うちでのこづち 第十話

 影が、揺れる。
 僕はぼんやりと、大きな影を見ていた。
 天井に映し出される、影。人の形をしたそれは、滲むように揺れた。灯明に照らされているんだろう。火が揺らめくような感じで、影も揺れる。
 誰だろう。天井一面の頭じゃ、体型や顔の造作なんか分からない。
 ただ、髷は茶筅の形かな。影自身が動く時、見えた。茶筅の短い髪とえいば……。
「気がついたか」
「……文次郎……」
 何のことはない、僕の枕元に文次郎がいて、その向こうに灯明が置いてあった。
「どうして、ここに?」
「どうしてって……お前がいきなりぶっ倒れたから、代わりに俺が不寝番やってるんだろ」
 何故文次郎が?と思ったけれど、口にするより先に解答をくれた。
「保健委員とはいえ三年生に不寝番やらす訳にはいかんだろ。それに、俺は四年前に紅朱熱は済ませてるからな。医務室の記録に残ってるんだから、確かだ」
 それで上級生の責任感から、不寝番を買って出てくれたんだ。
「……新野先生は?」
「今は自室で休まれてると思うが……呼ぶか、具合悪いか?」
「あ、ううん、そういうんじゃない」
 立ち上がりかけた文次郎を止めるために、僕は慌てて言った。
「新野先生も連日の看病でお疲れだから。休めてるんなら良かった。ありがとう、文次郎」
「……そうか」
 文次郎は浮かしかけた腰を下ろした。どっかりと胡坐をかく。
「あのさ、水とかあるかな。喉が渇いた」
「おう。起きられるか」
 一端横向きに寝返りを打って、布団についた手に力を入れる。こうやって起き上がるのが一番楽なんだけれど、それでも今は、上半身が重かった。文次郎に背中を支えてもらって、ようやっと身を起こす。
 起き上がってみれば、目の前に広がるのは、もうすっかり見慣れた武道館の、お馴染みの光景。ずらりと並んだ布団に、横たわる下級生達。
「みんなまだ、熱下がらないのかな……」
 せっかく薬を飲んだのに。言いかけて気付いた。僕が倒れたのが夜で、今も夜。ついさっき飲んだばかりの薬が、そう簡単に効くわけないか。
「いや、もうほとんど全員、熱はないらしいぞ」
「え、じゃあどうして……」
「朝までここで様子を見て、明日になってから長屋に戻るかどうか診断するそうだ。ほぼ全員、大丈夫だろうという見込みだけどな」
「そうなんだ……」
 良かった。手渡された湯呑から水を飲んで、ほっと息をついた。ちゃんと薬が効いてるんだ。それなら安心だ。
「そうじゃなきゃ、ずぶの素人の俺に不寝番なんざ任せられる訳ねえだろ」
「そんなことないよ。文次郎は面倒見がいいから、ちゃんと務まるよ」
 そう、文次郎は意外と優しい。面倒見もいいし、辛抱強いし、看病には向いている。
 言いながら気がついた。そういえば、留三郎はどうしてるだろう。
「……そうえいば、留三郎は?」
「ああ。奴は昨日の不寝番だった」
「昨日?」
「お前が倒れた夜だ」
 言われて初めて気がついた。そういえば自室にある筈の、自分の布団で寝ている。いつの間にか着替えている夜着も、自分のだ。でも僕にはそういう物を部屋から運んできた記憶は一切ない。
 となると、きっと留三郎が全部ここまで運んでくれて、そのまま看病してくれたんだ。不寝番を……あれ、昨日の夜、てことは。
 丸一昼夜、僕はずっと眠ってたのか。
 昨日、倒れた時に新野先生の驚いた顔を最後に見て、それ以来、記憶が無い。
 一昼夜ずっと目を覚まさなかったなんて、どれだけひどい熱が出たんだろう。いや、今も確かに体は重いし頭はふらふらするし、熱いのに背筋だけ冷えるような変な感じはあるけれど。
「おい、起きたついでに何か食うか。粥があるから温めなおすぞ」
「うーん……お粥は、いいや」
 食欲なんてものは全くなかった。むしろ今何か食べたら吐きそうだ。
 それを言うと、じゃあ寝るか、と、文次郎は手を貸してくれた。その手に背中を預けて、ゆっくりと敷布団に横たわる。
「まだ相当、熱があるようだな。ゆっくり休め」
「うん。……ごめんね、文次郎。世話になるね」
「病人が余計な気を遣うな。とっとと眠れ」
