殺意と理由

「やめぃ!…………そこまでっ!」
 だん!
 ――泣いているのかと思った。

 目の前には青い空が広がっていた。ところどころに白い雲。空の深い青を白い雲が引き立てて、なんとも美しい彩り。
 太陽は中天を少し逸れて、温かな光を投げかけている。どこからか雲雀の声。
 強くもなく弱くもなく、爽やかな風が校庭に僅かに砂埃を立てる。お弁当を持って出かけたくなるような、縁側でずっと昼寝していたいような、いい陽気の、穏やかな日。
 それなのに。
 それなのに、僕の目の前、青空の手前には鬼がいる。否、鬼の如き形相の朋輩がいる。
 そして文次郎が手にしていた苦無は、僕の耳の少し上、頭巾を掠めるような位置に突き刺さっていた。
 鬼ははあはあと荒い息を吐き、その顔から滴った汗が僕の顔に落ちた。
「文次郎。……止めと言った筈だが?」
 審判である山田先生が近づいてくると、文次郎は僕の喉元を押さえていた左手を離した。すみません、と口の中でもごもご言いながら、馬乗りになっていた僕の上から退く。
「何故、指示に従わなかった。これは訓練だ。格闘の演習に過ぎん。実戦でも何でもないのだぞ」
「……申し訳ありません」
 低い声で呟くと、文次郎は鬼の形相のまま、山田先生に向けて深々と頭を下げた。
「罰として校庭五十周!」
「はいっ!」
 返事をするや否や走り出す。文次郎は一度も、山田先生と目を合わせようとしなかった。
「まったくもう、なんなんだかなあ……」
 山田先生は起き上がった僕をちらりと見ると、肩をすくめて審判席へ戻って行った。
 ……それが、三日前のこと。

「文次郎がよそよそしい?」
 仙蔵にしては珍しく、鸚鵡返しに聞いてきた。一瞬箸も止まる。
「しかしそれは、当然といえば当然ではないか?」
 しかし一瞬の後、仙蔵の箸は動きを取り戻して、今日の定食のメインのおかず、鳥のから揚げを摘み上げる。
 複雑な形をした結構大きなそれを、いとも無造作に、しかし完璧なる安定を持って持ち上げるその箸裁きに半ば見とれつつ、僕は首を捻った。
「何で当然なの?僕、何か文次郎に悪いことしたかな」
 心当たりは無いようで有る。有るようで無い。忍者に向いてないと言われる僕は、ギンギンに忍者してる文次郎からすればかなり歯痒い存在らしくて、しょっちゅう怒られたりしている。今度もまた、僕が気がつかないうちに、何か忍者らしからぬことをしてしまっただろうか。
 しかし僕がそう言うと、仙蔵は怪訝そうな顔をした。
「……お前は気にしていないのか」
「何を?」
「この前の演習だ」
 そういえば、この前六年の合同演習があった。
 闘を中心とした演習で、僕は文次郎と一対一で勝負したんだっけ。
「あれってそういえば、文次郎の勝ちなんだよね。判定がつかなかったからどうしたんだろうと思ってたけど」
 まあ僕が文次郎に敵う筈もないし。でもそう言うと、仙蔵はしみじみ溜息をついた。
「なんだよー。なんでそこで溜息なんだよ」
「……お前、あの時文次郎に殺されかけただろう?」
 仙蔵はさらさらの前髪の間から、僕を睨みつけてきた。
 この前の演習、先生の『やめ』の号令がかかった後で、文次郎は苦無を突き立てた。
 それは僕の顔からさほど離れていない場所で、あと少し右にそれたら僕の左目は眼球が潰れていただろうし、更に少し右にそれたら眉間が砕かれていただろう。
 ただ、そういう危険とは別に、苦無を突き立てた文次郎からは、はっきりと殺気が感じられた。
「文次郎はお前を殺すつもりだった。まさかそれが分からなかった訳ではあるまいな?」
 内容が内容だけに、昼食で混む食堂で大っぴらに話すことじゃない。だから仙蔵の声は低く絞られていたが、それが妙な迫力を生み出していた。
「……うん。ちゃんと殺気を感じたよ」
 ちょっと気圧されながらも答える。すると仙蔵は再び溜息をつき、やれやれとばかりに箸を持ち直した。
「それが分かっていて何故そんなことを言う。一度でも本気で殺そうと思った相手に、どうして普段どおり振舞える?」
「……そういうもんかな」
「そういうものだ」
 もう返事をするのも面倒になったらしい仙蔵は、美しい箸裁きを駆使しておかずやらご飯やらを片付けて行く。
「じゃあ、なんで文次郎は、僕を殺そうと思ったんだろう?」
 忍者らしからぬ僕が歯痒かったり目障りだったりしても、それで殺意を抱くってことはないだろう。文次郎はそんな狭量な奴じゃない。
 しかし仙蔵は僕の問いに、さあな、と片眉だけ上げてみせた。
「後は知らん。理由は自分で見つけろ」
 そう言い残すと、そのさらさらの髪を揺らして去っていったのだった。

