「伊作くん、私に何かして欲しいことはないかね」
その人は、まっすぐに僕を見据えてそう言った。
タソガレドキ軍忍び組頭、雑渡昆奈門、さん。
突然現れた忍び装束のその人は『曲者だよ』と名乗り、僕に借りがあると言った。
「そう言われましても……」
困った、どうしよう。
話の筋は飲み込めた、と思う。この人は義理堅い人で、かつて僕が合戦場で手当てしてあげたことに恩義を感じて、僕に何かしようとしてくれているんだろう。
とはいえ、いきなり『して欲しいこと』と言われても困る。いきなりで思いつかないし、この人にどんなことを頼んでいいのやら、どんなことなら叶えてくれるのか、見当も付かない。
伏木蔵がぴったり僕にくっついて、不安そうに見上げている。僕も早く何か言わなくてはと焦るけれども、困った。
腕を組んで考える僕を見かねたのか、曲者さんは言葉を足した。
「何か困っていることは?欲しい物はないかね」
「困っていること……」
そうえいば今、乱太郎と三治郎が、ドクタケに囮で捕まったりしているのだった。それが心配なのだけれど、きっと先生達も側で様子を見ているはずだし。この人がいきなりしゃしゃり出て行ったら、混乱するだけだろう。
欲しい物といわれても、そもそも包帯一巻き分のお礼って、どれくらいが妥当なんだろう?さっぱり分からない。
「……すみません、何も思いつかなくて……」
「そうか。そうだな。突然こんなことを言われて、かえって困らせてしまったね」
そんな風に言われると、恐縮してしまう。
相手がどんな人だか分からない、文字通り曲者なのだけれど。それでもこの人は、僕に恩義を感じて、何かしようとしてくれたのに。
でも、この曲者さんは、ここで終わらせるつもりはないようだった。
「では、日を改めるとしよう」
すっくと立ち上がると、綺麗に後ろへとんぼを切る。散らばった物の上をひらりと飛び越えると、障子に手を掛けて振り返った。
「五日後に、またここで」
そう言うなり、その姿は廊下へ消えた。
「あ、待って……!」
とっさに追いかけようと立ち上がり、一歩踏み出した僕は、落ちていた巻紙を思いっきり踏んづけた上に転がるそれに乗っかってしまい、見事に後ろへ転んだ。
「うわあ……っ!」
がっつーん。思いっきり後頭部を床板に打ち付けた。目の前に火花が飛ぶ。
「せ、先輩っ!大丈夫ですか、伊作先輩!」
伏木蔵の必死な声。あれ、目を開いてるはずなのに真っ暗だ。大丈夫だよって言ったけれど、聞こえているかどうか……。
それにしても、今のは何だったんだろう。闇に落ちて行く意識の中で、白い包帯が微笑んだような気がした。
次の日は保健委員会の会合があったので医務室へ行くと、すでに伏木蔵が来ていた。
他のメンバーはまだ来ていない。当然だろう、放課後は大抵掃除があって、当番を免除されている六年生でも無い限り、普通こんなに早くは来れない。
早いんだね、と声をかけると、委員会が待ちきれなくてさっさと切り上げて来たんです、と言う。
「それにしても、昨日はびっくりでしたねー」
伏木蔵はお茶の準備をしながら、医務室を見渡す。
「そうだね」
昨日突然現れた曲者に、伏木蔵と二人で手当たり次第に投げつけた物は、昨日のうちに全部片付けていた。だからそこには、いつもの医務室の、清潔で広々とした空間が広がっている。
「先輩、頭のたんこぶはもう大丈夫ですか?」
「うん。すぐ冷やしたのが良かったらしくて、かなり引っ込んだよ」
そう言えば、伏木蔵は良かったーと胸を撫で下ろした。少しの間とはいえ気絶してしまったし、伏木蔵には心配かけて悪かったな。
「ところで、このこと、他の先生方はご存知なのでしょうか」
「そうだね。気付かない訳ないとは思うけど……」
そういえばタソガレドキ軍には、文次郎達に深追いされて、なおかつ逃止の術を使って村への侵入を果たした凄腕もいるのだった。あの人がそうなのかどうかは知らないけれど、それほどの凄腕なんだったら、先生方に気付かせず、侵入することも出来なくはないかもしれない。
「このこと、先生方に言った?」
もちろん僕は、伏木蔵に口止めなんてしていない。言いふらすようなことではないにせよ、隠しておくことでもないと思ったからだ。でも伏木蔵は、首を横に振った。
「言いません。クラスメイトにも言ってません」
へえ、意外と口が固いんだなあと思っていたら。
「僕と先輩の秘密にしておきます!なんだかスリルー」
おやおや。楽しまれてしまっているのか。
まあ確かに、それぐらいに考えておくのがいいかもしれないな。
