人の気配がしたような気がして、目を覚ました。
枕元に黒装束。見上げれば、雑渡さんが枕元に座り、僕を見下ろしていた。慌てて腕に力を入れて、横向きに寝ていた体を起こす。
「まだ眠っていてもいいよ」
「ああ、いえ」
どれぐらい眠っていたんだろう。まだ夜中のようだからそう長くは寝ていないだろうけれど、久しぶりの布団で、なんだか凄く良く眠れた気がする。ぐっすり深く眠ったおかげで、寝起きだというのに頭はすっきりと冴えていた。
布団を軽くたたんで押しやり、座りなおして雑渡さんと向き合う。
今夜は満月なんだろうか。窓からは皓々と月の光が差し込み、部屋中が白々と明るい。白い光は忍び装束を照らし、黒さえも白く輝かせる。なのに頭巾は影を落とし、白いはずの包帯に黒い影を落とす。
月の光は残酷なまでに白く、この世に白と黒以外の色彩を許さないようだった。
「あの、部屋を貸して下さって、ありがとうございました。おかげさまで、ゆっくり休めました」
多分ここは、雑渡さんの居室なんだろう。殺風景なほど簡素な部屋は、成程と思わせた。……もっとも、割と得体の知れない人だけに、他にどんな部屋であったとしても、成程と思ったかもしれないけれど。
「それは良かった」
「ええ。支度したらすぐ、手当ての続きにかかりますね」
そういえば、今は夜着を貸してもらっているけれども、自分の忍者服は背中がかなり焼け焦げているのだった。この格好で手当てというのも何だし、何か服を貸してもらえないだろうか、と、雑渡さんを見れば、雑渡さんはおもむろに口を開いた。
「奴は死んだよ」
「えっ?」
奴、というのが誰のことか、理解するまでに時間がかかった。奴。僕と雑渡さんの共通の知り合い。僕が手当てをしていた、忍者の男。
死にたいと、殺せと。つまり生きたいと、助けてくれと叫んでいた、あの人。
あの人が死んだ?どうして。
怪我は確かに酷かった。衰弱もしていた。でもあの人には気力があった。気持ちはまだ死んでいなかった。だからその気持ちが、生きる方向へ迎えば、死にはしないのに。まだまだ生きられたのに。
「私が殺した」
雑渡さんの声は、いつもと変わらない、飄々とした響き。きっと冗談も、同じ声で言うんだろう。ねえ、これは冗談ですよね?貴方が殺したなんて、嘘をついているんでしょう?
しかし雑渡さんの纏う空気が、それが真実だと告げていた。この人が、殺したのだ。あの男を。
「何故。そんな、どうして……!」
「奴がそれを望んだから」
事態を飲み込んで激昂した僕が叫んでも、雑渡さんの声は穏やかそのものだった。
もしかしたら、最初からそのつもりで。
あの人も雑渡さんも、最初からこうするつもりで。
白々と照らされる黒装束。プロの忍者の証。あの人も雑渡さんもプロの忍びで、それはつまり、命よりも大事な物があると知っている人たちだということ。
僕には何も出来なかった。
手当て以外、何も出来ないことは最初からわかっていた、だけど。
僕はあの人を助けるつもりで、何も出来なかった。
僕には少しも、あの人を動かせなかった。確かに何かを掴んでいたつもりで、手の中には何もなかった。
僕は何も出来なかった……!
手に滴が落ちた。夜着の膝にいくつも丸い染みができる。子供みたいでみっともないと、情けないと思ったけれども、涙は後から後から溢れてきた。どうやったら止まるのか、分からない。
「君の涙を、尊いと思う」
節くれだった指が頬に当たり、僕の涙を拭う。黒装束はいつの間にか僕のすぐ傍にあった。
「でも、君はやはり、忍者には向いてないね」
涙を拭った手はやがて僕の頭の後ろにまわり、頭を撫でるようにして、そっと、押された。顔の先には雑渡さんの肩口があって、つまり僕は、泣き顔を雑渡さんの肩に埋めていた。
固い麻の生地に、硝煙の匂い。鉄の匂いと、もっと生臭い、血の匂い。
この人は凄腕の忍者で、その人の肩を借りて泣く僕は、忍たまですらない、ただの子供ということか。
それでもいい、と思った。このまま泣いて泣いて、溶けて、消えてしまいたい。こんなに無力なら。こんなに何も出来ないのなら。無くていい。無くなったっていい。僕は思うさま、その肩口を涙で濡らした。
……けれど、泣いたくらいでは人は溶けて消えたりしない。僕は顔を上げると、手の甲で乱暴に目じりを拭った。
「取り乱してすみません。もう大丈夫です」
細く長く息を吐いて、震えそうな呼吸を整える。
僕が落ち着いたと見て取ると、雑渡さんはそのままするりと布団からおり、もといた枕元へ座りなおした。僕も居住まいを正して、ぴんと背筋を伸ばして座る。
少しの沈黙の後、忍び組頭はいつもと変わらない声で語り始めた。
