猛獣使いの手 2

「こらお前、医務室に入るんじゃないよ。ここは怪我や病気をを治すところなんだから。怪我もしてないのに入ろうだなんて図々しい奴だな。しかもこんなばっちいなりで」
 なんとなくそんな声が聞こえて目が覚めた。
 身を起こしてみれば、そこは医務室だった。医務室の片隅に畳が引かれて、僕はその上で横になってたらしい。
 なんでこんなところで寝てたのか、一瞬分からなくて、でもすぐに思い出す。竹谷の頭が顎に直撃して、気を失ったんだっけ。それでその場にいた鉢屋だか雷蔵だかが、畳を持ってきて寝かせてくれたんだ。
 でも、今医務室には誰もいない。しん、と静まり返った部屋に、またさっきの声が聞こえてきた。
「俺は怪我したんだからいいんだよ。ん?心配してくれるのか。ありがとな。でも大丈夫だよ。ちゃんと先輩が手当してくれたから」
 声は開けっ放しにした入り口の戸の、外から聞こえてきた。見れば、こちらに背を向けて、外廊下に誰か腰掛けている。顔を見なくても分かる、あの狼のような髪の持ち主は。
 僕はゆっくり立ち上がると、足音を消して外へ出た。廊下の端に座る竹谷の隣に立った時、驚いたように竹谷がこちらを振り向いた。
「伊作先輩……!」
 僕の想像通り、慌てて立ち上がる竹谷の腕の中には、一匹の猫がいた。
「可愛いね。この子も学園で飼ってるの?」
 薄茶のまだら模様の猫。でもこれは模様というより、汚れかもしれないな。洗えば真っ白な猫なのかもしれない。洗ってやらないのだろうか。
「いえ、飼ってる訳じゃなくて、時折遊びに来るんです。孫次郎なんかは、たまに自分のおやつを分けてやったりしてるみたいですけど」
「へえ」
 それで人に馴れてるんだろうか。僕が近寄っても、竹谷の腕の中から逃げようとしない。これなら大丈夫かと思って、僕はそっと手を伸ばしてみた。
 僕自身は猫好きなんだけれど、猫には嫌われることが多い。でもこんなに、竹谷に懐いているなら。竹谷の腕の中にいる時なら……。
「……痛っ」
「こら!なんてことを……」
 竹谷や生物委員は良くても、僕は駄目だったらしい。猫は一瞬にして毛を逆立てると、近づけた僕の手を引っかいた。そのまま竹谷の腕の中から飛び降り、走り去っていく。
「先輩、すみません!大丈夫ですか!?」
 血相を変えて竹谷が僕の手を取ったけれど、手の甲にわずか二本ほど、赤い筋が走ってるだけ。血も出ていない。
「うん。途中でやばいと思って手を引っ込めたし。不用意に手を出して、悪かったね」
 僕は庭の方に目をやった。素早く走り去ってしまったから、もうどこへ行ったか分からないけれど。竹谷はあの猫と遊んでいたんだろうに。
「いいえ。それより先輩、俺……」
 竹谷はそこまで言うと、かくんと体を前に折った。
「本当に、申し訳ありませんでしたっ!」
 足と上体がほとんど直角じゃないかって角度まで頭を下げる。
「え、そんな改まって」
 謝るほどのことでは、と言おうとして気づいた。手の傷のことじゃない。さっき、頭をぶつけたことを謝ってるんだ。
「すみません、本当に。そこに先輩がいらっしゃるの、気づけなくて、俺」
「まあ、それはほら、僕って不運だし」
「でも俺がもう少し気をつけていれば良かったのに、本当に、申し訳ありません……!」
「ええっと」
 倒れそうなほど体を折って謝る竹谷を見ていると、なんだか背中がむずがゆいような気分になってきた。確かに、気を失うほどなのはまれだけど、顎や頭を打つのは慣れてる。今回なんて、全然どうってことない。
