「了解しました」
竹谷は一度ぐっと手を握ると、薬箪笥に近づいた。
「降ろしたらそのまま押さえてますから、その間にお願いします。虎若、押さえるのを手伝ってくれ。三治郎と孫次郎、もし逃がした時は頼む」
「分かりました」
伊作が化膿止めの薬を手に携え、乱太郎が包帯を持つ。一年生全員が配置についたのを見てから、竹谷は薬箪笥の上に手を伸ばした。
「猫、猫。怖くないよ。怯えなくていいからね。こっちへおいで」
優しくささやきかける声は、歌のようだった。みんなの見守る中、竹谷は背伸びして薬箪笥の上に顔を出し、猫の鼻先へ指を差し出す。
「もう大丈夫だよ。ちゃんと助けてあげるからね。さあ、おいで」
すると猫は、竹谷の指先の臭いを嗅いだ。しばらくふんふんと臭いを確かめた後、あろうことか、指先を舐めだした。
「うわ……」
三治郎が呟いた。
「僕でも、仲良くなるために、餌あげたりとかいろいろしたのに。先輩ってば、一瞬で……!」
「さ、おいで。怖くないからね。もう大丈夫だよ。ほら……!」
ゆっくりと薬箪笥の縁へ誘う指につられて、猫は指先を追って歩を進めた。そして竹谷の手が届く辺りまで身を乗り出すと、竹谷はすかさず猫を腕の中におさめた。
「虎若、足を延ばして押さえろ、先輩、今です!」
「分かった!」
竹谷の腕の中で猫は暴れたが、しっかり押さえ込んだ竹谷の腕が、動くことを許さない。虎若も傷口に触らないよう気をつけながら、怪我をした後ろ足を握って固定する。その隙に、伊作は薬を塗り込んでいった。
「もうちょっとだからねえ……我慢してよ……よし、終わり!」
神業のような早さで包帯を巻き上げ、端の始末をする。伊作の手が離れると、竹谷はそっと猫を抱えなおした。
「よしよし、良く頑張ったなあ、偉かったぞ」
軽く頭を撫でた後、ゆっくりと床に下ろしてやった。ひとたび拘束を逃れ、自由を取り戻した猫は、またもや医務室中を逃げ回って暴れる……かと思いきや。
ぶるるるるっと威勢良く身を震わせると、それだけだった。どこへも行かず、まだその場にあった竹谷の指先にじゃれついた。再び抱き上げる腕にちんまりと収まり、頭や背を撫でる手に、ゆったりとその身を委ねている。
「嘘……」
懐いた、としか言いようのない様子に、思わず伊作は呟いた。ついさっきまであんなに暴れまわり、威嚇し、自分を引っかきまくったあの猫が。あんなに嫌がった手当を強要した竹谷に、すっかり懐いたなんて。
「なんで、どうして竹谷にはそんなすぐに懐いちゃうんだよっ」
しかし、竹谷が何か言うより先に、三治郎・虎若・孫次郎の三人は、にんまり笑いながら胸を張ってこう言った。
「生物委員、しかも竹谷先輩ですから!」
猫も落ち着いたことだし、とりあえず一息、ということで、乱太郎と伊作がお茶を淹れた。生物委員も交えて、みんなで丸くなって座る。
「それにしても、さっきの竹谷は凄かったねえ」
一口お茶を啜ってから、伊作は隣の竹谷に話しかけた。猫は今、三治郎の腕の中に収まっている。
「そうですか?」
「そうだよ。だってあんなに警戒して毛を逆立ててた猫がだよ。竹谷の手には自分から近づいて行って、しかも舐めるんだもん。初対面とは思えないよね。あ、実は知ってる猫だったとか」
「いや、知らないですよ。今日初めて会った猫です」
「本当に?」
「本当ですって」
じと、と睨みつける伊作の視線を、竹谷は手を振ってかわした。あの懐き具合からして疑われても仕方ないが、正真正銘、あの猫と会ったのは今日が初めてだ。
「じゃあ生物委員って、凄いんだね。初めて会った猫を、しかも暴れるのを押さえつけたり、治療とはいえ痛い目にあわせたりしたのに、あんなすぐに懐かせることが出来るなんて」
ほう、と溜息をつく伊作と対照的に、一年生の生物委員は一様に顔を輝かせた。
「でもそれは、生物委員だからっていうより、竹谷先輩だからですよ」
「そうそう。竹谷先輩の手にかかると、どんな動物でもみんな懐いちゃうから」
「凄いよね」
ねー、と頷きあう生物委員の一年生達。無邪気に目をきらきらさせる彼らに、しかし竹谷は、こらこらちょっと待て、と突っ込みを入れた。
