ざあああああ、という雨の音が正面から押し寄せてきた。通り雨のくせに一向に止む気配のない雨は、しかし割と真っ直ぐ降っているおかげで、狭い軒下でも濡れずにすんでいる。蓑のおかげもあって、落とし紙も無事のようだし、僕も鉢屋も今のところ大丈夫。濡れずに済んでいる。
それはいい。それはいいんだけれど。
「今、なんて」
「だから。口づけしてもいいですか、って」
真剣そのものの表情から一転、鉢屋はにっこりと笑った。人懐っこさの混じる雷蔵スマイル。
「な、何で」
「そりゃあすぐ近くに先輩の綺麗な顔があって、悩みがちに目を伏せるさまが色っぽいからですよ。……もっとも、その綺麗な顔を憂いに曇らせる悩みの種が落とし紙だっていうんだから、その点は色気も何もあったもんじゃないですけどね」
くすくす笑う鉢屋から遠ざかりたくて心持ち後ずされば、すぐに落とし紙の包みに当たった。正確には包みにかけた蓑に。これにあんまり触ると僕も濡れるし、押しやっては落とし紙が雨に晒される。これ以上はさがれない。
「あ、そうか」
しかし退路の断たれた僕に、鉢屋は更にとんでもないことを言ってくれた。
「先輩がもし、俺にされるのが嫌だって言うんなら、先輩が俺に口づけしてくれませんか」
「はあ!?」
何を言い出すんだこいつは。そんなことする訳がないだろう。竹谷ともまだしたことがないのに!
鉢屋は何を考えてるんだろう。しかし僕が叫ぶよりも前に、鉢屋はニヤリと微笑んだ。
「もし先輩が俺に口づけしてくれるなら、俺、今後一切、ハチの部屋にいたずらするの、やめてもいいですよ」
「え……?」
鉢屋が。竹谷の部屋にいたずらするのをやめる?
そうなったらどんなにいいだろう。竹谷はもう、ありもしない視線に悩まされなくてもいいんだ。あの部屋で心ゆくまで二人でいられる。二人の仲をもっと深いものに出来る。
でも。
そのためには、僕は鉢屋に口づけなければならない訳で。つまり一瞬でも竹谷を裏切らなければならない訳で。
「……出来るわけないよ」
呆然と呟けば、おや、と鉢屋は眉根を上げた。
「どうしてです?それで竹谷が楽になるっていうのに。視線恐怖症でしたっけ、雷蔵から聞きましたよ。落とし紙のために身を投げ出す覚悟のある先輩だというのに、愛しい想い人のためには我が身を差し出せませんか?」
黙り込んだ僕に、鉢屋は更に言葉を重ねた。
「この雨の中、出歩くような酔狂な者もいませんしね。誰も見てませんよ。それに減るもんじゃなし。一回くらい、唇と唇を重ね合わせても、なんてことないんじゃないかなあ」
鉢屋の言葉に、心は大きくぐらついていた。出来るわけない、だけどそれで竹谷が救われるなら。ありもしない場所からの視線に悩まされずに済むなら。
二人の逢瀬を何度か邪魔された後、鉢屋に文句を言おうとした僕を止めたのは竹谷だった。自分は三郎が先輩のこと好きなの知ってて、いわば抜け駆けしたのだから。これぐらいは許してやらなきゃならないんだと。気の済むようにやらせてやりたいと。
竹谷は優しい。友達思いだ。だけどこうまで邪魔をされて、竹谷も参ってきてる。鉢屋に情けをかけたことを後悔してるかもしれない。
鉢屋に口づけることは、竹谷に対する裏切りだろう。でも、それで竹谷が救われるなら。それが二人のためになるのなら。
僕は顔を上げると、鉢屋の顔を見た。ごくりと唾を飲み込む。
この顔の、この口に。ちょっとだけ、僕の口をくっつければ済むこと。
「……先輩、そんな怖い顔して睨みつけないで下さいよ」
目の前の顔が苦く笑う。そんなこと言われても。
「今だけ一瞬、竹谷の顔になってもらうっていうのは……駄目、だよね」
「駄目ですねえ」
「じゃあ、鉢屋の素顔に戻るっていうのは?」
「まあ、どうしてもと言うならしないでもないですが……」
千の顔を持つ男、と評される変姿の術の名人は、ことんと小首を傾げた。
