8836キリリク
紫陽花の赤いほう 1
「伊作先輩」
声をかければ茶色がかったふわふわした髪が脇へ退いた。代わりに現れる、白い顔。
「何?」
大きな目はややつり上がり気味で、なかなかきつい顔立ちではある。でも、いつもにこやかな笑みが口元を覆っていて、きつい目の印象を和らげていた。今も、柔らかく口角が上がって、とても可愛らしい。
その顔が困惑したような色を帯びて、僕は沈黙が長く続きすぎたことに気づいた。つい、伊作先輩の顔立ちに見入ってしまったが、自分から声をかけておいてだんまりはないだろう。慌てて「あの」と言いかければ、少し声が上擦ってしまった。
「あの、どうかされましたか?」
腹に力をこめて、上擦る声を元に戻す。先輩の長いまつげがぱちぱちと二三度瞬いた。
「どうって?」
「なんだか、ぼんやりなさってるようだったので……」
今度こそはっきりと困惑の色を込めて、伊作先輩は首を傾げた。
そりゃあ、授業の終わった放課後、さほど混んでいない……というか、今さっき三年の藤内が帰って行ったことで利用者は伊作先輩たった一人になってしまった図書室で、ぼんやりしていけないことはないだろう。
でも、先輩は基本的に忙しい人の筈だ。低学年ばかりの後輩を抱えた保健委員の長であり、薬の研究にも余念がない。図書室にも薬関係の文献を漁りに来ることがほとんどで、今も、なにがしかの書物を目の前の机に広げていた。でも、ここしばらくの間、頁がめくられた気配がない。同じところを集中して読んでいるのならともかく、目は傍らの窓に向けられたきり。
ぼんやりしている、というのがふさわしい状況なんだけれど、伊作先輩のそんな姿は珍しかった。
「どこか、加減でも悪いのですか?」
保健委員長に聞くことじゃないよなあと思いつつ、僕は尋ねてみた。書棚の整理をしつつ、何となく気になっていのだ。そのほっそりした背中を見ていると、つい体が閲覧席の方へ向かっていた。
「そんなことないよ。……心配してくれたんだ。ありがとう、雷蔵」
「あ、いえ」
差し出がましい口をきいたのに、お礼なんか言われると照れてしまう。にっこり笑顔がついて来たら、特に。
なんだか無性に照れてしまった僕から顔を逸らすと、伊作先輩は窓の外を指さした。
「ほら、紫陽花がとても綺麗に咲いてるから。つい、見とれてたんだ」
「紫陽花、ですか」
その白い手が指す方を見れば、中庭の隅に咲く紫陽花の姿があった。かなり大きな株が二つ、並べて植えられている。
「あれ、片方は青だけど、もう片方は赤いよね。隣あって同じところに咲いてるのに、どうして色が違うんだろう」
「ええと」
毎日何となく見ていたので、どうしてか、なんて考えたこともなかった。中在家先輩なら、あの博覧強記の人ならすぐ答えられるのだろうか、と思うと、同じ図書委員でありながら答えられない自分がもどかしい。
「なんだか、鉢屋と雷蔵みたいだよね」
「へ?」
思いがけない台詞に、間抜けな声が出てしまった。そんな僕に、伊作先輩はにっこり微笑みかける。
「だってさ、姿形はそっくりなのに、性格はかなり違うもんね。似てるな、と思ってさ。花の形はそっくり同じなのに、現れる色がまったく正反対、なんて」
面白いよね。にこやかにそう言う伊作先輩に、僕はなんとなく納得していた。
そうか。先輩は三郎のことを考えてたんだ。
それなら僕は、まったく筋違いのお邪魔虫だったろう。伊作先輩と三郎は恋仲だ。恋人のことを考えてぼんやりしている人に、体の具合を尋ねるなんて。なんて間抜けな。
気まずいというか、穴があったら入りたいというか。なんとなく居たたまれない思いでいると、伊作先輩が不意に「ねえ」と呟いた。
「鉢屋ってさ。雷蔵にそっくりだよね」
「……はあ」
そりゃあの変装名人が、わざわざ僕に似せてる訳だから、そっくり似てるだろうけれども。
それも今に始まった話ではなく、なのに何故今更そっくりなんて言われるのか、今一つぴんと来ない。どんな意図があるのか伊作先輩の顔を探るように見ていたら、先輩はちょっと驚いたように目を瞬かせた。
「あ、いや、顔かたちのことじゃなくてさ、性格とかが」
「……はあ?」
性格、似てるだろうか?ついさっき、かなり正反対とか言ってなかったっけ?
