眠っているといけないと思って小さく声をかけると、はい、という返事があった。
桶を置いて障子を開けると、布団から起き上がる人の姿が見えた。薄ぼんやりした月明かりが入ってちょうどいいので、障子は開けたままに、桶を持って枕元へ近づく。
懐かしい五年長屋。僕が留三郎と過ごしたのと同じ広さの部屋は、しかし人数の都合で、竹谷が一人で専有しているのだった。
「……伊作先輩」
「ああ、寝てなよ。熱があるんじゃない?」
額に触れてみなくても、月明かりが薄ぼんやりでも、はっきり分かるくらい、竹谷は赤い顔をしていた。しかし竹谷は、枕元に桶を置く僕から、はっきりと顔を逸らした。
「こんな言い方は失礼でしょうが……何をしに来たんです」
固い声。竹谷のこんな固い声を聞いたのはこれが初めてで、それだけで胸が痛んだ。
この小さな桶や手ぬぐいを見れば、看病に来たのは一目瞭然だろうに。それを竹谷は許してくれないのだろう。
仕方ないのかもしれない。竹谷は想いを告げたのだから。その想いが通らないなら、同情や優しさは無用なのだろう。たとえ発熱して弱っていたとしても。いや、だからこそ。
見たくもないというように顔を逸らして、竹谷は僕を拒絶している。
「竹谷……」
そうなることは分かっていても、それでもその固い声は胸に堪えた。顔を背けたまま、目も合わせてくれないことも、辛い。
でも、竹谷が想いを告げてくれた時、僕は目を逸らしていた。仕方なかったとはいえ、竹谷は自分の思いを突っぱねられたと思ったかもしれない。
僕は竹谷を傷つけた。でも、だからこそ、今また逃げる訳にはいかなかった。
「気持ちを伝えに来たんだ」
むこうを向いてこわばった肩がぴくりと揺れる。今度は僕が勇気を出さなければならない。
あの温厚な雷蔵を怒らせても、お調子者の鉢屋を泣かせても、譲れないものが僕の中にもあるのだから。
僕もあの時の竹谷のように、息を吸った。
「竹谷。僕も君のことが好きだよ」
肩とか背中とか上半身が一度こわばって、そのあとゆっくりとこちらを向く。振り返った顔の中、大きな目が、信じられないとばかりに見開いている。
「本当に?」
「うん、本当に」
真面目な顔で頷いたのに、何故か竹谷はぷっと吹き出した。
「そっか、俺、夢見てるんですね。さっきから体がだるくて、夢かうつつか分からない感じでうとうとしてて。だから、願望が夢になったんだ」
「夢じゃないよ」
「夢でもいいです」
にこにこ笑ってる竹谷に、どう言ったら分かってもらえるだろう。夢じゃないことの証明には、痛い目に合わすのが常道とはいえ、怪我人相手に手荒なことは出来ないし。
しょうがない、僕は桶の中の手ぬぐいをゆるめに絞ると、竹谷の顔に叩きつけた。
「わぶっ!」
「ほら、これで夢じゃないって分かった?」
でもまだ呆然としている竹谷は、何度も瞬きを繰り返すばかり。胸元に落ちた手ぬぐいが夜着を濡らすので、僕は慌てて手ぬぐいを取ると桶の上で固く絞った。その手ぬぐいで、竹谷の顔のあちこちについた水滴を拭ってやる。
「まったくもう。いつものしゃきっとした格好いい竹谷はどこへ行ったんだよ」
相手は発熱してる病人だ。そんなことを求めるのは酷だなあと思いつつ、ついついそんな文句が口から出た。
「……いやでも、驚きますよ」
生え際に溜まっていた水を拭いてやると、竹谷はためらいがちに口を開いた。
「にわかには信じられないことですよ。伊作先輩、もてるんですから。なんで俺なんか」
好きになるんです。最後の方は歯切れ悪く、口の中でだけ呟かれた。
「びっくりしたのは僕も同じだよ」
あらかた水滴は拭いてしまったので、僕は手ぬぐいを桶に戻した。
「ずっとそんな風には思ってなかったんだけど、でも、本当は、僕は竹谷のことが好きなのかもしれないなあ、って気づいたら、その直後に好きだって言われたんだもの。あまりにも僕に都合が良すぎて、なんだか信じられなかった」
「……そう、だったんですか」
「そう、だったの」
力説しながらも、なんか無性に照れる。でも、これだけは言わなければならないかもしれないと、僕は少し頑張ることにした。
「多分、あの狼を使う竹谷を見た時から、僕は竹谷に憧れてたんだ。……いや、違うな。竹谷に撫でられてた狼にかな。あんな風に撫でられたいって、愛されたいって、思ってたんだ、きっと。だから今日、頭を撫でてもらってとても嬉しかったし、包帯巻いてもらった時も凄く嬉しくて」
