昨夜のうちに降り続いた雪が、校庭を一面の銀世界に変えていた。
今はすっかりやんで、弱々しいながらも日が射している。積もった雪が照り返して、校庭はまるで光の洪水だ。しかし一年坊主たちはその光の海の中を、きゃっきゃと走り回っている。元気なものだ。
兵助は手をひさしにして、校庭を見遣った。朝食を終えた一年生たちが、次々と校庭に繰り出してくる。ちょうど休日で授業もないとなれば、雪で遊びたくてたまらないのだろう。
そのうち雪合戦が始まった。い組とは組でやり合うらしい。雪を掘って浅い塹壕にして、その前面に掘った雪を積んで壁を作って、なかなか本格的な陣地構成だ。出来た二つの陣の間を、雪玉が飛び交う。
こういう時ろ組はというと。あたりを見回して、兵助はようやく、校庭の端の松の根本で遊ぶろ組の面々を見つけた。カマクラを作り、その横では雪だるまを拵えている。すぐ傍でい組とは組が熱戦を繰り広げているが、お構いなしだ。ろ組のマイペースぶりは、見ていて頼もしい。
さて、と兵助は一つ伸びをした。
焔硝蔵の雪かきでもするかな、と歩きだしたところで、兵助はそれに気がついた。
雷蔵がそこを通りかかると、戸が開けっ放しになっていた。この寒い日に、と、雷蔵は首を傾げた。いつもは閉めたきりになっている障子やら立て戸までが全開になって、医務室はいまや吹きっさらしだ。
「あれ、どうしたの雷蔵」
そして部屋の中央では、この部屋の主とも言える善法寺伊作が、雑巾を手に、床に這い蹲っていた。
「どこか怪我した?」
「あ、いえ、そういう訳じゃなく。偶然通りかかったら、あちこち全開になってるようだから。……この寒いのに、どうしたんですか」
「いや別に、どうもしないよ。いつもの掃除で」
「掃除?」
言われて見れば、廊下には水を入れた桶が置いてある。箒やはたきもまとめられて、あとは水拭きだけ、という感じだ。
「掃除なんて、下級生の仕事じゃないんですか?」
少なくとも自分の属する図書委員ではそうなっている。棚の整理や埃払いは、一年生や二年生がやる仕事だ。
「うーんまあそうなんだけど。時間があるときは、僕もやるようにしてるんだよね。やっぱり医務室は、清潔にしてないといけないし」
「はあ」
そりゃあまあそうだろうけれども、委員長自らが率先して掃除なんて。しかも休日に。他の委員会ではあまり考えられないことだ。さすが清潔第一の医務室をあずかる保健委員会。
しかし、見てしまったからには仕方がない。休日故に暇を持て余していた雷蔵は、医務室の敷居を跨いだ。
「じゃあ、お手伝いしますよ」
「え」
しかしこの申し出に、保健委員長は元々大きな目をさらに見開いた。
「いいよ、悪いし」
「いえ。伊作先輩にはいつもお世話になってますから」
雷蔵は人のいい顔でにっこりと笑った。
「それで掃除が終わった後で、ちょっと火鉢にあたらせてもらませんか。食堂から戻る時に、ふざけた三郎に雪だまりの中に落とされて、ちょっと寒くて」
それを聞くなり、伊作は保健委員の目になって雷蔵の顔を見た。顔色はさほど悪くない。でも唇の色が少し褪めているかもしれない。
「あ、もしかして、医務室にあったまりに来た?」
「……まあその、他に怪我人とかがいなくてお暇なようなら、お邪魔したいかな、とは思ってましたが」
その余りにも控えめな物言いに、伊作はぷっと吹き出した。
「じゃあ、手伝い頼んでいい?……そこの箒とちりとりとはたきを、物入れにしまってきて」
「はい」
「それが終わったら、火鉢に火をおこしてね」
「はい!」
元気よく返事をすると、雷蔵はまとめてあった掃除用具を抱えた。
「失礼しまーす」
「はーい」
気軽に立った雷蔵が戸を開けてやると、そこにはよく見知った顔があった。
「あれ、雷蔵」
「おや、兵助」
お互いに、何でここに?という表情を浮かべていたが、それは一瞬で消えた。
「伊作先輩、いるかな。一年生が怪我したんだ」