「長次いるー?」
 声をかけてから障子を開く。しかしろ組の教室には長次の姿はなく、小平太が窓から外を覗いているっきりだった。
「あ、長次なら図書館じゃないかな」
 何を見ていたのか知らないけれど、小平太は振り向くとにかっと笑った。
「長次に用事だった?」
「用というか聞きたいことがあったというか……」
 何か分からないことがあった時、僕は長次を頼りにしてる。図書委員長だけあって博識だということと、意外と人間観察が得意な彼は人の心の機微に通じているのだ。
 小平太は僅かに首を傾げて僕を見下ろしている。そういえば小平太も、あの演習の時、その場にいたっけ。
「ね、小平太。ちょっと聞いてくれる?」
「なになに」
 立ち話もなんだから、教室の机を挟むようにして、二人で座る。
「この間の演習の時のことなんだけど」
「うんうん」
「どうして文次郎は、僕を殺そうとしたのかな?」
 言ってからびっくりした。なんだかもの凄く、物騒な話をしてるなあ。
 でも流石は百戦錬磨の体育委員長。僕の剣呑な台詞に驚くようすもなく、うーんそれは、なんて言葉を探している。
「それはやっぱり、いさっくんだからじゃない?」
「僕だから?」
 ……もしかしたら僕は、知らないところで文次郎の恨みを買ってたんだろうか。
 実は忍者らしからぬ僕が目障りで、いつまでも忍術が上達しない僕を、いつしか憎むようになっていた、とか?それとも他に何か、小平太やみんなは気付いてたんだけど、僕だけ何も知らずにいるような、そんな憎まれる理由がある、とか?
 そんな。知らないうちにそんなに憎まれてたとしたら、悲しすぎる。
「どうしたのいさっくん、そんな泣きそうな顔して」
 慌てたように小平太が、僕の頭をぽんぽん叩いた。
「大丈夫だって。そんな憎まれたり嫌われたりしてる訳じゃないから」
「本当に?」
「本当だよ。文次郎は、いさっくんのことが嫌いなんじゃないよ。恨んだりしてない」
 小平太の邪気の無い笑顔を見ていると、その言葉は信じられた。あけっぴろげの明るい笑顔を見れば、少なくとも小平太は、そうだと思ってることが分かる。
 野生の勘が鋭い小平太が確信してるんなら、信じていいだろうと思う。
「……じゃあ、なんで僕なんだろう?」
「それはねー、分かるような気もするんだけど」
 珍しく、この野生児の顔が苦笑いという形に歪んだ。
「私が説明するようなことじゃないと思うんだ。上手く言えないけど」
「ふぅん。そうなんだ」
 でも小平太には、ちゃんと分かってるんだ。
 いろんなこと。文次郎が、どうして僕を殺そうとしたのか、その理由を、全部。
「長次だったら、もっとちゃんと教えてくれると思うよ」
「分かった。じゃあ、図書館に行ってみる」
 しかし僕がそう言ったところで、授業始まりの鐘が鳴る。
「いさっくんってば、やっぱり不運ー」
 からから笑う声を後に、僕はろ組の教室を出た。

