「……伊作先輩」
遠慮がちな声に目を上げれば、廊下には雷蔵が立っていた。
「入ってもいいですか」
「うん、どうぞ」
ここが医務室だとはいえ、怪我人や病人でなければ入ってはいけないということはない。僕が頷くと、雷蔵は医務室に入り、戸を閉めた。僕の正面は避け、視線が僕のと直角に交わるような向きで腰を下ろす。
「今日の夕飯は唐揚げ定食でしたよ。早く行かないと、なくなるかも」
「じゃあ、急がないとね。実は今まで三回連続で、唐揚げ定食、食べそびれてるんだ」
「そうなんですか。それなら、まだ大丈夫だとは思いますけど、急いだ方がいいですよ」
「うん、そうだね」
そう言いながら、少しも自分が動きそうになかった。唐揚げ定食を食べたい気持ちがない訳じゃないけれど、やっぱり今は、それどころではない。
「ごめん。……せっかく教えてくれたのに、悪いけど」
「いいえ」
雷蔵の優しい目には、同情、という文字が浮かんでいるようだった。
「驚かれたでしょう。無理もありません」
「うん……」
竹谷が僕にあんなことを言うなんて。
目の前で扉が勢いよく開かれたことも、そこにいた人に大声を出されたことも、どちらも相当にびっくりすることだと思うけれども。そんな驚きを吹き飛ばすくらい、もっとびっくりすること。嬉しいとかなんとか思う前に、ただただ驚きだった。
竹谷が、僕のことを。どうして、そんな。
反応できずにへたりこんだまま、僕に驚きをもたらした人たちがみんな、あっという間に目の前から去っていってしまった。
でも、それで良かったのかもしれない。今はその驚きを、ゆっくり胸の内で反芻してみたかった。すぐには飲み込めなかった驚きも、ゆっくり解して、噛みしめれば、飲み込めないものではない。その言葉をちゃんと理解して、胸に納めたかった。
要は、一人になりたかった。そう思って雷蔵の顔を見れば。
「随分とタイミングのいい……良すぎるくらいだ、と思われませんでしたか」
「え?」
何の話かと、思わず目を瞬かせる。僕の胸のうちを気遣ってくれたかと思いきや、別の話が始まるようだ。
「夕飯を終えた後、三郎がどうしてもと言うので、医務室の天井裏に潜んでました。……ごめんなさい」
天井裏?思わず天井を見上げてから、雷蔵に視線を戻した。一つ年下のいつも穏やかな後輩は、いつも通り穏やかに、淡々と語る。
「だから、二度目はわざと、なんです。一度目は、単に偶然だったんですよ。別にそんなことを意図してた訳でもなくて、本当にたまたま、だっただけで」
「わざと……」
「ええ。これはヤバい、っていうんで、三郎が慌てて天井裏を抜けて、医務室に駆けつけて」
飲み込めない驚きに、別の事実が加わって、何がなんだか訳が分からない。何がヤバいのか、何がたまたまだったのか。
何がなんだか、さっぱり分かっていないというのに、雷蔵は僕の顔を見て、それから僕の右手に視線を移した。
「でも、遅かったようですね」
「遅いって、何が」
「先輩も聞かれたんでしょう」
竹谷が何と言ったのか。雷蔵の静かな声に、さっきの竹谷の言葉がよみがえる。
『好きです』
その言葉を思い出しただけなのに、まるで本人に耳元で囁かれたかのような錯覚に陥った。この言葉を、まだ飲み込めていない。目眩がしそうだ。胸が高鳴る。少なくとも、頬が熱い。
「それで、先輩は何と応えるんですか?」
「へ?」
目眩を無理矢理押し退けて、雷蔵と向かい合った。しかし、雷蔵は今、何て?
「竹谷のこと、好きなんですか」
「……それを聞いて、どうするの?」
それは、あまりに立ち入ったことではないだろうか。少なくとも雷蔵には何の関係もない。それなのに、こんなに無遠慮に聞いてくるなんて。雷蔵はもっと、思慮深くて礼儀正しい奴だった筈なのに。
どうしたのだろう。訝しみながら顔を見たのだけれど、雷蔵は平然としたものだった。咎めるような視線も、真っ正面から受け止める。
「それを聞いて、今後の身の振り方を決めますから」
「……はあ?」
身の振り方って、何のことだ。もう訝しいのを通し越してうさんくさげに眉をひそめる僕の前で、雷蔵ははにかんだように頬を染めた。
「僕も、伊作先輩のことが好きなんです」
「え……」
まじまじとそれこそ無遠慮にその顔を見れば、雷蔵はにっこりと微笑んだ。照れたように頬を染めて、恥じらいながら微笑むその様子はとても可愛くて、頭を撫でたり拳固でぐりぐりしたくなるくらいの可愛い様子だったけれども……えええ!?