「怪我?」
聞きつけた伊作が戸口に顔を向けると、兵助の背中には、一年ろ組の平太がいた。
「松の木に雪が積もって、枝ごと落ちて来たんです。で、落ちた枝で怪我をしたみたいで」
見れば左の太股あたりに大きなかぎざぎが出来ている。こっちへおいで、と伊作は火鉢の傍へ兵助を誘った。
雷蔵が火鉢の近くに円座を敷き、兵助がそこへ平太をおろす。伊作は救急箱をその近くへ寄せた。
「うん、制服は派手に破れたけど、怪我自体は大したことないね。かすり傷だよ」
そんなことを言いながら、汲み置きの水で手早く傷口を洗うと包帯を巻き、手当てを終えた。さすが保健委員長と言える手際の良さだった。
「ありがとうございました」
袴を直すと小さな声で、でもしっかりと礼を言うと、平太はぺこりと頭を下げた。
「雷蔵と、これからお茶でも淹れようか、って話をしてたんだけど、どう。飲んで行かない?」
平太が来室者帳に名前を記すと、伊作は平太と兵助の顔を等分に見ながら言った。
「え、いいんですか?」
「いいよ。こっちは掃除がひと段落ついて、ちょうど一息入れたかったんだ。いいところに来たね」
伊作は機嫌良く笑った。雷蔵が手伝ってくれたおかげで、掃除が終わる頃には医務室が暖められていて快適だった。機嫌も良くなろうというもの。
「あの、僕は帰ります」
しかし、上級生たちに囲まれて緊張しているのか、平太は無意識に、戸口へとにじり寄った。
「あれ、遠慮しなくてもいいのに」
伊作はそう言ったが、あまり馴染みのない上級生にいきなりお茶に誘われても困るだろう。特に、引っ込み思案な子の多い、ろ組の子には。同じろ組として、雷蔵は助け船を出すことにした。
「遠慮っていうか、無理に引き留めるのも悪いですよ、先輩。休日なんだし」
「そうですよ。他の子たちも心配してましたから」
そう言いながら、兵助も立ち上がった。
「ろ組の長屋まで送ってきます」
「あ、兵助も行っちゃうんだ」
元々いない筈だったのだが、いなくなると寂しいのか。どこかしゅん、とした声に、兵助は出しかけていた足を戻した。
「あの、じゃあ良かったら、後で戻ってきてもいいですか?」
こっそりと、ささやくような一言に、曇りかけていた伊作の顔がぱっと輝いた。
「もちろん!じゃあ、兵助の分も用意しておくね」
にっこり笑顔につられて兵助も微笑むと、来たときと同じに平太を背負って、医務室を出た。
「失礼しまーす。こんにちはー」
明るい声とともに、からりと医務室の戸が開かれた。この調子だと怪我人や病人の類ではないなと見当をつけた伊作は、立ち上がりもせずに戸口の方を見た。
「おやみんな、こんなところにいたんだ」
「あれ、竹谷」
五年ろ組生物委員会所属竹谷八左ヱ門は、雷蔵と兵助と、同級生がうちそろっていることに目を丸く見開いたが、やがてすぐに、伊作の前にやってくると風呂敷包みを下ろした。
「差し入れです。みかん如何ですか?」
「みかん?」
風呂敷包みを解くと、中からは小山のようなみかんが現れた。二、三個ころころと小山から転げ落ちて行く。
「うちの後輩がくれまして。紀州のみかんは美味いらしいですよ」
「紀州というと……佐竹虎若?」
兵助が長いまつげを瞬かせながら問うと、竹谷はぼさぼさ髪をゆらした。
「そう。虎若が実家から送って来たって、俺のとこに持ってきてくれて。でもこんなにたくさん一人じゃ食いきれないから。良かったら如何かと思って」
「でも、こんなにたくさん、いいの?」
「はい」
根明と評される通りの明るい笑顔を見せると、竹谷はみかんを一つ手に取った。そしてそれを伊作の手のひらに落とす。
「いつもお世話になってますし。それに、医務室は人の出入りが多いから、これぐらい、すぐになくなるでしょう?」
つやつやと明るい橙色は、お日様のようだと伊作は思った。小さなお日様を手のひらに乗せて、にっこり微笑んだ。
