再び用意してもらった箸の先端も結構細かったけれども、それでもまだ蛆を挟むには太い。そこでいつも持ち歩いている包帯を切るための鋏で先を削った。
実を言えば、手甲の中には小しころが仕込んであったのだけれど、流石にそれは抜き取られていた。脚半に入れた棒手裏剣も、懐に忍ばせてあった苦無も。
苦無ならともかく、棒手裏剣なんか普段滅多に使うことはない。それでも一応持ち歩いているのは、以前、留三郎に言われたからだ。『暗器は常に仕込んでおかないと。いざという時だけ持ち歩いても、不自然だし使えない』と。使うあてが無くてもとにかく持ち歩け、というので、制服に色々仕込んでおいた。
しかし、いざ使おうとすると、そうしたものを一切、身につけていなかったのだ。気を失っている間に抜き取られたらしい。流石に忍者隊だけあって、相手が忍たまといえど用心は怠らないようだ。
部屋の中には相変わらず、ぶーんと低い唸りを立てて蝿が飛び交っている。これをなんとか出来ないものだろうか。医務室にいるなら、蝿除けの香を調合して焚くのだけれど、この塗籠という密閉空間でそれをやると、流石に息苦しくて仕方ないだろう。
とりあえず僕は脹脛の傷に包帯を当てて蝿を遮断し、枕元へにじり寄った。
水筒の水を少し、手ぬぐいにこぼす。
男はよく眠っているようだ。僕はその手ぬぐいで、男の唇をそっと拭った。
本当はこういうやり方は、末期の水を取らせるようで不吉だ。しかし、水を飲むことを拒否されると、もう他に方法がない。
緩く開いた唇の間から滲ませるように、そっと手ぬぐいを押し当てる。
「……げふっ、ごふっ」
しまった、水が多すぎたか。男は急に咳き込みだした。
「大丈夫ですか!?」
慌てて手ぬぐいをはずすと、男に向き直る。しかし背中をさすってやろうにも、仰向けに寝たきりなのだから、それも出来ず。
「……余計なことしてんじゃねーよ」
咳が落ち着くと、男はこちらを睨んできた。落ち窪んだ目の中に、苛立ちがはっきり見える。
「余計なことではありません。人は水を飲まないと死んでしまうのですから」
「それが余計だっつってんだよ。俺はもうすぐ死ぬんだから」
「いいえ。死にはしません。必ず治ります」
「治ったってダメだ」
「ダメなことありません」
断言すると、男の目は、胡散臭いものを見る目になった。
「……お前、医者か?忍者か?」
さっきから僕がやっているのは医者がやるようなことだけれども、着ているのは忍者服だ。この男も忍者だけあって、ちゃんと観察している。
「そのどちらでもありません。忍者の卵、忍たまです」
「にんたまぁ?」
なんだそりゃ、と吐き捨てるように言う。完全に、得体の知れないものに対する態度だ。そうか、この人は忍術学園のことを知らないのか。
「ええとですね、忍術学園という、忍者になるための学校がありまして」
「……お、聞いたことあるぜ、それ」
六年生の、と名乗りかけたところで、男が無遠慮に口を挟んだ。
「金持ちのぼんぼんが通う、お遊びの学校だろ。忍者の真似事とかするっていう」
お遊び。真似事。男の嘲るような口調にも、むっと来た。
「忍びの仕事の、何を学ぶんだっつーんだよなあ。やってみなきゃ、何も身に付かないだろーが。あ、そーか。金持ちの忍者ごっこなら、別に全然構わないのか」
それでも怪我人相手に反論しても仕方ないので黙っていると、男は段々調子に乗ってきたようだ。
「遊びで忍者気分が味わえるなんざ、金持ちってのはいーよなあ。何を好きこのんで忍者なんだか知らねーが、ま、苦労を知らないぼんぼんには、格好良く見えるのかねえ」
「……遊びではありません。みな真面目に勉強してるんです」
流石に耐えかねて口を挟むと、男はにいっと笑ってみせた。
「なら尚更タチが悪ぃや。金積んで忍者修行だあ?悠長だねえ。優雅だねえ。ほんっと金持ちってのは羨ましい」
確かに忍術学園の学費は安くは無い。それでも、自力で稼いでいる一年生もいる。無闇に羨ましがられる覚えはない。
反論が頭の中で渦を巻いた。何故この人に、そんなことを言われなきゃならない。
見ず知らずの人にいきなり母校の悪口を言われて、腸は煮えくり返っている。男のにやにや笑いに、馬鹿にした口ぶりに、どうしようもなく腹が立つ。
今の立場が分かっているのか。僕が少し手心を加えれば、箸の先で傷口を突付けば、この人は苦痛にのたうつことになるというのに。
河原者だと。盗賊上がりだと、雑渡さんは言っていた。この人は叩き上げの忍者なのだろう。誰かに何かを教わるのではなく、自ら技を盗み、工夫して、今日までやってきたのだろう。そんな人から見れば、親鳥から餌をもらってばかりの僕たちのことを、歯痒く思えるのは当たり前かもしれない。
でも、それが何だというのだ。僕らだって懸命に学ぼうとしている。必死な思いをしてここまで残ってきたんだ、決して遊びじゃないし、悠長でも優雅でもない……!
そこまで考えて、ふと思い至った。
挑発されている。
この人は、僕を挑発しているのだ。
何故?……雑渡さんに殺せと言っていた。死ぬんだと。死にたいのだと。
でも自力では動けない。寝返りも打てない衰弱振りでは、自殺も出来ない。
僕を挑発して、手を下させればそれでよし。そこまで行かなくても、僕が手当てをやめれば、それだけでこの人は死に至る。
……僕はさっき、何を考えたのだろう。
背中に冷水を浴びせられた気がした。確かに僕は、忍術学園が好きだ。いきなりけなされて脳天が沸騰するほど腹が立った。でもだからといって、目の前にいる怪我人を放置したり、手心を加える……わざと、痛い目にあわせるようなことを考えたのか?
拷問傷を、苦しむための傷を、ここまで帯びた怪我人を相手に?
なんということを。
「……おい、兄ちゃん」
自省のあまり項垂れていた。のろのろと顔を上げると、男がこちらを見ていた。
「気が変わった。水、飲ませてくれ」
「あ、はいっ!」
何故気が変わったのかは分からないが、ともかく水を飲んでくれるなら一安心だ。僕は男の求めるまま体を起こしてやる。
「水筒から飲めますか?お椀か何かを……」
「いや、これでいい」
男は水筒を受け取ったが思うように腕が上がらない。そこで、僕は背中を片腕で支えたまま、腕に手を添えた。
そうやって、男が水筒の水を口に含む、と。
「……うわあっ!」
驚いた。突然生温かいものが顔全体に吹きかかり、視界を奪った。
男が、口に含んだ水を僕の顔に吹き付けたのだ。
「水も滴るぼんぼん、ってか。字足らずだなあ」
そう言いながら、男は動かなかったはずの手を動かして悠々と水筒を持ち上げ、水を飲む。
僕は男の背中を支えながら、いっそ放り出せばよかったと、今からでも遅くないと思う気持ちを抑えるので精一杯で、怒りに震える手を、止めることも隠すことも出来なかった。