思わず首を捻ってしまう。そんな僕に、伊作先輩は「えーと」と言葉を繋いだ。
「鉢屋が雷蔵に似てるっていうのは、顔や姿だけでなく、立ち居振る舞いも似せるようにしてるからなんだよね。何気ない仕草とか、とっさの時の驚いた顔まで同じになるのは、よっぽど雷蔵のことを見て、雷蔵のことを理解してるからだと思う」
「……はあ」
伊作先輩の言うことに間違いはないと思うけれども、そうか、驚いた時自分はあんなに間抜けな顔になってるのかと思うと、ちょっとがっかりというか何というか。
さっきから気の抜けたような返事しか返せていないけれども、先輩は気にしてないらしく、続ける。
「だから、雷蔵の性格を、反転して表して見せることも出来るんだよ」
「反転?」
「そう」
不意に先輩の視線が僕の目を捉えた。真っ正面から目が合って、意外とまっすぐな先輩の視線に、ちょっとどきりとしてしまう。
「鉢屋はずっと雷蔵のそばにいて、雷蔵を見て、感じて、自分の中に取り込んでしまう。そして取り込んだ雷蔵を、自分の中で反転させて、外に表す。……鉢屋の軽妙洒脱な面白がり屋なところ、あれは雷蔵がどっしり落ち着いてちょっとやそっとじゃ動揺しないから、だからあんな風なんじゃないかな。反転させたんだ」
「え、いや、そんなことは」
意外と真剣な顔でそんなことを言ってくれるから、僕は慌てて手を振った。
「僕が落ち着いて動揺しないとか、そんなことありませんよ。だって僕には迷い癖があって、いつもしょっちゅう迷ってて、動揺しっぱなしですから」
「うん、鉢屋の決断の早さは、迷い癖の反転なんだろうけどね」
しかし、自説を翻す気がないらしい伊作先輩は、もっともらしく頷く。
「決断を迫られなければ、雷蔵は結構落ち着いてるよ。実際、鉢屋にあんなに顔を借りられても、文句一つ言わないし」
「最初の頃は言ってたんですけれども……」
三郎の奴が聞かないから。いちいち文句を付けるのが馬鹿らしくなってきた、ただそれなんだけれども。
「それにさっき、僕が言ったよね、鉢屋は雷蔵を取り込んでる、って。ずっと傍にいて、観察されてるんだ、ってことも。なのに雷蔵は眉一つ動かさず、平気で受け流した。……普通、そんなことされたら気味が悪いと思う。ずっと自分と同じ顔で傍にいられること自体がね。なのに雷蔵は普通にそれを受け入れてる。よっぽど包容力があって、どっしりと落ち着いてなければ、出来ないことだよ」
「はあ……」
そんなもんなんだろうか。僕は単に慣れちゃっただけだと思うんだけれども。
でも先輩は違うことを考えていたらしい。不意に目元が和らいだと思ったら、ふーとため息とも取れない息を吐いた。
「いいなあ。雷蔵が羨ましい。ずっと鉢屋が傍にいて、ずっと見ててくれるってことだもんね」
「あ、いや、そんな、でもこれは」
冗談っぽく笑ってはいても、羨ましがられてる?僕が伊作先輩に?あり得ない!