 隈の浮いた顔を見上げていると、文次郎の手が降ってきた。ちょうど目の上にかぶさってきて、反射的に目を閉じても、まだその手は目蓋の上にあった。強制的に目を閉じさせるこの方法を、僕もよく使う。
 見なくても分かる、明らかに文次郎の手。
 指の太い、ずんぐりした手。角張って分厚いけれど、さほど大きな訳でもない。でも文次郎はいつも、その手を懸命に開いて、より遠くの、より多くの物を掴もうとしている。実直で、誠実で、誤魔化しの効かない、力強い手。
 いい手だ、と思う。実に文次郎らしい、真面目な手。
 その手が今、僕の顔の上にあって、僕を眠らせてくれようとしている。
 その強面の外見から下級生達には恐れられている文次郎だけれど。会計の後輩達からは慕われている。一度懐に入ってみれば、そこはとても温かい。実に辛抱強く、面倒見よく、でも決して甘やかさず、見守っていてくれる。側に居れば、それがよく分かるのだ。
 僕はどうして文次郎のことを好きにならなかったんだろう。
 文次郎ならきっと、僕を大事にしてくれるのに。その誠実さは疑いようがないのに。それなのにどうして、僕は文次郎のことを好きにならなかったんだろう。
 ……いいや、本当は僕も文次郎のことが好きだった。同級生だけど、尊敬していた。憧れていた。ただ僕は幼くて、あまりにも幼くて、その気持ちが恋だと気付かなかった。
 きっと留三郎や仙蔵には、分かっていたんだろう。文次郎が僕のことを好きで、僕も文次郎が好きなんだということを。でも文次郎は不器用で、僕は幼くて奥手で。思い合いながらも少しも通じていない僕達を、歯痒く思いながらずっと見守ってくれていたんだろう。
 それなのに、気付いたら僕は別の人を好きになっていた。
 あの、満月の夜。
 仙蔵に挑発されて、僕が好きだと気付いたのは。
 ……雑渡さん。
 僕はどうして雑渡さんのことを好きになってしまったんだろう。好きになっても少しも報われやしないのに。文次郎の想いを跳ね除けてまで、好きになるような相手じゃないのに。
 雑渡さん。
 もう、会えない。会う理由が無い。借りを返された今、僕達を繋ぐものは何もない。せめて想いを伝えていたら、何か変っただろうか。でも、今となってはどうしようもないこと。
 雑渡さん。
 礼をしたいと言われた時には、こんな御伽噺めいた幸運が自分に起こるなんて、と思った。でもオチがついてみれば、やっぱり不運だったかもしれないな。
 雑渡さん。
 もう一度会いたい。黒装束に、包帯の顔が見たい。
 雑渡さん。
 雑渡さん。
「あ……」
 再び目を開けると、さっきとは何か違っていた。何が違うんだろう、と考えていると、見慣れた顔が覗きこんできた。
「お、気がついたか。気分はどうだ?」
「とめ……さぶろう?」
 さっきまで文次郎がそこにいたのに。どうしたんだろう、と辺りを見回せば。
 そこは自分の部屋だった。見慣れた天井と壁。鼻を利かせれば薬の匂いがするのも、確かにここは僕と留三郎の部屋。
「いつの間に……」
「え、覚えてないのか?」
 僕の呟きに、留三郎はぎょっとしたように目を見開いた。
「今日の午後、武道館に寝てた連中はみんな長屋に戻ったから、お前一人だけ武道館に寝かせてもってんでお前も長屋に戻ることになっただろ。医務室に置いとく訳にもいかねえし、俺は紅朱熱やってるしな。それで迎えに行った時、お前起こして歩けるかって聞いたら、無理、って返事して首振ってたぞ。それでおんぶして連れてきたけど……覚えてない?」
 そんなことあったっけ。昼過ぎ、武道館、歩けるかって……あ、駄目だ。頭がほわんとして何も考えられない。
「覚えてないっていうか……分かんない」
「重症だなあ」
 やれやれ、という風に溜息をつく留三郎。でも、ということは。
「紅朱熱に罹ってた子達は、みんな元気になったんだね」
「おう。保健委員の左近はまだ本調子じゃないらしく安静にするよう言い渡されてたけどな。乱太郎とかすっかり元気になってたぜ」
「良かった……」
 僕は心の底からほっとした。あの子達が元気になってくれたら、それでいい。他に望むことは何もない。