タソガレドキ、というのは戦好きの結構大きな城だ。タソガレドキ軍と言えば勇猛果敢で知られ、これまでいくつもの城を落としてきた。
もちろんその影には忍者隊の暗躍があって、城主はかなり忍者隊の活動に力を入れているらしいと聞く。
その忍者隊のお頭というのだから、肩書き通りならばあの人は相当偉い、というか凄い人で……そんな凄い人が、一介の忍たまにお礼に現れるなんて、変だ。
馬鹿みたいに義理堅いのか、遊ばれているのか、忍術学園に探りを入れているのか。
でも、一番最後の可能性は薄い気がした。白昼堂々と医務室まで来れるんなら、わざわざ僕を介して探る必要なんかない。スパイが欲しいなら、もっと違う適任者がいるだろう。
「それで先輩、何をお願いするんです?」
日誌を揃える僕の横から、伏木蔵が顔を覗きこんできた。その目は期待できらきらしてる。
「……伏木蔵。お願いってね、七夕でも流れ星でもないんだから」
「え、先輩、流れ星見たんですか?」
開けっ放しの障子から、数馬が入ってきた。いいなーという表情をして。
「でも数馬先輩。大抵そういう話には、流れ星に気を取られて転んだとかいう落ちがついてますよ」
悲観的な事を言いながら、左近が障子を閉めた。これでおおよそのメンバーが揃う。乱太郎はまだ掃除だろう。いつも通りの車座に座ると、伏木蔵がお茶を配ってくれた。
「じゃあ、先輩は流れ星見てお願いも出来ず、転んじゃったんですか?」
数馬の問いに、伏木蔵がくすくす笑っている。確かに昨日は見事に転んでしまったし、当たらずとも遠からず、だなあ。乱太郎もまだ来ていないし、僕はちょっと茶目っ気を出してみた。
「まあそんなところかな。ところで、数馬だったら何をお願いする?」
「え、僕ですか!?」
いきなり振られるとは思ってなかったんだろう。数馬はびっくりした顔で自分を指差した。
「えーとえーと、僕なら、そのぅ……」
言いにくそうに口を噤む。頬を染めて視線を泳がている。
「あの……聞いても笑わないで下さいね?」
「笑わないよ」
請け負うと、ようやく数馬は決意したように、思い切って言った。
「僕、背が高くなりたいんですっ!」
へえ、意外だな。他のみんなも、笑わないけれど、ぽかんとして数馬を見てる。
「でも数馬って、三年の中ではそんなに低いほうじゃないだろう?それでも背が高くなりたいんだ」
指摘すると、数馬は顔を真っ赤にして俯いた。
「そりゃあやっぱり、背が高い方が格好いいし。一流の忍者ともなれば、背が高くて、がっしりしてて、力も強いって感じだと思うし。……本当は一流の忍者になりたい、ってお願いしたいところなんですが、流石にそれは、自分で叶えなきゃしょうがないと思うから、だからせめて、身長が伸びたらいいなあって」
お、偉い。さすが三年生だけあって、しっかりしている。
「だけど……うち両親ともに背が低いし」
「でも身長だったら、これからどれだけ伸びるか分からないじゃないですか」
それなのにお星様にお願いですか、と言外に含ませて左近が言うと、数馬はむっとしたみたいに言い返した。
「いいだろう!一寸法師だって、打出の小槌で身長伸ばしてもらったんだし!」
「ま……まあまあ、落ち着いて」
左近も悪気があって言ったんじゃないだろうけれど。年齢の割には冷めた方なので、ややぼんやりしたところのある数馬とは、時々そりが合わないのだ。
それにしても、と僕は思った。打出の小槌とはいい喩えだ。
「じゃあ、左近にも聞こう。左近は、打出の小槌があったら何が欲しい?」
「え、僕……ですか?」
ここで自分にお鉢がまわってくるとは思わなかったのか、一瞬息を詰めると、目を伏せた。
「僕だったら、あの……お金が欲しいです」
いきなり即物的な答えが来たなあ。しかもそれを恥ずかしがってるみたいだ。
「うちはあんまり裕福じゃないから……なのに、忍術学園の学費を出してもらってるから。せめて学費くらいのお金があれば、親が楽になるかなあって。そう思って」
夢が無くてすみません。そう左近は付け足した。クールな自分の性格をよく知ってるんだ。
数馬は、と言えば、そんな真っ当な理由を言われては何も言い返せないと思ったのか、何か言いたそうにしていたけれど、口を噤んだ。
「遅くなりましたー」
その時、障子を開けて乱太郎が入ってきた。
「食堂の掃除だったんですが、おばちゃんにちょっと用を頼まれて。……あの、もう会合始まっちゃってました?」
なんとなく気まずい感じの沈黙が気になったんだろう。首を傾げる乱太郎に、とりあえず座るよう指示を出す。