「見慣れない顔の男に、いきなり口づけする気分になれますか?」
「う」
どさくさに紛れて提案してみたのだけれど、言われてみれば確かに、そうかもしれない。
「それなら雷蔵の方がまだましでしょう。とすると、やっぱりこの顔でいいんですよ」
にこ、と笑えば人懐っこさに溢れる笑顔になった。雷蔵のようでいて、雷蔵を模した鉢屋の顔。
その厚くもなく薄くもない、平均的な形の唇に、目が奪われる。
「口同士をくっつければいいんだよね」
「……そう言えば身も蓋もありませんけどね。まあ、それでいいです」
よし。僕は心を決めた。竹谷のためだ。口がちょっとくっつくくらい、なんかの拍子にありそうなこと。事故みたいなもんだと思えばいい。
僕は鉢屋の頬に手を添えた。
鉢屋は口元に笑みをたたえたまま、面白そうに僕の動きを逐一目で追ってる。
「目、つぶってもらっていい?」
「はい」
おとなしく目を閉じる鉢屋。僕は背筋をのばして、顔を近づけて行く。早く済ませたいけど、目標を誤るのも困る。ゆっくりと、慎重に。
あと一寸。もう少しで触れる。
……というところまで来ておいて、僕はとっさに顔を背けた。
「ごめん、やっぱり……無理」
「どうしてです?」
突然目の前で顔を背けられて気分を害したかと思いきや、鉢屋の声は楽しそうだ。僕が口を押さえたまま振り返れば、鉢屋はしてやったりというように、にたにた笑っていた。
「やっぱり竹谷を裏切れませんか」
もちろん、そうに決まってる。でも鉢屋はなんでこんなに嬉しそうに笑っているのだろう。僕に口づけをせがんでおいて、それが失敗したというのに、何故。
また、竹谷にいたずらを仕掛けられるから?こしておけば、僕からの文句も封じられるから、だから?
甘えてる。雷蔵の台詞が頭をよぎった。鉢屋は僕に甘えてるって。こういうことかもしれない。
そして。
仕方ないなあ、なんて思ってる僕もいる。鉢屋の顔を見てればわかった。自分で口づけを要求しておきながら、きっと僕がなんの抵抗もなく鉢屋に口づけていたら、鉢屋はきっと傷ついていた。竹谷のためとはいえ、僕が簡単に竹谷を裏切るようなことが出来たら、鉢屋はきっと傷つくのだ。そして僕を許せないと思う。嫌って、憎むかもしれない。竹谷のために、僕を好きだった自分のために。
それなら僕は。
鉢屋に、嫌われなきゃいけない。恨まれたっていい、憎まれたっていいから、これ以上鉢屋を喜ばせてつけあがらせちゃいけない。もう鉢屋を甘えさせない。
僕は竹谷を選んだんだから。鉢屋を選ぶことは出来ないんだから。
まだ肩を抱かれたまま、狙う顔は近い位置にある。僕は長く息を吐いて呼吸を整えた。
「それにしても、雨、やみません……」
僕が身を引けば、ずっと僕の肩を抱いていた腕から逃れることが出来た。鉢屋は、信じられないというように目をむいて、頬を押さえながらこちらを振り返った。
「もう、なんでいきなり余所向くんだよっ!」
せっかく意を決して頑張ったのに!僕の唇が触れたのは、鉢屋の唇ではなく頬だった。
「先輩……」
雷蔵を繕わない、素の表情。よっぽど驚いたらしい真っ白な表情に、僕はとんでもないことをしたんだという実感が沸いて、一気に頭に血が上った。
人の頬の柔らかな感触が、まだ唇に残ってる。してしまったんだ、口づけを。頬にだったけど。僕は口元を手で押さえた。唇を手で押さえつけた。
「先輩、もう一回!今度こそ」
「いや、駄目!もう無理、絶対やだ!」
指を立てて迫る鉢屋から、僕はなんとか離れようと後ろに仰け反った。背中に蓑が当たって制服がびっちょり濡れたけれども仕方ない。
恥ずかしすぎる。唇で触れたなんて、あの頬に。唇……もうその言葉を聞くだけで頬が燃えるように熱い。
「そっかー、残念だなあ」
そう言いながら、何故か鉢屋は穏やかな目をしていた。口元にはにこやかなほほえみがあって。
さっきのにたにた笑いとは違う意味で、幸せそうな……?