……っていうか、僕がどうこうって話じゃないんだ。三郎と同じ組で、長屋でも同室で、そういうことを羨ましがられてるってことだから。
だって先輩の目元は、少し潤んで艶っぽい感じで、僕の方を見ながら僕を見ていない。僕と重なる、別の面影を見ている。
その眼差しはいつものようにとても穏やかで優しいのに、その時は何故か重たく感じられた。俯いて視線を避けてしまった。
「あ、ごめんね。羨ましいってことはないよね。雷蔵だって、好きで鉢屋に変装されてる訳じゃないんだし」
「いえ、そんな」
「ちょっとのろけてみたかったんだ。……ごめんね」
「あ、いいえ」
弁解しながら先輩は、小さく微笑んでみせた。のろけなんか、僕なんかに言わなくてもいいだろうに。
再び、先輩の目は窓の外に向けられた。紫陽花の花、赤と青、二株並んで雨に濡れている。
いつの間にか、雨が降り出していた。沈黙が続けば、さあっという雨の音がよく聞こえる。気がつけば閲覧席も、さっきより薄暗くなっていた。
そういえば僕は、本棚を整理している途中だった。中在家先輩が来る前に、終わらせておきたい。
それでは、と僕が声をかけようとした時、先輩が再び「ねえ」と切り出した。
「はい」
僕が返事をしても、伊作先輩の目は窓の外の紫陽花に向けられたまま。どうしたのだろう。いつもはちゃんと後輩とも視線を合わせてしゃべってくれる人なのに。何を言うつもりなのか、訳もなくどきどきしながら、僕は先輩の言葉を待った。
「鉢屋ってさ、どうして僕のことが好きなのかな」
薄暗い部屋、外には雨。窓に向けられたままの視線と端正な横顔。
今の台詞とそれらは見事なまでに調和していて、愁眉なんていう言葉がぴったりの目元についつい見とれてしまう。でも、しかし。何故かどきどきというか、妙な胸騒ぎがする。
どうして今日はこう、伊作先輩の口から意外な言葉ばかり出てくるんだろう。
いや、そもそもはじめから、ぼんやりしていること自体が伊作先輩っぽくなかったけれども。それにしてもこの言葉は、意表を突かれた。驚きが喉元を通り越しても、腑に落ちない。
「あの」
続く沈黙に耐えきれず、とりあえず僕は口火を切った。
「野暮を承知で申し上げますが、人を好きになることに、理由なんかいらないのでは。ましてや、その相手が伊作先輩であれば」
「……ましてや、の使い方、間違ってない?」
ぱちぱちと、その大きな目が何度か瞬く。いつしか顔はこちらに向けられていた。……そんなに変なことを言っただろうか。
「そうでしょうか」
「うん……まあ、それはともかくさ」
瞬きをおさめると、その目元に再び愁いが浮かぶ。それを伝えないようにか、先輩はまた目をそらした。
「普通は、雷蔵の言う通りだと思うけどさ。鉢屋に限って言えば、何か、理由がありそうな気がする。……打算とか、そういうのじゃなくて。もうちょっと、理屈で割り切れそうな感じが」
「理由、ですか」
伊作先輩は優しいから。
親切だし、面倒見がいいし、いつも明るくてにこやかで、人当たりが良くて、不運だけどそこが可愛いというか、放っておけない感じというか。
顔も美形で、とても整った顔立ちをしていて、でも笑うと愛嬌があって可愛くて、とても可愛くて、凄く可愛くて、たとえようもないくらい可愛くて……。
三郎が伊作先輩のことを好きな理由なんて、いくらでもあると思う。でもきっと、そんな理由では伊作先輩は納得いかないんだろう。
どうしてだろう。三郎はあんなに伊作先輩のことが好きなのに。三郎は伊作先輩の前では顔が変わる。顔立ちではなく、顔つきが変わるのだ。目尻が下がって、口元が緩んで、とても柔らかな表情になる。優しい眼差しで愛しくてならないというように伊作先輩を見つめて、側にいるこっちが照れてしまうくらい、三郎は伊作先輩のことが大好きなのに。
それがちっとも先輩には伝わっていないのだろうか。
さっきののろけにしてもそうだ。僕なんか羨ましがってないで、先輩が三郎と一緒にいればいいのに。こんな図書室で紫陽花なんか眺めてないで、会いに行って傍にいて、気持ちを確かめあってればいいのに。
ほう、とため息をつくと、伊作先輩は窓から視線を外した。そしてこちらに目を戻すと、何故かぎょっとしたようは顔になり、慌てたように胸の前で手を振った。
