月の光 7

『伊作、しっかりしろ。伊作』
「おい、お前!しっかりしやがれってんだ、小僧!」
「……仙蔵?」
 何故か仙蔵の声が聞こえたような気がした。気を失う直前に、仙蔵のことを思い出したりしたからだろうか。
 実際に聞こえてきたのはしわがれ声で、しかも耳元で聞こえたため、ひどく気に障った。仕方なく、腕を突っ張って体を起こす。
「小僧。大丈夫か」
「はい。あなたも」
 これだけ声を張り上げて他人の心配ができるんだから、とりあえず大怪我の心配はないだろう。
 僕はひりひり痛む背中を気遣いながら、どうにか完全に体を起こす。
 今まで居た塗籠の壁はさほど厚く塗られていたわけではないらしく、完全に吹っ飛んでいた。
 塗籠があったのは、板張りの道場のような広い部屋の一角で、広い部屋の中には何人かの人が倒れていた。立っているのはみな、タソガレドキの忍者ばかり。暗殺者達はもう片付けられたようだ。
「怪我はありませんか」
「小僧こそ。背中が焦げてるぜ」
 そうだろうと思う。さっきからひりひりする。でもまだ、ひりひり、で済んでいるところから察するに、そう酷い火傷ではなさそうだ。むしろ、左の肩甲骨あたりがずきずき痛む方が気になる。土器の破片でも当たったか。
 しかし、場所が背中だけに、自分で怪我の程度を見ることが出来ない。どうしたものかと思いつつ、とりあえず辺りを見回すと、そこら中に散らばった塗籠の残骸の間から、まだ使っていない包帯の白い色が見えた。塗籠の中にあったものは、壁の破片と一緒に、あちこちに散らばっていた。
 まだ外は完全には日が沈みきっていないらしい。薄暮のぼんやりした光が、道場のようなだだっぴろい空間に満ちていた。ところどころに倒れた人達は大丈夫だろうか。手当てしないと。そういえば、見張りの人はどうしただろう。壊された塗籠の周囲にも、血と思しき赤が点々と落ちている。
 おもむろに立ち上がると、包帯を拾う。箸やら手拭やらも探して拾ったが、鋏が見つからない。探していると、男が不意に口を開いた。
「なあお前……何で俺をかばったりしたんだ?」
 塗籠の残骸の中で、男だけは何事もなかったかのように、筵の上に横たわっていた。
 こちらを向いている顔は、今までと同じように、いやもっと更に、訝しげだ。
「そんなの、決まってるじゃないですか」
 また、何故死なせなかったとかそういう苦情なのかな。僕はこの忍者の男に向き直った。
「まだ手当てが途中だからです。ここであなたが死んでは、元も子もないでしょう?」
「馬鹿かおめーは」
 男は苦々しげに舌打ちすると、吐き出すように言った。
「そういうお前が死んだらどうすんだよ。結局元も子もねえじゃねえか」
「ああ……そういえばそうですね」
 確かに。密室で宝禄火矢が爆発したのだ。破片の直撃で、死んでもおかしくない。
 爆発の様子からして、宝禄火矢が投げ込まれたのは奥というより足元、しかも入り口側の壁際だったようだけれど、それでも背中がひりひりするくらいで済んだのは、ものすごい幸運かもしれない。
 普段の僕は不運不運と言われているのに。この人の悪運は、それを上回るんだろう。思わず口元がほころんだ。
「……なあてめえ、俺の手当てして、お前になんの得があるんだ?何の見返りがあるってんだよ。金か、女か?何の報酬でてめえはこの仕事を請け負った?」
 つい笑ってしまった僕とは裏腹に、男の声は地を這うように低かった。ここへ来たすぐに聞いた、雑渡さんに殺せと言った声のように。
 今度は僕が憎まれているのだろうか。何故。
「報酬……ですか」
 そんなこと考えもしなかった。僕は雑渡さんに否応なくかどわかされたんだし。
 しかし、男の目はぎろりとこちらを睨んでいる。答えないと許さない、という風に。流石に叩き上げの忍者だけあって、落ち窪んでいてもその眼光には迫力があった。
「ええとですね、実のところ、僕は忍び組頭に、無理矢理ここに連れてこられたんです。だから、あなたの手当てをするのは、僕の意思というよりは組頭の意思な訳で、報酬とか、そういうことでは」
 僕がそう答えても、男はまだ、睨みつけるのをやめなかった。
「嘘言え。組頭は子供を脅して使うような男じゃねえよっ。南蛮渡来の妙薬とか、タソガレドキ忍者隊に就職とか、何か、何かあるんだろう!?」
 吠えるように、噛み付くように、男は叫ぶ。もし両手が自由に動かせたら、僕はきっと胸倉を掴まれて振り回されていたところだろう。
「……そうですね。無理矢理連れて来られたとはいえ、あなたの手当てをするのは、僕の意思ですね」
