「あの、伊作先輩。目つむっててもらっていいですか?」
「うん」
言われた通り目を閉じると、高まっていた鼓動がさらに早くなったような気がした。
竹谷の吐息を、ほのかに口元に感じる。すぐ近くに竹谷の顔がある。きっと竹谷は真剣な顔で、僕を見つめているのだろう。目を閉じても痛いほど視線を感じる。それとも、それが痛いほどだと感じるのは、目を閉じたせいかな。
僕は座ったまま軽く竹谷にもたれかかって、竹谷は僕の肩を抱いて、くっついた部分がどきどきしてる。吐息が触れるほど近くにある顔同士が、くっつくまであと少し。竹谷。早く僕に触れて。
なんだかやけに時間の流れが遅く感じる。ああでも、せかしちゃいけない。竹谷のしたいようにしてもらうのが一番だから。どんな猛獣でも懐かせてしまう竹谷の手に掛かれば、僕なんかいちころだった。頭を撫でるのも、背中をぽんぽんと叩くのも、抱きしめるのも、竹谷は凄く上手だ。触れた手がくすぐったくて、だから撫でられると気持ちよくて、そのたびに僕はうっとりとなる。ぎゅってされると、幸せな気分で一杯になる。
だから今回も、竹谷に任せておけばいいのだ。こういうことに主導権を握られるのは、先輩としてどうかと思わないこともないけど。でも僕がするより、きっと竹谷の方が上手だから。僕は信頼して身を任せればいい。
でも。目をつぶって、お互いの顔の距離が見えないから、緊張する。いつ、触れるだろうか。全然読めなくて、どきどきが加速する。今か、まだ先か。早くして。出ないと、鼓動が速まりすぎて、心の臓が破裂してしまいそうだよ、竹谷……!
「…………?」
心の声は通じなかったらしい。待っても待っても一向に何か為される気配がないので、僕は薄目を開けてみた。
すると目の前の竹谷は、僕ではなく、あらぬ方をじっと見つめていた。部屋の奥の、押入れの辺り。
「竹谷……?」
「さっき視線を感じたんです」
そっと声をかければ、小さい声ながらも緊張感をはらんだ返事が返ってきた。
とりあえず僕も竹谷にならって、耳を澄ませて気配を探ってみる。が、何か物音がするでもなく、人のいる気配はなく。
おそらく気のせいだと思うのだけれども、そうきっぱり言い切るのは可哀想な気もするし。でもやっぱりなんだかなあと小さくため息をついたところで、ようやく竹谷がはっとしたように僕を振り返った。
「伊作先輩……!あの、その、すみません!」
「……いいけど」
僕の想い人は顔を赤らめて謝り倒す。こんなに熱心に謝ってくれるんだから、許してあげるべきなんだろうけれども。さっき目を瞑ってる間に盛り上がった分、気持ちはしっかり盛り下がってる。
「あの……すみません、その、えっと」
でも竹谷にも同情の余地はあるのだ。いくら気分が盛り下がったからって、すげない態度は良くないだろう。
やれやれ、と思いながらも僕は笑顔を作った。
「そんなに謝らなくてもいいよ。またいつでも、機会はあるだろうし」
「先輩……」
「いろいろ竹谷にまかせっきりにしてる僕にも、責任はあると思うしさ」
「あ、いや、それは、その」
一度は落ち着きかけた竹谷だけれども、またしどろもどろに戻った。確かに、いろいろ、の部分を具体的に思い出すと、なんだか僕まで赤面してしまった。
「その……えっと」
何て言ったらいいのか。とりあえず、二人でまごまごしてても仕方ない。僕は気分を変えることにして、すっぱりと言った。
「実は、明日提出の宿題があってさ。今日中に仕上げとかないとやばいから。そろそろ帰るね」
「あ……はい」
お互い学生である以上、学業が最優先。……もちろんこんなの方便で、恋愛を優先したいときはそうするけれども。たまには方便も使う。よっこらせ、と僕は立ち上がった。
「じゃあ、竹谷。また明日来るね」