「ご、ごめんね、雷蔵。なんか愚痴言っちゃったみたいだね。ごめん、でも大丈夫だから。心配しないで」
大丈夫。何度もそう口にしながらにっこり笑いかけてくれる。僕はそんなに悲壮な表情をしてたのだろうか。
「伊作先輩」
でも、これだけは言わなくては。僕は伊作先輩に心持ち詰め寄った。
「な、何」
「三郎は、伊作先輩のことが好きなんです。そりゃもう、本当に。いつも側にいる僕が一番良く知ってます。あいつ、先輩の側にいる時、本当に嬉しそうだし幸せそうだし、なんか、とろけそうになってますよね。三郎のあんな様子、先輩と付き合うようになるまで、僕、見たことありませんでした。部屋にいても、伊作先輩のことを話す時だけは、目がとても優しくて。いい顔してるんです。三郎は、本当に、伊作先輩のことが好きなんだと思います。そりゃもう、間違いなく!」
いきなりまくし立てられて、きょとんとしていた先輩の目が、見開かれた。その大きな目が、瞬きもせず、僕を見つめる。
「三郎は、伊作先輩のことが好きなんです。心底惚れてます」
好きな相手に好かれることは、何よりも幸せなことだ。伊作先輩が三郎を好きだなんてにわかには信じ難いことだけれど、ここしばらくの二人の様子を見ていると、どうやらそうらしい。
それなら。僕は伊作先輩に幸せになって欲しくて、その顔から愁いを晴らしたくて、力説した。三郎がどんなに伊作先輩のことを好きか、先輩に分かって欲しくて、その大きな目をじっと見つめる。
でも、伊作先輩の目は驚きに見開かれたまま。照れも嫌がりもせず、ただ呆然と僕の顔を見返すだけだった。
「雷蔵……」
「はい」
力無く名前を呼ぶ声に返事をすれば、伊作先輩はようやくその目を逸らした。そしてそのまま、自分の手元を見つめて俯いてしまう。
僕は何か、言ってはいけないことを言ってしまっただろうか。そんなに変なことを口走っただろうか。
不安になった。先輩に分かって欲しい一心で、必死だったから。何か不味いことを言ったのだろうか、何がいけなかったのか。
肩を落として俯いた先輩に、何と言って謝ればいいのか。それすら分からないで慌てる僕の前で、先輩はおもむろに顔を上げた。
「そっか。雷蔵、だったんだ」
片手で前髪をかきあげる。髪を払いながら、その手が先輩の顔を半分隠していた。
「雷蔵が……だから、鉢屋は」
「先輩?」
独り言のように呟かれる言葉に、どんな意味があるのか。それを尋ねてもいいのかも分からず、ただ顔をのぞき込もうとすると、急に顔が上がって、意外なほどはっきりと、伊作先輩の視線が僕を捉えた。
「僕はね、雷蔵。鉢屋のことが好きなんだ」
「……はい」
前髪を払いのけて、遮るものがなくなって。むしろ睨みつけるような勢いで、その目ははっきりと僕を見据える。
「鉢屋に絆された。いつの間にか好きになってた。自分でもどうしようもないほど、深く、強く」
きっぱりと僕を見据えて宣言しながら、何故か先輩の目が潤っていく。
「僕は、僕の方こそ、鉢屋に心底惚れているんだ」
「……はい」
みるみるうちに涙が溜まり、その大きな目からこぼれ落ちそうになると、再び先輩は顔を俯けた。きらり、と光るものが膝に向かって落ちて行ったように見えた。
僕が、先輩を泣かせてしまったんだろうか。
「伊作先輩……」
何がいけなかったのかとか、考えている余裕はなかった。ただ、胸が痛んで、申し訳なくて、何とかしなければと、僕は先輩を支えるべく手を伸ばした。
しかしその手は、思いがけない早さでもって、払いのけられた。
ぱしん。景気のいい音がして、差し出しかけた手が痛む。でも、思いがけないことが起こったのは、それから先だった。
伊作先輩が、僕の懐に飛び込んできた。
胸元に顔を埋めるようにして、人の重みが預けられる。頭巾なしのふわふわの髪が顎や鼻にかかって、何ともいえずくすぐったい。
抱きとめるべきか、何もしない方がいいのか。迷い癖なんかなくったって、誰でも悩むに違いない。しかし痛む手はとっさに抱きしめようとして、すんでのところで思いとどまる。
「せ、先輩」
全身が血の道になったようだった。どくどく音をたてて体中の血が流れるのを感じる。薬の匂い。華奢だと思っていた肩はやっぱり薄く、抱けばどんな心地がするだろう。触れたいと思った。その細い肩を支えたい。でも、僕がそれをしていいのか?
