お花見に行きましょう
当番の時間もとうに過ぎたらしい、とっぷり日の暮れた人気のない医務室で、一人で薬を煎じている先輩を見つけた。こんばんは、と声をかけて、医務室に上がりこんだ。新学期ですね、とかすっかり暖かくなって暑いくらいだよね、とか世間話に興じている時に、ふと、先輩が言った。お花見に行こうか、と。
「今更、花見ですか」
「裏山の北側あたりが、そろそろ見頃らしいよ」
少し火力が足りないのか、手にした団扇で風を送り込む。その手元をみながら、花見ねえ、と呟いた。
「気が進まない?」
「ていうか。花見って、花見て、それで何するんです?」
以前、雷蔵やら同級生達に誘われて見に行ったこともあったが、弁当を食ってしまえば後は何が楽しいのかわからなかった。結局その時一番面白かったことと言えば、八左ヱ門による毛虫を利用した嫌がらせ方法の多種多様さの説明くらいのものだ。
「いやまあ……綺麗に咲いたなーって花を見て、それだけなんだけど」
「団子とかないんですか」
「あ、お団子とか持っていくのもいいね」
お団子の一言に、顔を上げてにっこり微笑む。意外とというかやっぱりというか、甘いものは好きらしい。
「……先輩なら、一日中、花見てられそうですね」
雷蔵とか兵助とかは、ぼんやりと花を見上げ、時折言葉を交わし、あとずっと沈黙していても、少しも苦にならないようだった。多分先輩もそのくちだ。
「一日っていうか、日が昇ってからそこへ行って、暮れる前には帰ってこなくちゃだから、移動の時間を考えても、まあ、半日くらいだろうけどね」
そんな、半日もいれば充分です。その呆れたような気分が伝わったのだろう、先輩は困ったように首を傾げた。
「鉢屋は、じっとしてるの苦手そうだね」
「苦手っていうか」
目的もなくただぼーっとしてるのが苦手なのであって。そこで待機するのが任務だというのなら、一日中じっとしていても苦じゃないと思う、多分。
「里の桜が咲いた時も、学園の桜が咲いた時も、見そびれたからさ。せめて裏山の、いつも遅く咲く北側の桜を見に行こうかと思ったんだけどね。……まあ、無理には誘わないから」
気が進まないなら、いいよ。おそらくそう言いかけた先輩を、押し止める。
「いいですよ、お花見。付き合いましょう」
「え、でも、退屈じゃない?」
「大丈夫です。花を見てる伊作先輩をみてますから」
だから、退屈しません。きっぱり言い切れば、先輩の頬が桜色に染まった。
「そんなこと言って。せっかくお花見なんだから、ちゃんと花を見ようよ」
「見ますよ、花も。見切ったら、先輩を見ます。で、それでも退屈したら、手を出しますから」
そう言えば、先輩の頬はますます濃く染まった。彼岸桜から八重紅くらいに。
「……変なことされそうだから、鉢屋とお花見に行くのはやめようかな」
「変なことって、どんなことですか?」
「だから……!」
ぷいと横を向いた先輩の頬は、もう桜どころか椿か紅梅というくらい、赤く染まっていた。
ああ、可愛い。
僕としては、例えどんなに綺麗でも、桜よりも先輩を見ていた方が楽しい。絶対に。
「お花見には、保健委員会で行こうかな。で、学級委員長委員会も誘うことにしよう。うん、人数多い方が楽しいしね!」
「えーっ!」
そんな殺生な。せっかく二人で出掛けられる絶好の機会だったのに。
「そんなことしたら、お花見どころか遠足になって、僕らは引率しなければならなくなります。花を見てるどころじゃないですよ」
「あ、そっか……」
「それに。伊作先輩一人ならまだしも、保健委員会全員が集まった日には、何か起こるんじゃないですか、不運な出来事が」
「…………」
保健委員の名誉のために何か反論するだろうと思っていたが、その様子もない。やっぱり保健委員の不運さには、伊作先輩も勝てないのだ。
「だからやっぱり、二人で行きましょう。その方がいいですよ」
「うーん……」
「変なことしないって、約束しますから」
「……本当に?」
「本当に」
実を言えば、手を出さずにいられる自信なんか無い。
「じゃあ、お花見に行こうか」
「はい」
にっこり微笑む伊作先輩の笑顔を見ながら、さあどういう風に言い逃れようか、どう理論武装しようか、僕は今から考え始めるのだった。