その人の顔

 その医療器具を目の前にして、僕は溜息をついた。
 金属の棒とピンサ。よく使い込まれたらしくうっすらと小さな傷の沢山付いたその器具は、しかし手入れが良く、すっきりと磨かれていた。錆の気配など微塵もない。
 程良い長さと抜群の安定性を持ち、それでいて軽い。名工の手によって塩梅良く加工されたそれは、実に使い勝手が良さそうだった。金銭的には凄く高価なのに違いない。ただ、こんな特殊な器具、お金を出せば買えるというものではない。かなり貴重な品だ。
 しかしそれは、銃創の手当に使われるもの。
 何故僕に預けられたのか。最初は意味が分からなかった。使うことが無ければいいと、そればかりを願っていた。しかし、僕にこれを授けたのは凄腕の狙撃手だ。
 敵の手当てを頼む筋合いはない。つまりこれは。
「失礼します。伊作先輩、いますか」
 声とともに戸が開き、姿を現したのは、一年は組佐武虎若。僕はピンサと棒を小袋に戻した。
「あ、虎若。どうしたの」
 戸口にいる級友のところへ、後輩が駆け寄っていく。
「うん、父ちゃんが今、学園長のところへ挨拶に行っててね。それで照星さんが……」
「照星さん?」
 虎若を挟んで、乱太郎の反対側へ現れたのは。
「失礼するよ」
 仮面のような顔をしてプロ忍者の黒装束をまとったその凄腕の狙撃手こそ、僕にこの器具を預けた人だった。

 すすめた円座に、ゆっくりと腰を下ろしたのを見て、僕も座る。
 乱太郎と虎若は医務室にいない。『せっかく照星さんがいらしているのだから、三木ヱ門も会いたいのでは』と耳打ちすると、それもそうだと二人は出ていった。広い学園のこと、もうしばらくは探し回っているだろう。
「先日は、貴重な品をお貸し下さり、ありがとうございました」
 僕は照星さんの前に、ピンサと棒を入れた小袋を差し出した。
「いや、結局無駄になったのだからね。礼を言われることじゃない。しかし」
 照星さんは一度言葉を切ると、僕の顔を正面から見た。
「君は私の立てた作戦に、不満が残ってるようだね」
「不満など、まさか、とんでもない」
 見抜かれた。僕は心の中で舌打ちをした。
 まさか、こうしてこの人に会おうとは思ってもみなかったから。
 顔など見ないうちに、さっさと虎若にピンサを預けてそれでよしとする筈だったのに。
「結果的に忍術学園に勝利をもたらしたのは、虎若が撃った一発です。忍者は結果が全て。不満などあろう筈がないではありませんか」
 笑え。笑って見せろ。
 変姿の術の時に、自分がどんな表情をすれば他人からどう見えるか、鏡を相手にさんざん練習したじゃないか。顔のどこの筋肉をどう動かせば笑顔に見えるのか、よく知っている筈。
 僕はにっこりと笑ってみせた。