逡巡する僕の気持ちなど知らぬげに、伊作先輩は呟いた。
「何であんな厄介な奴のことを好きになってしまったんだろう」
緩く襟首を掴まれている。体がもう少し離れていれば示威行為であるそれも、こんなに密着していれば、縋っているようにしか思えなかった。
「雷蔵のことを好きになれば良かった」
何がなんだか分からない。だけど、それを聞いた瞬間、息が止まった。
先輩が、僕を、好きになる?
そうすれば良かった、って?
でも、先輩は三郎と恋仲で。僕は先輩を泣かせた悪い奴で。それなのに、好きになれば良かったって。
もう、何が何やら分からない。混乱して胸が高鳴って、凄い勢いで血が流れて、息が苦しくて死にそうだ。
ここで死ぬんなら、その前に、先輩のことを抱きしめたい。気持ちは迷いを飛び越した。でも僕の腕が先輩の背中に届く前に、先輩は身を起こした。さりげなく、するりと僕から離れてしまう。
「本当にね、僕は不運だよね」
何気なく袖で目の端を拭うと、伊作先輩はにっこり笑った。
「あんな厄介な奴なのに、こんなに惚れちゃうなんてね」
それは、明るくてにこやかないつもの笑顔。
いつも、穏やかに笑っているその人の笑顔が、類まれな精神力に支えられてのものだと、その時僕は知った。
「……伊作先輩」
「ごめんね雷蔵。気にしないで、……忘れて」
すらっ、と障子が開く音がした。誰かが図書室に入って来たのだ。入り口の戸も閉めてあった筈だけれども、戸が開いた事には気づかなかった。
「すっかり話し込んじゃって。仕事の邪魔して悪かったね」
じゃあね。悪いけどこの本、片づけておいてくれる?傍らの本を閉じると僕の方へ押しやり、立ち上がると、伊作先輩は出口へ向かった。途中、図書室に入って来た中在家先輩とすれ違う。
「……」
中在家先輩は伊作先輩の顔を見て、僕の顔を見て、しかし何も言わず、貸出机の前に座る。
「……雷蔵」
「はっ、はいいっ!」
ほんの小さな声なのに、中在家先輩のことを見ていた筈なのに。声をかけられて、僕は飛び上がりそうになった。
中在家先輩は何も言わず、ただ本棚の一角を指で示した。
「……あ」
そこには、僕が片づけ途中で放り出した本があった。
「すっ、すみません!すぐに終わらせますっ!」
叫ぶように言うと、きつい目で睨まれた。慌てて口を手でふさぎ、本棚へ向かう。しかし、手にはさっき伊作先輩から預かった本があって、これを元の場所に戻すのと、本棚の整理と、どっちから先に取り掛かればいいのか。
迷う。さっさと本を戻してしまった方がいいのか、何よりも先にやりかけたことを終わらせるべきなのか。中在家先輩にやれって言われたんだから、整理の方が先か。でも、伊作先輩に頼まれた本を棚に戻すくらい、すぐに終わるし。
伊作先輩。
その名前だけで、腕の中にさっきの姿が幻になって現れてしまう。
『雷蔵のことを好きになればよかった』
あれはどういう意味なのか。先輩はあんなに、自分は三郎を好きだって、連呼していたのに、何故。
振り向けば窓を通して、中庭の紫陽花が見えた。
青い花と赤い花。隣り合わせに植わっているのに、交わらない違う色。
同じところにあって、同じように咲いているのに、どうして異なる色なのか。どうして、その色で咲かなければならないのか。
「伊作先輩……」
先輩は僕と三郎を紫陽花になぞらえていたけれど。僕は紫陽花を見る度に、伊作先輩のことを思い出しそうだった。