「あ、はい。お待ちしてます」
部屋の敷居をまたぎ越すと、僕はにっこり笑って見せた。見送りに立ってくれた竹谷も、戸口でぎこちないながらも笑顔を見せてくれる。
ああ、僕はやっぱり竹谷の笑顔が好きだ。出来ればぎこちない作り笑いじゃなく、心の底から笑ってる顔が見たい。
そう思うと、急に立ち去りがたくなってしまったのだけれども。一旦、帰ると言ってしまったものは仕方ない。僕はさっさと五年長屋を抜けて六年長屋に向かいつつ、溜息がこぼれるのを止められなかった。
「何とかならないかなあ」
「視線恐怖症……ですか?」
雷蔵は目をぱちくりと瞬かせて、僕の台詞を繰り返した。
「ていうか、視線過敏症って言うべきなのかなあ。気になるけれど、怖がってる訳じゃないし。……まあ、あえて病名っぽく言うと、こんな感じなのかなって」
翌日。用事があって図書室へ来てみたら、カウンターに雷蔵がいた。見れば利用客もいないし、聞けば他の図書委員もいないようなので、僕は雷蔵に愚痴を聞いてもらっていた。
「竹谷が、ですか。それとも先輩が」
「僕は別に……気にしてるのは竹谷の方だよね」
「なら良かった」
何が良いのか、雷蔵は口元で微笑んだ。
「先輩がそれで悩んでいるというなら、身を挺してでも止めなきゃと思いましたけど。ハチだっていうなら、まあ、そこまですることもありませんよね」
「ええと」
それでも一応、竹谷は雷蔵のクラスメイトで、結構仲の良い友人だと思うんだけどなあ。こんなにはっきり態度を分けていいのか。でもまあ、それも仕方ないのか。
「どうせ原因は三郎なんでしょう?」
「……おそらく」
雷蔵のクラスメイトであり、更にルームメイトでもある鉢屋三郎が事の首謀者なのだから。
首謀者というか張本人というか、鉢屋はもともといたずら好きで、人の困った顔を見て面白がるという傍迷惑な性癖を持った奴なのだが、こいつのここ最近の狙いが竹谷、というか僕と竹谷なのだ。
半月ほど前、ひょんな事から僕と竹谷は想いを通じ合うことが出来た。それ以来、そういうお付き合いが続いている。お互いの委員会が終わり、夕食を終えた後、僕が竹谷の部屋を訪ねるのが日課になっていた。
忍たま長屋は基本的に二人一部屋だ。それなのに五年ろ組の人数の都合上、竹谷は例外的に一人部屋をもらっていた。同室者に気兼ねなく二人っきりになれるから、一人部屋で良かったね、と最初は僕と竹谷も話していた。が。
好事魔多しというのか。そこはお邪魔虫が沸く部屋だったのだ。
僕が竹谷の部屋を訪ねて、例えば課題を見てあげたり、怪我の手当をしている時なんかには現れない。しかし、二人が寄り添ったり、何かいい雰囲気になってくると、決まって出没する。
例えば、廊下に小石か何かが落ちるような音がして、見に行って見たら誰もいない、とか。やたらけたたましい足音が何度も廊下を駆けて行って、文句を言おうと廊下に出たら音がやんだ、とか。天井の羽目板が一カ所カタカタ鳴って、無視しきれずに箒の柄でつついてみたらあり得ないほどの大量の埃が降ってきた、とか。
この前の満月の夜なんか、廊下で物音がしてふと障子を見たら、河童の影が映っていたこともあった。頭のお皿や指の水掻きが見事に再現されていて、影絵だというのにどこからどう見ても河童で、怒るというより呆れるというか、気が抜けてしょうがなかった。
こんなしょうもない事をするのは、鉢屋以外思いつかない。というか、河童の影も、鉢屋の変装だと思えば簡単に納得出来る。
「鉢屋って姿隠すのが上手いよね。どこかに潜んでるんだとして、どこにいるのか全然分からない」
もっとも、鉢屋と雷蔵の部屋は竹谷の部屋の隣だから、単に自分の部屋で聞き耳を立ててるだけかもしれないけど。
