月の光 2

 最初に全身の包帯を取ろうとしたのだが、この人は気を失ったまま、寝返り一つ打ちそうにない。そこで、多少勿体無いとは思ったけれども、脇のところで包帯を切り、剥ぎ取るようにして包帯を取っていった。
 一つ一つ傷口を確かめ、よく洗い、膿を取る。背中も同様に。ただ、やはり起きてくれないので包帯を巻くことが出来ず、仕方ないので幅広の布を宛がっておいた。腕や足の傷も検めて、こちらは包帯を巻いた。
 そうやって傷を見たところ、分かったことがいくつかあった。
 まず、この人は忍者だということ。
 そして、拷問を受けた上に手当てされないまま放置されたのだということ。
 そうでなければ、この全身に及ぶ傷の理由がつかない。しかも、切り傷、蚯蚓腫れ、火傷と様々な種類の傷が散らばっている。蛆のたかる脹脛の怪我だけは、深さと場所からすると拷問傷では無いようだけれども、それ以外の箇所の傷は、あまりに意図的でむごたらしいものだった。
 全身の傷の手当てが終わると、次に、蛆虫取りにかかる。
 蛆の集る血溜まりと膿みを一掃すると、後は一匹ずつ箸で取って行くしかない。灯明を近くに寄せ、手元を明るく照らすと、傷口に先端を細くした箸を差し入れて行く。
 どれぐらいたったのだろう。人の気配がして振り向くと、塗籠の扉がわずかに開き、白い包帯が闇に浮かんでいた。
「随分と悠長なことをしているのだね」
 組頭は傍へ来ると、僕の横にしゃがみこんだ。
「傷口を全て焼くとか、抉り取るとかいう訳にはいかないのかい?」
「そういう治療法もあると思いますが、この方の場合、それで体力が持つかどうか」
 とはいえ、確かに悠長な作業なのだった。蛆はいずれ、蝿になる。蝿はまた傷口に卵を産みつけようとする。しかし卵を見つけるのは、蛆を見つけるより大変だし、蝿を叩き潰すのもまた困難なことだ。
 だから蛆の段階で捕まえるしかないのだが、蛆もまた、傷口の奥や皮膚の下へ潜ろうとして、容易には捕まってくれない。……でも、それでもやるしかないのだ。
「このまま箸で、取れる蛆を全部取ってしまって、それから様子を見ます」
「方法は君にまかせるよ」
 脹脛の傷は、罠によるものと思われた。おそらく、ぎざぎざに歯のついたものに、強く挟まれたらしい。そして罠を外す際には、かなり無茶をしたのだろう、ところどころ肉が毟り取られている。そうした肉のくぼみに溜まる血や膿を餌に、蛆がたかっていた。
「こういうの、気持ち悪いと思わないのかい?」
 しばらくすると忍び組頭は、傷口に視線を注ぎながら、こんなことを聞いてきた。
「蛆虫が、ですか?」
「それがたかってる傷口とか」
「傷口は別に、人の体ですし。組頭さんは気持ち悪いと思われるんですか?」
「……雑渡でいい。君に組頭と呼ばれるのは、どうもね」
「はあ」
 どうも、なんだろう。よく分からないけれど、確かにこの人をどう呼んでいいかは悩むところだったから、これからは気兼ねなく、苗字で呼ばせてもらうことにしよう。
「やはり君は、私が見込んだ通りだ」
 しかし雑渡さんは僕の質問には答えず、ただ右目で僕を見た。
「君は私の膿み爛れた傷口を、なんの躊躇いもなく暴いた。傷を見てもたじろぐことなく、ごく自然に包帯を巻き替えた。君にとっては当たり前のことかもしれないが、他の多くの者にとっては、そうでもないんだよ」
 まあ確かに、僕も保健委員になりたての一年生の頃は、血を見るのも怖かった。それが今やすっかり鍛えられて、その辺の感覚が普通の人より逞しくなったということか。
「だからこの蛆の湧いた傷口を見た時、とっさに君の事を思い出した。君ならこのおぞましさに臆することなく、手当てしてくれるだろうとね」
 ……何だか随分、買いかぶられてるような気がする。でも、例えば新野先生ならこんな傷口も治した経験がおありだろうし、普通、医者なら、傷口が膿んでようと蛆がたかっていようと、平気なものなんじゃないだろうか。
「しかしやはり、僕なんかより、ちゃんとしたお医者様に手当てしてもらった方がずっといいと思いますが……」
「医者には見せたよ。城勤めの医者に、無理を言ってね。ところが匙を投げられた」
 どうして。一瞬戸惑ったけれども、でも確かに、この人の怪我は酷すぎるし、衰弱も激しい。治療には、長い時間と、多大な努力が必要だろう。ある程度の覚悟がないと、付き合えないかもしれない。
「いや、匙を投げられたのは、怪我の酷さのせいじゃないよ」
「え?」
「この男、元は河原者でね。盗賊だったところを勧誘して、うちの忍びにした。どこでそれを聞いたのか、そんな者の診察など、わしの仕事ではない、と」
 顔の向きからしてよく見えないけれど、闇の中で、きらりと右目が冷たい光を帯びた。
「医者なんてそんなものだよ。医術は、高貴な人と金持ちのためにあるものだ」
「そんな……」
 反論したかった。そんなことはない、と。
 でも確かに、薬は高い。包帯だって、何度も繰り返し洗って使っても、無くなっていくものだ。補充するにはお金がかかる。人を助けるには、元手がいる。
 誰でもいつでも治療を受けることができる忍術学園の医務室は、特別な場所なのだ。
 気が付くと、傷口に蝿が群がっていた。慌てて手で払って散らす。
「だから。戦場で敵味方問わず、旗指物を使ってまで手当てしていた君は、大変に奇異な存在で、私が興味をもったんだよ」
「はあ……」
 大変に奇異って。とても褒められているとは思えないけれど、雑渡さんの右目からは、もう冷たい光はすっかり消えて、にやりと笑っているようだった。
「……くみがしらぁ……」
 地を這うような声が聞こえたのは、その時だった。
 驚いて声のした方を見れば、今まで死んだように意識のなかったこの人が、僅かに首を動かして、こっちを見ている。
「そこにいんのか……」
「ああ、いるよ」
 雑渡さんは立ち上がり、枕元に膝をついた。僕もつられて、その傍らに移動する。
 男は落ち窪んだ目をぎょろりと動かして、雑渡さんの顔に視線を定めた。
「……あんたはもっと、情け深い人だと思ってたぜ……」
 しわがれて掠れた声は、出すだけで辛そうだ。僕は水筒を出すと、男に向けて差し出した。しかし。
「俺を、殺せぇっ!」
 吐き出すような叫びと共に振り払われた手によって、水筒は塗籠の奥まで弾き飛ばされたのだった。
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