5000Hit記念リク第一弾

同じ根の草

 いつになく長引いた委員会が終わった後、風呂場に直行して獣臭い体を洗い流す。空腹に負けて食堂に寄ったものの、いつもの半分ほどの時間で食い終わり、急いで向かえば、幸いにもその人は部屋にいてくれた。
「女装?……竹谷が?」
「はい。今度の試験の課題が、女装なんです。それでぜひ、コツなどを先輩に教えていただきたく」
 伊作先輩は意外そうに眼を見開くと、小首を傾げた。
「それならさ、僕より適任者がいるんじゃない。仙蔵とか、鉢屋とか」
 そう言いながら、先輩は目の前の火鉢をぱたぱたとあおいだ。土瓶からはほのかに湯気が立っている。匂いからして、何か薬を煎じている最中らしい。医務室では出来ない作業なのか、委員会以外の仕事なのか。ともあれ、当番の日ではなかったらしい。部屋にいてくれて良かった。
「いや、鉢屋の場合、女装というよりは変装ですから。素材をまるっきり違うものにしてしまうのはともかく、素材を生かして美しく見せるようなことは不得手なのだそうです」
「ははあ、成程」
「立花先輩は確かに女装が上手で、仙子さんは素晴らしい美人ですが……なんというか、美人過ぎて近寄りがたいというか」
 何かの折りに、女装する立花先輩を見かけたことがある。確かに女顔というか顔立ちの美しい人だとは思っていたが、女装したからといってあんなに美人になるとは思ってもみなかった。出で立ちは町娘だったが、町に置いておくのは惜しいような、素晴らしい美人だった。高嶺の花、というのだろうか。美しすぎて、生半可な男には手が出せそうにない。もとい、真似出来そうにない。
「ふうん、そんなもんなの」
「その点、伊作先輩の町娘は完璧でした。庶民的な親しみやすさが全面に現れ、しかも可愛い。つい用がなくても声を掛けたくなるような、愛嬌に溢れていました」
「……ええと、どうもありがとうっていうか」
 伊作先輩はなんだか複雑な顔をしたが、しかし事実その通りだったのだから仕方がない。
 仙子さんと並んで歩くいさ子さんは、にこやかで、愛嬌があって、笑うと花が咲いたようで。確かに顔をよく見れば善法寺伊作先輩その人に間違いないのだが、受ける印象が全く違う。伊作先輩が笑っても、ああ笑ってるなあとしか感じないのだが、いさ子さんが笑えば、こっちの胸まで浮き立ってしまう。そんな愛らしさがある。
「先輩は変姿の術の成績も良いと聞きました。ぜひ、女装の極意を俺に教えて下さい!」
 正座のまま手を付いて頭を下げれば、頭上で、やれやれ、とため息の気配がした。
「変姿の術の点が良かったのって、僧の姿が様になってるからだと思ってたんだけどなあ。女装がそんなに評価されてたのかな」
「山田先生もお褒めになってたと聞きましたが」
 しかし俺がそう言うと、伊作先輩はあからさまにがっかり、という表情をした。
「いやでもさ、山田先生に女装を褒められて、嬉しいか?」
「う」
 言われてさまざまと、伝子さんの顔が脳裏に甦る。しかし。
「で、でも、女装はともかくとして、山田先生は基本的に変姿の術の名人でいらっしゃいますから。その先生にお褒めいただくというのはやはり凄いことなのでは?」
「そうかなあ」
 先輩はまだ納得いかないような顔をなさってたが、とにもかくにも褒められてるんだからいいんじゃないだろうか。俺なんか、女装でなくても変装は苦手で、褒めてもらったことはおろか、合格点ぎりぎりを取るのでさえ精一杯なんだから。
「どうすれば、女装が上手になるんでしょう。コツとかあるんですか」
「うーん」
 以前いさ子さんだった人は、腕組みをすると軽く唸った。
「まあ女装に限らず変姿の術全般に言えることだと思うけどさ。やっぱり重要なのは特徴を掴むことだよね」
「特徴?」
「そしたら後はそれを再現すればいい。例えばさ」
 先輩は腕組みを解くと居住まいを正し、持っていた団扇を口元に当てた。
「嫌ですわ、八左ヱ門さまったら。ずっと私の顔ばかりご覧になって」
 正面を向くでもなく、横顔を見せるでもなく、少し斜めの中途半端な位置でこちらに顔を見せる。その中で目だけがこちらに流れて、視線が俺に止まると、にこ、と笑った。口元は隠したまま、目元がにこやかに緩む。
 ずっきゅーん。
 その瞬間、何かが俺の胸を指し貫いた。矢か、槍か。鉄砲玉かもしれない、血を吹き出しそうな程、胸が高鳴る。
 そんな、そんな馬鹿な。伊作先輩は女装してる訳ではないのに。いつもの姿で、つまり六年生の制服で、失礼ながらそろそろ洗濯した方がいいんじゃないですかってくらい皺だらけのよれよれで、頭巾ははずしていても髷は結ってるし、化粧だってしてないし、第一あたりが異様に薬臭くて、とてもじゃないけど女らしい要素なんて何一つ無いのに。
 しかし伊作先輩の姿勢をよく見れば、少し崩した横座りでほんのわずかに猫背なのがたおやかだ。団扇を持たない方の手は、もう片方の袂を優美に押さえて。
 いさ子さんだ。俺の目の前にいさ子さんがいる。
 そして俺に流し目をくれた。色っぽい。それでいてすげえ可愛い!