 なのに竹谷はこんなに一生懸命謝ってくれて。本当に、責任感が強いんだな。なんていうか……いい奴、だなあ。狼達や鷹や鶏や猫までが竹谷を慕うのが分かる。
「大丈夫だよ」
 さっきしてくれたみたいに。僕は竹谷の頭巾に手を置いて、そっと撫でた。
「ぶつかったところはもう痛くもなんともないし、腫れてもないし。口の中も切ってないし、吐き気とかもないし……僕は大丈夫だから。もう気にしないで」
「伊作先輩」
 撫でるのをやめると、その動きにつられるようにして、竹谷が顔を上げた。視線を合わせてにっこり微笑む。
「大丈夫。……不運な目にあうのは慣れてるんだけど、謝られるのは慣れてないんだ。だからもう頭をあげて」
「……それも、どうかと思いますが」
「あはは」
 とりあえず、竹谷は身を起こして真っ直ぐになった。挫いた足には体重をかけないようにしながら立つ。
 僕は庇越しに空を見上げた。空はもうすっかり茜色に染まっている。そろそろ日が沈むのか、暗くなりかけていた。この分だと、僕が気を失っていたのは、ほぼ四半刻くらいだろうか。
「僕が寝てる間に、誰か医務室に来た?」
「あ、孫兵が来ましたが、それ以外は、誰も」
「ふうん。鶏は、ちゃんと捕まったの?」
「ええ。散歩にでていた鶏は、みな鶏舎に戻ったそうです」
「そっか。じゃあ一安心だね」
「おかげさまで」
 いやまあ、僕は何もしてないんだけれど。ともあれ、僕はひとつ伸びをすると、医務室に戻った。灯明に油を差して、火を灯す。
「あの、先輩」
 声をかけられて入り口を見れば、竹谷が挫いた方の足を引きずってこちらへ歩いてくる。慌てて支えると、竹谷は足を止めた。
「あの、俺はいいんですけど、先輩のその怪我……手当、なさらないんですか?」
「え、これ?」
 竹谷が指さした僕の手の甲には、さっきの猫のひっかき傷があった。そりゃ痛みはあるけど、血も滲んだ程度だし。
「別にこのくらい。竹谷だって放っとくんじゃない?」
 しょっちゅう爪のある奴らと関わっている竹谷の手は、こんなもんじゃない。傷だらけだった。でも、いちいち手当なんて気にしてる様子はなかったし。
「そりゃ自分の手なら気になりませんけど、先輩の手だと思うと……」
 竹谷にしては歯切れの悪い言い方だな、と思って、気がついた。竹谷はこの傷を自分のせいだと思ってるのかもしれない。責任感の強い奴だから。
 でも、今のはどう考えても、不用意に手を出した僕が悪い。とはいえこれ以上、竹谷に気をつかわせるのは悪い気がした。
「じゃあ、触るものに血が付いたらいけないし、包帯でもしておこうか」
 僕は竹谷に肩を貸して、医務室の中に入れた。とりあえず、引いてあった円座に座らせてから、戸を閉める。
 救急箱の中から細い包帯を取り出して、ふと気づいた。引っかかれたのは右手だ。利き手に包帯は巻きにくい。
「竹谷、やってくれる?」
 左手に包帯を乗せて、右手と両方を差し出せば、竹谷は目を白黒させた。
「え、俺がやるんですか!?」
「だって、自分の手には巻きづらいし。他に誰もいないし」
 口にしてから気がついた。そういえば。
「鉢屋と雷蔵は?」
 確か、気を失う直前は医務室にいた気がする。竹谷を引き取りに来たと言ってた筈。それなのに医務室に竹谷が一人きりなんて、どうしたんだろう。
「二人は夕飯を食いに行きました。俺が、先輩の目が覚めるまで医務室にいるって言ったから」
 確かにそろそろ日が暮れる。あちこちの委員会も終わって、食堂も混みだした頃だろう。先に夕飯を済ませておくのは賢明かもしれない。
