がさ、と音をたてて櫟の木が揺れた。現れたのは黒装束。
「久しぶりだね、善法寺伊作くん」
「あっ……あなたは……っ!」
僕は大仰に驚いて一歩退くと、ちょこんと小首を傾げた。
「……誰でしたっけ?」
「だああああああっ!」
期待通りその人は、かなり派手にずっこけてくれる。
「前に会ったときに名乗っただろうっ!もう忘れてしまったのか君はっ!」
しかし、その人はずっこけから立ち直るとすぐ、絞め殺さんばかりの勢いで寄ってきたので、僕は分かりました、覚えてます、と繰り返した。
「ええと、タソガレドキ軍忍び組頭の、雑渡昆奈門さんですよね?」
「……覚えてたのなら、さっきのはなんだ」
「一年は組の真似をしてみたくて」
人差し指を立てて、にっこり笑う。何のことか通じたかどうか分からないけれど、もう組頭には突っ込みを入れる気力もないようだった。その代わり、こちらをじと目で睨んでくる。
実を言えば、僕としても遊んでいるつもりではない。
場所は裏々山、忍術学園の庭のようなものとはいえ、滅多に人の来ない崖っぷち。気配を殺した複数の存在にいつの間にか取り囲まれ、とどめの様にこんな容易ならざる人が出てきては、なす術もない。
だからせめて、相手のペースを崩してみようと考えたのだけれども。裏目に出た、かもしれないな。こちらを囲む気配に、殺気が混じってきた。
「君に頼みたいことがある」
しかし流石は組頭、立ち直りが早い。じと目で睨むのをやめると、用件を切り出した。
「はあ。何でしょう」
「怪我人を一人、診てもらいたい」
「……あの、何か勘違いされてませんか?」
「何を?」
確かに僕は以前、この人の包帯を取り替えてあげたことがある。そのために、忍術学園の味方までしてもらったことも。しかし。
「僕は医者ではありません。医者を目指してるわけでもなく、忍者のタマゴ、ただの忍たまです。怪我人なら、お医者様に見せたほうがいいと思います」
「それは知っている」
「ならば何故、僕に?」
「君でなければならないと、私が判断したからね」
買いかぶられているのか。それとも所詮忍たま、どうにでもなると、見くびられているのか。包帯に隠された表情からは、窺い知ることが出来ない。
「折角ご期待して下さってるのに申し訳ありませんが、僕には何も出来ませんよ?僕に出来るのはせいぜい、応急手当くらいのものです。医者じゃないのですから、怪我を治すことは出来ません」
これは事実なのではっきり言っておく。が、忍び組頭は鷹揚に頷くと、それでいい、と言った。
「充分だ。では、我々と来てもらおう」
「……嫌だと言うのは、無しみたいですね?」
この人の顔はほとんどの部分が包帯と覆面に覆われているため、右目しか見えない。それなのに何故か、この人が笑ったのが分かったような気がした。
「私は目的のためには、手段を選ばないよ。それでも君には、あまり手荒なことはしたくないんだけどね」
崖上の細い道、前に組頭、後ろにもう一人。左手には断崖絶壁、右手の木立に一人。
地の利はこちらにあるとは言え、文次郎たちを撒き、先生達にも侵入に気付かせなかった凄腕とその部下を相手に、学園まで逃げ切るのは、僕の足では無理だろう。
そして今日僕は、保健委員の子達と薬草摘みに来ているのだった。今は都合よく僕一人がはぐれている状態だが、タソガレドキの忍者たちが彼らに気付いたら。人質を取られるかもしれない。保健委員の子達に危険が及ぶのは出来るだけ避けたい。
「……分かりました」
僕は溜息をつくと、全身から力を抜いた。
「でも、この籠はここに置いていきますね。すぐ役に立ちそうなものは何もないし」
組頭が出てきた櫟の木の下に、手に提げていた籠を置く。
「で、どこへ行けばいいんです?」
防御の姿勢をとる間もなかった。振り返った瞬間、鳩尾に鈍い刺激を覚えて、目の前が暗くなる。
「……ああ、その籠はそのままにしておいていい。その方が、彼が自発的に我々に協力してくれた証拠になるからね」
「しかしこいつ……」
手足に力の入らなくなった体を誰かに担ぎ上げられる。覚えていられたのはそこまでだった。
「喝っ!」
はっと目が覚めると、薄暗い部屋の中にいた。
二三度瞬きする間に、真後ろにいて喝を入れた人が下がって行く。思わず後ろを振り向くと、そこに組頭がいた。
部屋の中が薄暗いため、闇の中に包帯が浮き上がって見える。僕は木の床に座り込んで、それをぼんやりと見上げていた。
包帯の白さに吸い込まれそうになって、慌てて視線を他へ回す。寝惚けてる場合じゃない。ここはどこで、今がいつぐらいなのか、ちゃんと状況を把握しなくては。
しかし、ここはどこ、とか考える前に、吐き気が込み上げた。当身のせいか。いや、違う。生臭い。血の匂いの混じる、饐えたような生臭い匂いがいきなり肺の腑に入ってきて、咳き込みそうになった。
そこは畳にして二畳分ほどの、狭い部屋だった。塗籠というのか、窓がない。日の光が見えないため、今が何時くらいだかがさっぱり分からない。灯りは部屋の隅に置かれた灯明っきりで、部屋の中は薄暗い。さっきからずっと、ぶーん、という低い羽ばたきの音がする。
そしてその部屋の中央に置かれた筵に横たわる、一人の男。
「君に診てもらいたいのは、その男だ」
僕はその声に導かれるように立ち上がり、近寄ると、筵の傍らに膝をついた。
「酷い……」
口から漏れる言葉を、止めることが出来なかった。
いくつぐらいの人なのだろう。もうそれすら分からない。髻を切ったざんばら髪、こけた頬、固く閉ざされた目、薄暗いせいもあるだろうが、土気色の顔色。とてもじゃないけど生きている人のようには見えない。
骨ばった体には、ほぼ全身に包帯が巻かれていた。でもその包帯には血がどす黒く滲み、膿んで黄ばみ、もとは白かったであろう包帯に、白い部分が一箇所もない。
そして脹脛に出来た大きな傷跡の周りには蝿が飛び交い、あろうことか、包帯の上からでも、蛆虫が這い回っているのが見えた。
僕はそっと首筋に手を伸ばした。指先は、弱々しいながらも拍動を伝えてきた。
まだ、生きている。それでもこの人はまだ、生きている。
「……あの、お願いがあります」
「何だい?」
振り返って、闇に浮く包帯を見つめる。あんな布。僕の手持ちでは全然足りない。
「包帯になる、清潔な布を下さい。あと、お湯を沸かしてもらえますか」
「用意させよう。他には?」
「手元を照らす灯りを。先の細い箸も下さい」
「……流石だねえ。了解した」
塗籠の扉が閉まる音を耳の端で聞きながら、僕は懐からいつも持ち歩いている道具を取り出した。