 もちろん、不満はある。
 最大の不満は、乱太郎を銃口に晒したことだ。
 疲れ果て、動きも鈍っている上に、撃たれる可能性を少しも知らなかった乱太郎に銃口を向けた。狙われているということを知らなければ、避けることなど出来る訳が無いではないか。すばしっこくはあるが、まだ人を疑うことを知らない乱太郎を、無碍に銃口に晒すような作戦を立てたのだ、この人は。
 次に、何故虎若に撃たせたのかということ。
 忍術学園の生徒であれば、三木ヱ門でも良かった筈だ。無論、三木ヱ門とは連絡がつかなかったという言い訳ができるだろう。しかし、もしあの場に三木ヱ門がいたとしても、この人は虎若に撃たせたのではないだろうか。
 火縄銃の腕前など知らない。素質や才能など知った事じゃない。しかし、鉄砲集団の御曹司とはいえ一年生、火器について修練を積んだ三木ヱ門とそう差は無い筈だ。
 僕なら三木ヱ門に撃たせる。
 万が一、乱太郎に当たれば、虎若はクラスメイトを撃ったことになる。それは虎若にとってあまりに辛いことではないだろうか。また、乱太郎にとっても。
 無論、三木ヱ門が撃った弾が当たったところで『味方に撃たれた』事実に代わりはないのだが。それでもクラスメイトよりはいいだろうし、三木ヱ門は四年生だ。それを乗り越える強さを要求してもいい。
 それらの危険を全て飲み込んだ上で、この人は虎若にやらせた。
 主君の息子だからか。
 点数稼ぎか、保身か。
 三木ヱ門より虎若を信頼していたからか。
 どんな理由があるかは知らない。しかしこの人は酷く危険なことを一年生にやらせたのだ。
 そして最大の不満は、このピンサだ。万が一に備えてと言えば聞こえはいいが、万に一つ以上の可能性があったから、こんな大事なものを人に預けたりしたのだろう。そしてこれを僕に預けることで、この人は僕に予告したのだ。
 人が、撃たれるかもしれないよ、と。
 あの位置ですぐに気づいて駆けつけたところで、日暮れまでには着かない。おいそれと持ち場を離れられない状況で、どれだけやきもきさせられたことか。
 そういったことが積み重なって、未だに心の中でくすぶっていた。納得行かない、割り切れない思いはしかし、忘れてしまうしかない。
 この件は成功したのだから。忍者は結果が全て。例えどんな危険な橋であろうと、渡りきってしまえばそれで良し。だから僕もこの結果を喜び、虎若を導いた照星さんに感謝せねばならないのだ。
 こんな不満など持ってはいけない。さっさと水に流してしまえ。
 忍者として。一人前とは言えなくとも、忍者を目指す者としては。
 僕が笑いかけると、照星さんの口元にも笑みが浮いた。
「頬が引きつってるよ、善法寺くん」
 ああ、まだ修行が足りない。
 まさかこの人に直接会うことがあるとは思ってなかったから。不満は不満として胸に抱いたまま、気にしないでいようと思っていたのに。
 仕方ない。僕は笑みは引っ込めて、真面目な表情を作った。
「あの、一つ伺ってもいいでしょうか」
「何かな」
「どうして新野先生ではなく、僕にこれを預けられたのですか」
 新野先生は経験も実績も豊富な医師だ。きっとピンサを使って弾丸を摘出したこともあるだろう。
 それなのに、ただの保健委員長でしかない僕に預けたのは、どうした訳か。
「君が気づいていたかどうかは知らないが、もう一人にも弾が当たる危険があった」
 見つめる先で、能面のような顔はしゃべりだした。
「若大夫はまだ子供だ。銃でもって人を殺すには早過ぎる。弾が当たったところで死なせたくない。しかし奴は忍術学園にとっては敵だ」
 思い出した。乱太郎と一緒に走っていた、ドクササコの凄腕忍者の部下。確かに、乱太郎が危険なら、あの人もまた危険だった訳だ。
「奴に的中した場合、新野先生がどう判断を下されるか分からなくてね。でも君ならば、と」
「どういう意味です?」
「話しに聞く限りでは……」
 能面の唇は、そこで少し止まった。その目がまっすぐに僕の顔を見る。
 何の話だろうか。そういえば、この人とは園田村ですれ違ったことがあった。
 その時に、聞いたのかもしれない。タソガレドキ忍軍が戦に参加しなかった訳、すなわち怪我人は見捨てるのが忍者の常識のくせに、常識やぶりをしていた馬鹿な上級生がいたとかそういう話を。虎若か他の一年は組の子達から。
「いや、今も思った。君は、忍者に向いてないんじゃないか」
 ……それとも。
 どこかで聞いたような物言いに、腹の底が冷たくざわめく。
 僕の預かり知らぬところで、僕に関する何かが通じているのだろうか。言いようのない気持ち悪さに顔を上げた時、ふと思った。
 この人の顔は、能面に似てる。
 何の脈絡もなくそう思った。
 表情が変わらないとか、顔の作りが独特とか、そういうことではないのだ。見る側の心のありようによって、表情が変わって見える。そこに何らかの表情を読みとろうとしてしまう。でも見える表情はきっと、こちらの心の動き次第で変わるのだ。
 冷徹な人だと思った。でも、今は。
「みなさんそうおっしゃいます」
 僕は沸き上がる感情にまかせて、にっこりと微笑んだ。

「ああっ、照星さん、いらしてたんですか!」
 飛び込んできたのは三木ヱ門だった。大声を出してから、ここが医務室だと気づいたのか、すみませんと軽く頭を下げた。
「じゃあ、私はこれで」
 照星さんは音もなく立ち上がると、戸口へ向かった。後には小袋が残される。
「あの、これを」
 忘れていくようでは、何をしにここへ来たのか。追いすがる僕に、おもむろに振り向いた。
「それは君にあげよう」
「え……」
 厚手の生地で縫われた袋は、端や口が擦れかけ、相当に年季が入っていることが伺われた。この人には必要な物で、ずっと大事に持っていたのだろうに。
 僕が絶句している間に、三木ヱ門を伴って医務室から出て行った。廊下で待っていたらしい虎若もそれに続く。
「……伊作先輩、どうしたんですか」
 入れ替わりに入ってきた乱太郎が、僕の傍に寄ってきた。心配そうに見上げてくるその顔を見下ろす。
 あの後しばらく筋肉痛に苦しんでた乱太郎も、すっかり元気になった。
 無事で良かった。
 誰一人、怪我しなかった。これで良かったんだ。
「いや。大事なものをもらってしまったようなのに、お礼を言いそびれたな、と思ってね」
「そうなんですか」
 僕の手の中にある小袋を見て、乱太郎は納得したように頷いた。そしてにっこり笑う。
「でも、またきっと会えますよ、そのうち」
 さっきの僕の、怖れや怒りといった負の感情に突き動かされたのとはまったく違う、心からの笑み。
 その可愛らしい笑みに、強ばっていた心がだんだんほぐれていくのを感じた。
「そうだね、そのうちにね」
「はい」
 乱太郎が力強く頷いてくれるから、僕はその頭を何度も何度も撫でた。

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