うちでのこづち 第九話

 甘い期待は、あっけなく裏切られた。
「善法寺伊作くん、いますかー?」
 放課後、その夜の不寝番にそなえて、部屋で仮眠を取っていた。体は疲れているはずなのに、雑渡さんのこと、保健委員のこと、提出期限が迫っている課題のことなどが気になってなかなか眠れなかった。それでも寝返りを打つのにも疲れて、ようやくとろとろとまどろみ始めた時。廊下から間延びした甲高い声がした。
「はい……」
 無視して眠りたかったけれど、そんな訳にもいかない。僕は仕方なしに起き出すと、入り口の障子を開けた。そこに居るのは、僕より一才上の事務員さん。
「善法寺伊作くんに、お届け物です」
「僕に……?」
 いつものにこやかな笑顔で差し出されたのは、小さな風呂敷包み。
 何だろう。僕にそんな、人に物を送られるような覚えは……
 ……あ。
「医務室に行ってみたんだけど、今はこっちにいるって聞いて」
 小松田さんは、固まっている僕に包みを押し付けると、にっこり笑顔になった。
「善法寺くんに直接渡して下さいって頼まれたから。じゃあ、ちゃんと渡したからね」
「……ちょ、ちょっと待って下さい!」
 慌てて、踵を返して立ち去ろうとした相手の袖を掴んで引き止める。
「なぁに?」
「あの、あの……これは、どこから」
「どこって、さっき門の前を掃除してたら、忍者の人が来て。これを善法寺伊作くんに渡して下さい、って」
 忍者。それだけじゃ誰か分からない。動悸が激しくなる胸を押さえて、僕はおもむろに聞いた。
「その忍者は、顔に包帯をしていましたか?」
「包帯?ううん、してないよ。覆面はしてたけど」
 小松田さんは思い出すように首をかしげた。
「黒い忍び装束でね、覆面をして、……それで、目がくりっとして、眉がきりっとしてる風だったよ」
 ……雑渡さんじゃ、ない。
 その時僕はようやく小松田さんの袖を掴んだままなことに気付いて、手を離した。お詫びとお礼を言うと、小松田さんは特に気にした風も無く、じゃ、と去っていった。
 部屋に戻って風呂敷包みを開く。
 中から出てきたのは薬包紙だった。数えてみれば、十一個。開けて見るまでも無く、香りから、それが圭皮だと知れた。
 雑渡さんは、来てくれなかった。
 おそらく部下の人に、届けさせた……。
 その事実は、僕を打ちのめすのに充分だった。僕達が会う、これが最後の機会だったというのに。雑渡さんは来なかった。これさえあれば充分だろうとばかりに、薬だけ寄越した。無論、風呂敷に入っていたのは薬包紙だけ。手紙の類も、何も無い。
 借りは返された。これで、僕達の関係はもとに戻った。一軍の忍び組頭と、一介の忍たま、何の関わりも無い、知らないもの同士に戻ったのだ。
 僕は布団にへたりこんだまま、開けっ放しの障子から射す日に照らされている薬包紙を見下ろしていた。
 どうして僕は、こんなにも愚かなんだろう。
 雑渡さんのことが好きだと思いながら、少しもその気持ちに気付けなかった。雑渡さんはあんなに、僕に優しくしてくれたのに。どうして気付けなかったんだろう。どうして。
 ……判っている。僕は怖かったんだ。雑渡さんから好意を寄せられていると思い、それが勘違いだったらと思うと。僕の自惚れや深読みがそうさせていただけで、本当は好きでもなんでもなかったら、と思うと怖かったのだ。だから頑なに、雑渡さんは僕のことなどなんとも思ってないと、思い込もうとしていた。
 僕はなんと愚かで、臆病で、救いようの無い……。
「ふ……ふふふっ……」
 可笑しかった。もう、笑うしかない。
「あははっ、なんてことだろう。もう、ふふっ、ははははっ……!」
 笑いはどんどん腹の底から溢れてきて、止まらなかった。僕は布団の上にのたうって、笑い転げた。誰かがこの様子を見ていたら、笑い薬でも飲んだかと思うに違いない。そんな笑い。
「あははははっ、ああ、可笑しい。ふふふっ、ふ、う……」
 笑いすぎて涙が出てきた。あとからあとからこぼれて、仰向けになった目じりを伝って髪を濡らして行く。
 雑渡さん。
 貴方のことが好きなのに。
 こんなにも好きなのに。