僕はやっぱり鉢屋を増長させてしまったのだろうか。判断を誤ったか。そう思うと、目の前が真っ暗になりそうだった。払った犠牲が大きかった分だけ、悔しい。
「と、とりあえず約束は果たしたんだから、いたずらはもう、やめてもらえるよね?」
手で口元を覆ったまま、聞いてみる。すると鉢屋はあろうことか、どうしようかなーなどと呟いた。
「約束は口でしたからねえ。頬だとなんか不完全燃焼な感じで。これが完全燃焼になったら、約束を果たしてもいいんですけど」
つまりもう一回ということか。それだけは嫌だ。一度やってみて分かった。もう、絶対、出来ない!
落とし紙にへばりつくようにして仰け反る僕を見て、鉢屋は軽く笑った。
「まあ、燃料は他にもあるんで。そっちを当たってみることにしますよ」
そう言いながら、笠を拾ってかぶる。立ち上がって僕越しに蓑を取り上げると、手早く着込んだ。
「じゃあ、学園長のわがままに付き合ってきます。帰りは明日になるかもしれませんから」
「……鉢屋のそれは信用できないよね」
前にも野暮用で抜けるとか言いながら、ちゃっかり長屋にいたこともあったし。しかし鉢屋は僕のぼやきなど全然気にしてないようだった。
「まあ信じる、信じないは先輩の自由ですしね。それじゃ」
会釈すると、まだ雨の降る中を身軽に駆けていく。
鉢屋の姿が見えなくなった頃、ざあざあうるさいくらいだった雨音が静かになったことに気がついた。それからしばらくして雨が上がり、雲の切れ間から差し込む陽射しは、無性にまぶしかった。
「こんばんはー」
声をかけると、障子を開ける。ほぼ日課と化した動作だったけれど、今日は中にいた人の反応が違った。
「わ、い、伊作先輩!?」
「入っていい?」
「いやあの、その、えっとですね」
いつもなら、どうぞ、と笑顔で迎えてくれるのに。やたら慌てる竹谷が不審だ。文机の前に座ってることからして、何か見られてはまずい物でも見てたんだろうか。
一瞬そんな疑いから文机の上に目を走らせ、僕はそのままずかずか部屋の中へ立ち入っていった。
「ちょっと見せて」
そして強引に竹谷の顔を、灯明の方へ向けさせれば。
その右頬は真っ赤に腫れ上がっていた。
「どうしたの、これ!?」
聞きながら口の中を開けさせた。外側がひどく腫れてる割には、口の中は大丈夫そうだった。少なくとも歯が折れたりはしていない。さすが五年生。咄嗟の対処がよく出来てる。
「誰に殴られたの」
机の上には軟膏やら包帯やらが乗っていた。一人で手当しようとしたらしい。
基本的に五年生にもなれば、怪我の手当は自分でする。でも竹谷なら、僕を頼ってくれたら良いのに。
少しばかり寂しく机の上を見下ろしていたら、竹谷はぼそっと呟いた。
「いやそれが……三郎に」
「鉢屋に?」
その名前に放課後のことを思い出して、どきんと胸で鼓動が跳ねた。なんで、いつ、どこでと詰め寄れば、竹谷は僕の剣幕に驚いたようだった。
「雨が止んですぐくらいでしたか。いきなり三郎が生物園にやってきて、何かと思えば一発殴らせろって言って、こっちが驚いてる間にがつんと……」
本当に殴りやがって。竹谷は頬を押さえて軽く呻いた。
「で、そのまますたすたと行っちまって。こっちは大変でしたよ。ただでさえ訳分からないのに、一年坊主たちは心配するし医務室にかつぎこまれるしで。あ、そういえばあの時、先輩はいらっしゃいませんでしたね」
「……うん」
雨が止んだのをいいことに、落とし紙の補充に回っていたのだ。
ああ、やっぱり今日は落とし紙の補充になんか行くべきじゃなかったんだ!