「そっか。……じゃあやっぱり、竹谷にやってもらうしかないね」
「そんな、保健委員長である先輩の手に包帯を巻くなんて」
 無理です、と、器用にも座ったままじりじりと後じさる。
「ふぅん。じゃあもう手当てしなくてもいっか。もともと大した怪我じゃないし」
 竹谷があんまり尻込みするので、僕は腰を上げて、包帯を救急箱に戻そうとした。すると。
「分かりました、じゃあ、やります!……うう、緊張するなあ」
 一声、噛み付くように吠えると、竹谷はようやく包帯を受け取った。僕の右手を取ると、そっと巻き始める。
 指の付け根から手首まで、親指を避けて。一筋一筋位置を確かめるようにしながら、ゆっくりと丁寧に巻いてくれた。僕だったらもっと手早くさっさと終わらせてしまう。こんなに心を込めて丁寧に巻いたりしてないなあと思うと、なんだか申し訳ない気分になるくらい、丁寧に。
「はい、出来ました」
 真っ白な包帯に覆われた手のひらと手の甲を、目の前でひらひらさせて何度も見た。手を握ったり伸ばしたりもしてみる。きつくないけれど緩みもしない。しっかりと手の甲全体を覆っている。ちょっと巻き過ぎな気もしたけれど、そもそも包帯を巻くような怪我でもないんだし、包帯の練習だと思えば。
「……満点だね」
 僕は溜息を吐いた。感嘆の意味を込めて。
「え、本当に?」
「うん。さすがは五年生。巻き方が上手だし、端の始末もさり気なく良く出来てる。文句の付け所がないよ」
「うわ、伊作先輩に褒めてもらえるなんて」
 驚いたように目を見開いてから、竹谷はにっこり笑った。
「これって凄いことですよね。嬉しいです。ありがとうございます!」
 ……ああ、竹谷が笑った。
 それでなんだか僕も嬉しくなった。目が覚めてからこっち、竹谷はずっと、心配そうな不安そうな表情をしてたから。
 生物委員らしく責任感の強い奴だから、もしかしたら僕が気を失ってる間も、責任を感じて落ち込んでたのかもしれない。そう思うと、自分の不甲斐なさが嫌になる。
 根が明るい奴なんだから、暗い表情は似合わない。笑顔になってくれてよかった。
 左手で、右手の包帯をそっと握る。
 なんだか、しみじみと嬉しい。
「……伊作先輩?」
「なんだか、嬉しくて」
「嬉しい、ですか?」
 素直な気持ちを言えば、一つ年下の後輩はきょとん、と目を見開いた。
「他人に包帯巻いてもらうことが久しぶりでさ。大抵は自分でやるし、じゃなきゃ保健委員の後輩に、練習としてやらせるし。……竹谷は凄く丁寧に巻いてくれたよね。それがなんだか、嬉しくて」
 そう、嬉しい。丁寧に包帯を巻いてもらって、笑顔を見れて、とても嬉しい筈なのに。
 きゅっと、胸が締め付けられるような痛みを感じるのはどうしてだろう。痛い。っていうか切ない。
 なんだろうこの感じ。
 少し甘くて強烈にすっぱい果物を食べたかのような、この感じは。
「あ、あはは、そんなことが嬉しいなんて、おかしいよね。やっぱり僕、疲れてるのかな」
 まさかね。自分で自分の気持ちを誤魔化すために、笑ってみた。頭なんか掻きながら。でも、当然そんな僕の内心の葛藤を知りようもない竹谷は、怪訝そうな表情でこちらをうかがっている。
 笑いながら、冷や汗をかきそうだった。誤魔化すにしても、笑って誤魔化すなんて最低だな。忍びの卵として、他に何かもっと自然な誤魔化し方は出来ないものか。ともあれ竹谷の興味関心を余所へそらさないと。ええと何か適切な話題は。
「そういえば竹谷は、さっき何か言いかけてたっけ」