 僕は想いを伝えることさえ出来なかった。愚かで臆病でごめんなさい。
 ほんの少しでも僕のことを好きになって下さって、ありがとうございます。
 そして……。
 起き上がって風呂敷を見た。風呂敷の上に散らばった、十一の薬包紙。
 僕の望みを叶えて下さって、ありがとうございました。
 散らばった薬包紙を集めると、元あったように綺麗に並べなおす。
 愚かでも、臆病でも。僕にはやらなければならないことがある。絶望に浸っている暇はない。
 暗い武道館に横たわる子達を思い出そうと努めた。節々が痛いと泣いていた一年生、厠へ行くのも一苦労だった二年生。疲れたように虚ろな目をして横たわる三年生。自分は大丈夫だから下級生をと言った四年生。そして、乱太郎。
 あの子達を助けるためなら、何だってする。そう決めたじゃないか。
 彼らのために、僕には出来ることがある。後悔することなんてない。
 薬を包むと制服に着替え、僕は医務室へと駆け出した。
 
 医務室の扉の前で、ばったりと数馬に出くわした。
「あ、先輩、ちょうどいいところに……!」
「ちょうどいいって……どうした、何かあった?」
 しかし数馬は、医務室に入ろうとする僕の腕を引っ張って、廊下の端へ連れて行った。
「先輩、左近の様子がおかしいんですっ」
「左近が?」
「顔が赤くて、ぼーっとして。なんか集中力がないみたいで、お茶をこぼしたり引き出しを間違えたりしていて。でも休んでろって言うと、仕事しますって、目を吊り上げて。なんか具合悪そうなんですけど、休みたくないみたいなんですよ。先輩、何とか言ってやって下さい!」
 数馬の話を聞きながら、悪い予感が込み上げてきた。
「新野先生は……」
「先生は武道館の方に詰めていらして。急患があったら呼ぶように、と。だから左近のこと、どうしたらいいか分からなくて」
「そうか、わかった」
 とりあえず左近の様子を見ようと医務室に入りかけ、ふと気がついて振り返った。
「数馬は、大丈夫?」
「はい?」
 さっきまでの切羽詰った表情はどこへやら。ぽかんとした、何を聞かれてるか分からない、という顔で、僕を見上げてきた。
「数馬は、どこか体の調子が悪かったり、疲れてたりしないか、って聞いているんだよ」
「あ……ああ」
 そこまで言うと、ようやく合点がいった、というように頷く。
「僕は大丈夫です。別に具合悪くないし、元気だし、そりゃ多少寝不足ですけど、でも課題とかは他の組の奴も手伝ってくれてるし、あの、みんな今、保健委員は大変だって知ってくれてますから。先生方も、それで」
 一生懸命。その言葉がよく似合う口ぶりの数馬は、最後は僕の顔をしっかり見上げ、強い調子で言い切った。
「だから、僕は大丈夫です」
「数馬……」
 まだ三年生だけど、委員長に一番近い学年だから。自分がしっかりしないと。
 普段のおっとりした雰囲気とは一味違う、そんな覚悟みたいなものが感じられた。ついこの間までは、同室の友人が紅朱熱にかかって、心配で不安で心細そうにしてたのに。今、懸命に大丈夫だと言い切る数馬がいとおしくて、抱きしめて頬ずりしたい気分になった。
 でもそんな子ども扱いをしたら、怒られるだろうな。頭をぽんぽんと叩くくらいにしておいた。
「ありがとう、数馬。寝不足は仕方ないけど、でも絶対に無理はするんじゃないよ。疲れたと思ったら、当番を休んでもいいからね」
「はい」
 言ってはみたものの、数馬抜きで当番を回すのは難しい。左近ならともかく、まだ一年生だけに当番をまかせておくのは不安が残るし、不寝番の負担を考えると、僕が放課後当番を務められる日は限られて来るし。
 それを知っているから数馬も大丈夫だと言ってくれたのだろう。しかし……。
 ともあれ左近の様子を見ようと、僕は医務室に入った。
 左近は伏木蔵と並んで座り、洗いあがった包帯を畳んでいた。でもいつものてきぱきとした手つきじゃない。細かい皺を苛立たしそうに伸ばしている。
「左近」
 上げた顔は、頬が赤かった。ちょっといいかな、と右手を額に、左手を首の後ろに当ててみると、どちらにもじんわりとした熱さを感じる。