今度こそ、頭の中が真っ白になった。いろんなことに驚きすぎて、もう、驚きが僕が抱えられる量を超えた。これ以上対処できない。
「やだなあ、もう」
可愛い雷蔵の笑みに、苦みが混ざる。すると急に、鉢屋もこの顔をしてるのだなあということが今更思い出された。
「ハチの気持ちが分かります。……その先輩の大きな目が、信じられない、って風に見開いていると、ショックが大きいですよね」
「ご、ごめん」
とりあえず両手で目をこすってみた。くすりと笑う気配。
「ハチにはちゃんと、先輩の気持ち、伝えてあげて下さいね。……それで僕と先輩は、これまで通りということで」
そう言って立ち上がる気配がしたので、僕は目をこするのをやめた。医務室の戸に手をかけて、雷蔵が出て行こうとしている。
「雷蔵」
このまま行かせていいのか。とっさにそう思った僕は、声をかけていた。一人分の幅に戸を開けた雷蔵が、敷居をまたぎ越しくるりとこちらを向く。
「はい」
でも、何を言えばいいのか。真っ白になった頭に、気の利いた台詞なんて思いつく筈もない。
「あの、ありがとう。……ああいや、いやその、ごめん。ごめんなさい」
気の利いた台詞は無理でも、もっと意味のあることを言えばいいのに。僕はそんな謝意だかなんだか分からないことを口走るのが精一杯で。
「……失礼します」
でも、雷蔵は何かを受け止めてくれたのだろうか。まん丸な目を一瞬だけ見開いたと思ったら、一礼し、戸を閉めた。穏やかな足音が立ち去っていく。
「雷蔵……」
真っ白になった頭は、未だ真っ白のまま。文字や色が甦るには、まだまだ時間がかかりそうだった。
ここからは五年長屋。渡り廊下から足を踏み入れると、手に持った桶が、ちゃぷん、と波打った。
最近、留三郎に修繕してもらった桶は、小さくて使いやすい。水を張って、手ぬぐいを沈めて、胸に抱くようにしてここまで持ってきた。こんなところで歩調を乱して、水をこぼしてはもったいない。
夜も更けて、下級生の長屋が静かになった頃。五年長屋はあちこちの部屋から明かりが漏れているものの、ここも静かだ。曇りがちな空のぼんやりとした月明かりが、外廊下をわずかに照らしてくれる。僕はなるべく足音をたてないように、そうっと歩いた。水をこぼさぬように気をつけるのと、もう一つ。出来れば人に会いたくない。だからそうやって、息を潜めて歩いていたというのに。
「あれ、伊作先輩、どうしたんですか、こんな夜中に」
背後から不意に声をかけられ、それだけでも心の蔵が止まるかというほど驚いたのに、振り返ってその顔を見た僕は、心の蔵を口から吐き出すかと思った。
「何、人の顔見てそんなに驚いてるんです」
「鉢屋……」
止めようもなくため息がこぼれた。そう、雷蔵に会ったらどうしよう、と、そればかりをずっと考えていた。これまで通り、と雷蔵は言ったけれど、そんな風に出来る自信がない。どんな表情をしたらいいか分からない。
だからもう少し気持ちが落ち着くまで、少なくとも今夜のうちは、雷蔵に会いたくなかった。無論、それならば五年長屋に足を踏み入れなければいいのだけれど。
「俺の顔見てそんなに驚くってことは……さては、雷蔵に好きとでも言われましたか」
「なっ……!」
なんで分かるんだろう。それを思いつくには、雷蔵が僕のことを好きだと知ってなければならないのに。
でも、鉢屋のにやにや顔を見ていると思い出した。この名物コンビは仲が良くて、大抵いつも一緒にいる。そして竹谷もまじえて同じクラスなのだった。二人の想いを知っていても不思議はないのかもしれない。
「雷蔵もやりますね。大人しそうな顔してる奴ほど、意外と大胆ってことかな」
「……その大人しそうな顔を、真似してるくせに」
「ああ、そういやそうですね」