「それで竹谷がやたら敏感になっちゃってさ。ちょっとした物音でも、反応しちゃうっていうか。ありもしない視線を感じちゃったりね」
そうして昨日のように、いい雰囲気がぶち壊しになってしまうのだ。もともと根明な性質で、さほど物事に囚われない竹谷があんなに視線を気にするようになったのだから。鉢屋のいたずらによっぽど参っているらしい。
溜息をつくと、雷蔵が遠慮がちに「あの」と切り出した。
「竹谷の部屋以外の場所で、会うことにしたらいかがですか?さすがにそこまでは、三郎も追いかけはしないだろうし」
「それも考えたんだけどね」
僕の部屋には留三郎がいる。もちろん、頼めば一晩くらいあけてくれないこともないだろうけれど、そうしょっちゅう頼めることじゃない。医務室はある程度僕が出入りを管理できるけれども、そこで逢引だなんて論外だ。別の意味で、竹谷の生物園も同じ。
用具倉庫や焔硝蔵、空き教室なんかは二人っきりになるにはいいけれど、鍵がかかっている。もちろん破るのは訳ないのだが、無断で侵入したことがバレたら後で大目玉を食らうのは間違いない。
そしてあまり使われていない、すなわち鍵のかかっていない倉庫の類は、大抵、先に来てる誰かが使用中だったりする。二人っきりで会える場所を求めて校内をさまよっているのは、僕と竹谷だけじゃないのだ。運が良ければ空いていることもあるだろうけれど……僕に運の良さを期待してはいけない。
「どこもなかなか難しくって」
「……まあ、それもそうですよね」
そんな校内事情を承知しているのか、雷蔵は腕組みして目を閉じたまま、うんと頷いた。
「やっぱりここは一つ」
「ひとつ?」
腕組みを解いて目を開いて。迷い癖があるという評判の割には、雷蔵はきっぱりと言い切った。
「放っておくしかないんじゃないでしょうか」
がっくり。解決策でも示してくれるのかと思いきや、それか。でも。
「……雷蔵もそう思う?」
「先輩にはお気の毒ですけれども。三郎の気の済むようにやらせてやって下さい」
親友のことだからか、雷蔵はぺこりと頭を下げた。
「あいつもちゃんと分かってるんです。先輩がハチのものだってこと。ただ、まだどこか先輩に甘えたい気持ちがあるっていうか……寂しいのかもしれませんね。ハチに先輩を取られたみたいで」
「そっか……」
僕と竹谷は付き合って、二人でいれば幸せだけれど。それが他人の不幸を呼び起こすこともある。そう思うとなんだか気が沈んだ。
もちろんだからといって、竹谷と別れるかというとそんなことじゃない。三郎もだけど僕の気持ちも、竹谷の気持ちも、そうそう理屈で割り切れるものじゃないのだ。
人の思いはどうにもならない。だから、鉢屋の気の済むまで、こっちが待ってやるしかない。
それは分かる。それはその通りだと思うのだけれど。
それまで僕と竹谷は邪魔されまくりなのかと思うと、暗澹とした気分にもなる。
「あの、でも、そんな落ち込まないで下さい。すぐですよ、三郎もそんな長いこと、子供っぽいいたずらばっかりしませんから」
「すぐ、ねえ……」
慰めてくれる顔に鉢屋の影を見て、そういえば、と僕は思い出した。
「雷蔵はどうなの?」
「え?」
急に話を変えれば、図書委員の後輩は、きょとんとした表情になった。
「そういえば雷蔵も、何かと邪魔したりしてくれたよね」
「あ、あはは。そうでしたっけ」
笑ってごまかそうとしているけれども。そういえば雷蔵も、僕と竹谷の邪魔をしてくれたことがあった。
鉢屋が変わり種で来るなら、雷蔵は真っ直ぐだった。宿題聞いていい、とか、今度の実習の打ち合わせいつにする、とか、何かと障子越しに声をかけてきたりした。
もちろん障子をいきなり開けたりはしないし、僕がいると分かるとすぐに引っ込んだりしてくれたけど。タイミングの良さは鉢屋とどっこいで、やっぱり上手いこといい雰囲気をぶち壊されていた気がする。
