体は泥のようにくだびれている。もう、とっととお風呂入って寝よう。ああ、その前に食堂行って晩御飯食べて、いやでも今体中泥だらけだから食堂に行くのはまずい、やっぱりお風呂が先、ということで、僕は自分の部屋に帰るところだった。
今日は薬草園で収穫した後、ひたすら土を耕していた。不要な根や石を取り除き、畝を作り直し。数馬と左近は当番だったし、一年生達は補習授業とかで、ほとんどの作業を一人でやったものだったから、くたくたに疲れていた。
日が沈みかけたから帰って来たのだが、長屋に着いたころにはもうとっぷり暮れていた。でも、僕らの部屋に灯りはついておらず、そういえば留三郎も今日は委員会だと言ってたな、と思い出しながら障子を開けた。
「ただいまー」
誰も居なくてもついつい習慣で口にしてしまう。障子を閉め、頭巾を取ろうと結び目に指をかけ、ふと目を上げると、何だろう、違和感に気がついた。
真っ暗な部屋。ただ、入り口から真っ直ぐ奥へ入った辺りに、白いものが不自然に浮かんでいる。白いもの、なんだろう。何となく目をこらすと、それが包帯であると分かり、しかもそれは人の顔に巻かれたものらしく、包帯の横には、目が……。
「……お帰り、伊作くん」
「ひっ……!」
思わず悲鳴を上げた僕を、忍者らしからぬと文次郎なら怒るかもしれない。
でも仕方ないって。本当に、本当に怖かった。
暗闇の中、白っぽい包帯の横に白目がちの目が、目だけが浮かんでいるように見えたんだから……!
しかし流石は凄腕のプロ忍者。僕が悲鳴を上げるより早く動き出し、一瞬で背後に回ると、片手で口を押さえつけた。もう片腕でがっしりと上半身を押さえ込み、身動きが取れない!
「あーあ、自分の部屋とはいえ、油断しすぎだよ」
「ぐ、うう、ふぐ」
背後に回られたというのに、何の反応も出来なかった。
不意に背後から押さえ込まれた時の対処法、というのももちろん体術の授業で習った。しかし、びくともしない。口を押さえた腕を何とか両手で掴み離そうとするけれど、その手はにかわで固めたように張り付いたまま、ぴくりとも動こうとしない。
組頭はそのまま僕の体を持ち上げると、部屋の中央あたりへ進んだ。
「大声を出さなければ手を離すけど、どうする?」
この人に害意はあるのかどうか。ない、だろうな。もし僕を殺すなり痛い目に合わせるつもりがあるなら、もうやっている。この人にそのつもりがないなら、下手に抵抗しない方がいい。腕から手をはずし、全身の力を抜いた。
「騒いだりしないね?」
口を押さえる手の力が少し緩んだので、頷く。するとあれだけびくともしなかった手が、ぽろっと外れた。
「はーっ……」
溜息のように大きく息を吐きつつ、深呼吸する。ほぼずっと息を詰めていたし、油断していたところに緊張を強いられたから、胸は早鐘のように打っている。そんな僕を、組頭はやれやれという感じで見ていた。
見た感じからして、この人が居たのは部屋の奥。入り口から、ほぼ一間はあろうかという距離。それを一瞬でつめてしかも僕の背後に回ったのだ、この人は。
悲鳴を上げる暇も無かった。そう思うと、背筋がぞっと冷える。
流石は、プロの忍者。
「……いや、どっちかというと、君が鈍いんだと思うけどね。最上級生でこの有様では、やっぱり君は忍者に向いてないんじゃないか?」
がーん。
この人は会ってからほんのわずかの間に、僕を奈落の底に落としてくれたのだった……。
前回の訪問は『五日後』と決まっていたから、準備をして待つことが出来た。
でも今回は去り際に、そうした具体的な期日は何も言い残していなかった。だから、もしかしたらまた五日後なのかと、五日目には緊張して待った。それでも来ず、じゃあ十日目なのかと医務室で待機してみたけれど、全然来ない。
そもそも、僕自身に何かして欲しいことや欲しい物があるかというと、まったく思いつかないのだ。
