8836キリリク

紫陽花の赤いほう 2



 部屋に戻って、文机の前に座って。
 懐から手ぬぐいを出して、髪を拭く。今日は降らないと思ってたんだけどな。そういう時に限って降るのは、僕の不運のせいか、天気を読むのがまだまだ未熟ってことか。
 肩や袖口も一応拭って傍らの衝立に手拭いを干すようにかけて、ほう、と口からは自然に息が出た。
 やらなければならないことは色々あるような気がする。取ってきた薬草を選り分けるとか、手に入れたものの衝立にかけっぱなしのイモリの黒焼きを薬にするとか。宿題だって無いことはない。何かすればいいのだ。久しぶりに医務室当番のない日、部屋の片づけでもすればいいのに、どうにもやる気が起こらない。文机に肘をついて、手のひらに顎を乗せたまま、動く気力がない。
 目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ、大輪の紫陽花、二つ。
 はあ、ともう一つ溜息をこぼした時、廊下の向こうで足音がした。たんたんと小気味良く刻まれる足音は、うちの部屋の前で止まる。
「失礼します」
 やあ、コーちゃん。君の主はお元気かね?改まった一礼の後、恒例のおふざけ。衝立をまわって、僕の前に腰を下ろすと、にっこり笑顔。
「伊作先輩、お邪魔します」
「……うん」
 文机から振り返って、座りなおして。さあ、これでしばらくこの後輩の相手をしなければならなくなった。もう少し一人でぼんやりしていたかったのに。……そう思いながらも、僕はどこか嬉しい。医務室当番が休みだって知ってたのかな。もしかしたらこの梅雨空の下、どこにも行き場がなかっただけかもしれないけど。
「あれ、なんだか元気ないですね」
「そうでもないよ」
 面長な顔立ちにくりくりと丸い目。人の良さそうな顔つきをちょこんと傾げて聞いてくる顔は、さっき聞いてきた顔とほとんど変わらなかった。
「というか、このじめじめと蒸し暑いさなかに、鉢屋がこんなに元気だってのが不思議だよ」
「えー、そうですかあ?」
 一瞬唇をとがらしてみせると、鉢屋はすすっと僕の傍へ寄った。
「だって先輩、今日、医務室行かなくていいんでしょう?」
「うん」
「お休みなんて、久しぶりじゃないですか。嬉しくなるのも当然でしょう」
 医務室当番が休みなのは鉢屋じゃなくて僕なんだけどね。突っ込みを入れようとしたら、鉢屋の指先が僕の肩口を弾いた。
「なのに先輩ったら、保健委員の仕事がなくて寂しい、とか思ってるんでしょう。本当、くそ真面目っていうか、根っからの保健委員なんだから」
 拗ねたようなむくれた表情は、雷蔵にはない、鉢屋だけのもの。軽妙洒脱でおふざけが得意で、なかなか本心を明かさない鉢屋が、そんな豊かな表情を見せるから。だから僕はすっかり絆されてしまった。
 僕が何も言わずにいると、指先はするりと肩にまわり、それぞれの肩にそれぞれの腕が乗せられ、僕の頭の後ろで指が組まれたようだ。鉢屋との距離がぐっと縮まった。
「でも、今日は医務室当番がお休みの日ですからね。放しませんよ。独り占めさせてもらいます」
 いいでしょう?至近距離で丸い目がいたずらっぽく囁きかける。その顔は嬉しそうで楽しそうで、幸せそうににっこりと笑う。雷蔵に太鼓判を押されるまでもなく、知ってる。鉢屋は僕のことが好きなのだ。
 でも。それは雷蔵の恋心だ。
 さっき知ってしまった、雷蔵の気持ち。鉢屋は雷蔵を真似るあまり、その想いまで取り込んでしまった。おそらく雷蔵が自分の気持ちに気付いてないなら、鉢屋もそうと気づかぬままに。
 雷蔵が僕のことを好きだから、雷蔵を真似る鉢屋も、僕のことが好きになった。分かってみれば、ごく簡単な理屈だった。
 僕は手を伸ばして、鉢屋の顔に触れてみる。
「……何ですか?」
「うん。……雷蔵に、本当によく似てるなあって思って」
 そう言えば、丸い目がぱちぱちと瞬く。その丸い目、特徴的な鼻、口元……どれを取っても雷蔵のもの。僕は耳の後ろから顎の辺りを触ってみた。皮膚の継ぎ目があるとしたらこの辺りだろうか。でもちっとも分からない。そんなものがあるかどうかさえ疑わしいくらい、なめらかな肌。