「おいおい。今度はお前がよくなる番だぞ」
 長年付き合ってきたよしみか、留三郎には何も言わなくても、僕が何を考えているかわかるらしい。
「今、利吉さんが薬を探してくれてるらしいしな。でも紅朱熱って、薬なんかなくても、いずれ自然に熱が下がるんだろう?ただ、それまで何日もかかるから、その間に衰弱して死んじまうこともあるってだけでさ、伊作は曲がりなりにもこの学校で六年、やってきたんだからな。体力はちゃんとついてるって。こんなことでくたばったりしねえよ」
「うん……」
 見上げれば、留三郎はにっこり笑って見せた。
「そうそう、小平太と仙蔵がまだ紅朱熱やってないだろ。この部屋には絶対入っちゃいけない、近づくのも駄目って新野先生に言われてさ、小平太がむくれてたぞ。見舞いにも行けないなんて、つってぼやいてたけど、仙蔵の提案でさ、差し入れだって、これ」
 そう言いながら見せてくれたのは、きれいな黄色に輝く果物。
「へえ……夏みかんかな、八朔かな」
「分からねえけど。木に登って、一番うまそうなのを取って来たって本人は言ってたぞ。一つ味見してみたら、確かにうまかった。でもそれを小平太に言ったら、お前に食わせるために取って来たんじゃねえって怒られたけどな」
 そう言って留三郎は大仰に肩をすくめて見せる。小平太がぎゃあぎゃあ怒ってる姿が想像できて、可笑しかった。
「な、これ食ってみろよ。皮むいてやるから」
「うーん……」
 気持ちはありがたいけど、食べられるかな。躊躇っていると、同室の用具委員長は、ぽんと手を打った。
「そうだ、なんなら搾ってやろうか?食べるより飲む方が楽だろ」
「……うん、そうだね」
「よっしゃ。じゃあ、手桶かなんかで……ざるとかあった方がいいか。ちょっと食堂行って色々借りてくるから、待ってろ!」
 留三郎は文字通り部屋を飛び出して行った。
 元気だよなあ、と思ったけれど、多分、違う。
 僕のことを心配してくれてるんだ。熱が高いから不安で、いたたまれなくて、親切な留三郎としては何とかしてやりたいと思ってくれてたんだろうけれど、僕はぐーすか寝たままで、何も出来ることがなかったんだ。
 自分にもしてやれることがあると分かった途端、走り出す辺り、留三郎も本当に人がいい。親切だし優しいし、よく面倒見てくれるし、僕には勿体無いくらいの友人だ。
 開けっ放しになった障子の外は、真っ暗だった。辺りが静かなことといい、真夜中近いのかもしれない。そんな時間にわざわざ果物を搾ってくれようというのだから、本当に、留三郎には頭が上がらない。
 だけど。
 おそらく、倒れてから僕は何も食べてない。でも食べたいとも思わない。喉を通るとは思えないし、食べたら吐きそうだ。
 そうやって何も食べずにいたら、衰弱するのは仕方ない。もともと紅朱熱は、病と体の競争みたいなものだ。熱が下がるのが先か、衰弱して死ぬのが先か。
 利吉さんが薬を手に入れてくれたらいいけれど。それが駄目だった場合。
 僕はここで……死ぬのかな。
 不思議と怖いとは思わなかった。まあ仕方ないかな、みたいな感じ。みんなのことは助けることが出来たから、もういい。
 せっかく僕の世話を焼いてくれる留三郎には申し訳ないけど。差し入れしてくれた小平太にも、知恵を貸してくれた仙蔵にも、文次郎にも長次にも申し訳ないけど。でも忍者になって、どこかで不運のために野垂死ぬことを思えば、いまここでみんなに看取られて……なんて最高だ。
 どうせもう、雑渡さんには会えないんだし。
「雑渡さん……」
 何となく、名前を口にした時だった。
「呼んだ?」
 かたん、と天井の羽目板がはずれ、そこから飛び出した黒い影は、寸分違わず、さっきまで留三郎が座っていた位置に着地した。
「随分具合が悪そうだねえ」
 僕を見下ろす黒装束は、枕元に座り込んだ。おかげでよく見える。覆面に覆われた顔は、包帯にも覆われている。
 包帯に囲まれた右目が、僕を見下ろしている。ぱっちり見開かれた、白目勝ちの目。間違えようもなく、雑渡さん……!