「凄い!今先輩が女の人に見えました!」
 俺が叫べばいさ子さんは、まあね、と団扇を振った。横座りが胡座になって、あ、伊作先輩に戻った。
「だから、特徴的な動きを身につければいいんだよ。女装の場合、極端だから一度覚えれば簡単だよ」
「……そんなもんですか?」
 胡座をかいて無造作に団扇を振る姿は、どう見ても男にしか見えない。それが一瞬にして、あの愛嬌たっぷりのいさ子さんになるんだもんなあ。先輩は簡単なことのように言うけど、どうやればそんなことが出来るのか。
「うん。例えばさ、口元を隠せばそれだけで結構女性っぽく見える。手で隠せば気の置けない感じがするし、袂や扇で隠せば上品さや色っぽさが出る」
「ははあ、成程……」
 確かに、言われてみればあまり男がしない仕草だ。試しに手のひらで口を覆ってみた。
「ああ、そういうんじゃない。手を軽く握ってね、口の前に持ってくるんだ。……そうそうそんな感じ。ていうか、袂で隠す方が簡単かもね。袖の端を上にして……そうそう」
 伊作先輩は俺の手をとって、顔の前で動かしてみてくれた。こう、と言われた角度を腕に覚え込ませる。
「で、相手の顔はなるべく真っ正面から見ない。ちょっと逸らしてね。でもまあ、あんまりやりすぎると遊女っぽくなるから、ほどほどに」
「はあ」
 そのほどほどってのが難しいんじゃなかろうか。不安に思って伊作先輩の顔を見れば、先輩はぴんと指を立てた。
「実のところ、女物の着物を着てるだけで見る方は女だと思うからね。その思いこみを利用するんだ。後は立ち居振る舞いが不自然でなければ、それだけで女に見えるよ」
「そんなもんですか」
「そんなもんだよ」
 伊作先輩はきっぱり言い切ったが、その後少し、考え込むように首を捻った。
「まあ……長次とか文次郎みたいな顔や体つきがいかついタイプはね……着物だけで女だと思いこませるのは難しいかもしれないけど」
 そりゃそうだよなあ。女物の着物を着ただけで女に見えるのは、伊作先輩や立花先輩がが小柄で華奢だからであって。
「でも竹谷なら大丈夫!背だって僕とそんなに変わらないし、華奢とは言わないけどそんなにがっしりしてる方でもないし。見所はあるよ」
「はあ」
「だから、後は町へ行って、道行く女の人たちの立ち居振る舞いをつぶさに観察するといいよ」
「町で観察……ですか」
「うん。どんな仕草をすれば女らしく見えて、どんな仕草だとがさつに見えるかとか、自分なりに押さえておくんだ。大丈夫!それさえやっておけば、竹谷だって素材は悪くないんだから、ちゃんと化粧すればご婦人に見えるって」
 しかし伊作先輩が励ましてくれればくれるほど、俺は暗澹とした気分になった。
「……どしたの竹谷。そんながっかりして」
 励ましてくれる先輩には本当に申し訳ないが、こればかりはどうしようもない。
「変姿の術の試験、明日なんです……」
「えーっ!」
