立読みはやめましょう

 戸を開けると、黴っぽいような埃っぽいような匂いがほんのりと漂ってきた。
「……あれ」
 図書室は、放課後だというのに全然人の姿が見あたらなかった。確かにいいお天気で、屋内にいるのがもったいないような陽気だけれど、いつもは誰かしらここで勉強してるのに。
「あ、こんにちは、伊作先輩」
 本棚の陰から姿を現したのは、雷蔵。何冊かの本を抱えたまま、にっこり笑ってくれる。
「こんにちは。今日は空いてるね」
 単なる挨拶のはずなのに、心なしか雷蔵の笑みが嬉しそうに見えて、ちょっとどきどきする。何かいいことでもあったのかな。
「ええ、今日はいいお天気ですしね。こんな日は誰も、図書室には寄りつきません」
「長次は?」
「松千代先生と本の買い付けに町へ。僕は留守番というか当番なんです」
「ふうん……」
 図書室の主とも言える長次さえ、いないんだ。
「じゃあ、一人で寂しかったんじゃない?」
「ええ。でもまあ、いい機会ですから、本棚の掃除でもしようかと思って」
 そう言う雷蔵の視線の先には、本がうず高く積まれた机。雑巾と桶も用意してあって、本格的に掃除してたみたいだ。
「じゃあ、僕がいたらかえって邪魔になるかな」
「いいえ、そんなことありませんよ!」
 邪魔になるようなら後で来ようかと思ってた僕は、慌てたように手を振る雷蔵に止められた。
「やっぱりちょっと、一人じゃ寂しかったんです。……僕のほうこそお邪魔にならないように注意しますから、どうぞ、いらして下さい」
 せっかく来て下さったんだから、と笑う雷蔵に、かえって気を使わせたようでちょっと申し訳なくなった。
 でも確かに、この後落とし紙の補充とか色々やらなきゃいけないことがあるので、さっさと調べものを終えられるとありがたい。
「じゃあ、お言葉に甘えて。ちょっと本を見させてもらうね」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
 雷蔵のこの笑顔が好きだ。本棚に向かいながら、僕はそっと胸に手を当ててみた。笑顔と一緒に伝わってくる温かい気持ちが、まだここに残ってる。雷蔵の笑顔は、優しさとか元気とか、いろいろ温かいものをくれる。
 雷蔵はいつも穏やかで優しい。後輩たちが雷蔵に親切にしてもらってるのを見ると、羨ましくなる時がある。
 もちろん雷蔵は誰にでも優しいので、僕にも優しく接してくれるけれど。やはり先輩として、後輩に甘える訳にはいかないし。
 僕も雷蔵より年下に生まれたかったなあ。
 ……なんてないものねだりしてる場合じゃないのだ。今日は調べものをするために来たんだから。僕は薬草学の棚の前で足を止めると、そこにある本を手に取った。
 確か、竜骨について詳しく書かれた本があった筈。えーと、この本……じゃない、な。でも面白い。へえ、こんな効用もあるんだ。今度混ぜてみよう……。
 そうやって僕が本棚の前で、立ったまま薬草学の本を読みふけっていた時だった。
「……伊作先輩!」
 突然、手首を掴まれたと思ったら、凄い力で引っ張られた。
「うわあっ」
 転ぶ!そう思った時には、何か柔らかいものにぶち当たっていた。そのままがっしりと抱きかかえられる。驚きのあまり、とっさに掴んだ筈の本が、床に落ちた。
「ら、雷蔵……?」
 腕を引っ張ったのも、転びかけた僕がぶち当たったのも、雷蔵。なら、転びかけて足がもつれたままの僕を、がっしり抱きかかえているのも雷蔵、な訳で。
「先輩、あの」
 転びそうな変な不安定な体勢ですがりついたから、僕は雷蔵の胸元に頬を寄せた感じになっていた。見上げた雷蔵の顔は、何故か真っ赤だ。
「その、えっと」
 何事かを切り出しかけた雷蔵は、でも言いにくそうに口をもごもごさせた。迷い癖なのか。何かを言おうとして言うかどうか迷っているのか。何を。
 雷蔵の胸にぴったりくっついた耳が、どくんどくんと凄い速さの脈を伝えてくる。これは雷蔵の鼓動なのか、僕の脈動なのか。分からない、分からないけれど、雷蔵の腕は思いがけない力強さで僕をぴったり自分の体にくっつけたまま、離してくれそうにない。
 こんなにぴったり寄り添うのは、普通、恋仲にある男女がすることだよね。
 だとすると、雷蔵が言いだしかねているのは、告白とかそういう……?