「嬉しいな。助かるよ、柑橘類は匂い消しに重宝するんだ。皮は薬の材料にもなるしね」
それを聞いて、ほかの面々は、ああやっぱり、といった顔になった。やっぱりこの先輩は、単純にみかんを賞味するだけじゃなくて、あくまでも医務室内で役立てる方向に使うつもりなんだ。
なんだか微妙な気もするが、まあなんであれ、喜んでもらえたらそれでいいか。竹谷はすっぱり思い切ると、風呂敷包みを伊作の方へ押しやった。
「良かったらみなさんで、召し上がって下さい」
「うん、ありがとう。……でも折角だし、とりあえずみんなで食べようよ」
手にしている一つを隣の兵助に渡すと、兵助はさらに隣の雷蔵へまわす。そうして全員に行き渡ったところで、再びからりと医務室の戸が開いた。
「こんちはー、失礼しまーす」
慌ただしく戸が閉まる音がしたかと思うと、その場に飛び込んできたのは、鉢屋。
「いやー、外寒いですよー。風がないのはいいんだけれど、底冷えがするっていうか。日が射してる割には寒いですね。外にいるともう、手とかどんどんかじかんできちゃって」
早口にまくし立てながら、するりと雷蔵の横に滑り込んだ。
「あー、温かい!やっぱり冬は火鉢に限るよねえ。医務室はいつでも暖かくていいなあ」
「こら三郎」
見かねた竹谷が隣人を肘でつつく。そこでようやく気がついたような振りをして、鉢屋が顔を上げた。
「あ、伊作先輩!お邪魔してます」
「お邪魔してます、じゃないだろうが」
鉢屋の不調法に兵助も呆れ顔になる。雷蔵は自分と同じ顔に目を向けると、深い溜息を吐いた。
「まあいいよ。外、よっぽど寒いみたいだね。しばらく暖まっていけばいいよ」
しかしそうまで言うと、伊作ははっと気がついたように言葉を継ぎ足した。
「あ、でも、怪我人とか病人とかが来たら、状態次第では出てってもらうよ。それか手伝ってもらうか」
「それはもちろんです」
素早くきっぱり言い切ったのは、五年い組の火薬委員、久々知兵助だった。
「医務室ですからね、怪我人や病人が何より優先。それは心得ていますよ」
雷蔵も頷きながら言えば、保健委員長はほっとしたように息をついた。
「……ところで、鉢屋」
「何だよ」
「おまえ、手みやげは?」
「はい?」
鉢屋が声を裏返すと、竹谷は手にしていたみかんを高々と掲げた。
「俺はみかんを持ってきたぜ!で、その代償にこうやって火鉢にあたらせてもらってるのさ。おまえなあ、手ぶらでやってきて温まろうなんて厚かましいこと言うんじゃねえだろうな」
見せびらかすようにみかんをお手玉にする竹谷にそう言われて、鉢屋はほかの面々を見渡した。
「なんだよ、じゃあみんな何か手みやげを持ってきたんだ?」
「手みやげはないけど……」
一瞬、顔を見合わせていた雷蔵と兵助が、同時に鉢屋を振り返る。
「僕は医務室の掃除を手伝ったよ。火鉢に火をおこしたりした」
ことさら威張る様子もなく、雷蔵はさらりと口にした。しかし医務室の掃除とは、内容は結構厳しそうである。これはポイント高いんじゃないだろうか。鉢屋は焦りを感じた。
「じゃあ、兵助は?」
「直接何かした訳じゃないけど……ああ、怪我した一年生を連れてきて、その後長屋に送って行ったりしたなあ」
つまり怪我人の面倒を見た訳である。それはつまり、保健委員の仕事を肩代わりした訳で。それもやっぱりポイントが高そうだ。
「ほら。みんな何かしらの代償があるんだぜ。三郎、おまえは?何してくれるんだ?」
不調法を咎めるつもりなのか、からかって遊んでるだけなのか。おそらくその両方であろう竹谷の口調は軽い。しかし鉢屋としては、何もせずに済ますことが出来なくなってきた。
「いいよ別に、代償とかそんなのいらないから、みんなで温まれば」
保健委員長である伊作はそんな風に言ってくれているが、こうまで言われては何も無しという訳にもいかない。鉢屋はぽんと手を叩いた。
「じゃあ俺は、伊作先輩を褒めてあげます」