 驚きに声を上げる先輩の前に、俺は突っ伏した。
「変姿の術とは聞いてましたが、課題が出されたのは今日なんですよぉ。しかもくじ引きで。鉢屋とか雷蔵とかは、虚無僧とか放下師なのに俺だけ町娘で。女装で。観察だなんて悠長なことでは、明日の試験には間に合いません!」
「まあ……それもそうだね……」
「しかも俺、化粧も苦手で。着付けはともかく、紅なんてさせないですよ。もうどうしたらいいか……」
 なんだって俺は、女装なんて引いちまったんだろう。俺ってそんなにくじ運悪かったかなあ。しかも、伊作先輩がせっかく極意を教えてくれたのに、ちっとも生かせそうにない。委員会も更に長引きそうなところをなんとか押し切って急いで来たのに。意味なかったなんて。
 恨めしいやら申し訳ないやら虚しいやらで、俺のやる気はすっかり枯渇した。突っ伏したまま顔を上げられない。先輩の部屋で何やってんだ俺、と思わないでもなかったが、どうしたらいいのか。しかしそんな俺の頭に、そっと手のひらが置かれた。
「竹谷の髪って、かなり傷んでるね」
 ゆっくり撫でるように手のひらが動くと、俺の髪の先の方を指が梳いたらしい。ちょっと引っ張られた。
「これはちゃんと手を入れた方がいいね。でも、それだけできっと見違えると思うよ」
「……え?」
 手の動きを邪魔しない程度に首を捻じ曲げて顔を見上げれば、先輩は俺に微笑みかけてくれた。
「タカ丸くんに頼んでごらんよ。髪をそれっぽく整えてもらえば、それだけでだいぶ女の人っぽくなると思う」
「そうですか?」
「そうだよ。竹谷は男前だけど、笑うと愛嬌があるからね。化粧はそんなにしなくていい。体つきもごつくないし、後は身振りでなんとかなる。なんとか出来る」
 俺と目が合うと、先輩はにっこり笑ってくれた。
 いさ子さんの花が咲くような笑みとは違う。昔から見慣れた、優しい笑顔。いさ子さんが花なら、伊作先輩は葉っぱだ。不意にそう思った。大きく広がって、暑い日差しも激しい雨も、何でも受け止めてくれそうな安心感がある。
「大丈夫。だから頑張って。諦めちゃいけないよ」
「……はい」
 のろのろと顔を上げる俺に、先輩は、そうだ、と手を叩いた。
「明日の試験、よく出来たらお団子奢ってあげるよ」
「え?」
「僕も女装するから。それで一緒にお団子食べに行こう」
「えっ……えええっ」
 仰け反った。寛大な提案をしてくれる伊作先輩が眩しくて、思わず後ずさってしまう。
「それってつまり、いさ子さんとお出かけ、ってことですか……!?」
「うんまあ、そういうことかな」
 いさ子さん。あの時見かけた町娘姿が瞼の裏に甦る。愛嬌があっておきゃんでころころとよく笑う、すげえ可愛い子。あの子とお出かけ。二人っきりで!
「俺、頑張ります!」
 震えるほど力強く、拳を握りしめた。いさ子さんのためなら、頑張る。俺はやる。どんな試練でもやり遂げてみせる……!
