屋根裏ねずみ
昼下がり。うるさいほどの蝉時雨と、かんかん照りの陽射し。
きっと運動場は地獄のような暑さだろうが、それを思えばここは別天地だ。
医務室の障子は全て開け放たれて、さっきから涼しい風が通っている。
縁側はほぼ南に面しているが、庇を広くとっているため、陽射しは部屋まで届かない。
おまけに前庭はそこそこ手入れされているので、草いきれが立ち込めるということもない。
適度に打ち水などしてあれば、余計な暑さなどどこかへ吹き飛んでしまう。
忍術学園の夏休みも、もう半分が過ぎた。
それだというのに彼の人――六年連続保健委員にして、現保健委員長、不運委員長の異名もある善法寺伊作は、今日も医務室にて薬作りにいそしんでいる。
どうやら午前中まではいたらしい新野先生が出張のため不在で、その指示に沿った作業をしているようだ。
薬箪笥を開け、包みをいくつか取り出す。何の薬だろうか、中身を丁寧に石造りの薬研に入れて行く。
擦り具と臼部が合わさる独特の音。中のものは順調に粉になっているのだろう。時折、片方の手を前後させて擦り具を傾ける他は、まっすぐ調子よく擦り具が動いて行く。その独特の音と律動には、眠気を誘われそうだ。
しかしどうやら、完全に粉になったらしい。一端、臼部から擦り具をはずすと、中の粉末を空ける。
舞い上がった粉を吸い込んでむせないように。
次は天秤ばかりだ。片方の皿には分銅、もう片方にはさっきの粉末。重さが合わないのか、粉を足したり引いたりしているうちに、秤は水平を取り戻す。
「よし」
思わず声に出てしまう、この快挙。ごくごく軽い、吹けば飛ぶような粉の重さを測るのだから、狙う重さに調整するのは、あれでなかなか大変なんだろうな。
薬包紙は少し動かしただけでかさかさ音を立てる。初めてこの紙で薬を包んでいる様子を見た時には、つくづく感心したものだ。薬を包むためには、結構手間のかかる複雑な折り方を必要とするのに、保健委員はみな、ためらいのない手つきで折っていた。保健委員には、必須の技術であるらしい。まだ一年生である乱太郎や伏木蔵も、小さな手で、素早く綺麗に折って見せてくれた。
でも、伊作先輩の手つきが一番美しい。
大雑把に、無造作に折っているように見えて、折られた薬包紙の大きさは、どれも寸分変わらない。
さすが、六年間も保健委員を続けていると凄いですね、と褒めると、苦笑いが帰ってきた。
こんなことで褒められても嬉しくないのかもしれないけれど。あの無駄のない手つきは、とても美しいし、熟練の賜物だと思うのだ。先輩のあの細くて長い指が、寸分違わぬ大きさの薬包紙を素早く次々と生み出して行くのだと思うと、小気味いい感じがする。
先輩は粉を同じ重さに測り取り、一包みづつ薬包紙に包んで行く。
いくつ出来た頃だろうか。廊下の方で足音がした。
「おう、伊作いるかー?」
この声は、六年は組の食満留三郎用具委員長。
「どうした?…ってそれ…」
「いやー、釘打ちしてたら、間違えて自分の手に金槌打っちまってな。ちょっと見てくれ」
「もの凄く腫れてるよ!?…いいから、こっちきて座って!」
切迫してる伊作先輩の声に比べれば、食満先輩の声は妙に暢気だ。つまり、見かけほどひどい怪我ではないのだろう。
じっくり診察した伊作先輩にもやがてそれが分かったらしく、息を吐きながら、骨は大丈夫みたいだ、と呟いた。
水差しの水を桶に移し、その水で手ぬぐいを絞って、患部に当てる。
「しばらくこうやって冷やしてるといいよ」
「おう」
「それにしても、金槌を使い損なうなんて、留三郎らしくない」
「暑いからな。ちょっと集中力が切れちまった」
「ひょっとして、この炎天下で、屋外で作業してたとか…?」
「ああ。あひるさんボート1号を早く修理してしまいたくてな」
「……よくやるねー」