 幸いにして胸倉を掴まれたりしなかったから、僕は落ち着いて、男の顔を見下ろした。
 僕がこの人の手当てをする理由。
 ちゃんと答えなければ。居住まいを正して、心持ち背筋を伸ばす。
「あなたの手当てをするのは、僕が保健委員だから、です」
 ごめん長次、やっぱり僕にはこれ以外の理由が思いつかない。少なくとも言葉に出来ない。
「一番の報酬は、あなたが生きて元気になって下さること、でしょうか。二番目は、忍術学園に帰ること、ですけど」
「……」
 そう言うと、男の目からは光が失せた。表情までもが虚ろになる。
 そのあまりにも急な変化に、大丈夫だろうかと顔を覗き込もうとする僕の視線をはずすように、男は反対側を向いた。
「あのよお……まだ、名前を聞いてなかったよな」
 僕からは完全に顔をそむけて、でも男は、声をかけてきた。
「ああ、そういえばそうですね」
 重大な秘密を握ってるらしいこの人の名前を聞いてはいけないかもしれないけれど、僕が勝手に名乗る分にはいいだろう。
「善法寺伊作といいます。忍術学園六年は組で、保健委員長を務めています」
「……ああ……やっぱりなあ……」
 やけに間延びした声で、男はぼんやりと呟いた。
「お前が組頭の切り札か。……そうじゃないかとは思ってたんだが……」
「切り札?なんのことです」
 しかし男は僕の質問には答えず、独り言のようにぼそぼそ言った。
「最上級生って聞いてたからさ。まさか最上級とかいうのが、こんな青臭い小僧だとは思ってなかったんだよ」
 ……ええと。何と返したらいいんだろう。僕はまだ挑発されてるんだろうか。
 思わず返答に困っていると、タソガレドキ忍者の人たちがこちらに集まってきた。場所を移すというので、筵から男を抱き起こし、二人がかりで運んで行く。
 道具を持ってそれについていこうとすると、雑渡さんに呼び止められた。
「悪いね。君に怪我をさせるつもりは無かったんだが……」
「見た目ほど、大したことはありませんから。大丈夫です」
「それでも、手当てが必要なようだ。ついてきなさい」
「でも……」
 脇の下と足首を持たれて、男は運ばれていく。でも、脹脛の蛆は取りきれていないし、そろそろ上半身に当てた包帯代わりの布も取り替えた方がいい。そういうことを雑渡さんに訴えようとしたのに、組頭は強引に手首を掴んで、男とは反対側の廊下に引っ張って行った。
「あの、やり方は任せて下さるのではありませんでしたか?」
 辛うじてそう言うと、雑渡さんは立ち止まった。呆れたように目を眇め、そのままじと目で睨む。
「君に怪我をさせたとあってはね、私が忍術学園に申し訳がたたないんだよ。これは明らかに私の落ち度だ。せめて万全の手当てを施して、失地回復させてもらえんかね」
「はあ……」
 どうしてそういうことになるのか、さっぱり分からない。ただ、ついて行かなければこの手を離してくれそうにないし、手を離さなければ引きずってでも連れて行くのだろう。
 確かに、あの男の手当てするために僕をここへ連れてきたその張本人が、男の下へ行かなくていいと言っているのだから。僕はそう納得して、分かりました、と頷いた。
 雑渡さんに引っ張られるようにして廊下に出て、いくらか歩き、やがて案内されたのは、小さな部屋だった。
 一年長屋のようなこじんまりとした広さ。文机と行李がいくつか隅に置いてある他は何も無い、飾り気の無い殺風景な部屋だけれど、それでも普通の部屋だった。窓からは緩やかに風が入ってきて、今までいた塗籠のように血や膿の生臭い匂いが充満したりしてないし、ぶーんという羽音も無い。ごく普通の部屋、というだけで、なんだか無性にほっとした。
 しかし、部屋に着いてそうそう、部下の人が来て雑渡さんに耳打ちすると、雑渡さんは出て行ってしまった。
「後のことは部下に伝えておくから、君は少し休むといい」
 僕が呼び止める間もなく雑渡さんは出て行き、入れ替わりのように下働きの女の人達がやってきた。それは食堂のおばちゃんのような年のころのご婦人達で、あれよあれよという間に僕は湯殿に入れられ、背中を手当てされ、夜着に着替えさせられ、布団を敷かれ、追い立てるように布団に潜らされた。板張りの床に座り詰めだった身には布団の柔らかさが心地よく、僕はいつの間にか布団の中で、手当てすべき男のことも忘れ、ぐっすり眠ってしまっていた。
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