そう言うと、鉢屋は笑った。雷蔵と同じ人懐っこい笑顔。
この表情が、雷蔵のものとして僕に向けられる日は来るんだろうか。これまでみたいに笑いあえるだろうか。そう思うとなんだか悲しかった。いつも通り。そう雷蔵は言った。だからきっと、笑ってくれるだろうけれど。
「先輩」
感傷的になってたかもしれない。なんとなく物思いに沈んでしまった僕に、鉢屋は両手を差し出した。
「何、この手」
「ちょっとその桶を貸してくれませんか」
「へ?」
僕は手にした桶を見て、それから鉢屋を見た。鉢屋は僕よりやや背が高いので、わずかばかり見上げる角度になる。
「桶にいたずらしたりしませんから。ただちょっと邪魔なんです。貸してもらっていいですか」
「はあ……」
邪魔ってなんだろう。よく分からないまま、鉢屋は僕の手から桶を取った。器用にも左の手のひらに桶の底を乗せて、そのまま片手で支える。
片手で持つには重いのに腕力あるなあ、と、その左手で持ち上げられた桶を見守っているうちに、僕は引き寄せられていた。
「は、はち、や?」
声を上げそうになって、夜中だからと慌てて押しとどめると、変な声になった。でも、鉢屋の右腕が僕の背中を覆うようにして鉢屋の体幹に引き寄せて、なんというか、抱きしめられている。胸と胸、お腹や腰の辺りまでがぴったりくっついて、背中を押されているとはいえ、僕が鉢屋にもたれ掛かっているのだ。
引きはがそうかと思った。でも、鉢屋の左手には水の入った桶がのっかっている。ちょっと押せば均衡を失って落ちるだろう。そんな状態で、僕が暴れでもしたら……。長屋の床を濡らしたところで鉢屋に掃除させればいいとして、僕がずぶ濡れになりかねない。不運な僕としては大いにありうる。
仕方なく抵抗せずにいる僕の耳に息を吹きかけるようにして、鉢屋が囁いた。
「俺も、とか言ったら先輩が困るだろうから言いませんけど」
右腕に力を込めて、ぎゅ、と抱きしめるようにさらに引き寄せると、鉢屋は顔を耳元から遠ざけて、明るい声で言った。
「竹谷が羨ましい。俺もたまには足挫いて熱だして、先輩に看病されたいですよ」
そして励ますようにぽんぽんと肩を叩くと、一歩引いて体を離す。
「こんなこと言ったら、怒られそうですね」
「鉢屋」
滑らかな動きで差し出される桶を、僕は両手で受け取った。桶を手にした僕に、鉢屋はにこっと微笑んでみせる。
「俺はこれから野暮用でちょっと抜けますけど、どうぞごゆっくり」
そして踵を返すと、長屋の廊下を進んで行った。廊下の奥の暗がりへその背中が消えるまで、僕はずっと見送っていた。
立ち尽くしていたけれど、本当はその場にしゃがみ込みそうになるのをこらえていた。足が萎えて、ヘたり込みそうになるほどの衝撃を、どこへ逃がしたらいいのかさっぱり分からない。
でも、今座り込んだりしたら、桶から水がこぼれる。ただそれだけを心配して、僕はヘたり込まずに済んでいた。今僕を支えているのは、この小さな桶だった。
俺も、って。どうして鉢屋まで。
雷蔵のことも鉢屋のことも、ただの後輩としか思ってなかったのに。
どうして僕なのか。雷蔵も鉢屋も優秀で、いい奴で、後輩ながら尊敬できる点もあって。そんな奴らが、なんで僕なんだろう。どうして僕のことなんか好きになったんだろう。
やるせない、ってきっとこんな感情なんだろう。もう、どうしたらいいか分からない。出来るものなら今日をやり直して、すべてなかったことにしてしまいたい。
……でも、そうしたら、竹谷とのこともすべて、なかったことになる訳で。
腕の中の桶に、水が揺れる。それなら、何のためにここまで来たのか。ここで引き返す訳にはいかない。
僕を支えてくれた桶には、本来の目的で働いてもらう。僕は桶を抱きしめると、目的の部屋へ向けて歩き出した。