そこまで言った時、竹谷の視線を右手に感じた。今は何もつけていない手。
「桶に水を汲む時にはずしちゃった。この後、手ぬぐいを絞ったりすると思ったから。ごめん」
「謝ることはないと思いますよ」
思わず左手で右手をかばうようにおさえても、そこに竹谷の視線を感じ続けた。
「お風呂とか入る時に取るかもしれない、って、俺も、包帯巻き終わった後で気づいて。一刻や二刻で治る傷じゃないし、余計な手間かけさせることになって、俺の方が迷惑かけてすみませんでした」
「ううん、そんなことない!」
ぺこりと頭を下げる竹谷に、僕はとんでもないと手を振った。
「だって包帯巻いてもらって嬉しかったもの。すごく丁寧に巻いてくれて……。単に上手に巻くだけなら、新野先生は神業だし、雷蔵も鉢屋も上手かもしれないけど。でも、それが竹谷だったから、僕はあんなに嬉しかったんだ」
「先輩……」
顔を上げた竹谷と、真っ正面から目が合った。ただそれだけで嬉しくて、頬が緩んでしまう。
「大好きだよ、竹谷」
緩むだけじゃなくて、熱い。きっと今、僕は竹谷に負けないくらい、真っ赤な顔をしてるだろうな。
「そんな顔でそんなこと言われたら……」
「ん?」
「なんか、熱、上がりそうです」
蚊の鳴くような小さな声でそう呟いた竹谷は、顔どころか耳やら首まで真っ赤になっていた。
「わ、ごめん。大丈夫?」
いつの間にそんなに熱が上がったんだと、額に手を当ててから気づいた。今さっき手ぬぐいを絞ったばかりの僕の手は、冷たい。これじゃあどれぐらいの熱か分からない。
「ちょっとごめんね」
両方の頬に手を添えて、うつむき加減の顔を固定すると、僕は顔を近づけた。竹谷の額に、自分の額をくっつけようとしたのだけれども。
「うあっ!……ひゃ」
額と額が触れた途端、意味不明の言葉をあげて、竹谷は後ろに倒れた。後ろに倒れたって布団なんだから、心配することはないんだけど。
「竹谷、大丈夫!?ごめん、そんなに強くぶつけちゃったかなあ」
こつん、くらいで済むように力加減したつもりだったのに、竹谷は凄い勢いの頭突きでもくらったかのように、ノビていた。目が回ってる。
「す、すみません大丈夫です……ちょっと誤解しただけで」
「誤解って、何を?」
「あはははは」
乾いた笑い声をあげて、なんだろう。笑ってごまかしてるつもりなのかな。
ともあれまともな返答がないから、僕は手ぬぐいを絞ると竹谷の額に広げた。
本当に顔は真っ赤だし、さっき触った時は凄く熱かったし。熱が上がったのなら水分でも補給しておいた方がいいだろうか。水でも汲んで来ようかと思った時だった。
「あの」
「竹谷、いいから寝てなよ。起きてると辛いだろう」
むくり、と起きあがった竹谷を寝かせようとしたのだけれども。伸ばした手は押し返されて、僕は竹谷の視線にまっすぐに晒された。
「……俺も、先輩のこと、大好きです」
「竹谷……」
どうしてだろう、嬉しいのに。ちゃんと目を見て好きだって言ってもらえて、本当に嬉しいのに。
僕の目からは涙がこぼれていた。
「せ、先輩!?」
慌てて顔をのぞき込もうとする竹谷を押しとどめながら、涙はそれでも、ちっとも止まらなかった。どうしてだろう。心から嬉しいのに、嬉し涙とは少し違う。
五年ろ組の名物コンビの顔が頭に浮かんだ。
よく声をかけて、慕ってくれた。僕も二人が大好きだった。後輩として、友人として。
だから、あの二人に辛い思いなんてさせたくなかったけれど。
「……どうしたんですか?」
頭巾をはずした頭に、直接置かれた手。力強くて温かい手が、僕の頭を撫でてくれる。僕はこの手が好きだ。この手に撫でられたいと、ずっと憧れていた。だから、ごめん。
「何でもない」
乱暴に目尻を手の甲で拭って、僕は撫でてくれるその手に身を委ねた。
上から下へ。前から後ろへ。時折、前髪をすくって。手の触れたところが最初はくすぐったいのに、撫でられるうちに気持ちよくなっていく。温かな手。そんな風に撫でられたかったんだって、どうして竹谷には分かるんだろう。さすが百戦錬磨の猛獣使い。
そのうちに、涙は止まった。頭を撫でていた手はやがて肩へ降り、そのまま抱き寄せられた。
「あ……」
どきどきする。うるさいくらい、胸が高鳴る。制服と夜着ごしに感じる竹谷の体が熱い。
こんなに近くに。肌を寄せ合って。僕も腕を伸ばして、竹谷の背中に回した。そのままぎゅっと抱きしめる。
熱い体に包み込まれて。僕も懸命にくっついて。この熱さに頭が溶けそうな気分。