「そりゃあ意識して似せてるんですから。似てて当たり前でしょう」
 俺を誰だと思ってるんです。ちょっと得意そうに、朗らかに微笑むその顔は雷蔵のもの。
「どうして雷蔵なの?」
「へ?」
「久々知や竹谷じゃ、駄目だったの?」
「いや、駄目ってことはありませんけど。俺、兵助の顔とかよくやるし、あの顔も好きだし」
 僕が頬から手を離すと、鉢屋は片腕を戻して自分で同じ辺りを触っていた。やっぱりそこに秘密があるんだろうか。僕にはまったく分からなかったけれども。
「ただまあ、八左ヱ門は駄目ですよね。あいつは動物に好かれすぎる。俺が顔そっくりにして横に立ってても、動物や虫がみんなあいつのとこに行っちまったら、見分けるも何もないでしょう。つまんないですよ」
「尾浜は?」
「勘右衛門は……まあ、あいつもいいんですけどね。でも、組が違うから。やっぱ四六時中いつも一緒にいる、とかの方が見る方が紛らわしくていいし」
「ふうん」
 雷蔵は面白い、久々知も尾浜もまあまあ、でも竹谷はつまらない……それは鉢屋という面白がり屋としては、分かりやすい理由だと思えた。でも、多分、それだけじゃない。
 雷蔵には包容力がある。落ち着いてどっしりと構えて、物に動じない。親切で優しい。鉢屋を、ありのまま包み込んで受け止める度量が、雷蔵にはあったということなんだろう。
 沈黙が降りれば、雨の音がする。さああ、という柔らかな音が絶え間なく続き、部屋の外の気配を消してしまう。
 薄暗い部屋で、想い人と二人きり。鉢屋がそっと僕を引き寄せようとしたところで、「鉢屋」と声をかけた。
「何でしょう?」
「もし、僕が死んだら、お前は悲しむだろうね」
「へ?……いきなり、何を」
 引き寄せようとした腕を止められた上に意表を突かれて、軽くうろたえた声。慌てたように瞬きを繰り返す顔に、にっこり笑ってみせる。
「泣いてくれる?」
 手を伸ばして目尻に触れば、鉢屋は冗談だと受け取ったようだった。「そりゃあもう」と力強く頷く。
「悲しみのあまり、泣いて泣いて泣きまくりますよ。そう、池が出来るくらいね。俺の涙で忍術学園が全部池の底に沈んじまうくらい泣きますから、先輩、死んじゃダメですよ」
 そう言いながら力を僕の肩を掴んで軽く揺さぶった。その動作は芝居がかっているようで、意外なほど、力が籠もっていた。愛されている。鉢屋の気持ちを疑ったことはない。だけど。
「でも、雷蔵が死んだら、お前は生きていけないんだろうね」
「……へ?」
 不意に腕がゆるんだと思ったら、怒ったような困ったような表情が僕をにらみつけてきた。
「何ですかそれは」
 雷蔵が死んでいなくなったら、鉢屋はどうなるのだろう。亡骸を前に呆然としたまま、手を挙げることさえ出来なくなるのかもしれない。
 僕がみたところ、鉢屋は雷蔵の目を通してものを見て、雷蔵の耳を通して音を聞き、雷蔵の感覚を通して何かを感じているようだった。そうして雷蔵が何を感じてどう思ったかを肌で知り、それを元に雷蔵の行動を予期して行動していく。鉢屋の判断基準の全ては、雷蔵にあるようだった。おそらくそれは、変姿の術の極意。
 鉢屋は雷蔵になりきっている訳じゃない。性格なんかはかなり違っている。それでも、鉢屋という人物の根幹は不破雷蔵で出来ており、今更それは恋のひとつやふたつで覆せるものではなさそうだった。
 鉢屋が好きなのは僕。でも、鉢屋が心底必要としているのは、雷蔵だ。
「俺、そんなに雷蔵に依存してるように見えます?」
 苦笑い。困ったな、という風情を滲ませて、口の端が曲がる。意外とちゃんと困っているということは、鉢屋にその自覚はないのかもしれない。
「依存っていうのとは、ちょっと違うと思うけど」
 しかし何故そこまで雷蔵を必要とするのか。雷蔵に拠らない、本当の鉢屋三郎はどうなっているのか。
 見てみたい。僕はそっと、僕の肩にかけられた鉢屋の腕に手を添えた。
「ねえ、鉢屋」
「何でしょう」
 次に僕が何を言い出すのか、見当がついているのかいないのか。鉢屋の声には少しばかり警戒の色がつく。
 僕はゆっくりと息を吸って、吐いた。いつも通りの笑みを浮かべる。そんなに緊張することではないはずだ。さりげなく、吐く息のついでに、さらりと言ってみた。