思わずその時のことを思い出して軽くにらみつければ、雷蔵はあわてたように手を振った。
「いやでも僕の場合、三郎と逆ですから」
「逆?」
「ええ。ハチに先輩を取られたから寂しいんじゃなくて、先輩にハチを取られたみたいで」
雷蔵は、指先でこめかみの辺りを掻いた。
「先輩のことは前から、諦めてたっていうか、望み薄だなって思ってて。三郎がライバルに立った時点で、もう駄目だろうと。だからハチだっていうのがちょっと予想外で、でも驚いた分早く立ち直れたっていうか」
照れたように頬を染めて、少し笑いながら雷蔵は話してくれた。
「先輩には僕の気持ちを知ってもらった上で、今まで通りの関係でいたいと思ったんです。一か八か、じゃなくて、四とか五くらいでいいので。駄目だったからって今までのことが全部なしになるのは嫌だと思ったんですよ。なのに気持ちを知って欲しいなんていうのは、僕のわがままなんですけど」
「ううん」
知らないより、知ってた方がよかった。あの時、雷蔵がこれまで通りと言ってくれて、僕がどれだけ安心したか。
でもそれを上手く伝える自信がなくて、僕はただ、首を振るしか出来なかった。
「だからあの時、先輩にありがとうって言ってもらえて、凄く嬉しかったんです。先輩にちょっとでも有難いって思ってもらえたなら、これで良かったんだ、って思えて。伊作先輩のこと好きになって良かったなあって、それで満足っていうか、自分の中で区切りが出来て、なんだか吹っ切れました。だからもう、いいんです。今は素直に、先輩とハチのこと、応援できます」
「雷蔵……」
いつも通りの穏やかな顔を、照れのせいか僅かに赤らめて、でも雷蔵はにっこり笑ってくれた。
あの時、真っ白になった頭で何と言っていいか分からなくて、咄嗟に出た言葉だった。でも雷蔵は、そんな言葉を受け止めて、これまでの想いと一緒に飲み込んで、消化してくれたんだ。
やっぱり雷蔵はいい子だ。熱くなりかけた目頭の熱を、呼吸法でなんとか逃がす。いい奴で、いい後輩で、僕には勿体なさ過ぎるんだろう、多分。
「だから僕のは、先輩がどうこうってことじゃないんです。ただハチが、先輩と付き合うようになってから先輩のことしか頭にないみたいで。それが苛立つっていうか、クラスメイトとして困るっていうか、そういうこともあって。それでちょっと突付いてやりたい感じなんです。僕のは純粋に、幸せ者のハチに対するやっかみです。もちろん祝福も混じってますけど」
「……そっか」
泣きそうな気持ちの波を乗り切ると、何というか。そんな風に説明されると文句も言いにくい。でも。
『先輩と付き合うようになってから先輩のことしか頭にないみたい』
竹谷ってそんなに、僕のことばっかり考えてくれてるのかな。そう思うと今度は頬が緩みかけた。なんだか嬉しい。もちろん、緩みかけた頬は、筋肉を駆使して引き伸ばすけど。
「まあ、三郎もじきに落ち着くと思いますし。すみませんが、もうしばらく様子を見てやって下さい」
雷蔵はそう締めくくると、またぺこりと頭を下げた。友達思いの丁寧な奴だ。
「うん。そうだよね。下手に僕が何か言うと、こじれるよね」
何せ僕は鉢屋をふったのだから。その失恋の痛みに比べれば、多少の嫌がらせなんてなんてこともない。竹谷には申し訳ないけれども、仕方ない。
鉢屋の一番近くにいる雷蔵が放っておけというのだから、それが一番正しいのだと思った。
しかし僕のような不運の持ち主に関わっては、事態は思うようには動いてくれないのだった。
「……しくじった」
僕は降り止むどころか更に雨足の強くなった曇り空を見、傍らに置いた落とし紙の包みを見、溜息をついた。