「僕まで、熱がうつりそうだ……」
「それはいけませんね」
いきなり響いた第三者の声に、思わず二人とも手を離した。とっさに後ずさる。
「誰っ!?」
跳ね上がりそうな心の臓を押さえて、声のした方を見れば、開けっ放しにしていた障子からひょっこりのぞいた顔は。
「雷蔵……!」
いくらか裏返った声で竹谷が叫べば、雷蔵はこっちを見てにっこり笑った。いつも通りの、人懐っこい笑顔。
「伊作先輩。怪我人のお見舞いに来ておいて、自分が熱出してたらどうしようもありませんよ」
「えっ……!」
今度は入り口とは反対方向。部屋の奥、隅っこの天井板がはずれて、そこから顔をのぞかせているのは。
「鉢屋……!」
叫べば、天井裏に潜むのが上手な後輩は、すとんと部屋に舞い降りた。
「はいはい、今夜はそこまで。これ以上熱くなったら、治るものも治らなくなりますからねー」
「捻挫って、冷やさないと治らないんですよね」
そんなことを言いながら、二人は僕らのところへやってきた。僕の前に、雷蔵が座る。
「雷蔵……」
今日、一番会いたくなかった相手だ。それなのにこんな真っ正面から会ってしまって、どうしよう。そんな動揺がしっかり顔に出ていたのだと思う。雷蔵は僕の顔を見て、くすりと笑った。
「あとの看病は、おまかせ下さい」
いつもの柔らかい笑み。穏やかな表情。
これまで通り。雷蔵がそうすると言うのだから。僕もこれまで通りにしなければならない。僕は頷いた。
「分かった。時々、様子を見てあげて」
「はい。額の手拭を替えてやればいいんですか?」
「うん。それと起きてる時は、お白湯か何か、水分を摂らせてあげて。そうしょっちゅうじゃなくていいからね。出来る範囲で構わないから」
「はい」
「それで、よっぽど熱がひどくて眠れないようなら、呼んで。解熱剤を処方するから。まあ、竹谷の体力なら大丈夫だと思うけど」
「分かりました」
真面目な顔で頷く雷蔵に、思わず頬が綻んだ。やっぱり雷蔵は、可愛い僕の後輩だ。
「大丈夫ですよ。先輩がいたらハチの熱は上がるばっかりで、下がらないかもしれませんけどね」
軽口を叩く鉢屋に、ほらほら、と急きたてられた。いつしか立ち上がっていた僕は、肩を抱かれて部屋の出口まで連れて行かれる。
「三郎、てめぇぇぇっ!」
振り向けば、なんとか立ち上がろうとする竹谷を、雷蔵が懸命に宥めていた。それでも収まらないらしい竹谷は、鉢屋に向かって叫ぶ。
「どさくさに紛れて、お前なあっ!」
「怪我人は大人しく寝てなさい。悔しかったら早く怪我を治すことだな」
竹谷には悪いけど、一理ある。思わず僕は頷いていた。
それが見えていたのか、竹谷はがっくりと肩を落とした。
「今の今まで夢じゃないかと疑ってたが……これでようやく思い知ったぜ。今夜のことが、全部、夢じゃないって」
「そりゃあ何より」
鉢屋は軽く言うと、僕の肩を抱いたまま部屋の外へ出た。
「あの、竹谷、また明日!」
障子が閉まる間際に、なんとか中に声をかける。あした、と言い終わらないうちにぱしんと小気味いい音がして障子が閉まってしまったけれど、ちゃんと聞こえたかな。
「下手なことしたらハチに殺されかねないから、送って行きませんけど」
鉢屋はおどけたように、大仰に肩をすくめてみせた。
「……野暮用があるから、抜けるって言ってなかったっけ?」
「あれ、俺そんなこと言いましたっけ」
上目遣いに睨みつけるようにして言ってやれば、そらっとぼけた顔で口笛を吹く。まったくこいつは……いつもの通り、お調子者の鉢屋だ。
「女の子じゃないんだから、送ってもらう必要なんてないよ。じゃあね」
本当は、ちょっとほっとしていた。安心していたのだけれど、それを素直にみせるのはしゃくな気がして、くるりと背を向けて歩き出す。すると背後で、じゃあ、と小さく呟く声が聞こえた。それだけじゃあなんだか味気ないような気がして、僕は振り向いた。
「また明日。……おやすみ、鉢屋」
振り向いた先では、背の高い影が小さく手を振ってくれた。
「おやすみなさい、伊作先輩」
僕も小さく手を振り返して、今度こそまっすぐ歩いた。そのまま五年長屋を出る。
また明日。夜明けなんて、すぐだ。
波乱の一日の後には、穏やかな日々が待っているのか、そうでもないか、分からないけど。
でも、どんな日になっても大丈夫な気がした。僕には竹谷がいるから。小さな桶の代わりにそんな幸福感を胸に抱いて、僕は自分の長屋へ帰って行った。
<end>