「鉢屋の素顔を見せて」
「お断りします」
 即答だった。
 断られるかもしれない、その予感はあった。でもそれにしても、もっとのらりくらりとかわされるかと思ったのに。
 この流れで、こんなにすっぱりと断るとは思っても見なかった。信じられない思いで何度か瞬きを繰り返すと、鉢屋も、気まずそうに僕から顔を背けた。僕の肩に置いていた手も、降ろしてしまう。
「……僕が信じられない?」
「そうじゃないんです」
 顔を逸らしたまま目を閉じて。それは痛みをこらえる表情を思い起こさせた。
「先輩が信用出来ないとか、そんなんじゃないんです。先輩のことは信じてます、本当に」
「それなら」
 どうして駄目なのか。何か一族の決まりや掟みたいなものでもあるのだろうか。
 しかし鉢屋は意外な事を言った。
「俺の顔が醜いから。……先輩に見せるの、嫌なんです」
「醜い?」
 それは顔立ちの問題か、面相の問題か。単に美形ではないということか、怪我か病気により見るも無惨な状態になっているということか。前者なら問題ないし、後者でも、保健委員である僕には同じこと。酷い火傷を負った顔の手当をしたこともあるし、どんな傷でも病跡でも、怯まず直視出来る自信がある。その僕に、どんな顔が醜いと?
 思わず保健委員の目になって真剣に雷蔵の皮の下の傷を見て取ろうとした僕に、鉢屋は顔を戻して苦笑いした。
「いや、顔自体はかなり美形ですよ。伊作先輩並に、いや、それよりもっと美形かも。立花先輩もびっくりの、超サラストの超美形」
「……はあ」
 そんな事を、片目をつぶりながらも雷蔵の顔で言われても。愛嬌のある顔立ちだとは思うけど、悪いけど雷蔵は、あんまり美形って感じがしない。
「傷とか病気の跡とかもなくて、お肌もぴちぴち、むきたて卵肌!つるっつるです。直接触ってもらえないのが残念なくらいで」
「あ、そう」
 これは完全に、考えてること読まれてたな。さっきまでの気まずさはどこへやら、にこにこと自分の頬をつつく鉢屋に、今度は僕が溜息をついた。
「じゃあ何で、そのつるつるお肌の超美形を見せてもらえないんだよ」
「いやだからそりゃ、醜いから」
「美形って、美しい顔かたちのことを指す言葉じゃなかたっけ?」
「そうですけど」
 しれっと悪びれずに、お澄まし顔で明後日の方を見ながら鉢屋は言った。
「でも、どんなに美形でも、その顔で何人もの女の人を泣かせてきたとなれば、その顔は醜いでしょう?そんなもんですよ」
 ふ、と鉢屋の顔に影が差した。梅雨空が更に曇ったのかもしれない。でも、外を向いて確かめる気にはなれなかった。
「女はさほど泣かしちゃいませんけど。男なら……いや、女にもかなあ。相当恨まれてるんじゃないかと思いますよ」
 雷蔵の顔立ちで、でも、目だけ遠くを見る鉢屋の表情で。うっすら口元に笑みなんか浮かんでいる。
「俺は人の情を解さない、人でなしなんです」
 顔立ちは雷蔵のものなのに、目の光が雷蔵と違う。うっすらと笑った、口の端が雷蔵と違う。あんなに温厚で人のよさそうな顔立ちが、今や冷たくて残酷な印象を与える。
「人でなし……人では、ない。だから、醜い」
 自分のことをどれだけ嫌いになれば、自分を人ではないと言えるだろう。
 自分を醜いと言い張る鉢屋が哀れで可哀想で……どこか空恐ろしくもあった。雷蔵の仮面の下に、まだ見たことのない闇がある。
 鉢屋に何があったのだろう。人に恨まれるどんなことをしたというのだろう。
 わからない。鉢屋は自分のことを話そうとしない。特に学園入学前のことは、何一つ話そうとしたことがない。ただ、鉢屋の才能や入学時からあらゆる忍術に長けていたことを思えば、幼い頃から忍者として修行していた、と考えられる。子供でも忍者として、実践の経験があったのかもしれない。それも、僕達たまごには想像もつかないような、何か過酷な。
 でも。僕は努めて冷静に考えようとした。保健委員を長く務めて、多くの先輩たちを見てきたから分かる。傍から見れば小さな、些細な、取るに足らない、大したことのないことであっても、重大に捉えて思い悩む者はいる。
