僕は何のためにここにいるんだろう。
水を飲んだ後、男は満足気に横になり、すぐに落ち着いた寝息を立て始めた。
最初ここに来た時には、死んだように意識の無い状態であり、それに比べたらこの寝息の穏やかさはゆったりと体を休めている証拠のようなもので、歓迎すべきことなのだろうけれども。今の僕には、この穏やかささえ腹立たしい。
今まで僕が手当てしてきた人の中で、手当てを嫌がった人もいた。でも例えば合戦場なら、僕も暢気に追いかけて行く訳にはいかないし、忍術学園の中のことなら、新野先生におまかせすればそれで良かった。
以前、小平太が大怪我した時、おそらく自責の念から自暴自棄になっていたことがあった。あの時も苦労したような気がするけれど、でも相手が小平太だったから。何としても治したいという気持ちがあったから、何を言われても何をされても、我慢できた。
でも、今目の前にいるこの男は、僕は名前さえ知らない。
この見ず知らずの男に、小平太の時と同じような気持ちを持つことが出来ない。
僕は医者じゃないから、多分それでいいのだけれど。それでよかったのだけれども。
『お前はいつも、保健委員だからという』
普段とても無口であまり話をしない朋輩が、不意にそんなことを言ったことがあった。
『ではもしお前が保健委員でなかったら、人を助けはしないのか。それはアミダくじで決まることなのか?』
傷だらけの厳しい顔にそう問われた時、僕は何と返事をしただろう。でも結局六年ずっと保健委員だったし、とか何とか、誤魔化したような気がする。
そうだね、長次。
これは、ちゃんと考えておかなければいけないことだったんだ。多分、僕の将来とか進路とかと一緒に、考えておかなければならなかったこと。
何故僕が人を助けるのか。そこに何の意味があるのか。
……僕はこの人を助けたいのか、そうでないのか。
実際問題、僕は雑渡さんに誘拐されてここへ来た。この人が治るか死ぬか、決着がつかないことには、僕はここから出られないだろう。
なら僕は、どちらの決着を望むのか。
いや、答えは既に決まっている。だた、僕にそれが出来るのかどうか。
「おい、お前。飯だぞ」
……真剣に、真面目に考えていたはずなのに、いつの間にか眠っていたらしい。
横たわった体を起こすと、見張りの人が膳を下げて立っていた。礼を言って受け取る。
すぐに扉は閉ざされたけれど、日の光が差し込んできたところを見ると、今は昼なのか朝なのか。あれからどれぐらい時間が経ったのだろうと考え始めてやめた。ここに着いた時がそもそも昼だったのか夜だったのかはっきりしないし、時間の感覚もあやふやなまま、さっきだってどれぐらい眠っていたのか。
腹も減っているのかいないのかよく分からないが、とりあえず箸を手に取る。
お膳の上には、ごはんとお味噌汁と焼いた魚、あと香の物が乗っていた。ただの虜囚にしては、なかなか豪華な食事内容だ。忍術学園の定食メニューと似ている。そう思ったら、だんだんお腹が空いてきた。
……そういえばあれは、何て言ったかな。ええと、確か……。
「われ、今幸いにこの清き食を受く。つつしんで食の来由をたずねて味の濃淡を問わず。その功徳を念じて品の多少をえらばじ。いただきます」
食事の前、文次郎がよく唱えていた呪文。目を閉じて唱えて、しばし忍術学園の食堂にいるかのような気分に浸る。しかし目を開けると、こちらを見ている男と目が合った。
「なんかそれ、いかにも、不味い物だけど我慢するって言ってるみたいだよなあ」
いちいち文句を付けずにはいられないのか。僕は無視して箸を進めた。
「言っとくけど、うちの飯は美味いんだぜ。タソガレドキ軍は羽振りがいいからな。俺みたいな下っ端でも、珍しいもん食わしてもらえんだから」
男の口調に少し得意げな響きを感じて、僕はおや、と思った。組頭のことは憎んでいても、タソガレドキ軍のことは誇りのようだ。
「甘葛とか、鯨肉とかさあ。金持ちでも滅多に食えねえよな、あんなもん」
「へえ、それは凄いですね」
鯨肉も甘葛も、もの凄く高価なものだ。聞いたことはあっても食べたことなんかない。本当に凄いと思ったので素直にそう言うと、男はふと目を逸らした。
「でも、もう食えねえ……」
それは立場上無理ということか、重篤な怪我人で食事も制限されているからということか。不意に虚ろになった男の目を見て、僕はようやく理解した。
殺せ、と言うのは、生きたい、ということなのだ。
どうせ死ぬ、というのは、予防線なのだ。
この人は、本当は生きたいと思っている。
心の底から、生きたいと思っている。でも今の状況に、絶望している。
だから組頭を憎みもし、僕を挑発したりするのだ。
「……食べられますよ」
箸を置くと、僕はまっすぐに男の目を見つめた。
「今はまだ、お粥とかそういうものでないと、体に負担がかかり過ぎるため、やめておいた方がいいでしょうけど、そのうちすぐ、また元のような食事ができるようになります」
「適当なこと言ってんじゃねえよ」
「本当のことです。……あ、このお味噌汁、少し飲んでみますか?」
具を食べずに、少し口に含む程度なら、いいだろう。僕はお膳を枕元へ押し寄せた。
「……おい、またお前の顔に吹くかもしれねえぞ」
「無理ですよ。そんな勿体無いことが出来ないくらい、美味しいお味噌汁でしたから」
「そりゃそうかもしれんが……」
助け起こすと、さっきよりはすんなり、上体を起こすことが出来た。口ではなんのかんの言っても、やっぱり食べたいという意欲があるのだ。
「あー……いい匂い」
そりゃそうだろう。この部屋と言えば、血や蛆の生臭い匂いしかしないのだから。お味噌汁の芳醇で温かな匂いは、それだけでご馳走かもしれない。
背中を支えながらそっとお椀を口に宛がうと、男はゆっくりと一口、飲み込んだ。
「……くうーっ。五臓六腑に染み渡るぜえ」
満足そうに息を吐く男の目は、わずかに潤んでいるように見えた。
「もう一口、いかがですか?」
「いや、もういい」
横になりたい、と男は動きで伝えてきたので、僕はその背中をそっと、筵に下ろした。男は僕と反対側の壁を見つめて、ぽつりと何かを呻くように呟いた。それが『ありがとう』だと思ったのは、ちょっと人が良すぎるだろうか。
天は自ら助くる者を助く。
僕は天ではないけれど、この人が生きたいのなら。力になろう。改めてそう、心に決めた。