例えば僕が父の仇を探していたりしたら、この人の申し出は願ってもないことだったろう。しかし生憎、そう都合よく仇なんかいない。生き別れの兄弟とか、探るべき出生の秘密とかは全然ない。そういう意味では、恵まれた人生を送っていると言える。
欲しい物について考えると、そりゃあどこそこの団子屋が美味しいと聞けば食べてみたいなと思い、頭巾が繕いまくったせいでぼろぼろだから新しい布地が欲しいとか、そういう欲はある。でもそんな些細な暮らし向きの希望をこの人に言うのはかなり筋違いだろう。
そんな訳で、いつ来るかも分からない、来たところでどうしようもない人を待っていてもしょうがないというか、投げやりな気分になっていた。
まあ相手はタソガレドキの忍び組頭、忙しいんだろうし、そもそも一介の忍たまにちょっかいを出す方が間違っている。待つ方が間違いだろうと、もうあまりそのことは考えないで生活していた。ありていに言うと、忘れていた。
そして、忘れた頃にこれである。
いつしか僕達は、真っ暗な部屋で向き合って座っていた。灯りを点けようかとも思ったけれど、そうすれば、部屋に曲者がいるということが一目で外にばれてしまう。
会うべき人ではないと分かっていたけれど、せっかく僕に恩を返そうと尋ねて来た、しかも社会的身分のある人を、不法侵入だと騒ぎ立てるのも悪いと思ったのだ。
「毎回、医務室というのも芸がないと思ってね。こちらで待たせてもらったよ」
「はあ……」
芸の有無はともかく。これで忍術学園に忍んで来るのは三度目である。
先生達は見逃しているんだろうか。それとも気付いてないのか。でもそれをこの人に問うのも場違いなので、おざなりな相槌になった。
「今日は君に、渡したい物があって来たんだ」
「渡したいもの?」
何だろう。まさか金子か何かを渡して、借りを返したことにしようとか。
…それもいいかもしれない。前回の時にはついぞ考えられなかったことだけれど、こうやって何度も忍術学園へ侵入して来られることを思えば、お茶を濁すという選択もあり得るかも。
でもそれってやっぱり失礼なことかな。……どうしたらいいんだろう。
悩む僕の前で、組頭は懐から何かを取り出したようだ。それは手のひらに収まるような、小さなものらしい。真っ暗闇とは言わないまでも、日も暮れて障子も閉めた部屋の中では、それが何なのかよく分からない。
「笛だよ。私が作ったんだ」
組頭はそれを、指先で摘んで見せた。小指ほどの太さと長さをした小さな棒。
「だからこの音色は私しか知らない」
「はあ」
「私が居そうな場所の近くに来たら、これを吹くといい。君がいると分かる。もっとも、分かるだけで、すぐ駆けつけられるとは限らないんだけどね。まあ可及的速やかに、君に連絡つけるようにするよ」
するとつまり、これは組頭を呼ぶための笛なのか。この笛の音色を聞いたら、組頭は出来る限り駆けつけてくれる、と。それが無理なら、後で何とかしてくれる、と。
……なんだか、それって凄いことじゃないだろうか。
「君が私にして欲しいことを思いついたら、これを吹くといい。君から私に連絡をつける手段が皆無なのも悪いし、かといって突然タソガレドキ城を訪ねられても困るしね」
「あの、でもっ」
受け取っていいんだろうか、こんなもの。こんな、笛一本で組頭を呼び出せるなんて。
「それを受け取って、僕が悪用したらどうするんですか。悪用する気は無くても、失くしたり、盗まれたりしたら……」
でも僕がそう言うと、組頭は可笑しそうに笑った、ようだった。暗くて表情は見えないけれど、伝わる気配の感じでは。
「君は悪用するつもりがあるのかい?例えば、タソガレドキに敵対する城の忍者に売り渡したり、とか」
「そんなことしません!」
「ならいいじゃないか」