 放課後の図書室。人気が無いのをいいことに、僕はカウンターに座る長次の隣に陣取った。本当は図書委員でもない僕がこんなところに居座るのは問題があるだろうけれど、他に図書委員がいない時には、長次は容認してくれる。
「この間の演習のことだけど」
 出来うる限り小さな声で、ぴったりと長次にひっついて話す。
「文次郎は僕に殺意を向けてきた。本気で僕を殺そうとしていた。でも、それはどうしてなんだろう。どうして文次郎は僕を殺そうと思ったんだろう」
 言いながら、気がついた。そういえばもう一つ、疑問がある。
「そんなに殺したいと思ってたなら、どうして本当に殺さなかったんだろう?」
 あの苦無がもう少しでもずれていたら、僕の眉間は割れていた。土にめり込んだ苦無を見れば、それが出来るくらいの力で突き立てられたことが分かる。
 本当に僕を殺したいんなら、どうしてそうしなかったんだろう。
 でも僕がその疑問を口にすると、長次は僕から目を逸らし、口元に笑みを浮かべた。
 ……まずい。僕は長次を怒らせてしまったみたいだ。
 そりゃそうかもしれない。文次郎も長次も仲間で、友達で。その友達が友達を殺すの殺さないのなんて、気分のいい話題じゃない。
 長次は物識りで人の心の機微に通じていて……そして、優しいから。
「文次郎はやり過ぎだが、お前も心配だ」
 しばらく沈黙が続いた末に、ふと湧き上がったぼそぼそした呟き声。
「死が怖くないのか」
 長次の目線が僕に戻ってきた。じっと僕を見下ろしている。
「怖くないわけないじゃないか。もちろん、怖いよ」
 でも僕がそう言うと、長次はまた、目を逸らした。どうしたんだろう、僕は今日、長次を怒らせてばかりいるんだろうか。
 確かに、長次には不愉快な話題だった。変な話をしてごめんね、と立ち上がりかけた僕の手首を、長次が掴んだ。
「……文次郎はただ、忍者を目指している、それだけだ」
「忍者を目指す……?」
 学園一、ギンギンに忍者していると評判の文次郎が、忍者を目指す?
 でも、すぐに長次の手は僕の手首から離れた。後は自分で考えろということか。
「ありがとう、長次」
 お礼を言うと、図書室の主は、黙って手元の本をめくり始めた。

