何かの折に、狼を使う竹谷を見たことがある。
見るからに獰猛そうな狼達は、号令一下飛び出すと、与えられた仕事を見事にこなしてすぐに帰ってきた。
出迎えた竹谷は、しゃがみ込んで同じ高さになると狼達を一頭一頭、抱きしめるようにして撫でてやっていた。
はっはっはっと息をする狼達はみな嬉しそうで、そうか、この狼達は竹谷に褒められたい一心で言いつけを聞くのだな、と思ったことを覚えてる。
「これでよし、と」
包帯の端の始末をすると、僕は屈みこんでいた身を起こした。
「結構腫れてたから、今夜は熱が出るかもしれないね。どうにせよ、今日はお風呂もやめて、安静にしてなよ」
「はい。お手数をおかけしました」
竹谷が神妙に頭を下げると、狼のたてがみのような髪が揺れた。
一人で当番をしていた医務室に、今さっき竹谷が運ばれてきた。落とし穴に落ちて足を挫いたらしい。
「それにしても、竹谷が罠にかかるなんてね。珍しい」
僕ならともかく、という一言は、ちょっと上級生としてみっともないので、口の中にしまっておく。
「いやー、散歩に出た鶏を捕まえようとしてたんですけど、つい、鶏の方に夢中になってて、サインを見逃したみたいで」
結局、鶏はまだ捕まっておらず、竹谷をここに運んできた生物委員達は、また捕獲作業に戻ったらしい。
それだというのに、生来の根明のせいか、竹谷はからからと笑っていた。
「疲れてるんですかね」
「それならちょうどいい機会だよ。ゆっくり休んだら」
僕は包帯と鋏を脇へ押しやると、竹谷の手を指さした。
「ほら、こんなに傷だらけになって。よく働いたね」
竹谷の手はがっしりしているものの、意外と指が細くて長い。でもその手には、びっしりとひっかき傷があった。
かさぶたになって盛り上がってるのから、今ついたばかりというような赤い筋まで。深刻な怪我じゃなさそうだけれども、とにかく傷だらけ。
「爪を持つ奴を相手にすると、やっぱりどうしてもこうなっちゃって」
両の手をさするようにしながら、竹谷が少し苦みの混じった笑みを浮かべた。
「なんかの拍子に怒りだしちまった奴をなだめるたりする時とかにね。でも、いつもはみんな大人しいし、ちゃんと言うこと聞いてくれますから。それに、大したことないですよ。これぐらいすぐ治ります」
そんな風に言って竹谷は、自分を傷つけた動物達をかばっているようだった。
「でも、手がこの状態ということは、手首とか腕は大丈夫?」
「あ、そっちは手甲してますから」
そういえばそうか。でも、袖口をまくり上げて見せてくれた竹谷の手甲には、おおきなかぎざぎがあった。それに目を留めると、一つ年下の後輩は微妙な表情で頭をかく。
「鷹とかここに止まらせたりするから、すぐに傷むんですよね。繕わなきゃと思いつつ、つい、忙しくて」
後輩に示しがつきませんよね、と言いつつ、頭をかいていた手で手甲を撫でた。
「だから、棒手裏剣とか隠せないんですよね。金気を嫌う奴もいるし。潮江先輩とか食満先輩とかに知られたら、怒られるかな」
例え手甲に武器を隠せなくても、どんなにぼろぼろにされても、それでも竹谷はその鷹のことが好きなんだろうな。そんな表情で、竹谷は手甲を撫でていた。
「別に怒らないと思うよ。忍者の武器は人それぞれだし」
狼も、鷹も。追いかけていた鶏でさえも、竹谷は愛しているんだろう。そう思ったら、何故か僕は竹谷の手を取っていた。
「せ、先輩?」
そのまま、自分の頬に押し当てる。自分でも何故こんなことをしようと思ったのか分からない。でも気づいたら、両手で竹谷の右手を取って、頬に当てていた。
豆の堅くなったのや、かさぶたになった傷が頬に当たる。その存在を確かめるように、そっと頬を揺らして、すり寄せた。
「あの、これはその、何を」
「えーと」
何って言えばいいのか。分からないまま、適当に言葉を紡ぐ。
「この手で、固いものに触ったら痛そうだなあと思って。柔らかいものに触れたら治らないかなあ、とか」