信用されているんだろうか。でも、タソガレドキの忍び組頭ともあろう人が、そんな簡単に、タマゴとはいえよく知りもしない忍者のことを信用してもいいんだろうか。
「それに、私と君の繋がりを知っているのは、あの時に君の側にいた小さい子くらいしかいないだろう。それともあの子は、とても口が軽かったり、みだりに人を陥れようとするタイプなのかな?」
「いいえ、そんなことは決してありません」
間髪を入れずに否定する。伏木蔵は臆病なところがあるけれど、根はしっかりしたいい子だ。それに、僕と組頭のことは、誰にも喋ってないと言っていた。
「なら大丈夫」
組頭はそう言うと、僕の方へ笛を持った手を突き出してきた。
受け取っていいんだろうか、これ。
分からない。分からないけれど、この人はせっかく、僕の為にこれを作って、持って来てくれたんだ。受け取らないのも、悪い気がする。僕はおずおずと、組頭の手の方へ、自分の手を伸ばした。
「……あ」
暗い中、よく見えないからだろう。お椀の形に差し出した僕の両手に、組頭の手が添えられた。もう一方の手で、何か細いものを手のひらの上に置かれる。僕は思わず、僕の手のひらに笛を置いた組頭の手を、笛ごと両手で包み込んでいた。
手を見れば、その人の人となりが分かる。
どんなに上手に変装していても、手まで誤魔化すのは難しい。手にはその人の人生が表れる。何歳ぐらいの人か、どんな仕事をしてきたのか、男か女か、そうしたことを、手は顔よりもよく表している。
僕はそうした観察が得意だった。だから今も、部屋がもっと明るければ、組頭の手を一瞬でも間近で見ることが出来れば、この人がどんな人か分かっただろうと思う。
でも、灯りをつける訳にはいかない、それならせめて……そんな焦りが、僕に組頭の手を握らせていた。
「ん?」
「……ああ、ごめんなさい!」
ふと正気に返って、焦った。何をしてるんだろう、僕は。この得体の知れない人の手を握るだなんて。いや、そうでなくても、何か物をくれようとしているのに付け込んで手を握るだなんて、そんな破廉恥な。いや、失礼な。
慌てて手を引っ込めながら、手の中に笛があることを確認する。これで笛まで落っことしていたら、失礼の上塗り、あんまりだ。
「いや、いいよ。……で、君も、何か分かったかな?私のことが」
「……すみません……」
あああ、見透かされている。
プロの忍者になんという浅はかなことをしたんだろう。穴があったら入りたい。
「君の部屋もいいけど、こう暗いとつまらないね。……やっぱり、君の顔が見たかったなあ」
どういう意味だろう、と、項垂れていた顔を上げた僕の頬に、指先が触れる。
「じゃあね」
え?と思った次の瞬間にはもう、目の前に人の姿はなかった。
消えた、としか言いようがない。相変わらずの、突然にして鮮やかな立ち去りっぷり。
僕は手の中に残った笛を見つめた。竹か何かで出来た、小さな笛。
……あの人の手が、これを作ったのだ。
器用そうな長い指。かさかさしてたけど張りのある手の甲。意外と温かな手のひら。
触った感じだと、それは『仕事をしてきた手』だった。それも野良作業のような力仕事だけではなく、もっと繊細な作業を含む仕事を。
あの手は持ち主に背くことなく、実直に……それが殺しや盗みだったりしても、ともかく、働いてきたのだろうという感じがした。
きっとある意味真っ直ぐな人なんだと思う。おそらく、悪い人ではない。
もちろん、悪い人でないからと言って、信頼していいわけではないだろうけれど。
それでもあの人は、僕から連絡する手段をくれた。かなり不確実な連絡手段だけれども。それでも、僕が必要とする時に力を貸そうと言ってくれている。僕を信頼してくれている。
いずれこの笛を使うことがあるのかどうか、それは分からない。でも、信頼されている限りは大事にしようと、僕はそれを懐へ仕舞った。