 並べられた幾つもの苦無、手裏剣、棒手裏剣。
 留三郎はそのうち一つを手に取ると、厚手の布で磨き始める。
「まあ結局のところ、伊作としては文次郎と仲直り……っていうか、元の状態に戻りたいんだろ?」
 さすが、六年間一緒に過ごしてきただけはある。留三郎は僕の話を聞いて、ズバリと原点を指摘してきた。
「うん、そうなんだ。どうしたらいいと思う?」
 勢い込んで聞く僕に、留三郎はちょっと手を休めて考えこんだ。
「……時間が解決してくれるのを待つ」
「そんな。待ってる間に卒業しちゃうよ!」
 どれくらいの時間がかかるのか分からない。でも、僕達に与えられた時間は無限じゃないのだ。
「じゃあ、あれだな。文次郎に直接聞くしかない」
 やっぱり留三郎は鋭い。触れて欲しくないところにもズバリと切り込んでくる。それをしたくないからこそ、こうやってみんなに聞いてまわっているのに。
「ったくあいつも馬鹿だよなあ。一本気っていうかさ。誤魔化しが効かないっていうか……暑苦しいのは顔だけにしとけってんだ」
 あいつ、というのはこの場合文次郎のことだろう。じゃあ、も、っていうのは?
 見上げると、長年連れ添った友人は、僕からも苦無からも目を逸らした。
「……実は俺も、伊作のこと殺そうと思ったことがある」
「えっ……ええええっ!」
 思わず後ろに跳び退る。しまった、留三郎の前には各種飛び道具が。せめてあれのうち一本でも引っつかんでからさがるべきだったか!
 パニックに陥った頭で変なことを考えてる僕に、留三郎は溜息をついた。
「今はもうそんなこと考えてないから。戻って来いよ」
「あ、うん……」
 用具委員長である友人、は持っていた布で苦無を磨いていたけれど、僕が元の位置に座ると、苦無を置いた。
「若気の至りっつーのかなあ。色々考えて、頭ぐちゃぐちゃになって、これはもう殺してみるしかない、とか思ったんだけどさ。それで本当に死なせたら馬鹿だし、死にはしなくてもこうしたギクシャクした関係になっちまうし……そのうち、思いつめてる俺が馬鹿みたいに思えてきて、やめたんだけどな」
 留三郎にそんなに深く悩んでいた時期があったとは。
 ……いや、あったような気がする。ただ、あの時の留三郎に僕は何もできなかったんだ。気を遣ったり労わろうとしても、邪険にあしらわれてた時期が、確かにあった。
 あの頃もしかして、留三郎は僕を殺そうか殺すまいかで悩んでたのか。
 ……新たに判明した驚愕の新事実に、驚いたまま何も言えない。
 何で、何でそんなみんな、僕を殺したいと思うんだ!?
「お前が特別なんだよ。なんていうか、人の心の柔らかい部分に、するっと入ってきちまうから」
 そう言って、僕の見たこともないような顔で苦笑いする留三郎。
「あいつも、俺と同じこと考えたんだと思う。……ったく馬鹿だよなあ」
 再び布を手にして、苦無を磨き始める。
 小平太も、なんだか珍しく苦笑いしていた。仙蔵と長次には、自分で考えろと突き放された。
 初めて打ち明けられた真実が衝撃的だったこともあるけれど。僕はなんだか、仲間たちからぽつんと爪弾きにされたような気分になって、落ち込んだ。

「文次郎、いるかな」
 声をかけながら戸を開けると、中にいた会計委員達が一斉にこっちを見た。
 思わずその視線にたじろぎながらも奥を見ると、いた。目の下にくまを溜めた、一際不機嫌な顔が。
「……何か用か」
 あまりにも低い声。その声が威嚇を含んでることは、多分僕の思い過ごしじゃない。会計委員の一年生達が、怯えたような表情で、文次郎と僕を見比べている。
「ちょっと話があってね」
 まったく文次郎ってば、一年生を怖がらせたりしてしょうがないなあ。殊更強くそう思って、僕は余裕たっぷりという笑みを浮かべる。
「委員会が終わってからでいいから、顔貸してくれないかな。そんなに時間は取らせないよ」
 眉間にくっきりと皺を浮かせた文次郎が何か言いかけて口を開くが、そのために息を吸う、絶妙のタイミングで話し始める。発言の隙を与えない。
「期末でも月末でもないこの時期に、徹夜までしてやる計算なんてないよね?会計委員は、みんな優秀だし」
 ごめんねみんな。こんな皮肉っぽいこと、本当は言いたくないんだけれど!
 心の中で手を合わせつつ、でも顔だけは、極上の笑みを浮かべてみせる。
「じゃあ、医務室で待ってるから」
 ひらり、と手を振って、扉を閉める。渡り廊下を通り、委員会長屋を出たところで、足が萎えた。思わずその場にへたり込みながら、汗がどっと吹き出てくるのを感じる。
「はー……」
 おいおい、こんなことでどうする。対決はこれからが本番なのに。
 対決。……そう、僕は文次郎と、ちゃんと向き合うことに決めた。ここでしっかりぶつかっておかないと、文次郎だけでなく、みんなのことも失ってしまいそうだと感じたからだ。
 だから。こんなところでへたばっている訳にはいかない。僕は立ち上がると、医務室へ向かった。