「……奴は私の優秀な部下だった。だからドクササコへ間者として送り込んだ。よく働いてくれたが、ある時、間者であることがばれてね。逆にタソガレドキの情報を得られないかと、拷問を受けた。助けたかったが、そんな訳にもいかなくてね。ドクササコとスッポンタケが交戦中のどさくさにまぎれて、ようやく助け出すことが出来た」
初めて会った時、筵の上で死んだように眠っていた男。初めに拷問を受けてからどれぐらい時間が経っていたのだろう。聞きたいような、聞くのが怖いような気がした。
「しかし助けたのはいいが、あまりにも傷が酷くてね。下女は近づくことすら嫌がるし、部下は尻込みするし、医者は匙を投げるし。手をこまねいた挙句君に来てもらうことにしたが、良かったよ。君に来てもらえて、本当に良かった」
「……でも僕には、何も出来ませんでした」
「本気でそう思っているのかい?」
やれやれ、という風情にかちんと来たが、結局、僕は何の役にも立たなかったじゃないか。あの人を助けることも、あの人に生きたいと思ってもらうことも出来なかったのだから。
「奴はドクササコの重要な情報を握っていた。それを話せば自分は用済みだと、分かっていたんだね。だから話さなかった。だが同時に、自分に絶望してもいた。脹脛の傷がどんなだったか、君のほうがよく分かっているだろう。あの傷が回復し、歩けるようになったとしても、奴はもう走れまい。飛ぶことも出来ない。奴は誇り高い忍者で、忍びの仕事が出来ないなら死んだほうがましだとよく言っていた。実際、自分の力だけで這い上がってきたが故に、忍者への執着は強く、深手を負った自分に絶望してもいた」
生きたいという生物故の願いと、死にたいという誇り故の願い。
二つの願いの中で、あの人も揺れていたのか。どちらを選ぶことも出来ずに。
「奴はすんなりと、知っていた情報を話し、私に始末を望んだ。だから私が手を下したのだよ。なるべく苦しまずに済む方法でね」
お味噌汁を飲ませてあげた時、まるで極楽にでもいるかのような満足そうな表情をしていたのに。水を吹きかけたり、転ばせたりした時には、悪戯っ子のようにどこか楽しげだったのに。それでも結果的には、僕が死を選ばせたのだろうか、あの人に。
「……そんな表情をするんじゃないよ。君がいなければ、奴は絶望にのたうって、蛆にまみれて死ぬところだった。君がいたから、奴は忍びの仕事を全うし、誇りを持って死ぬことが出来た。上司として、礼を言うよ」
そんなことで礼を言われても嬉しくはない。僕はあの人に、生きて欲しいと思ったのに。
「ああ、そうだ。最後に奴が言っていた。……君に、世話になったと。一番の報酬でなくて悪いと伝えてくれと、頼まれていた」
そんなことを聞かされたら。
目頭が熱くなって、鼻がぐずりだしたけれど、懸命に堪えた。さっきは不意打ちだったけれど、本当はこんなことで泣いてはいけないのだ。僕はもう、子供じゃないのだから。忍者を目指して日々修業を積んでいる忍者の卵、忍たま、しかも最上級生なのだから。
しばらく息を詰めて涙を堪えていたけれど、ようやく普通の呼吸が出来るようになったとき、僕は雑渡さんに聞いてみた。
「あの人の名前を、聞いてもいいですか?」
「正五郎という。だが、ましらの五郎と言ったほうが通りがいいかな」
ましらの五郎。ましら、と言えば猿のこと。きっと猿のようにすばしっこい、身の軽い忍びだったに違いない。あの人の長細い手足を思い出して、納得した。
「……伊作くん。これが忍者の仕事というものだよ」
不意に雑渡さんは、こんなことを言った。
「君がどんなに手当てをしても、人はどんどん死んでいく。君が怪我人の手当てや薬の調合を得意としている以上、どこへ行ってもこんな仕事が待っているだろう。それでも君は、忍者になるのかな?」
いつもの飄々とした声音で、からかうように。やめるんなら今のうちだよ、と言ってるようにも聞こえる。
忍者になることをやめて、どうしろと言うんだろう。医者になれとでも?今はっきり、自分の無力さを知ったところなのに、なんと残酷な。
でも、そういうことかもしれない。
自分が何の力も無い、何も出来ない子供だと知ったところから、成長が始まる。自信に満ちて慢心している者には、何も掴めない。
僕はいつも忍術学園で、出来のいい同級生達に囲まれて、自分の非力さを、至らなさを思い知らされてきた。だからこそ、自分なりの力を、非力であっても得ることが出来たのじゃないかと思う。
しかし、薬の知識や手当てについてだけは、誰にも負けないと思っていた。その分、慢心していたかもしれない。
それを今、打ち砕かれて。無力な自分をはっきり認識して。
ここから何かを掴んでいけるのか。忍者を諦めて、医者への道を歩むのか。
答えは一つ。もう決まっている。