昼休みも半ばを過ぎた頃。とたとたと軽い足音がしたと思ったら、教室の入り口から顔をのぞかせたのは、案の定。
「雷蔵、いるかな」
「伊作先輩」
明るい色の髪を揺らして、そっと中をうかがう様子が可愛い。六年なんだから、もっとずかずかと入り込んで来たっていいのに。
「残念ながら、雷蔵は今、日直の用事で職員室に行ってるんですよ」
だから教室にいるのは、俺たち二人だけ。もう一人であるところの三郎が、先輩に向けて手招きする。
「でもすぐ帰って来ると思いますよ。ここで待ってたらどうです」
「んー、じゃあ、そうしようかな」
伊作先輩は敷居をまたぎ越すと、教室に入ってきた。俺たちのいる机の前に、ちょこんと腰を下ろす。
「雷蔵に何か用事ですか」
「用事っていうかね。この前借りた手拭いを、返そうと思って」
そんなの、昼休みじゃなくても、放課後のもっとゆっくりできる時間に渡しにくればいいのに。そう思ったのだけれど、まだ付き合い始めの二人だ。ちょっとしたことでも顔見たり一緒にいたりしたいんだろうな。
初々しい。ていうか可愛い。そう思って、何となくはにかんだ様子の先輩を観察していたのだけれど。三郎はいじって遊ぼうと思ったらしい。突然こんなことを聞いた。
「伊作先輩って、雷蔵と付き合ってるんですよね?」
「つ、付き合うっていうか、その」
効果は抜群だった。一瞬にして伊作先輩の頬が真っ赤に染まる。
「でも、恋人同士なんでしょー?」
「こ、こいびとっていうか、えっと、あの」
うわあ、照れる先輩が可愛い。真っ赤になって、恥ずかしそうにもじもじして、あらぬ方に目を泳がせて、その目がなんだか潤んでたりして。
そんな様子をにやにやしながら堪能していた三郎が、さらに突っ込んで聞く。
「先輩って、雷蔵のどういうところが好きなんです?」
「ええ?」
「先輩は雷蔵の、どういうところに惚れたんですか?」
「……なんでそんなこと聞くんだよ」
「いいじゃないですか。聞きたいんだから、教えて下さいよ」
さすがに先輩も反撃を試みるけれども、あっけなくかわされた。そりゃまあそうだろうなあ、ここが他学年の教室であることからして、先輩に分が悪い。
手助けするべきかとも思ったけれど、聞いてる内容は俺も興味がある。とあえず様子を見ることにした。
「だって雷蔵なんて、そんなにいいところないじゃないですか」
お、先輩が口を割らないのに業を煮やしたか、三郎が作戦を変えてきた。
「そりゃ成績は優秀かもしれませんけど、俺ほどじゃないし、迷い癖はあるし、大ざっぱだし……そんな先輩が惚れるようないいところなんて、あります?」
「あるよ、たくさん!」
想い人がさんざん貶されるのに耐えきれず、先輩は叫ぶように強く言った。
「そりゃ聖人君子って訳にはいかないかもしれないけど、いい奴だよ、雷蔵は」
顔を赤くしたまま、頑張って雷蔵がいい奴だと主張する先輩は、ほんと、一生懸命だ。その健気さがなんていうか、たまらない。
「だから具体的に、どんなところが?」
「えっとだから……」
はにかみながらも、そこで間を空けてはまた三郎に『ほらいいところなんてない』などと攻撃されると思ったのだろう。でもやっぱり照れるのか、先輩はそっと言った。
「雷蔵は、いつも穏やかで、優しいし」
しかし、それを聞いて俺と三郎は顔を見合わせた。
「穏やかで優しいって言ったら……」
「そりゃ伊作先輩のことじゃないですか?」
三郎に続けて俺がこう言うと、伊作先輩は目を丸くした。
「ええ?だって僕そんな、穏やかでも優しくもないよ?」
「えええええええ!?」
仰け反った。俺と三郎はそれを聞いて、先輩とは反対側に仰け反る。
