そろそろ閉めようと、戸締まりをしていた時だった。
廊下に足音がしたと思ったら、医務室の戸が開いて、姿を現したのは、仙蔵。
「おや、珍しいね」
滅多に医務室では見ない姿に目を丸くすれば、仙蔵は「まあな」などと曖昧に呟いて、後ろを振り返った。
医務室に入る仙蔵の、後から続けて入って来たのは。
「……綾部」
整った顔立ちにふわふわの髪を添えて、最上級生の前だからか、しおらしくうつむき加減に目を落とした四年生。
綾部が怪我をしたから仙蔵が連れてきたのかと思った。でも、特に二人の立ち姿に異常は認められない。
どうしたのだろうと思わず二人を見比べていると、仙蔵が一つ咳払いをした。
「少し話があるのだが、いいだろうか」
何だろう。仙蔵は物事をさくさく進めたがるタイプだ。その仙蔵が改まって『話がある』などと言うのだから、ただ事ではない。
ただ事でないというなら、作法委員会、別名カラクリ同好会のトップとナンバー2、二人そろってお出ましというのも滅多にないことだ。
悪い予感がひしひしとしてきたが、だからといって追い返す訳にもいかない。ともあれ話を聞いてみようと、僕は二人に円座を進めた。
「もう火を落としちゃったから、お茶とかは出せないけど」
「構わぬ。少し話があるだけだからな」
どっかりと胡座をかく仙蔵の横で、綾部はちんまりと正座した。
いつもどこを見ているのか分からない、何を考えているのか分からないような子だと思っていたけれど、今日は大人しいというか、借りてきた猫みたいだ。
「さて、どこから切り出したものか」
仙蔵の目は、何となく灯明のあたりをさまよっていた。油はまだ十分残っており、室内を明々と照らしている。
しばらく灯明の火を見ていた仙蔵は、思い切ったように口火を切った。
「伊作。おまえはよく落とし穴に落ちるだろう」
「え?……うんまあ、そうだけど」
そしてその落とし穴の制作者は、十中八九、隣にいる綾部な訳で。そう思ったけれど、口を濁して話の続きを待つ。
「しかし他の保健委員は、さほど落とし穴には落ちぬ。いかにおまえが学園最強の不運を誇ろうとも、最上級生だ。同じ不運をかこつ保健委員がさほど落とし穴に落ちぬというのに、おまえばかりが落ちるのは不自然ではないか」
……ええと。別に僕は不運を誇ったことなんて一度もないんだけど。
でも今はそんなところにツッコミを入れてる場合じゃないらしい。仙蔵は存外真剣な目で、こちらを見据えていた。
「それはそうかもしれないけど、でもそれは単に、僕が落とし紙の補充で学園内を走り回っているから、罠にかかる確率も高くなるってだけの話で」
学園内に便所は多数ある。校舎や長屋の便所は下級生にも任せられるけれど、少し遠いところや、難所に設けられた便所では、たどり着くまでで一苦労だ。だからそういうところは僕が回るしかないし、そうして学園内を走り回るから、誰よりも落とし穴に遭遇する率が高いんだと思っていたけれど。
「それがそうとも言えんのだ」
「それは……どういうこと?」
灯明に虫でも寄ってきたのか、じじ、と音がした。でもそんな音には構わず、じっと仙蔵の顔を見つめる。
「学園内には多くの罠が仕掛けられているが、ここにいる綾部も多くの落とし穴を仕掛けている」
そう言うと仙蔵はちらりと隣に座る綾部を見た。天才トラパーとの呼び声も高い綾部は、数ある罠の中でも落とし穴を好む。複数の罠を同時に仕掛け、一つの罠を回避したと思ったら、落とし穴に落ちていた……ということも結構ある。よっぽど人を穴に落とすのが好きらしい。まあ、綾部の落とし穴には、普通底に仕掛けておくスパイクの類が省略されていることが多くて、落とされても深刻な怪我をすることがないからいいんだけど。
「しかしこの綾部が落とし穴を仕掛ける場所には、ある法則性があったのだ」
「法則性?」
僕は仙蔵と、うつむく綾部の顔を見比べた。
「そう。……すなわち」
それを言うのがさも億劫だというように、仙蔵は息を吐きながら言った。
「校内各所の便所と便所を結ぶ線上に、綾部は落とし穴をしかけていたのだ」
ええっと。今の仙蔵の台詞について、頭の中で考える。
落とし紙の補充に回るとき、僕はいつもルートを変える。前回通ったルートは通らない。それは、そんな可能性は皆無とはいえ道中で待ち伏せなどの襲撃を避けるためでもあり、違うルートを走ることによる僕自身の鍛錬のためでもあった。
よく考えてみれば、それでも毎回、落とし穴に落ちるのは、確かに不自然と言えば不自然だ。
今までは、それだけ綾部が縦横無尽に落とし穴を掘りまくっているのだと思っていたけれど。
もし、そうではなく、僕自身を狙って、落とし穴を掘っているのだとしたら。
そう、仙蔵はなんて言った?
『校内各所の便所と便所を結ぶ線上に、綾部は落とし穴をしかけていたのだ』
それなら、ルートをどれだけ変えても、目的地が各所の便所である以上、どこかの罠には行き当たる訳で。いやむしろ、ルートを変えれば変えるほど、効率よく落とし穴に落ちる訳で。
ということはつまり、綾部は。
「僕を狙ってた……?」
「その通り」
まさか、そんな筈は。そう思って呟いた言葉は、あっさりと仙蔵によって肯定された。
「伊作があまりにも落とし穴に落ちるのを不審に思い問いつめたところ、白状してな」
淡々と説明する仙蔵と、うつむく綾部と、どっちを見ていいのか迷った僕は、二人の間で視線をさまよわせた。そんな、だって。
綾部といえば、個性派揃いの四年生の中でも、飛び抜けて理解しがたい不思議な感性を持った子で。
だから名前と顔は知っていて、下級生の頃は何度か擦り傷や打撲の手当をしたけれど、本当にその程度の間柄で。特に親しくもないし、委員会も違うし、ろくすっぽちゃんと話したこともないのに。
それなのに、何故。僕は綾部に何か恨まれるようなことでもしたのか?