「褒める?」
竹谷が聞き返した時には、すでに懐から変装セットが出ていた。目にも留まらぬ早業で、作った顔は。
「善法寺くん」
その顔を向けられた時、伊作は息を詰まらせた。
「善法寺くん、いつもありがとう。君がよくやってくれるから、とても助かります。本当にありがとう」
それが鉢屋だと、偽物だと分かっていても、赤面するのを止められない。いや、偽物だからこそ、かもしれない。本物を相手にしていれば、そうそう不意を突かれることなどないし、決してみっともないまでに狼狽えたりしやしないのだ。
何故ならそこにいるのは。
伊作にとって、恩師であり六年間世話になり続けた、忍術学園校医にして保健委員会顧問、新野洋一その人であった。
正確に言えば、新野洋一に化けている、鉢屋三郎。
「あ、いや、その、ていうか」
頬を赤くして、もはや意味のあることを言えてない。みっともないまでに狼狽した伊作を見て、他の面々は納得した。
そうか、伊作先輩はこの言葉が欲しかったのか。
だからあんなにいつも、委員会のことを頑張って。
「なるほどなあ」
「そっかあ。そうだったんだなあ」
「ふうん。伊作先輩は、新野先生のことを……」
五年生たちの呟きが何となく耳に入って、伊作は耳まで真っ赤になった。その勢いで、鉢屋に食って掛かる。
「ていうか、鉢屋!」
「何ですか、善法寺くん」
「だからいい加減、その変装をやめろって!」
「おや、お気に召しませんでしたか」
台詞とともに、いつもの雷蔵顔に戻った。だが、それだけではまだ、伊作の激昂は止まらない。
「医務室で新野先生に化けるなんて、いたずらとしては相当に悪質だ!保健委員長として許すわけにはいかない。退室を命じる!」
赤い顔のまま、伊作はびしっと出入り口の戸を指さした。
「みんなもだよっ!いつ怪我人が運び込まれるか分からないんだからっ、こんなところで呑気に油売ってるんじゃない!」
耳まで赤くして怒鳴る伊作に、「わかりました」「そうですよね」「よっしゃあ!」と応じた三人は、それぞれ鉢屋の右腕と左腕をがっしり捕らえた。
「そんなあ、伊作先輩〜」
そのままずるずると引きずられると、鉢屋は待ちかまえていたように開かれていた扉から、あっと言う間に連れ出される。
「どうもすみません。お騒がせしました」
五年生を代表して、兵助が一礼してから扉を閉めた。「ちょっとあんまりじゃね?」と文句を付ける鉢屋に「ふっふっふ」と笑いながら雷蔵が詰め寄った。
「な、何だよ雷蔵」
「さっきの仕返しだ。そりゃ!」
雷蔵は鉢屋に体当たりすると、縁側から雪の庭へ、自分の体ごと突き落とした。
「うわあああ〜っ!」
悲鳴とともに、鉢屋の体が雪にめり込む。その上に雷蔵までのっかってきて、その体は積もったばかりの雪にさらに深く潜った。
「お、楽しそうだなあ。兵助、行こう!」
「って、ハチ、あ、おい!」
続いて兵助の袖を引きながら、竹谷が庭に飛び降りる。急に袖を引っ張られた兵助は体勢を整える間もなく、起き上がりかけた鉢屋に突っ込んだ。
「ふぎゃ!」
「……やりやがったなてめぇら!」
雪まみれになった三郎が叫べば、兵助が倒れ込んだまま、慌てたように手を振った。
「いや、今のはハチが……」
「でも最初にやったのは雷蔵だよなあ」
「元はと言えば三郎のせいだよね」
うんうんと頷く雷蔵と竹谷に、三郎が天を仰いで叫んだ。
「何でも俺のせいかよー!」
「うん、まあ、そうかもしれないな」
ちらりと医務室の戸を見て兵助が頷けば、鉢屋はその顔に雪をかけた。
「お、兵助がやられている!助けに行くぞー!」
「おー!」
そうして下級生たちに負けず劣らず雪まみれになった五年生たちが、着替えをすませた後、再びおずおずと医務室に暖を取りに行くのは、数刻もしないあとの話である。
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