「自己像と実像の間にこれだけ落差があろうとは……」
呆然とつぶやけば、先輩が何度か瞬きしながら俺の方を向いた。
「じゃあ竹谷は、僕のことを穏やかで優しい人だと思ってたんだ?」
「思ってたっていうより、実際そうでしょう?」
勢い込んで言えば、先輩は、えーそうかなーと首を傾げた。
「僕は結構キレやすいし、そんな優しくもないよ。こないだも、後輩の護衛を頼まれて行ったんだけど、さんざん乱太郎たちを怒鳴りつけちゃったし」
そう言って先輩はがっかりしたように苦笑いしながら俯く。
「いやでもあれは」
食満先輩と潮江先輩の代わりに『善法寺くんでもいいんじゃない』という、食堂のおばちゃんでなければ許せないような台詞で、新野先生が不在だというのに護衛に行かされたのだから。怒りの沸点が下がるのも無理はないと思う。
しかし、俺がそう説明しかけたところで、今まで黙っていた三郎が不意に口を挟んだ。
「つまり、伊作先輩は、雷蔵の穏やかで優しいところが好きな訳ですね?」
「うん、まあ、そうなるのかな」
話が元にもどって、ぽっと先輩の頬が桜色に染まる。三郎はそんな先輩にずいっと顔を近づけた。
「な、何だよ」
「じゃあ俺、穏やかで優しい男になりますから!」
「……はあ?」
ぽかんと口を開ける俺と先輩の前で、三郎は身を引くと、すっと背筋を伸ばし、にっこり微笑んで見せた。
普段から顔を真似てるとはいえ、表情はそれぞれに違うことが多い。でも今のその顔には、三郎にはない、雷蔵の人懐っこさがしっかり現れていた。まさに雷蔵スマイル。
「伊作先輩」
声も雷蔵に似せたのか、優しくささやくと、三郎は伊作先輩の手を取った。
「雷蔵を見習って、どんな時も穏やかに、優しくあるようにします。そうしたら、僕のことも好きになってくれますか」
「えっとあの、鉢屋?」
「同じ顔なんだから、いいじゃないですか。僕とも付き合って下さい」
わずかに頬を染めて、はにかみながらにっこり笑う、おそらく雷蔵のとっておきの笑顔に、さすがに先輩もどぎまぎしたようで、狼狽を隠すように何度も瞬きをした。
「えっと、だめだよ、鉢屋、そんなの」
「どうしてです?雷蔵に対して、不実なことは出来ませんか」
さすが変装の天才。表情まで雷蔵を真似したまま、悲しげに眉をひそめる。
でも先輩はそんな三郎の前で、ぶんぶんと首を振った。
「そうじゃないよ。いや、それもあるけど、そうじゃなくて」
手を取られたまま、三郎を見上げる伊作先輩の目は、意外と真剣味を帯びていた。
「そんなことしたら、鉢屋のいいところがなくなってしまう。……そんなの鉢屋じゃないよ。だめだよ、鉢屋は鉢屋じゃなくっちゃ」
雷に打たれでもしたかのように。
三郎は目をまん丸に見開いて、一瞬硬直したのだけれど、次の瞬間には、伊作先輩の手も放り出して、机に突っ伏していた。
「あの……えっと、鉢屋、大丈夫?」
さすがに心配になった先輩が肩のあたりを撫でるけれども、反応がない。腕で頭を囲うようにしてうつ伏せたまま。まあ、仕方あるまいな。
「大丈夫ですよ、三郎は。ほっとけばそのうち復活しますから」
「そうなの?」
「そうです。同情や心配は返って迷惑に受け取りかねないひねくれ者ですから。心配するだけ損ですよ」
「でも……」
先輩はまだ心配そうな様子だったが、戸口に人の姿が現れると、ぱっと顔を上げた。
「あ、雷蔵!」
そのままぴょんと立ち上がって、教室の入り口へ駆けだして行く。
「あれ、伊作先輩、いらしてたんですか」
迎える雷蔵も、さっき三郎が真似たとっておきの笑顔に勝るとも劣らない、嬉しさにあふれた笑顔を見せる。