 いきなり盛り上がった俺にやや鼻白みつつも、面倒見の良い先輩は冷静に提案してくれた。
「じゃあまあ、やる気の出たところで、女らしい立ち居振る舞いについて、練習してみようか」
「え、ここで?」
 俺は伊作先輩を見て、その手の団扇を見て、火鉢にかけられた土瓶を見て、それからまた伊作先輩の顔を見た。
「いいんですか。ご迷惑では……」
「いいよ。留三郎は実習でいないし。薬はもうちょっとしたら煎じ終わるから、そしたら届けにいく時だけ中座するけど……それでもよければ」
「もちろんです!」
 憧れのいさ子さんである伊作先輩に特訓してもらえるなら。俺だってきっと上手に女装できるようになるに違いない。俺は再び手をついて、額を床にこすりつけた。
「どうかよろしくお願いします!」

 翌日。
『女装の出来映えを見てみたいから、試験が終わったらすぐ来てね』と言われていた俺は、試験の後、そのままの姿で六年長屋に直行した。
 髪はタカ丸さんに頼み込んで整えてもらった。痛みが酷いの許せないのと文句をいいつつも綺麗に仕上げてもらったおかげで、本当に伊作先輩の言う通り、見違えるほど雰囲気が変わった。明るい若草色が基調の着物は、自分で言うのもなんだが似合っている。外見だけなら完璧な筈だ。
 そして昨日の夜は、夜遅くまで女らしい仕草を伊作先輩に教えてもらった。おかげで、試験はかなり手応えがあった。点数が付くのは先生方の協議が終わってからだが、合格は間違いないと見てる。
 さあ、後は伊作先輩がどう評価してくれるか。どきどきしながら六年長屋の前まで来たのだが。
「……なんでお前らまでついてくるんだよ」
 後ろを見れば、ぞろぞろと。虚無僧の三郎とか放下師の雷蔵とか油売りの兵助までが俺の後に続いていた。
「こらこらハチ子ちゃん。可愛い町娘がお前らとか言うんじゃないよ」
 三郎がにやにや笑いながら俺の姿を冷やかす。まったくこいつは、ちょっと変姿の術が得意だからって。
「いやでもさ、気になるじゃない」
 ねえ、と雷蔵が振れば、頭に被った手拭を直しながら兵助も頷く。
「試験が終わったってのに、女装姿のままいそいそとどこかへ行くからさ。どこへ行くんだろうと、そりゃ気になるよ」
 まあ、そうかもしれない。俺も頭に被っていた手拭をそっと押さえた。
「いや、こっそり後を着けて様子を伺っても良かったんだけどさ」
「……お前なーっ」
「それは嫌だろうから。ところで、お前って言うのやめろって、ハチ子ちゃん」
 相変わらずにやにや笑う三郎を睨みつけるが、蛙の面に小便と言おうか、まったくこたえてる気配がない。
 もうどうにでもなれと顔を背けた時、六年長屋の廊下に女の人の姿を見つけた。
 忍たま長屋で女の人の姿を見ることは稀だ。思わず目をひきつけられて、よく見たら。
「あれ……」
「ああ……」
 雷蔵と兵助も気付いて、ぼそぼそ呟く。三郎が駆け出して、長屋から出てきた人を迎えた。
「いさ子さん!」
 俺も慌てて走り寄る。山吹色の着物にふわふわの髪が映えて、今日も可愛い。正体は男だって知ってても、やっぱり女の人にしか見えない。
「おや、みんな揃って。どうしたの」
「伊作先輩こそ、どうしたんですか、その格好」
「うふふ。ちょっと約束があって。ね、竹谷。……じゃなかった、ハチ子ちゃん」
 伊作先輩と呼ぶべきか、姿からしていさ子さんと呼ぶべきか。迷って声をかけられなかったのだが、先輩は俺を振り返るとにっこり笑ってくれた。
 ああ、いさ子さんだ。昨日の姿が伊作先輩のままのいさ子さんにもどきどきしたけど、やっぱり女物の着物を着て、化粧を施したいさ子さんはいい。可愛い……!
「約束って?」
「試験頑張ったら、お団子ご馳走してあげるって。きっと竹谷はいい出来だろうから、準備して待ってたの」
 うわ、信頼されてたんだろうか。凄く嬉しい。いさ子さんはその場で俺をくるりと一回転させると、満足そうに頷いた。
「ん、とてもいいわ。若草色が似合ってて。可愛いわよ、ハチ子ちゃん」
「あ、ありがとうございますっ!先輩のおかげです!」
「お団子を奢る価値はあるわね。よく頑張ったわ」
 じゃ、行きましょうか。そんな風にさらりとその場を抜け出そうとした先輩だが。
「えー、ハチだけお団子奢ってもらえるんですかー、いいなー」
 あからさまな不満顔で、その行く手を三郎が塞いだ。
「俺も頑張りましたよ。俺にも団子、奢って下さい!」
 授業中のように手を上げて、このお調子者は先輩に詰め寄った。雷蔵と兵助も、そこまでしないまでも、いいなーという顔でこっちを見ている。
「だって、ハチ子ちゃんと鉢屋じゃあ、頑張りが違うもの」
 そう言うと、いさ子さんは俺の腕を取るとぐっと引き寄せた。
「竹谷は昨日、僕と特訓したんだよ。女らしく振舞えるように。鉢屋みたいな名人と違って、苦労したんだから、ねー?」
 同意を求めて顔を寄せてくるけれども、俺は引き寄せられて体がくっついたところで胸が高鳴ってしまって、はい、とか答えるのが精一杯だった。
 だって。にこにこはしゃぐ顔がすげえ可愛くて。もの凄く近くて。掴まれた腕が気持ちいいっていうか嬉しいっていうか、どきどきする。
 ど、どうしちゃったんだろう、俺?だって相手は男なのに。何で俺、こんなにときめくんだ……!