 夜が更けて、もう真夜中近い頃だった。
 かたん、と音を立てて医務室の戸が開き、そこには文次郎が突っ立っていた。
「あ、やっと来てくれた。……もう来ないのかと思ったよ」
「似合わない皮肉まで吐かれちゃあな」
 文次郎は勝手にずんずん入ってきて、すすめもしない円座にどっかりと腰を下ろした。
「で?話ってのは」
 こういうのがよそよそしいっていうんだよなあ。ここまで一回も、僕と目を合わせていない。
 不機嫌を隠さない顔に、この威圧感。この忌々しい部屋からすぐにでも出て行きたいという雰囲気。……きっと文次郎も、ナーバスになってる。
「ちょっと待ってて。今、お茶淹れるから」
「茶なんかいい。話が先だ」
「えー、でも疲れてるでしょ」
「伊作!」
 その大声に、僕は飛び上がりそうになった。
 仕方ない。お茶とお茶菓子による懐柔作戦は放棄するしかない、か。
 僕はのろのろと文次郎の前に来ると、用意しておいた円座に座った。
 二人を照らす位置に置いた灯明は、さっき油を注いだばっかりで、明々とした光を投げかけている。
 広い医務室に二人っきり。庭から虫の音が響いてくる他は、何の音も気配もない、静かな夜。
「えーっと、ね」
 医務室で過ごす夜も、文次郎と二人っきりも、決して初めてじゃないのに。無性に緊張する。
 でも、言わなくちゃ。僕は何度も何度も頭の中で考えてきた言葉を口にした。
「ええと、僕は、文次郎のことが好きだよ」
 長年秘めていた思いを。ついに、とうとう!言ってしまった!
 頬が火照ってるのが分かる。顔赤くないかな。うう、恥ずかしい。
 しかしちらりと文次郎の様子を伺えば、目と口を見開いて「はあ?」という表情。
 ……人が決死の思いで告白したというのに。そんなに呆然とすることないだろう馬鹿。
 ああ、照れてるのが馬鹿らしくなってくる。
 もうどうでもいいやと投げやりな気持ちでいたら、文次郎が何か呻くように呟いた。
「え、何?」
「どうして、一体何故!」
 叫ぶなり文次郎は僕の襟首を掴み、そのまま押し倒した。
 がつん、と凄い音がして床と僕の後頭部がぶつかる。目から火花が出る。脳震盪を起こさなかったのが不思議なくらいだ。痛い。頭がガンガンして痛い!
 しかし文次郎は、それでは飽き足らないのか、上から馬乗りになって、襟元をぎゅうぎゅう押さえつけてきた。
「俺はお前を殺そうとしたんだぞ!?なのに何故、そんなことが言える!?」
 ……ああ、これはあの時の再現。
 ただ一つ違うのは、あまりにの痛さに涙が出てきて、視界がぼやけてることだけだ。ずずっと鼻水をすすると、この緊迫した状況に似合わない音にようやく文次郎も落ち着きを取り戻したのか、手を緩めてくれた。
「何でって言われてもね。好きなものは好きなんだし」
 間近で見ると、文次郎は少しやつれたようだった。目のくまも深い。手を伸ばして触れたいと思ったけれど、今はやめておく。
「文次郎はずっと、僕の憧れだったんだ。強いし、賢いし。いつも一生懸命で、なんでも修行にしてしまって、一途に忍者への道を辿ってる。そんな文次郎が僕の憧れで、だから大好きなんだ」
 振り返って僕は、教科も実習も好きだけど苦手で、すぐにへたばるし、どんくさいし。多分その劣等感の裏返しで、文次郎に強く憧れた。
「文次郎ならきっと、僕が憧れるような忍者になってくれる。そう信じてる。だから……だから、ね」
 険しくなる一方の文次郎に向けて、僕は微笑みかけた。
「だから文次郎が殺したいなら……僕のこと、殺してもいいよ」
「……!」
 だんっ!と耳元で大きな音がして、文次郎の拳が床に打ち付けられたんだと分かった。
 苦無は持ってないだろうに、そこまであの時の再現をしなくてもいいのに。
「だから何でっ!ちょっと殺されそうになったからって簡単に殺られてんじゃねぇよこのヘタレ!」
「簡単じゃないよ」
 顔近いんだから、いちいちそんな大声で怒鳴らないで欲しいんだけど。
 でもそのひたむきさが文次郎なんだよなあと思う。一途というか、馬鹿というか。
「僕はあの時、人があんなに必死な顔になるの、初めて見た。合戦場で人を殺しあうのは何度も見てきたし、命からがら逃げ出して来た人の手当てをしたこともある。でも、人があんなに必死な形相になるのは、初めて見た」
 それが文次郎だったから、より必死さを受け止められたのかもしれないな。けれど。
「だから。文次郎だって簡単に僕を殺そうと思った訳じゃない。何かの事情で、思い悩んで、熟考に熟考を重ねた挙句、こうするしかないんだって苦渋の決断をしたんだと分かるから……だから。それなら、僕は死んでもいい」
 忍者になれば。友を裏切らなければならないこともある。
 任務のために、仲間を見捨てなければならないこともある。
 文次郎はきっと、悩んだのだろう。自分にそれが出来るのかどうか。六年間共に過ごしてきた仲間を大事に思えば思うほど、それが難しくなることを感じて。
 ましてや僕らの進路次第では、お互いが敵同士になる可能性もある。
 だから文次郎はきっと、試してみたかったのだ。
 自分が仲間を殺せるかどうか。
 自分は忍者になれるのかどうか。
 だから審判の制止がかかったのに、苦無を振り下ろした。