「これ。借りてた手拭い、今朝洗って干しておいたんだけど、今見たら乾いてたから。不自由してたら悪いし、早く返した方がいいかな、と思って」
「それでうちの教室まで来てくれたんですか?……ありがとうございます。わざわざすみません」
「いいんだ。別に、このくらい。なんてことないし」
「伊作先輩……」
教室の入り口だというのに臆面もなく見つめあってる二人は、もう完全に誰も入り込めない、この世には二人しかいません、とでも言うような雰囲気で。
二人とも、幸せそうな嬉しそうな、それでいて落ち着いたいい表情をしてる。こういうのが『優しくて穏やか』ということなのかな。春のお花畑にでもいるみたいな和やかさ。
見てる方が照れるんだけど、今更余所を向くのも不自然なような。どうしたものかと頬を掻いていると、三郎がむっくりと起き出した。
「あー、さっきのは参った」
「随分と衝撃が大きかったようだな」
揶揄してやれば、三郎はぶすっとした表情で前を見て、盛大にため息をついた。
「とっくに他人のもんだっつーのに、これ以上好きにさせないで欲しいよ、全く」
「そうだな」
「つーか俺はさ、優しくも穏やかでもないってことか?」
愚痴ともボヤキともとれる言葉を吐き連ねる三郎に、さっきの雷蔵の面影は全くない。
「まあ、優しいと穏やかとかが、お前の美点じゃないのは確かだよな」
「くー」
呻きながら再び机に突っ伏した三郎の頭を、ぽんぽんと叩いてやった。
「とか何とか言いながらさ。本当はさほど悔しい訳でもないんだろ」
突っ伏しながら、三郎の目は二人を捉えてる。頭を置いた腕の中で「まあね」とくぐもった返事が来た。
「他の奴に取られるよりは、雷蔵なら、ま、仕方ないし」
伊作先輩のことも大好きだけれど、雷蔵は親友だ。だから辛い、ではなく、だから嬉しい、という心理が三郎の中にあるらしい。それは三人まとめて見ていればよく分かることだった。
「三郎ってひねくれてるからなあ」
「……さっきも言ったな、それ」
とはいえ、その気持ちは分からないでもない。俺も似たようなものだから。
ぶすくれた三郎から視線を戻せば、伊作先輩の差し出した手拭を、雷蔵が受け取ろうとしていた。だがその時、手が触れたのをいいことに、しっかり手拭ごと伊作先輩の手を握る雷蔵。
「ほお」
先輩の頬に朱が上る。恥ずかしそうに手拭に視線を落とした先輩だが、照れながらも、再び視線は雷蔵に戻った。僅かながら二人の距離が縮まる。
「なあ。これって俺たちが出刃亀なんじゃないよな」
「ああ。二人が進んで見世物になってくれてるってことで」
俺と三郎はにやにやしながら事の推移を見守っていた、が。
かーん。
そこで昼休みの終わりを告げる、半鐘台の鐘が鳴った。
それを聞いた瞬間、我に返ったか、慌ててお互いから身を離す二人。
「いやー、残念だったなあ」
「もうちょっと続いてたらどうなってたか。惜しい!」
声をかけられて、ようやく見物人がいることに気づいたらしい。伊作先輩は「じゃあ、これで!」と言って雷蔵に手拭いを押しつけると、廊下を駆けだして行った。
「いよっ、この色男!」
「お前な、時と場所を選べよー、伊作先輩が可哀想だろー」
三郎が腕に雷蔵の首を抱きこんで固定するので、俺はその頭を拳固でぐりぐりとやった。
「今日の夕飯は雷蔵のおごりで決まり!」
「よっしゃ!俺A定で頼む!」
「なんでそうなるんだよ〜、こら、離せ!」
三郎の腕の中で雷蔵がもがくけれども、三郎は許してやらない。当然だろう、伊作先輩を独り占めしやがって、この、幸せ者が。
廊下の奥に先生の気配がするまで、俺たちは仲良くじゃれあっていたのだった。