「ここ、まだ冷やした方がいいよ。湿布持ってこようか」
「ああ、いえ、大丈夫です。今、軟膏塗りましたし」
竹谷の横に座って殴られた跡を見ていたら、不意にその顔がにっこり笑った。持ち前の明るい笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられる。まだ傷むだろうに、僕に心配をかけまいとして。
「それにしても鉢屋は、何を考えてるんだろうね。友達にこんなことして」
涙がこみ上げてきそうになって、僕はごまかすために怒った声を出した。涙がこぼれないように、思いっ切り顔をしかめる。
「まあ、あいつは友達ですけど、恋敵でもありますし」
「竹谷」
生物委員としての竹谷は、生き物すべてに優しい。それが鉢屋にも適応されるのか、苦笑いを浮かべた竹谷は、すでに鉢屋を許しているように見えた。
「伊作先輩が俺のところにいてくれる以上、あいつに何をされても文句は言えない、っていうか、どうでもいいんです。大事なのは先輩だから」
苦笑いに照れが加わって、はにかんだ笑みになって。僕の胸は更に締め付けられて痛む。
「殴る時に三郎が、完全燃焼させろとか言ってて。これで伊作先輩のこと諦めてくれるなら、安いもんですよ」
それを聞いて、もう涙がこぼれて行くのを止められなくなった。
今日、僕のしたことが、竹谷への裏切りなのかそうでもないのか、竹谷のためになるのかならないのか、分からない。
でももう、絶対に、竹谷を裏切るようなことはしない。
だって竹谷はこんなに僕のことを思ってくれていて、僕も竹谷のことが大好きなのだから……!
「せ、先輩?」
いきなり僕が泣き出したものだから、竹谷は狼狽えたようだった。下から僕の顔をのぞき込んでくる。
「竹谷は優しすぎるよ」
懐が深くて、どんな生き物でも優しく受け止めて。愛情を注ぐ竹谷は本当にいい人だ。それなのに鉢屋という奴は。
「やっぱり、僕は鉢屋を許せないよ」
ずず、と鼻水をすすると、僕は顔を上げてきっぱり言った。
「だって竹谷を痛い目にあわせたんだもん……!」
痛そうに真っ赤に腫れた頬。殴るんなら僕を殴ればいいのに。
でも、そういう訳にはいかないのかな。鉢屋と竹谷の間には、友情があるから。それは僕には足を踏み入れてはいけない領域のことで。
「伊作先輩……」
竹谷の伸ばした腕に、僕はすっぽりと収まっていた。背中を撫でさする手に、高ぶった気持ちが治まっていく。
「でも本当に、大丈夫ですから。これぐらいなんてことありません。平気です」
「……痛くない?」
「ちょっとは痛いですけど。でも、今はそれも気持ちいいっていうか。先輩に心配してもらえるなら、怪我もいいなあ、なんて」
「こら」
怒ったふりして胸を小突くと、すぐ近くで、えへへ、と笑い声がした。
背筋を伸ばして体勢を立て直せば、意外と近くに竹谷の顔があった。ほのかに夕飯の匂いがして、どきどきする。
「伊作先輩、好きです……」
その唇が、嬉しい言葉を紡いでくれる。
「僕も、大好きだよ、竹谷」
口を閉じるのと同時に、目も閉じた。竹谷の手が頬に触れる。視界のない頼りなさも、この手があれば怖くない。大好きな猛獣使いの手が導いてくれる。僕は全てを竹谷に委ねた。
その時。どたばたと廊下を駆ける音がした。そのあまりのけたたましさと切迫感に、盛り上がった雰囲気が一気に吹き飛ぶ。
また鉢屋か!?と恨みかけたが、どうも足音からして体重が違う。この足音では三年生くらい……?