『それはやっぱり、いさっくんだからじゃない?』
 
 それが何故僕なのか、という問いに対する、小平太の答え。
 文次郎の仲間のうち、僕のことを一番好きだから、いとおしいと思うから、だから僕を殺そうとしたのなら。こんなに嬉しいことはないんだけど。
 でも、どうだろう。僕が一番ヘタレだから、自分が全力を出すまでもない弱っちょろい相手だから、かえって殺しにくいという判断で、僕だったかもしれないし。
「とにかく、もし文次郎が将来、僕を裏切ったり見捨てたりして、結果的に僕が死ぬような目にあったとしても。僕は文次郎を恨まないからね」
 あの鬼の形相を見れば、文次郎が本当は僕を殺したく無いんだということがよく分かる。だから僕は殺意を向けられても、怖くなかった。
「……けっ、何言ってやがる」
 吐き捨てるように言うと、文次郎は僕の上からどいた。重石がなくなって、僕も身を起こして立ち上がる。
「じゃあ手前はどうなんだよ」
「へ、僕?」
「もし将来、お前が、俺を殺さなきゃならなくなったらどうすんだよ」
 ……そうか、そういう事態もありうるのか。
 しまった。これは考えてなかったな。でも忍者になりたいのなら、ちゃんと考えておかないと。
「えーと、うーんと……」
 僕が文次郎を殺す?想像もつかない。可能だとも思えない。でもそういう場合って、文次郎を殺さなきゃ僕が死ぬような、厳しい状況にいる訳だよね。
「……文次郎を殺さなきゃいけないような羽目に陥らないよう、全力で回避に努める」
 我ながら情けない答えだと思う。でも本当に、これ以外思いつかない。
「ふん。だからお前はヘタレだってんだ」
 さも馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、文次郎は正面から僕を睨みつけた。
「いいか、もしお前が俺を殺さなきゃならなくなったらな、俺がお前を殺してやる。覚えとけ」
 ……なんだろう、この真剣さ。いつも僕をヘタレと叱る時の怒りや苛立ちでは無く、もちろんあのよそよそしさや凶暴さも消えうせて。
 でも僕が見つめているうちに、文次郎はふいと顔を背けた。
「何だよー、じゃあ、僕のためには死んでくれないんだ」
 冗談めかして叫んだのは、重い空気が軽くなった気がしたから。調子に乗ってみたのだ。
「あったりまえだろうが。お前みたいなヘタレの為に死んでやれっか」
 文次郎もいつもの、馬鹿にしたような声音で返す。
「お前はせいぜいそんな事態を回避してろ、このヘタレ」
「そんなに何度もヘタレヘタレって言わなくてもいいだろー!」
 僕の怒った顔に軽く手を振って、文次郎は医務室を出て行った。その足取りはいつもの文次郎のもの。背中にも、この部屋へ入ってきた時のような、鬱屈した感じはもう見えない。いつも通りの文次郎。
 会話だって、変な話題だったけど。文次郎が僕をヘタレと罵って、僕がそれにふくれてみせて。いつも通りといえば、いつも通りだ。
 すごくほっとした気分。でもどこか拍子抜けしたような。
 とにかくこれで、当初の目的の、よそよそしさを解消……したかな?
「はあ……」
 よく分からないけど、多分大丈夫。そう思うといきなり力が抜けて、僕は医務室の床にぺたんと座り込んだ。