 たてられた医務室の引き戸を見て、ふと思い出した。いきなり戸が開いて中断されたものの、竹谷は確かに、何かを言おうとしていた。
「ちょうどここにこうやって、座ってたんだよね。そしたらいきなり鉢屋と雷蔵が入ってきたんだけど……何を言おうとしてたの?」
「そ、それはっ」
 関心をそらす、効果はてきめんだった。竹谷は顔を真っ赤にすると、またもや後ずさろうとする。
「いきなり、今、ですか」
「あ、いや別に、今でなくても。今度また、ゆっくり話が出来るときでもいいけど」
 何だろう、この慌てぶり。よっぽど口にし辛いことなんだろうか。
 でも、医務室に長いこといれば、こういう事態も珍しくはなかった。体のことで相談に来る生徒は結構多いし、体の悩みというのは口にし辛いものだ。性的なことで悩んでいるのなら、特に。
 竹谷にも何か悩みがあるのかもしれない。それを僕に相談しようと思っていたけれど、なかなか切り出せなくて、ようやく言おうと決心がついたところを、鉢屋と雷蔵に邪魔された、とか。それなら確かに、怒るのも無理ないな。
「……いいえ」
 色々考えていた僕の前で、竹谷はゆっくりと首を振った。
「今を逃すと、いつまた、先輩とゆっくり話が出来るか分かりませんし」
「あ……」
 それは確かにそうだった。お互い委員会で忙しくしているし、五年と六年では授業が一緒になることも少ない。学内にいて顔を見る機会は多くても、お互いに時間を作らないことには、ゆっくり話すことはあまりない。
「伊作先輩」
 決心がついたのか、竹谷の腿の上で、両手が握り拳になった。心持ち背筋が伸びる。
「あの、俺……」
 いつになく真剣な竹谷の顔が、横から灯明の火に照らされる。暗さを増した部屋の中、くっきり浮かぶ陰影に、その顔がいつもより男前に見えて、どきりとした。
「俺、先輩のこと……」
 そのとき、廊下の方でばたばたと足音がした。この足音の進み具合、間違いない、足音の主は医務室にやってくる。竹谷はまた邪魔されるのか。僕は気になって傍の戸に目をやった。ちょうどその瞬間だった。
「好きです」
「すみません、遅くなりましたっ!」
 ぱしんと勢いよく、医務室の戸が開かれたのは。
 開かれた戸の向こうに立っていたのは、鉢屋。珍しく肩を上下させて、息せききって、という表現そのままに、荒い息をしていた。遅れて、その後ろに雷蔵も姿を現す。
「……え?」
 引き戸を開ける音、割り込んだ大声に邪魔されながらも、今度は竹谷は言い切った。さっきも言おうとして、おそらく言えなかったこと。
 それは体の相談でも、何でもなく。
 僕は、竹谷の方に向き直った。
 目があった、と思った途端、竹谷の体は床に沈んだ。手をついて、伏せたのだ。
「先輩、すみませんでした!重ね重ねご迷惑をおかけして、本当に申し訳なく思ってます」
 いきなり何を言い出すのか。びっくりしたまま声も出ない僕の前で、竹谷は顔を上げると、僕から目をそらしたまま、片足で立ち上がる。
「今日はこれで失礼します。どうもすみませんでした。……三郎、肩貸してくれ」
「あ、ああ」
 立ち上がった竹谷は、鉢屋に掴まるようにして進んだ。目を合わせないまま会釈すると、友人の肩に縋るようにして歩き出す。名指しで頼まれた鉢屋は、ちゃんと竹谷に肩を貸してやった。医務室の敷居を越えて、そのまま二人で歩いて行く。
 ……今、何が起こったのだろう?
 上手く理解できないまま、僕はただ、呆然とその場に座っていた。
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