「なっ……どうして……!?」
 どうしてここに。もう会えないと思っていたのに。いや、もしかして、これは人が末期に見る幻の類かもしれない。あんまり会いたいと思ったから、夢に見てる、とか。
「こんなにやつれちゃって……可哀想に」
 でも。頬に雑渡さんの指を感じた。頬骨から口元までなぞるように辿ると、手のひらが頬を包み込む。その手に、自分の手を沿わせた。この感触は確かだ。夢や幻じゃない。この手は知ってる。一度触れたことがある。自分に正直な、雑渡さんの、手。
「この薬がよく効くんだろう?早く元気になるといいよ」
 雑渡さんは頬から手を離すと、僕の手に何かを握らせてくれた。見なくても分かる、これは薬包紙。
「え……?」
 どうして。もう借りは返してもらったのに。
 見上げれば、雑渡さんは、ぐっと眉をしかめた。
「言っとくけど、前回ので借りは返し終わってるからね」
 そう言いながら、薬包紙を持った僕の手を、両手でぎゅっと握る。
「だからこれは、新たな貸し。……伊作くん、これで私に借り一つだよ」
「あ……え……」
 熱のせいか、話に頭がついていかない。貸しって、借りって。それってつまり。
「だから今度は、伊作くんが私に借りを返すんだよ。まさか忍術学園は、恩を仇で返せとは教えてないだろう?」
 それは勿論です。でも……でも、いいんだろうか。僕が雑渡さんに借りを返すなんて、とんでもないことだけれど。でも……それなら、まだ僕達は繋がっていられる。
「どうやって君が私に借りを返してくれるのか。今からとても楽しみだ」
 にやりと笑う雑渡さん。細められた目はなんだか楽しそうで。僕は胸が一杯で。涙がこぼれそうになって。
 ありがとうございます。このご恩は忘れません。必ずお返しします。僕に出来ることなら何でもします!
 そう言うつもりだった。お礼も満足に言えないようじゃ、忍術学園の最上級生としてみっともないから。なのに、口から出てきたのは。
「雑渡さん……大好き!」
 見上げた先で、包帯に囲まれた目が点になった。うわあああ、僕は何を言ってるんだ!ありがとうと言うべきところで、大好きなんて、一年生でも言わないよ、まったく!
 顔に血が上った。赤面してるに違いない。でももともと紅朱熱なんだから顔は赤い筈、ってそんなことはどうでもいい!
 すっかりパニックに陥ってる僕に、でも、雑渡さんはにっこり微笑んだ。
「私も大好きだよ、伊作くん」
 身を屈めると同時に、指で覆面を下げる。何を言えばいいか、泡を食ってる僕の唇に、柔らかな感触。
「……早く、よくなるんだよ」
 ごく近い距離で、右の目尻がにっこりと下がるのが見えた。と、思った次の瞬間、黒い影は僕の上から失せていた。音もせず天井の羽目板が元に戻る。相変わらずの見事な消えっぷり。
「おう、伊作、待たせたなっ!」
 足音がしたと思ったら、留三郎が飛び込んできた。手桶とかざるとか、色々抱えて。
「今、搾ってやるからなー、ちょっと待ってろよ」
「……うん」
 枕元に色々並べて作業を始めた留三郎を眺めながら、僕はそっと両手を胸元に引き寄せた。
 この手の中に、雑渡さんがくれた薬。
 でも、何よりの薬は『借りを返す』という約束かもしれない。
 だってそれがあれば、僕達は繋がっていられる。会う口実であり、会う理由になる。それがこの上なく嬉しい。
 僕に何が出来るだろう。頼りない打出の小槌だけれど。それでも精一杯、雑渡さんに何かしてあげたい。僕に出来ることを考えよう。
 明日になったら。新野先生に薬を作ってもらうんだ。
 でも薬なんて無くても、よくなりそうな気がする。それぐらい今は気分良くて、最高に幸せだ。病は気からって、本当のことなんだな。
「……なんだよ伊作、嬉しそうだな」
 搾る手を休めて、留三郎がこっちを見て言った。
「うん。柑橘の良い匂いがしてきたから、待ち遠しくなってきた」
「よぉし、もうちょっとだけ待ってろよー」
 張り切って果物を搾る留三郎の姿を見ながら、僕はもらった薬包紙をそっと握り締めた。

<end>

  >あとがき
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