「どうして」
呆然自失が声に出た。何だか頼りない響きが嫌で、僕はお腹に力を入れた。
「どうして、綾部はそんなことを」
「それがいくら聞いても答えようとせんのでな」
ずっと俯きっぱなしの綾部に代わって、仙蔵が答える。
「とりあえず謝罪だけはさせようと引っ張ってきたのだが」
「謝罪なんていいけどさ」
ごめんなさいと言われるよりも、今はただ、どうして僕が綾部に罠にかけられなければいけないのか、その理由を知りたい。
「綾部」
僕が声をかければ、俯いたままの綾部の肩がぴくりと震えた。
「仙蔵の言ったことは本当なの?僕を落とし穴に落とそうとして、罠を仕掛けてたの?」
腹の底から息を吐きつつゆっくり問うと、綾部は「はい」と頷いた。
「どうしてそんなことをするの」
綾部はゆっくりと顔を上げた。
その、目。元から綺麗な顔立ちの子だとは思っていたけれど。今、綾部のぱっちりした大きな目は、不思議な力を持ってきらきらと輝いていた。
まるで、まばゆいばかりの光を浴びた、紫水晶のように。
今まで、人形のように美しい顔立ちの子だと思っていたけれど、こんな目の輝きを見てしまっては、もう人形などとは言えない。こんなに生き生きと輝く目を見たことが無い。
そしてその美しい造作の唇からは、思いがけない言葉がこぼれた。
「伊作先輩のことが好きだからです」
「え……?」
今、何を。
綾部の目に圧倒されていて、うっかり聞き逃すところだった。えっと、綾部が、僕を?
「もし、人の気持ちの量をはかるカラクリがあったとしたら、私の気持ちなど取るに足らぬ量でしょう。留三郎先輩が伊作先輩を思う気持ちに比べれば、半分もないかもしれません」
しかし綾部は狼狽える僕をそのままに、淡々と言葉を続けた。
「でも、それでもそれが、私の気持ちの全てなのです。私は、私が持てる気持ちの全てでもって、伊作先輩のことが好きなのです」
紫水晶の瞳。その瞳はずっと僕に向けられて。きらきらとした光は、僕を射ぬくかのようにまっすぐこちらに向けられて。
こんなに真っ直ぐ、こんなに一直線に気持ちを向けられたのは初めてだ。ただ見られているだけなのに、僕という存在の全てが見透かされてそうでどきどきする。
綾部が、僕を?どうして。分からない、でも、綾部の視線は真っ直ぐ僕に向けられて。そのひたむきな思いに、僕は応えなければならなくて。
「綾部……」
でも、なんて言ったらいいのか。分からずに口ごもる僕の前で、綾部はそっと目を伏せた。
「嘘です」
かたん、と医務室の戸が閉まる音がして我に返った。そういえばその前に綾部が「失礼します」と言い仙蔵が「ああ」とか言っていたような気がする。つまり今、僕が茫然自失してる間に、綾部が医務室を出て行ったのだ。
今のはなんだったのだろう。夢でも見ていたのか、狸に化かされたのか。いや、狸というよりは狐かと、その親玉を見れば。
「伊作おまえ、留三郎とデキていたのか」
ずべしゃ。文句を言おうと口を開きかけた僕は、あまりの台詞に頭から床に突っ伏した。
「……デキてないよっ!何言ってんだっ!」
「うむ、まあそうだろうとは思ったのだが、綾部の口振りからして、もしや、と思ってな」
ようやく起きあがって怒りのままに叫べば、仙蔵は涼しい顔で受け流した。
「それで結局……綾部は何だったの」
「さあな」
しかし冷徹なる作法委員長殿は、軽く笑った。
「もし、綾部が伊作の不運につけ込んだり、四年生ながら六年生を罠にかけて悦に入っているようなら、やめさせるべきだと思ったのだがな。そうでないなら、構わんだろう」
「構わん、って」
それで落とし穴に落ちて被害に遭うのは僕なんですけど。大いに構います、やめさせて下さい。
しかし足かけ六年に渡る付き合いで、よく知っていた。こんな風に笑う時、誰も仙蔵を止められはしない。
「まあ、せいぜい罠にかからぬよう、気をつけろ。おまえも最上級生なのだしな」
言いたいことだけ言って、美しい髪を揺らしながら、仙蔵も医務室を去っていった。後にはただ、灯明と僕だけが残される。
本当にもう、何だったんだろう。わけ分からない。いいや。ともかく状況は何も変わってない訳だし、今日のことはさっさと忘れてしまおう。僕は中断していた戸締りを再開した。
でも。
さっきの綾部の目。紫水晶のようなあの瞳だけは、脳裏に焼きついて離れない。
綾部は僕のことを好きだと言った。でも、嘘だとも。
どっちが本当のことなのか、僕には知りようもない。だけど、あの目だけは忘れられそうにない。思い出すだけで胸がざわめくような変な感じになる。
もうこれはいっそ、呪いとかそういうものかもしれないな。
「まったく、何だってんだ……」
しかし何度も落とし穴に落とされまくった僕では、綾部には敵わないのかもしれない。僕は盛大に溜息を吐くと、医務室を後にした。