「伊作先輩、僕はなんともありませんから……っ!」
「左近、なんともないなら、ちゃんと診てもらえ」
 立ち上がって逃げようとする左近の肩を、後ろから数馬が抑えた。その隙に手首を取ると、脈を見る。
「昨日は、当番は休みだったよね」
「はい」
「どうだった?昨日から熱っぽかった?」
「……いえ、今朝、ちょっと食欲無かったくらいで。でも、それだけですから!」
 否定する顔が赤い。でもそれは腹立ちのためだけじゃない。
 発熱してることは確かだ。ただ、この熱の高さと、急激な上がり方からすると……。
「左近、ちょっと武道館まで付き合ってくれるかな」
「え、でも」
 伏木蔵がせっかく畳んだ包帯を放り出して、慌てて立ち上がった。一般の生徒は、保健委員であれ、絶対に武道館に近づいてはいけないことになっている。
「左近は一度紅朱熱に罹っているから、大丈夫だよ。新野先生にこちらへ来ていただくよりも早いからね」
 数馬と伏木蔵に笑いかけると、僕は左近に手を伸ばした。
「おいで、左近」
 笑っている、つもりだけれど。気が焦っているせいか、上手く笑えてる自信がない。でも左近は僕の顔を見て、不承不承、といった風情で手を取った。

 結局、左近も紅朱熱だった。
 左近自身は紅朱熱にかつて罹ったと思っていたようだが、違ったらしい。おそらく親御さんの記憶違いか、当時診察した医者の誤診ということではないかと思う。しかし、自分は違うと言い張る左近を宥めて、武道館に寝かせるまでが一苦労だった。
「左近くんも紅朱熱とはねえ……」
「……申し訳ありません」 
 保健委員から二人も病人を出した、その責任は僕にある。
 相手が病気なだけに、僕だけが責められる筋合いのことではないだろうけれども。けれどこの二人の罹患の原因の一端は、僕にもあるのだ。
「善法寺くん。自分を責めても仕方ありませんよ。それで二人が治るわけじゃなし」
 新野先生はいつもと変らない穏やかなお顔で、にっこり笑った。
「大事なのはこれから、です。これからどうするか……」
「あの、そのことで、お話があります」
「何でしょう?」
 保健室当番の数馬と伏木蔵を帰したところだった。これから申し送りをして、僕は武道館の不寝番に、新野先生は自室へ戻られるところで、今は医務室に二人きりだ。
 ちょうどいい。僕は懐から風呂敷包みを取り出し、開いて見せた。
「これは?」
「圭皮です。十一人分あります」
 いつも落ち着いている新野先生が、息を呑んだ。それでも、一包み手にとって開いてみる。形状、色、香りからして、それは圭皮に間違いなかった。
「善法寺くん、これを、どこで……!」
 珍しく先生は声を荒げた。それもそうだろう、あれだけ探し回ってもなかったものが、ぽんと目の前に現れたのだから。
「ええと……ある方に頂きました」
「ある方、とは?」
 正直に言っていいものかどうか。口を噤んでいると、先生は風呂敷ごと包みを押し返してきた。
「好意はありがたくても、出所のよく分からない怪しげなものを、薬として生徒の口に入れる訳にはいきませんね」
「新野先生……!」
 どうして。あんなに苦しんでいる生徒達がいるというのに。
 でも先生の仰る通りだ。もしこれが圭皮に見せかけた別の薬なら、今よりもっと酷いことになる可能性もある。それを考えれば、警戒するのは当然だ。
 仕方ない。ここは本当のことを言うしかない。
「あの……課題で、オーマガトキ軍とタソガレドキ軍の合戦場に行った時、怪我人がいたので手当てしたのです」
 どこから話せばいいのか分からず、僕は始めから全て話すことにした。
「その中に、忍者の人がいて。その人はつい最近、忍術学園にやってきて、お礼がしたいと仰いました。借りを返すと。でもその時は特に何も思いつかなかったので保留しておいたのですが、紅朱熱が学園内に流行ったため、圭皮を手に入れてくださるよう、お願いしたのです」
 言いたくない部分を省略すれば、ごく簡単な話だった。自分でもあっけなく感じたくらい。僕の短い話を、新野先生は難しい顔をして聞いていた。
「それで、その人というのは?」