「……と、いうわけなんだよ。文次郎ってばひどいよね」
 今日のランチ、豚しょうが焼定食を頬張りながら、仙蔵相手にむくれて見せた。
「結局文次郎が言ったのって、ヘタレ、と殺してやる、と、それだけだよー?なんか告白した分損した、って気分だ」
 付け合せのキャベツの千切りを摘めるだけ箸で掴むと、口の中に放り込む。
 そう、なんだかんだ言って、僕はあの時、文次郎に告白したのだ。
 それなのに、返事は聞いていない。まあ、会話の流れからして、返事とかそういう状況じゃなかったのは分かるけど。後から考えれば、せっかく告白したのになあ、と思わないでもない。
 ……しかし、仙蔵にそう愚痴りつつ。本音ではどこか安心していた。とりあえず文次郎とは元の関係に戻れたと思うし、告ったことも、返事がないとしても、拒絶されてはいないし。
 ともあれ、元の鞘に納まったと言えるなら、まあ仕方ないかな、という感じ。
 でも仙蔵は箸を置くと、やれやれ、と呟いた。
「それは、考えようによっては、文次郎なりの愛情表現なのではないか?」
「え?ヘタレって言うのが?」
「まあそれもある意味そうだが……もう一つの方だ」
 殺してやる、のどこが愛情表現なんだろう?
 キャベツを咀嚼しながら首を傾げる僕の前で、とっくに定食を食べ終わっている仙蔵は、湯飲みを手に取った。
「お前の手を友の血で汚させ、友を殺したという思いで苦しめるくらいなら、お前を殺し、その責めを一身に負うつもりなのだろう、あの馬鹿は」
 ……手を汚す。責めを負う、って。
 お茶を飲み干すと、呆然としている僕を置いて、仙蔵は席を立った。
「まあその考え方には、賛同できんこともないがな」
 さらさらの髪が、仙蔵に付き従って動く。その前、仙蔵は軽く微笑んでいるように見えた。

『お前が特別なんだよ。なんていうか、人の心の柔らかい部分に、するっと入ってきちまうから』

 それが何故僕なのか、という問いに対する、留三郎の答え。
 そんなことを望んだ覚えはない。ただ、これまで一緒にやってきた仲間のことが好きで、好かれてるのが嬉しくて。優しくしたい、されたいと思ってるだけで。
 そう、だから仙蔵のことも、文次郎のことも、留三郎も、長次も小平太も、みんな好きで、大切な大事な仲間だと思ってるだけで。
 だけど僕が一番ヘタレだから。全力を出すまでもない弱っちょろい相手だから。
 だからかえって殺しにくいという理由で、みんな僕を殺してみようと考える……?
 一流の忍びとなるために。
 友を裏切る強い心が自分にあるか、試すために。
 ……忍びの道って厳しいなあ。
 僕は忍者になれるんだろうか。五体満足なまま卒業できるだろうか。
 なんだか急に不安になってきて、僕は食堂の机に突っ伏した。

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