 もしかして俺、いさ子さんに惚れた?
 そう思った時。昨日の夜、制服姿の伊作先輩が、一瞬だけいさ子さんになった時の痛みが胸を貫いた。ずっきゅーん、って。胸には傷が開いたまま、塞がってない。貫かれたまま。甘く痛んで、血を流し続けてる。
 俺は、いさ子さんに惚れてしまったのだ。
 うわあ、どうしよう、正体は伊作先輩なのに。相手はまやかしみたいなもんだぞ。女装した時だけ現れる、幽霊のようなもんなのに。
 実は男だって分かってるのに。伊作先輩のことは、俺、なんとも思ってないのに!
 しかし俺の混乱をよそに、兵助は冷静に口を開いた。
「じゃあ、ハチは先輩に女装の特訓をしてもらった上に、お団子までご馳走してもらえるんですか?」
「……いいなー」
 あの、兵助くん?いつも冷静な奴だから分かりにくいけど、なんだか口調に怒りが混じってるような。雷蔵まで、ちょっとむっとしてるような雰囲気で。
 俺、そんなにこいつらの怒りを買うようなことをしてたんだろうか。そりゃ、先輩に女装の極意を教えてもらって、もの凄く勉強にはなったが。抜け駆けって言うほどのことか?
「なんでこいつにそこまでしてやるんです。女装を教えてくれたんなら、先輩に奢ってもらうどころか、こいつがご馳走するのが筋ってもんでしょうが」
 そう言われて、はたと気付いた。確かに三郎の言う通りだ。思わずいさ子さんとのお出かけに心奪われてあんまりよく考えてなかったが、昨日夜遅くまで付き合ってもらったんだから、俺の方こそお礼すべきなんだ。
「先輩」
「何でって言われてもねえ」
 しかし俺が何かを言うより先に、先輩がちょこんと小首を傾げた。
「前行ったお団子屋さんが、一本おまけしてくれてさ」
「……は?」
 いきなりぶっ飛んだ話に、全員の目が点になる。しかし先輩は構わずに続ける。
「女装して行ったんだよ。仙子ちゃんと一緒に。そしたら『お嬢ちゃんたち可愛いから一本おまけしちゃう!』ってご主人が。だから、今度行くなら女装して行こうって思っててさ。最近行ってなかったし、お団子食べたいなあと思って」
 どこから突っ込んでいいのか、流石の三郎も固まったまま動けずにいる。そんな中で、先輩はちらりと俺の顔を見た。
「それに竹谷が困ってたから、さ。……学業に躓いた後輩を導くのは先輩の務め、だろう?女装なんて面倒くさくも難しい課題を引き当てちゃった不運を哀れんだ、ってことかな」
 苦味の混ざった笑顔は、自分の不運を笑っているようにも見えた。いつもの見慣れた表情。伊作先輩の、顔。
 その顔を見て、この前感じたことを思い出した。
 いさ子さんは花。だとしたら、伊作先輩は葉っぱだ。大きく開いた葉っぱの、この包容力ったら。
 全然力強そうには見えないのに。何でも受け止めて、包み込んでしまうしなやかさ。それは何物にも負けない強さではないだろうか。なんと頼りがいのある。
「先輩って、意外と男前ですね」
 考えるより先に口にしたら、苦笑からがっかり、という表情になった。
「……そういうことは、女装してない時に言ってもらえる?」
「あ」
「意外と、は余計だしさ。まあいいけど。こっちとしても、この年齢になってお団子ひとつでやる気出してくれるとは思ってなかったから。安いもんだよ」
 いや俺も、団子というよりは、いさ子さんだったから、やる気が出た訳で。でもそんなこと、なんとなく言いづらい。
「……すみません」
 とりあえず俺は頭を下げた。深々と体を折って謝る。そして。
「あの、でも、お団子は俺に奢らせて下さい!三郎の言う通りですから。色々教えてもらって、俺の方がお礼するべきだと思うし」