まだ大丈夫だと思ったんだけどなあ。落とし紙を用意している時は、曇ってはいたけどそんなに暗くなかったのに。外に出た途端、一天にわかにかき曇り、あっという間に暗雲が垂れ込め、やばいと思った時には降り出したのだった。
そこで慌てて近くにあった石火矢格納庫の軒先に飛び込んだ。鍵がかかっていて中には入れないけれども、とりあえず落とし紙を濡らさずに済んで良かった。まだ一カ所も回ってなくて、結構な量の紙の束を背負っていたのだ。
ともあれ、この降り始めの速さからして通り雨だろうから、しばらく待てば止むかな。仕方ない。しばらく雨宿りしようと、腰を下ろそうとした時だった。
「あれ、先輩。こんなところで何やってるんですか」
「……鉢屋?」
雨の中から人の姿が見えたと思ったら、それは笠を被って蓑を着込んだ鉢屋だった。
「まあちょっと、雨宿りでね。鉢屋はおつかいか何か?」
僕の方の事情は、傍らの落とし紙の包みを見ればすぐ分かるだろう。鉢屋の方は笠をかぶって蓑を着込んで、雨支度はばっちりのようだ。
「まあそんなところで」
適当にはぐらかしながら、鉢屋も軒下に入ってきた。
「あれ、急ぎの用か何かじゃないの?」
今は放課後、あと一刻もすれば日が暮れるという頃に、雨も厭わず出かけるのだから、てっきり火急の用件かと思ったのに。鉢屋は笠まで取って、ここで雨宿りする気のようだ。
「学園長の急な思いつきって奴ですよ。ご老体のわがままに付き合わされてるだけですから、ちょっとぐらいの寄り道は認めてもらえないとね。雨も激しくなってきたし」
「ふうん」
蓑を着たままでは、隣に立つ僕を濡らしかねないという配慮だろう、鉢屋は蓑まで脱いだ。しばらく休んで行く気らしい。
「……あ、そうだ。それ、貸してくれる?」
「どうするんですか」
渡してくれた蓑を、僕は落とし紙の包みに被せた。
「これでよし、と。僕は濡れてもいいけど、紙が濡れたら大変だからね」
雨に濡らして使いものにならなくなったら元も子もない。しかし、お礼を言う僕に、鉢屋はため息をついた。
「いつものことながら、お役目ご苦労様です」
「どういたしまして」
呆れているかもしれない。でも、紙を濡らしたら使えなくなるだけでなく、後の始末も大変なんだから。でもそれを鉢屋に説いても仕方ないので、僕は落とし紙の隣に座り込んだ。その反対隣に、鉢屋も座る。
「雨、止まないねえ」
「そうですね」
ざあざあいう音は激しくなっても、収まる気配がない。通り雨だろうからすぐ止むと思ったのに。そのうちに、鉢屋がこちらに身を寄せてきた。
「……狭いんだから、あんまり寄らないでくれる?」
もう僕の左腕と鉢屋の右腕はぴったりくっついて、一部の隙間もない。こんなに近寄ったら、半月前の夜のことをどうしても思い出して、なんだかいたたまれない気分になってくる。
「これ以上寄ったら、落とし紙が向こう端から出ちゃうよ」
「でもこっち、雨が当たるんですよ。端だから」
「じゃあ、場所変わろうか」
後輩相手に気を遣うのも何だと思ったけれど、ここで鉢屋が濡れて風邪でも引かれたら寝覚めが悪い。しかし僕が立ち上がろうとするより早く、鉢屋の右腕が僕の肩を押さえた。
「いや、そうじゃなくて」
肩を押さえる、というよりは肩を抱いて。僕はよりぴったりと鉢屋に引き寄せられた。これが竹谷なら。何のためらいもなく身をゆだねるのだけれど。
相手は鉢屋だ。しかも、今微妙な関係にある相手。いくら雨宿りの軒下が狭いとはいえ、こんな親密な距離が許されるわけない。
「鉢屋」
しかし、文句を言おうと振り返った顔は、今までにない程の真剣さを備えていた。
思わず息を詰める僕に、その顔はとんでもないことを言った。
「伊作先輩。……口づけしてもいいですか」