全くだ。この炎天下に外に出る奴なんて、熱血会計委員長か、体力バカの体育委員長ぐらいかと思っていたら。
会話が途切れたと思ったら、伊作先輩はお茶を淹れていたらしい。
「暑いときには熱いものを、ってね。これでも飲んで、少し休むといいよ」
「ああ、悪いな」
「ちょうどぼくも、休憩しようと思ってたところだし」
そう言いながら患部から手ぬぐいをはずして、桶ですすぎなおして、また戻す。
医務室には涼しい風が吹いているのだろう。「ここは極楽だなー」と言いながら、食満先輩が足を伸ばして寛ぐ。
「…ところで、伊作。この部屋、天井裏に鼠がいるんじゃねえか?」
「ねずみ?」
「おう。大事な薬が鼠にかじられたら大変だ。用具委員としては専門外だが、なんなら今から天井裏に上って、ネズミ穴を塞いできてやるぜ」
「ネズミ穴、ねえ…」
しばし沈黙。二人で天井を仰いでいるのに違いない。
「……気持ちはありがたいけど、医務室のことは新野先生に聞いてみないとね」
「そうだな。ま、必要になったら声かけてくれ。いつでも工事してやる」
ありがと、と呟いて、二人の間にはまた沈黙が下りた。果たして伊作先輩は、同室の朋輩に感謝の笑みを浮かべているのか、それとも苦笑いでもしているのだろうか。
「あ、伊作先輩ー!」
夕刻。校門から直接食堂へ行く途中、忍たま長屋の廊下に伊作先輩の姿が見えたから、走り寄った。
「見て下さい。今日は裏々山に行ってきたんですけどね、ヤマメがよく釣れましたよ。あそこの沢は最高の釣り場ですね」
どれ、と覗き込む先輩によく見えるように、魚篭を持ち上げて口を開く。
「うわ、凄い、大漁だね。鉢屋は何やらせても器用だけど、釣りも上手なんだなあ」
「ウナギもありますからね。今から食堂のおばちゃんのところに持って行こうと思って。夕飯には間に合うかと」
「……ねえ、鉢屋」
機嫌よくまくし立てるぼくに構わず、伊作先輩は廊下に座った。正座だ。
「何です、伊作先輩?」
ぼくがその傍らに立つと、ちょうど二人の目の高さが同じくらいになった。
折りしも西日が伊作先輩の色の薄い髪に射す。こうなると、後れ毛がきらきらと金色に輝いて、とても綺麗なのだ。思わず見とれていると、先輩はおもむろに口を開いた。
「今日、留三郎に言われたんだ」
「何て言われたんです?」
「医務室の天井裏に、ねずみがいるって」
「へえ」
半ば睨み付けるようにこっちの顔を見てくる伊作先輩に、ぼくは大仰に驚いた顔を作ってみせた。
「大事な薬が鼠にかじられたら大変じゃないですか。すぐ用具委員長の食満先輩にお願いして、ネズミ穴を塞いでもらったらどうです?」
しかしそれを聞くと、半ば医務室の主でもある先輩は、何故か頭を抱えた。
「鉢屋……君って奴は……」
「ぼくがどうかしましたか?」
悪びれもせずに、そう言うと、伊作先輩は大きな溜息をついた。
「もし今度ねずみの気配がしたり、新野先生が何か異変にお気づきになったら、すぐにそうさせてもらう」
「ええ、それがいいですよ」
大真面目な表情で頷くと、伊作先輩はじと目でぼくを睨みながら立ち上がった。金色の後れ毛が遠ざかる。
「……医務室に遊びに来たら、お茶くらいご馳走するのに」
「でも、医務室というのは怪我や病気を診るところですから。夏休みとはいえ、遊びに行っちゃまずいでしょう?」
「その理屈は正しいんだけどなぁ…」
疲れたように呟くと、じゃ、と短く言って、伊作先輩は去って行った。
ぼくはしばらく、その背中を見送る。
「……邪魔したくないんです」
仕事してる伊作先輩も好きだから。
邪魔したくない、気を散らしたくない。ぼくのことなんか気にせずに、仕事に没頭して欲しい。でもその気配を身近に感じていたい……そんな気持ち、貴方に理解してくれなんて言いませんから。
ぼくは魚篭を持ち直すと、食堂へ向かって歩き出した。
次は、床下かな。