 鉢屋の抱える闇もそんなものかもしれない。僕は意を決すると、その顔を見据えた。
「そんなことないよ。大丈夫だよ」
 お腹に力をこめて、くっきりはっきり言ってやれば、鉢屋はこちらを向いた。
「大丈夫。鉢屋がどんな顔をしてようと、美形だろうと醜かろうと、平気だよ。それが鉢屋の顔なら、どんな顔だって好きになれるよ」
 だから僕に、素顔を見せて。その傷に触らせて。手当をさせて。僕は真っ正面から懸命に、鉢屋の目を見つめた。
「それはそうなんじゃないかなーと、実は俺も期待してるんですけど」
 くるん、と目をまん丸く開いた、それは雷蔵の軽く驚いた表情。
「でも、駄目なんです。俺が嫌なんですよ。見せたくないんです。……こんな醜い顔を見たら、伊作先輩の目が汚れちゃいますよ」
 鉢屋の指先が目頭から目尻へ、下まつげの下を辿る。その指先はこめかみの辺りをそっと撫でた。
「こんなに綺麗な目をしてるのに」
 そう言って笑う顔は優しげで愛おしげで。何かまぶしいものでも見ているみたいに目を細めた。
「鉢屋」
「すみません、先輩。伊作先輩は、俺が今まで会った中で、一番綺麗な人なんです。絶対、汚したくないんです。だから。……ごめんなさい」
「……綺麗でも、何でもないよ。僕なんか」
 こめかみを撫でる指先を、僕は掴まえた。膝の辺りまでおろして、そのまま手を握る。
 もう鉢屋の目を見ていられなくなって、視線も手元に落とした。
 鉢屋は僕のことが好きだ。心底惚れてくれている。そのことは、疑ったことがないのに。
 鉢屋に拒まれた。鉢屋は僕を必要としていない。僕が鉢屋のことを好きになろうとなるまいと、きっと鉢屋の気持ちは変わらない。
 だってその恋心は、雷蔵の気持ちを反転させたものでしかないから。
 雷蔵の面を被って鉢屋は僕に愛を囁き、微笑みかける。それで鉢屋は満足なんだ。今さっき垣間見せた鉢屋の闇に、僕を巻き込もうという気はさらさらない。耳ざわりのいい言葉で僕を遠ざける。
 手の中には、鉢屋の指。長くて、細くて、器用そうな指。節も細いところが雷蔵とは違う。いつも本に触れている雷蔵とは違い、指先が荒れておらず、爪だってつやつやと輝いている、美しい手。働き者の手とは言えないけれど、僕はこの手の方が好きだ。指先を指先で撫でれば、くすぐったいのか、ぴくりと指が跳ねた。でも、逃げずにそのまま撫でさせてくれる。
 けれど。もし、雷蔵が僕のことを何とも思わなくなったら。鉢屋も僕を何とも思わなくなるだろうか。
 僕は鉢屋の細い指をそっと握った。遠からず、その日は来る。雷蔵は優しくて誠実で、よもや親友から恋人を奪い取ろうとは考えまい。
 僕と鉢屋が恋仲とあれば、雷蔵は諦めるしかない。思っても叶わないのなら、少しずつその思いは冷め、やがてもっと別の人に恋をするようになるだろう。
 そうしてだんだん雷蔵の気持ちは僕から離れていき……そうなれば、鉢屋も。
 鉢屋が僕に素顔を見せてくれないなら、雷蔵を通さない素の鉢屋に触れさせてくれないなら。雷蔵が僕を何とも思わなくなった時には、鉢屋も、そうなる。
 好きになればなるほど、仲を深めれば深めるほど、気持ちが離れていくなんて。
「なんでこんな厄介な奴に、惚れてしまったんだろう」
 指先に囁きかければ、驚いた顔の鉢屋が顔をのぞき込んできた。
「先輩、今、何て」
「やっぱり僕は不運だなあって言ったんだよ」
「えー、違うでしょー!何か違うこと言ってたでしょう、今!もっかい言って下さいよー」
 わくわくした目で、口先だけ尖らせて。後輩に見せる冷静ぶった顔からは考えられないほどの幼い表情。愛しい顔。
「ね、先輩。もっかい!言ってみて下さいよっ!」
 屈託なく笑う、その表情の豊かさに、僕はすっかり絆されてしまった。愛しいと思った。僕を好きだという鉢屋に、惚れてしまった。
「だから僕は不運だって」
「違うでしょー!」
 口を尖らせる鉢屋の可愛い顔を少し眺めた後、僕はその口元に唇をあてて黙らせた。
 急に静かになった室内に、雨の音だけが響いていた。
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