「いや、みんなで雑談してたんだけどね。何か一つ願い事が叶うなら、何がいいかって話をしてたんだ」
「……そう言う先輩は、何をお願いなさったんです?」
逆襲のつもりか、左近が僕に聞いてきた。
「そうそう。打出の小槌があったら、先輩は何が欲しいんですか?」
分かっていて伏木蔵が聞く。身を乗り出さんばかりだ。
「うーん、それが思いつかなくてね。どうしたものかと」
「え、伊作先輩だったら、唐渡りの妙薬とか、なんか難しい名前の薬草とか、そういうんじゃないんですか!?」
数馬がびっくりしたように言う。……僕はこの後輩に、何だと思われてるんだろう。
「でも数馬先輩、薬だったら、いずれ調合して、誰かのお腹に入っちゃうんですよ。伊作先輩のものにはならないじゃないですか」
「あ……そうか」
左近が冷静に言う。まあ、誰かを治せるなら、それでもいいんだけどね。
実際、入手困難だけれど手に入ればいいな、という薬はいくつもある。……だけどそれをあの人に頼むのは、どこか筋違いな気がした。
あの人が僕に恩返しをしてくれるなら。もっと僕のためになるようなことがいいんじゃないかと思うんだ。
「……ふぅん。伏木蔵は、何が欲しいって言ったの?」
ようやく話についてこれたのか、乱太郎が隣に座る同学年の仲間に聞く。
「うーんとね、僕ならね、家が欲しいな。お墓の側に建ててもらう」
「お墓の側の家……?」
数馬と左近は示し合わせたように嫌な顔になる。しかし二人が嫌な顔になればなるほど、伏木蔵は楽しそうに語った。
「だって、本物のお墓が側にあったら、いつでもお墓でかくれんぼとか出来るじゃないですか。うわあ、楽しいだろうなあ。ろ組のみんなが泊まりに来れるくらい、広いといいな」
本人は目をきらきらさせているけれど、周りはみんな引いている。話の流れを変えようとしたのか、左近が乱太郎の袖を引っ張って、お前は、と聞いた。
「お前は、何が望みなんだよ」
「えーと……それって、打出の小槌があって、何か一つ望みを叶えてもらえるなら、って事なんですよね?」
最初は『流れ星へのお願い』だったような気もするけど、どちらでもいいので頷く。
乱太郎は一瞬、にんまりと笑った。眼鏡がきらんと輝く。
「それじゃあですね、私は……」
約束の五日目は、すぐにやってきた。
その日、伏木蔵は当番でもないのに医務室にやってきて、ずっと僕にくっついていた。しかしそれなのに、日が暮れてもその人は現れず、消灯の時間が近づいてきたので、仕方無く長屋へ帰っていった。
僕は採ってきた薬草を選り分けるという名目で医務室に残る許可をもらっていたので、そのまま医務室で待っていた。
その人は長屋も寝静まった頃、深夜の少し手前くらいの時間に、不意に現れた。
「……随分、待たせてしまったかな」
僕の手元には、大量の薬草。長いのから細いのから様々な種類のものがあったけれど、それらをまとめて脇へ押しやると、僕は用意していた円座をすすめた。
「多分、これぐらいの時刻になるのでは、と思っていたので。手慰みです」
ついさっき、ようやく月が沈んだ。二度目の侵入となれば、警戒は厚くなると考えて然るべき。白昼堂々、というのでないなら、忍者のゴールデンタイムを狙うだろうと思っていた。
だから、こんな時間まで医務室に残る口実を兼ねて時間つぶしに、この前採ってきた薬草の仕分けをしていたのだ。
「それで、何か思いついたかね」
すすめた円座に律儀に正座して、組頭はまっすぐ尋ねてくる。
「はい」
僕も居住まいを正して、なるべくしゃっきりと背筋を伸ばす。
「それは何かな?」
「……もう、頂きました。ありがとうございました」
床に指をついて、丁寧に頭を下げる。
下げていた頭を元に戻すと、その人は訝しげに首を傾げた。
「どういうことかね」
「はい。あの……この五日間、ずっと考えていました。自分は何をして欲しいのか、何が欲しいのか、そういうことを」
相手が羽振りのいいタソガレドキ軍の忍び組頭なのだから、どんなことでも叶えてもらえるだろう。何せ忍術一つでオーマガトキ領から大量の金品をせしめた人である。望めばどんなことでもできるだろう。身長を伸ばすのは無理でも栄養のつく豪華な食べ物を用意してもらったり、一流の城に就職を斡旋することは出来るだろうし、忍術学園の学費なんてぽんと出せるだろうし、お墓の横に家を建てちゃうことだって、朝飯前だろう。
……もっとも、それが包帯一巻きの礼として、妥当かどうかは分からないけれど。
唐渡りの妙薬でも。ナルト城の軒丸瓦でも。
名人の打った刀でも、天竺の経典でも。南蛮の珍しい細工物でも。