 黒装束に白い包帯。板でも入っているかのような真っ直ぐで揺るがない背筋。
 そうだ、この医務室に来て、あの人は名乗ったのだ。秘密にしておくことはない。新野先生には、この医務室であったことの一部始終を知る権利がある。
「……タソガレドキ軍忍び組頭、雑渡昆奈門さん、です」
 それを聞いて先生は目を丸くして驚いておられたが、やがてほーと息をつかれた。
「また、えらく大物に行き当たったものですね」
「ええ。僕も驚きました」
「でも確かに……それぐらいの大物であれば、これだけの量の圭皮をそろえるのも、不可能ではなかったでしょうね」
 先生の目はまた、風呂敷包みに注がれた。
「実は利吉さんにも、薬の探索を頼んであったのですよ。知っているでしょう、山田先生のご子息の」
「はい」
 山田利吉といえば、有能なプロ忍者だ。そうか、そんなところに伝手があったんだ。
「でもまだ何の連絡もなくてね。利吉さんですら掴めない薬の行方を突き止めて、更に手に入れることが出来るなんて……。確かに、タソガレドキのような大きな軍の、忍び組頭ほどの地位でもなければ、不可能かもしれませんね」
 そうか、雑渡さんは利吉さんを出し抜いたのか。……利吉さん一人でも充分凄い人なのに、その人を軽く超えてしまえる雑渡さんは、本当にどんなに凄い人なんだろう。
 やっぱり一介の忍たまが相手に出来るような人じゃないのだ。雲の上の、手の届かないところにいる人。会えなくて、それで正解なんだ、きっと。
 例えこの胸がどんなに痛んでも。
「……受け取って、いただけますか」
 さり気なく、風呂敷包みを先生の方へ押し出した。しかし、先生はまだ考え込まれている様子だ。
「これを使って、善法寺くんに何か不利益になるとか、そういうことはありませんね?」
「は?」
「これだけの量ですからねえ……。どんな怪我の手当てをしたのか知りませんが、少し多すぎやしませんか。ああ、君はその組頭とかいう人の、命の恩人なのですか?」
 命の恩人……とかいうほど大袈裟なことじゃない。そもそも、命に関わるような大怪我じゃなかったし。負傷から早く回復した、と言ってたし。
 そうか、確かに、この圭皮がどこに行っても手に入らない昨今、十一人分というのはかなり多いのかもしれない。雑渡さんも、手に入れるのが大変だっただろうか。
 でも。この薬と引き換えに、僕は雑渡さんを失うのだ。
 それを思えば、決して多すぎるということはなかった。これで適量、なのだ。
「命の恩人、というほどのものではありません。でも、手当てをしたことを随分と感謝しておられましたし……これのせいで僕が見返りを要求されたりとか、そういうことはないと思います」
 むしろ見返りを要求されたいくらいだ。どんな無茶なことを要求されたとしても、そうすれば雑渡さんとまだ繋がっていられるから。
 そう考えて、流石に馬鹿だなと思った。新野先生が心配して下さっているというのに、何を考えてるんだろう、僕は。
「それならいいのですが……」
「ええ、大丈夫です。それよりむしろ、これを頼んだ時、紅朱熱に罹っていたのは十一人だったので十一人分お願いしたのですが……左近の分は、どうしましょう」
「それは大丈夫でしょう。下級生の中には体重の軽い子もいます。十一人分を十二人で分けるくらい、なんともありませんよ。むしろ、保健委員以外のところでは感染が止まっていて、本当に良かった」
 確かに。最初の頃のようにぱたぱた病に倒れていては、十一人分あっても追いつかないところだった。
 こんなことなら、もっとふっかけておけば良かった。……そう思うと、笑みが浮かんできた。あの時僕は、雑渡さんのことで頭が一杯だった。そんな余裕なんてなかった。
「では、さっそく薬を作りましょうか」
 立ち上がると、先生は僕に笑いかけてくれた。
「善法寺くん、手伝って下さいね」
「勿論です……!」

 材料を揃えて、煎じて、少し冷ます。鍋ごと武道館へ持って行き、用意しておいた人数分の湯飲みに分ける。少し多めのものは上級生に、少なめのものは体の小さな者に。
 ほぼ全員に飲ませたところで、左近に声をかけた。