「あのな、俺は幻術使いでも何でもないんだから、どんな動物でもすぐに懐かせるとか、そんなことが出来る訳じゃないんだぞ。確かに動物の急所とか、どこを撫でれば喜ぶかとかは他の人より詳しいかもしれんがな、いきなり動物を懐かせるとかは、そうそう出来ることじゃない」
「えー、そうなんですか?」
抗議の声を上げたのは、生物委員の一年生だけじゃなかった。
「でも、今、初対面のこの猫を懐かせたじゃないですか」
乱太郎が三治郎の抱く猫を指さす。猫は眠っているのか、三治郎の腕の中で微動だにしない。
「いやまあだから、それには、タネも仕掛けもある訳で」
「タネ?」
孫次郎、と竹谷が声をかけると、孫次郎は懐から小さな袋を出した。それを受け取ると、竹谷はそれを袋ごと伊作の手のひらに落とす。
「これは……」
中をそっと覗いた伊作は、小さく叫んだ。
「マタタビ!?」
「そうです」
袋の中には、乾燥させたマタタビがいくらか入っていた。独特の臭いが袋の口から流れてくる。
「猫が絡んだトラブルは、まあ、これを使えばかなりの確率で上手いこと解決するので。猫って聞いた時点で、要るかなと思って、孫次郎に取ってきてもらったんです」
「あ、じゃあ、竹谷先輩は、マタタビを指先につけてたんですか?だから猫は、まず指先を舐めた、と」
乱太郎の質問に、竹谷は頷いた。
「そう。猫によって効きの差があるから、指先にちょっとだけ、ね。懐に入ってるのがばれたら懐を狙われるから、捕獲する時は孫次郎に持ってもらってて。まあ、あれっぽっちのマタタビだったけど、よく効いて良かったよ。手当してる時も、あの程度の暴れ方で済んだのは、ちゃんと効いたからだろうし。マタタビが効く効かないは、猫によってかなり個体差があって……」
しかし竹谷が説明すればするだけ、一年生の目から輝きが失せて行った。乱太郎も含めてみんな、なーんだ、という表情になる。
「な、なんだよみんな、そんな、俺が何か神秘的な不思議な力でも使って、猫を懐かせたと思ってたのか?」
「……思ってました」
虎若が小さく呟くと、三治郎が頷き、最初からマタタビのからくりを知っていた孫次郎でさえも、複雑な表情で頷く。
「生物委員として修行を積めば、どんな動物とも仲良くなれると信じてたのに……!」
「竹谷先輩の人徳ではなくて、薬物の力で動物を操ってたなんて」
がっかり、と溜息をつく一年生達。
「おいおいおい、そりゃないだろう。俺たちは忍たまなんだから。そんな幻術とか神秘とか人徳とかじゃなくて、もっと技術とか知識とか確実なものを使って物事に対処しないと」
「……竹谷の言う通り」
言い訳がましくまくし立てる竹谷の横で、何故か伊作が重々しく頷いた。
「僕たちは幻術使いでも奇術師でもない。卵とはいえ忍びのはしくれ。一見、物事が幻術のように見えても、そのカラクリを見抜かなければならないし、または何でもないことを不思議に見せかけ相手を騙したりしなければならない。しかしその裏には、経験に裏打ちされた技術がある。理屈、及び仕掛けがある。すなわち」
そこで伊作は竹谷を振り返った。その目が何故か異様にきらきらしている。
「それは再現可能ということだ。心得さえあれば、誰にでも出来るということ!」
「い、伊作先輩?」
「つまり、僕でもマタタビがあれば猫が懐いてくれる、ってことだよね!?」
偉そうなことをだらだら並べて結論はそれかい。思わず竹谷を含む全員がその場でずっこけた。
「ええ……まあ……多分」
「マタタビ、頂戴!」
にこにこと手の中の小袋を指差す伊作に、猫ですかあなたは、と突っ込みを入れたかったが、どうにかこらえた。余程の猫好きらしい。猫が懐いてくれないことに、相当心を痛めていたようだ。
「これ、ちょっともらっていい?」
「……どうぞ。でもあまり沢山は要らないと思いますよ。やりすぎて酩酊するといけませんから。少しで効きます。慣れてない猫のようですし」
「うん。指先につければいいんだよね」
竹谷に言われた通りの方法で、伊作は指先にマタタビを付けた。そして、三治郎の元へにじり寄る。
「猫、寝ちゃってる?」
「ええ、でも、すぐに起きそうですけど」