頼めば何でも手に入る。文字通り、僕は打出の小槌を手にしていた。
「それが、とても楽しかったのです。あんなことやこんなこと、と色々なことを夢想しまして……そう、僕に夢を与えて下さいました。僕はそれで満足です」
まっすぐに見つめ返せば、その人は押し黙った。
そう、タソガレドキ軍忍び組頭なんていう凄い人が、僕のところに恩返しに現れた。それだけでもう、御伽噺めいた凄いことだった。
例えば僕がタソガレドキ忍者隊に就職したところで、一介の下っ端、組頭に目をかけてもらえるとは思えない。側に近づく、口を利くことも出来ないまま殉職したっておかしくない。
そんな人が、ただの忍たまでしかない僕の名前を呼び、借りを返すというのだ。これが御伽噺でなくてなんだろう。僕はこの御伽噺を大事にしたいと思った。
「しかし、まだ何もしていないうちから、満足されてもね」
「気を悪くなさったのなら、申し訳ありません」
僕は重ねて頭を下げた。
「でも、こうして二度も来て下さったではありませんか。タソガレドキ城は忍術学園から遠いと聞いています。ご足労おかけしました」
ふむ、とその人は嘆息した。
覆面と包帯に覆われて、その表情はよく分からない。正座して伸ばした背は、板でも入っているかのようにまっすぐだ。腿の上に置かれた手も、所定の位置にぴったりと置かれているようで、形にはまっている。礼儀正しさを表しながら、一分の隙もない。
これがプロの忍者というもの。
もうこんな、間近で会う機会なんてないだろうから、よく見ておこう。
「そんなに楽しんでもらえたんなら、期間延長してもいいけど」
「……は?」
プロ忍者観察中だったこともあって、突然の事に、僕の反応は間が抜けたものだった。
「とりあえず五日って期限切っちゃったけど、それもこちらの都合だし」
包帯の間からのぞく目が、にやり、と細められる。
「無期限、とは言わないけれど、少なくともこちらの興味が続く間なら、期間延長ということにしよう」
「え、あの、それって……」
思ってもみなかった展開に軽くパニックに陥る。いやでも、在学中の忍たまと一軍の忍者隊隊長が関わりあいになるのは良くないって。学園に忍び込んでくるのも良くないし、大体、忍び組頭ともあろう者が、そんな忍たまなんかに関わってていいのか?
「君は随分、私に気を遣ってくれたようだけれどね。悪いけれどこんなことでは、借りを返した気分にはなれないんだよ」
忍び組頭は、笑っているようだった。楽しそうに細められる右目。
「私は君に、望みを言わせてみせるよ。これでも凄腕と言われた忍びだからね」
「あ、あの……っ!」
呼び止める間もなかった。その人は今度はとんぼを切るような真似はせずに、いきなりその場から消えうせるようにして居なくなった。
……もう、気配も無い。あまりにも鮮やかな消えっぷりに、夢を見ていたか狐に化かされた気分になって、さっきまでその人が座っていた円座に手を当てれば、確かなぬくもり。
延長って。これってどういうことなんだろう。どういう……。
ふと頭の中に、先日の乱太郎が言った答えが甦った。
『えーと……それって、打出の小槌があって、何か一つ望みを叶えてもらえるなら、って事なんですよね?』
『それじゃあですね、私は、打出の小槌、そのものが欲しいです』
『だってそれがあれば、何でも願いが叶うでしょう?』
そう言った乱太郎に、数馬達はずるいと言って騒いだ。でも僕は、成程なあ、と思ったのだ。そうか、僕は今、打出の小槌を手にしているのだと。
小槌は手にしているだけで楽しかった。これを振りさえすれば、あれが出来る、これも手に入ると空想するのはとても楽しかった。
……そしてまた、僕の手に打出の小槌が残された。そういうことでいいんだろうか。
期間延長だなんて、あの人は一体何を考えてるんだろう。そして、伏木蔵がこの顛末を聞いたら、何て言うだろう。
分からない。分からないけれど。
つまりそれはもう一度、僕はあの人に会うということで。
……あの人がこの学園に、また忍び込んで来るということで。
とてもじゃないけど、良いことだとは思えない。かといってお茶を濁すような真似は出来ないし。でも欲しいものやして欲しいことなんて何も思いつかなくて、それで僕なりに考え抜いて、それでも駄目だったんだからしょうがなくて……ああもう、どうしたらいいのか分からない。
やけっぱちになって転がれば、医務室の天井が見える。
この前、引っくり返った時と同じ。
目をつぶれば、包帯が笑っている。僕はまた、打出の小槌を授かったのだった。