 え、えええ!?ちょ、ちょっと待って。そりゃ僕も雷蔵のことは憎からず思ってるけれど、でもそれにしたってこれはあまりに強引じゃないか。
「……あの、先輩、その」
 でも。雷蔵が健気に再び口を開いたので、僕は覚悟を決めた。何を言われても受け止めるから。空いた手で、そっと雷蔵の着物の端を掴んだ。
「失礼しまーす。まさか、図書館には……」
 その時、入り口の方で声がした。その声にはっと雷蔵の顔色が素に戻る。
「ハチ!ここだ、ここに二匹!」
「……へ?」
 二匹って、何。僕らのことなら、二人、というのでは。そんな間抜けなことを考えている間に、僕は雷蔵に抱えられたままずるずると本棚の間を通り抜けて閲覧席にたどり着く。
「了解!逃がすなよっ!」
 入れ替わりに本棚の奥へ駆けだして行ったのは、虫取り網を手にした竹谷八左ヱ門を筆頭とした、生物委員たちだった……。

「……いや、本当にびっくりしたなー」
 足下の虫かごには、僕の手のひらよりも大きい毒蜘蛛と毒蜥蜴。毒蛾もいたらしいけれども、これは竹谷と入れ違いに出ていったらしい。他の生物委員が追いかけて行った。
「こっちこそびっくりしましたよ」
 雷蔵がしみじみと溜息をつく。
「蜘蛛と蜥蜴が、それぞれ天井と本棚から先輩の方に近づいて行ってるのに、全然気がつかないで本を読みふけってたから」
「あはは……」
 本当に。全然、まったく、気づいてなかった。
 ともかく、大声を出せば逃げるかもしれないし、そうすると後の捕獲がまた大変になるだろうから、雷蔵は静かにその場から僕を連れ出したかったらしい。
「でも、それならそうと言ってくれたら」
「すみません。……でも、毒蛾まで近づいて行ったから、急がなければ、と気がせいて」
 しょんぼり、と雷蔵が俯いて謝ってくれたけれども、分かってる。本当に悪いのは気づかなかった僕だ。
「ううん、こっちこそ、ごめんね」
 雷蔵は必死に僕を助けようとしてくれたのに。僕は抱えられたっきりで、しかもあらぬ想像までして。雷蔵を見上げて、僕はどんな顔をしていたのだろう。……ああ、穴があったら入りたい。誰か綾部を呼んできて。
 そうやって二人で俯いていると、なあなあ、と竹谷が雷蔵をつついた。
「何だよ」
「……役得だったな」
 そう言ってにんまり笑う竹谷。真っ赤になる雷蔵。
 え、そこで赤くなるということは。図星ってこと?いやいやいや。そんな自分に都合のいい解釈ばっかりしちゃいけない。
「じゃ、じゃあ、僕はもう行くから。医務室の様子も見に行かないとだし……」
 とりあえずその場から去ろうと、一歩踏み出した時だった。
 かしゃん。
 僕がうっかり蹴飛ばした毒蜘蛛の檻は、うまいこと入り口の掛け金がはずれたらしい。その瞬間、毒蜘蛛が滑るように檻から出て、図書室の床を走って行った。
「嘘……」
「雷蔵、図書室の戸を閉めてくれ、窓も全部閉鎖、外へ逃がすなよっ!」
 竹谷の指示にあわてて雷蔵が戸を閉める。僕も手伝って窓を全部閉めて、いきなり暗くなった部屋の中で気づいた。
 あれ、僕も出られない……?
「伊作先輩、申し訳ありませんけど、捕まえるの手伝ってもらえますよね?」
 虫取り網を僕に突き出す竹谷の声には、怒りが滲んでいる。まあ、無理もあるまい。
「はぁい……」
 僕は力なく返事すると、虫取り網を受け取って、目が闇に慣れるのを待った。
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