「どうも、嫌な予感が……」
苦々しく竹谷が呟いた時、障子の前で足音が止まった。
「伊賀崎孫兵です、竹谷先輩はご在室ですか!?」
三年生にしては深い声が、部屋中に響きわたる。落ち着いて聞けばいい声も、今は慌てふためいて、叫び声じみていた。
「……何があったんだ」
孫兵が駆けつけてきた以上、緊急の何かがあったに違いない。竹谷は呻くように言った。
「毒虫たちに餌をあげに行った時に、孫次郎がもたもたして、その時にきみ太郎が逃げだして」
きみ太郎っていうのは毒がえるだっけ毒サソリだっけ。思い出している間にも、孫兵の声は続いた。
「それに驚いた一平が檻を蹴飛ばして、その拍子に柵が外れて中からジュンイチが飛び出して」
ああ、毒サソリはジュンイチだった。
「慌ててジュンイチを捕まえようとした三治郎が、カメムシの壷を転がして、中からカメムシ一家が這い出して」
カメムシ達も難儀なことだなあ、と思ったら、事態は更に酷かったらしい。
「そしたらそのカメムシ達を、虎若が踏んづけちゃったんですよ!ああ可哀想なカメムシ一家……!」
そこで言葉が途切れるなり、うわあああん、と泣き声が上がった。
……ええと。それってかなりやばい事態じゃないだろうか。
少なくとも毒虫たちは回収しないといけないだろうし、竹谷はその陣頭指揮に立つべき人材で。
近くにある顔をちらっと見れば、竹谷は涙目になっていた。カメムシ達を悼んでるのかな、と思うと、ちょっと可笑しかった。でも、そうでなくても、今日は鉢屋が留守らしくて、怪我してるとはいえようやく二人でゆっくり出来る筈だったのに。こんなことで邪魔されようとは。
それとも僕の不運が災いしたんだろうか。
そうだとすると申し訳ない。僕は腫れてない頬に手を伸ばした。
灯明がついてるとはいえ、薄暗い部屋。自分の手を頼りに、顔を近づける。
そのままそっと、竹谷の唇に自分の唇を重ねた。一瞬で顔を引いた鉢屋の時と違って、ちゃんと竹谷の唇の、柔らかさと温かさをしっかり感じ取る。
顔を離せば、竹谷の大きな目を更に見開いて、瞬きばかりを繰り返していた。もう、涙なんか乾いてしまってる。
「それじゃ。お仕事、頑張ってね」
本当は心の臓は早鐘のごとくうっていて、もの凄く鼓動が早かった。でもそんな素振りは少しも見せないで、先輩らしく余裕ぶって笑うと、僕は立ち上がった。
廊下には孫兵がいる。そこを通って堂々と出て行くのもなんだし、鉢屋のごとく天井裏を使うかと、部屋の隅へ歩きかけた時だった。
「……伊作先輩!」
後ろから小さな声がしたかと思うと、腕を掴まれて引っ張られた。そのまま倒れかける体を力強い腕が抱き止められたかと思うと。
上から影が被さってきた。ちょうど唇に、柔らかいものが当たる。
唇に押し当てられたそれは、一度離れたと思うと、柔らかく上唇を挟んだ。下唇も。
それはもの凄く柔らかで、温かくて心地よいのに。背筋を悪寒にも似たびりびりする痺れが駆け抜けていく。
こんなに柔らかいのに。こんなに優しく触れられているのに。
「……んっ……」
背筋を駆ける痺れに堪らなくなって、僕は竹谷の腕を掴んだ。力強く僕を支えた腕は、ちょっとやそっとの力ではびくともしない。
竹谷の唇は、何度か僕の口元をついばむと、そっと離れた。
「はぁっ……たけ……や」
途中から息をするのを忘れてしまって、息が苦しい。それでも音を立てぬよう、静かに喘ぐ僕を、竹谷は抱きしめてくれた。一度ぎゅっと抱くと、すぐに腕が離れていく。
「すみません先輩、続きはまた、今度ということで」
「……うん」
続き。これにまだ続きがあるんだあと思うと、どきどきする。照れるというか、恥ずかしいというか、大丈夫だろうか。出来るだろうか。僕には未知の体験が待っている。
仲を進めるというのはこういうことだと思うと、楽しみ以上に少し怖くもある。
でも。
どんなことでも竹谷となら大丈夫。
僕は竹谷を信頼してるし、何よりも、竹谷は百戦錬磨の猛獣使いなんだから。
「じゃあ、また明日」
でもなんだか腰が抜けて、すぐには立てそうにない。僕はその場にぺたんと腰を下ろすと、竹谷に手を振った。相変わらずの男前な顔でほほえみ返して手を振ると、灯明の灯りを消してから、竹谷は廊下に飛び出して行った。
「待たせたな、孫兵!」
「え、あの、先輩、どうしたんですかその顔!腫れてますよ!?」
竹谷が殴られた時、その場にいなかったんだろうか。障子の向こうで孫兵は驚いた声を上げた。
「はっはっは。やっかみは男の勲章だ!」
訳の分かるような分からないような理屈をあげて、豪快に笑う竹谷。よっぽどテンションが上がってるらしい。
分かる気はする。と僕も一人、そっと自分の口元を押さえた。
「さあ、きみ太郎とジュンイチの探索に行くぞ!カメムシ一家の弔いはその後だ!」
「はいっ!」
的確に指示を出す竹谷の後に続いて、孫兵の足音も去っていく。二つの足音が廊下の奥に消えたのを確認して、また明日、と呟くと、僕も廊下から自分の部屋へ帰った。
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