月の光 3

「ふむ。そんな元気があるのなら、しばらくは大丈夫のようだね」
 男の叫び声を聞いても、雑渡さんは平然としたものだった。
「じゃあ私はそろそろ行くよ。ああ、君も、適当なところで休むといい」
「おかしらぁっ……!」
 立ち上がった雑渡さんを睨む男の目は、憎しみに燃えていた。
「どうせ殺すんだろ、だったら殺せよ、早くっ!……俺を死なせろっ!」
 しかし、男の血を吐くような叫びにも振り返らず、塗籠の扉は静かに閉められた。
「……っきしょう……!」
 僕は塗籠の隅に転がっていた水筒を拾うと、男の枕元に座った。
「気が付きましたか。水を飲んでください」
 しかし男は一瞬僕に目をくれただけで、すぐに視線を逸らした。
 闇を睨みつけるその目は、どういう訳か憎しみに満ちている。
「とにかく、水を飲んで下さい」
 前に飲んだのがいつなのかは分からないけれど、僕がここに来てからずっと、この人は何も口にしていない。それが何時間なのかは分からないけれど、危険なことに変わりは無い。
「ちゃんと水分を補給しないと、傷の治りにも障ります。一口でもいいから、飲んでください。体を起こしましょうか?」
 虚空を睨んでいた目が、ゆっくりと閉じられる。拒絶の印かと思ったけれど、疲れのせいかもしれない。僕はまた、声をかけた。
「あの、水分を取らないと、死んでしまいますよ?」
「……死にてえんだから、丁度いいだろ……」
 面倒くさそうに掠れ声で呟くと、僅かに動く首を動かして、男は完全に僕から顔を背けた。
 ……こういう場合、どうすればいいだろう。
 無理にでも水を飲ませたいところだけれども、さっきの様に勢いに任せて手を振り払ったり、悶えたりすれば傷に障る。この人を激昂させるのは避けるべきだ。
 自主的に水を飲んでもらえないなら仕方ない。僕は蛆取りを再開することにした。  脹脛の傍に陣取り、灯明の位置を調節する。箸と包帯のきれっぱしを手に取り、逃げる蛆を捕まえる。包帯のきれっぱしで蛆を潰しながら、頭の片隅では疑問が湧いていた。
 この人はおそらく、雑渡さんの部下だ。
 雑渡さんは部下思いの人だと思っていた。以前、部下の人を助けたことにもお礼を言っていたし、今もこの人を助けようとしているからだ。
 なのにこの人は拷問傷を負い、雑渡さんを憎み、治療を拒否している。
 この人は何者なのだろう。そして、この人に何があったのだろう。
「……いてーよ」
 何匹捕まえた頃だろうか。枕元からしゃがれ声が聞こえてきた。
 丁度その時、傷の中に逃げようとした蛆を追っていたから、箸が少し傷の中に入ってしまっていたのだ。これは確かに、痛いかもしれない。
「すみません。でも、蛆を取ってしまわないと」
「いてえっつってんだろ!」
 その時、思いもかけない事に、いきなり男の足が動いた。
 傷口の中に箸の先があるのだ。このままでは箸が傷口に刺さる……!
 とっさに僕は箸を引き抜き、その勢いで後ろに転がり、ばき、という音がした。
「痛っ……」
 あろうことか、よく尖らせた箸の一本は僕の左手のひらに刺さり、もう一本は途中でばっきりと折れていた。
 その様子を首をめぐらせて見ていたこの男は、ふ、と鼻で笑った。そのまま何事も無かったかのように眠りにつく。
「……あーあ」
 とっさのこととはいえ、何と無様な。こんな調子で、これから手当てしていけるのだろうか。僕は大いに不安に思いながらも、もう一膳、箸を貰うために、塗籠の外に待機している見張り役に声をかけた。
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