そんなことで治る訳がない。でも、僕はようやく答えみたいなものを導き出した。
「他の部位だったら、手でさすって労ってあげるんだけど、手だからね。敏感な箇所だし、僕の手もそんなに柔らかくないから」
多分、僕の体の中で最も柔らかい部位が頬なんだろう。だから、そこを使って労ってあげたいと思ったんだろうな。
この手は、僕の知らない苦労をたくさん知っているから。日々、精一杯頑張っているのが分かるから。
しかし、僕の手の中で、竹谷の右手がぴくんと震えた。
「……ああ、ごめん。余計なことをしたかな」
僕は竹谷の右手を解放した。そういえば、不自然に前に手を伸ばさせて、腕が辛かったかもしれない。そうでなくても、上級生の、しかも男の頬なんて、触ってて面白いものでもないだろうに。
「本当に、ごめんね」
「あ、いえ、それはいいんですけどっ!」
自分の手と僕の顔を見比べて、竹谷は何故か頬を赤くしていた。
……何故か、ってこともないか。よく考えれば、相当変なことをしていた気もする。何でこんなことしたんだろう。言い訳するつもりで、僕はまた変なことを口走っていた。
「ごめん。その、なんだか僕も、竹谷に撫でて欲しかったのかもしれない」
「俺に?」
「うん。竹谷に撫でられて、狼とかが凄く気持ちよさそうにしてたから」
「……は?」
呆れたようにぽかんと口を開ける竹谷。その顔を見てると、今更ながら恥ずかしさがこみ上げてきた。なんだか竹谷の顔を見られなくて、目をそらす。
「いや、本当にごめん。今のは忘れて」
「……先輩も、疲れてるんですか?」
いたたまれなくて俯いていると、頭にぽんと手が置かれた。
「その……こんなんでよければ。先輩に対して、あれですけど」
いいこいいこ、と、下級生にやるように、頭を撫でられた。頭巾越しに感じる、力強さと温かさ。頭全体が、竹谷の手の大きさを感じる。
「こんなの、何年ぶりだろう」
撫でられてるのは頭なのに、温かいものがこみ上げてきたのは胸だった。やっぱり疲れてたんだろうな。竹谷の優しさが心にしみる。しみじみと嬉しい。
「ありがとう、竹谷」
呟けば、竹谷の手が後ろへ回って、髷の少し下あたりで止まった。
「竹谷……?」
見上げれば、何故か緊張したような竹谷の顔が近くにあった。
「伊作先輩、俺……」
いつも明るい気のいい奴、と思っていたけれど、真剣な表情になれば凄く男前だ。
僕がそんなことを考えている間に、首の後ろの手が動いて、左の顎へ辿りついた。手を添えて、見上げたまま顔が固定されたところで、思い切ったように竹谷が息を吸い込む。
「俺、ずっと」
「失礼しまーす」
「竹谷を引き取りに来ましたー!」
吸い込んだ息で何かを言おうとした瞬間、勢いよく医務室の戸が開いた。そこには同じ顔が二つ、仲良く並んでいる。
「足挫いて動けないって生物委員から聞いたんで、様子を見に来たんですけど……」
多分、雷蔵だろう。きょとん、とした顔で、僕と、僕の前にいきなり突っ伏した竹谷を交互に何度も見た。
「ま、大丈夫そうで何より」
ふふん、と鼻を鳴らして、鉢屋が冷たく言い放つ。
竹谷は二人が現れた途端、べしゃりと押しつぶされたように僕の前に突っ伏して、そのまま、ぴくりとも動こうとしなかった。
「竹谷、大丈……」
「……おまえらなー!」
心配した僕がのぞき込んだのと、復活した竹谷が頭を持ち上げたのは同時だった。
「ぐがっ!」
竹谷の頭は見事に僕の顎に炸裂し、僕はそのまま後ろにぶっ倒れた。医務室の天井に星がちらつく。
「先輩、大丈夫ですか!?」
「うわあっ!すみませんっ!そんなつもりじゃ……」
「伊作先輩!」
慌てて駆け寄る五年ろ組の顔を見ながら、竹谷が言おうとしてたのはなんだったのだろうと、それは凄く気になったのだけれど、ちらつく星が大きくなって、もう目を開けていられなくて、僕はノビてしまったのだった。