三治郎の言葉通り、猫は近づく人の気配に顔を上げた。その鼻先に、伊作がそっと指を差し出す。
「ほら、猫。マタタビだよー。怖くないよー」
猫は伊作の指先の臭いを嗅いだ。しかし。
「ふぎゃーっ!」
そこにマタタビ以外の臭いを感じ取ったのか、伊作のことは『痛いことをする人』だと認識してしまったのか。猫は三治郎の腕を乗り越えたかと思うと、すさまじい勢いで目の前のもの、すなわち伊作の顔を引っかいた。そしてそのまま伊作の頭を越えて、飛び出していく。
「あ、猫!」
開け放された戸から、猫は外廊下へ飛び出した。慌てて三治郎が後を追う。
「三治郎!」
「どこへ行くんだ!」
猫は一直線に庭に飛び降りて行った。それを追って庭へ走る三治郎を、乱太郎・虎若・孫次郎が追いかける。
「い、伊作先輩……?」
取り残された竹谷は、仕方なく伊作に声をかけた。伊作は下を向いてうずくまったまま、動こうとしない。
「信じない……」
「え?」
「もう、竹谷の言うことは信じないからっ!」
勢いよく上げた伊作の顔には、新たな赤い筋がいくつも入っていた。前からあった傷と併せて、顔がひどいことになっている。
「何が幻術とか神秘とかじゃないだよっ!竹谷の動物の懐かせ方は、十分、神秘だよっ。あの猫が懐いたのだって、マタタビのせいじゃなかったじゃないか!」
「あ、いや、そんなことは」
ない、と思うのだが、流石に口には出せなかった。マタタビを用いてなお猫に嫌われた伊作に、マタタビのおかげだとは言えない。
「もう、竹谷の言うことは信じないからねっ!」
怒ったまま、ぶんと音がしそうなほど首を振って竹谷から顔を逸らした伊作だが、本気でがっかりしたらしい。盛大に溜息をついた。
「誰が手当したと思ってるんだよなあ、あの猫……」
確かに、伊作先輩も命の恩人の一人であろうに、この仕打ちはないよな。竹谷は心底伊作に同情した。しかし、伊作が拗ねている以上、何も出来ることなどなく。
とりあえず、そっぽを向いた伊作を眺めていた竹谷だが、あることに気づいた。
「……先輩、傷口にマタタビがついてます」
マタタビを指に付けた後、何かの拍子で顔に触ったのだろう。わずかだけれども、傷口にマタタビのごく小さな欠片が入りそうになっていた。
「え、どこ?」
「わわわ、先輩!」
まだ自分の手に粉末状のマタタビが付いていることを忘れて、顔を触りそうになった伊作の手首を、竹谷は掴んで止めた。
自分の両手にもマタタビが付いている。傷口のマタタビを取り去るために、手を使うことは出来ない。そう考えた竹谷は、悩むことなく思ったままを実行していた。
「た……竹谷?」
伊作の声が裏がえっていた。その頬が、赤い線を走らせたまま赤く染まる。
「いいいいい、今、何をっ?」
「何って……手が使えないから、舌で舐め取っただけですが」
狼狽える伊作と対照的に、竹谷は平然としたものだった。
「あ、そんなに大した量じゃないから、大丈夫ですよ。もともとそんな、人体に害のあるものじゃないし」
「いや、あの、そうじゃなくて!」
伊作は叫んだけれど、竹谷はおそらく、何が問題かまるで分かっていない。
「信じらんない……竹谷のバカ!」
手をねじ回して、手首を掴んだ竹谷の手を振りきると、伊作も立ち上がって駆けだした。
「え、伊作先輩!?」
動物とのふれあいの中では、手を使うよりも舌を使った方が有効に意志疎通できることがある。親とはぐれた犬の子を舐めて育てたこともあるし、猿の傷を舐めて綺麗にしてやることもある。今回の場合もこれまでと同じように、ただ相手を助けたいが故の行動だったのだけれども。何がいけなかったのだろう。
しかし相手は上級生。何を思ったのかわからないけれど、不快にさせておいて放置するわけにはいかない。竹谷も立ち上がると、すぐに伊作の後を追いかけた。
それにしても。
深草色の制服を追いながら、竹谷はくすりと笑った。
赤くなって狼狽える先輩は可愛かったなあ。すっごく可愛かった。
いつか先輩に猫を抱かせてあげたい。そうすれば喜んでもらえるだろうか。
「待って下さい、伊作先輩ー!」
次は出来れば、笑顔が見たい。そんなことを考えながら、竹谷はひたすら、伊作の背中を追いかけて走った。