「薬だよ、左近、起きて」
 眠ってはいなかったのか、左近はすぐに起き出してきたものの、湯飲みを渡されると実に嫌そうな表情になった。
「……これ、飲まなきゃいけませんか」
「飲まなきゃ駄目。絶対、飲んで」
 時折、医務室で煎じた薬を味見することがある。左近も何度か味見してみたけれど、まあ、ああいう薬が美味しかった例なんか無い。不味いと分かっているものを、飲みたくない気持ちは分かる、けれど。
 この薬だけは飲んでもらわないと。僕が対抗して怖い顔をすると、分かりました、と左近は湯飲みに口をつけた。そのまま一気に、流し込むようにして飲む。
「……伊作先輩が怖い顔して見せたって、ちっとも怖くありませんけど」
 湯飲みを返しながら、愚痴るように言う。憎まれ口を叩く余裕があるなら大丈夫だと、嬉しくなって頭を撫でた。
「あの、先輩」
 頭を撫でられて凄く嫌そうな表情をしていたけれど。再び横になって、顔の半分まで布団に潜ると、小さな声が聞こえてきた。
「何?」
「……ご迷惑おかけして、すみません」
 何を謝っているのか、分からなかった。
 紅朱熱に罹っていなかったのに罹ったことがあると言っていたことか。
 病で倒れたため、医務室当番を務められなくなったことか。
 他に思いつかないけれど、どちらも左近のせいじゃない。左近は悪くない。
「いいんだよ。今は何も気にしないで、ゆっくりお休み」
 頭をなでようかと思ったけれど、また嫌な顔をするかもしれない。そう思って、布団越しにぽんぽんと背中を叩くくらいにしておいたけれど。本当はぎゅっと抱きしめて、思いっきりよしよししてやりたかった。
 数馬といい左近といい。どうしてこう、みんな健気なんだろう。
 最後に乱太郎を起こした。眠っていたらしい乱太郎が目を開けたところで、そっと抱き起こす。
「薬が出来たから。飲んで」
「え……?」
 薬のために起こされるとは思ってなかったのだろう。ぼんやりしている顔の前に、湯飲みを差し出す。
「打出の小槌で出した薬で作ったからね。この薬はよく効くよ。さあ、飲んで」
 耳元で囁けば、乱太郎は湯飲みを手に取った。そのままゆっくりと、何度かに分けて飲み下す。
 全部飲みきったところで、湯飲みを受け取った。背中に手を添えて、そっと寝かせてやる。
「ちゃんと薬を飲んだから、もう、すぐに治るからね。……お休み」
 目蓋の上に手を置いて目を閉じさせると、すぐに寝息が聞こえてきた。熱の割には安定した寝息で、乱太郎は大丈夫そうだ。
 顔を上げれば、新野先生が湯飲みを回収して回っているところだった。先生の方は、もうみんな飲ませ終わったらしい。
 僕も湯飲みを持っていこうと立ち上がり……目の前が傾いだ。立ちくらみだ。いきなり立ち上がったから。
「あれ……?」
 僕はその場にぺたんと尻餅をつき、そのまま上半身まで倒れてしまった。盆に乗せていた湯飲みが転がる。どうしたんだろう、体が凄く重くて、支えていられなかった。
「善法寺くん……!?」
 新野先生の慌てた声がする。大丈夫です、と起き上がろうとして、目の前が真っ暗なのに気付いた。貧血のせいか何なのか、目を開いているのか閉じてるのか、自分でもよく分からない。ただ、腕に力が入らない。身を起こせない。
「善法寺くん、どうし……凄い熱だ」
 額に置かれた新野先生の手が、冷たくて気持ちいい。でもすぐその手は離れて、腕をとられた。右腕と左腕、片方ずつ。
「この脈の感じといい、急な熱の上がり方といい……紅朱熱ですか、まさかそんな!?」
 ようやく重い目蓋が開くと、灯明に照らされた、新野先生の驚いた顔が見えた。
 今日は新野先生を驚かせてばっかりだ。そう思うとなんだか申し訳ない。
「薬を全員に飲ませた後で発症するなんて……どこまで君は不運なんですか……!」
 嘆くような叱るような声を聞きながら、もう重い目蓋を開けてられない。ごめんなさい、と言ったけれど伝わったかどうか。僕の意識は闇へ落ちていった。
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