「え、いいよ。そんな下級生にご馳走になる訳には……」
 いかないよ。そんな風に先輩は言おうとしたのだろうけど。
「ハチ子ちゃん、ありがとう!太っ腹だねえ。それじゃあ、お言葉に甘えてぜひご馳走になろうかなあ」
 三郎が威勢良くまくし立てた台詞に、先輩の声は掻き消えてしまった。
「ちょ、ちょっと待て、三郎!」
 どさくさに紛れて、こいつは何を言った?俺は三郎に負けずとも劣らない剣幕で食ってかかった。
「俺は、お前に奢るとは言ってな……」
「いやー悪いなあ、ハチ、じゃなくてハチ子ちゃん」
「ありがとね。それじゃあ遠慮なく」
「……って、兵助と雷蔵まで!」
 二人もにこにこして俺の方を見て、ちょっと待て、何でそんなことになるんだよ!
「まあまあ。伊作先輩に教わって、お前、随分女装が上達しただろう?」
 憤る俺に、なれなれしく三郎が肩を抱いて、寄りかかってきた。
「そりゃそうかもしれんが……」
「だとしたら、お前の女装が上達する機会をやった、俺たちに感謝しても、バチは当たらないと思うけどなー」
「……って、どういう理屈だよそれ!」
「じゃあ、お団子屋に行くの、やめる?」
 被った手拭を外しながら、雷蔵が聞いた。伊作先輩に目を移せば、先輩は困ったように首を傾げた。
「僕はどっちでもいいよ。竹谷が大変なら、別に行かなくても」
 先輩は気を遣ってくれるけれども、これ以上先輩の好意に甘える訳にはいかない。先輩がお団子を食べたいと言うのなら、今度は俺が付き合う。
「行きます」
 俺は伊作先輩の顔を正面から見た。
「行きましょう、先輩。それで、昨日のお礼に、俺に奢らせ……」
 あ、違う。今の俺は町娘なのだった。わざとらしく小さな咳払いをする。
「どうか私にご馳走させて下さい。いさ子お姉さま、参りましょう」
 そして仲の良い娘同士がするように、その手を取ってぎゅっと握れば、いさ子さんは俺ににっこり笑いかけてくれた。
「分かったわ。じゃあ今日は、ハチ子ちゃんに甘えるとしましょうか」
 憧れのいさ子さんの笑顔。花が咲いたような、見てるだけで心が浮き立つような。
 でも俺はその時、ふと思った。
 いさ子さんは花、伊作先輩は葉っぱかもしれない。でもそれも、同じ根を持つ草だ。ただ現れ方が違うだけで、根は同じ。茎も同じ。
 いさ子さんに憧れて、手を握るだけでどきどきして。
 伊作先輩に憧れて、こんな頼りになる先輩になりたくて。
 俺の中で違う位置にある思いも、根は同じなのだろうか。
 そうかもしれない。今俺の目の前にいる、この人を慕う気持ち。それは一緒だ。
「よっ、ハチ子ちゃん、ご馳走様!」
「悪いねー」
「まあ、たまにはね」
 俺が先輩と歩き出せば、後ろからぞろぞろと付いてくる。まったくこいつらは。
 ……でもまあ、団子の一本ずつくらいなら、奢ってやれないこともないか。三郎の理屈は妙だが、確かに、女装を引き当てなければ、伊作先輩のこんな男前な一面を知ることもなかった。
 ていうか、外野はもうどうでもいい。憧れのいさ子さんが、俺の隣にいるのだから。
「頑張って、ご主人にまたおまけしてもらいましょうね。大丈夫よ、ハチ子ちゃんは可愛いから」
「はい!」
 立花先輩には及ばなくても。少なくとも、人を見慣れた団子屋のご主人を騙すくらいのことはやってみせよう。
 気合を込めて、でもそっと、俺はまだ繋いだままの伊作先輩の手を握った。

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