目の前には絶景。目の下一面に田んぼが広がり、あちこちに点在する家。その間を縫うように流れて行く川。正面になだらかな山。
おまけにこの晴天。頭上には雲ひとつ無いいい天気。
伸びを一つ。座った状態だから上半身しか無理だけど、背筋が伸びると気持ちいい。
僕は裏々々山の断崖絶壁に生えている、杉の木のてっぺん近くの枝に座っていた。ここは裏々山を挟んでちょうど忍術学園の裏側に当たる。山の中の盆地に面していて、しかも山の斜面の切り立った場所の更に上だから、かなり見晴らしが良い。
さて。僕は懐から小さな笛を取り出した。
小さな細い竹で出来た笛は、僕の手のひらにすっぽりと納まっていた。
これを忍び組頭が僕にくれたのが三日前。この笛の音を聞けば、忍び組頭がやってきて、僕の望みを叶えてくれるらしい。……まあ、実際はそんな魔法めいたものじゃないけど、ともかく原理的にはそんな笛。組頭がこの笛の音を聞いた時、来れるようなら来てくれる、というもの。
本当は、こんなものをもらっていいのかどうか悩んだ。結局、つき返すのも悪くて受け取ってしまったけれど、多分、この笛を使うことはないと思う。
あの忍び組頭は、知れば知るほど凄い人で……例えあの人に貸しがあるにせよ、何かをお願いするなんて、僕には出来そうも無い。
でも、それはそれとして。あの人が手作りしてくれたというこの小さな笛、吹けばどんな音が出るのだろう。それが気になって、とりあえず試しに吹いてみようと、今日はこんなところまで来たのだった。
この時間、うちのクラスは先生の都合で自習になったけれど、他の学年やクラスはまだ授業があるはずだ。それに、校外ランニングや実習でも、来るのはせいぜい裏々山までで、切り立った岩場や崖の多い裏々々山まではあまり人は来ない。もちろん、ここからタソガレドキ城までは歩いて数日かかるし、三日前に忍術学園に来たばっかりの忍び組頭が、今こんなところをうろちょろしているとは思えない。試し吹きには絶好のチャンスだった。
僕は思いっきり息を吸うと、吹き口と思しきところに、そっと息を吹き込んだ。
ぴるぴるぴるぴ〜。
吹いてみると、意外と可愛い音がした。甲高くて、鳥の声のようにも聞こえる。
「へえ……面白い」
音程を調節する仕掛けはなさそうだから、吹き方を加減してみるといいかもしれない。今度は少し強めに吹いてみた。
ぴるぴるぴるる〜。
うん、吹き方によれば、かなり鳥の声っぽく聞こえるかもしれない。
もうちょっと工夫してみようと、息を吸い込んだその時だった。
「……呼んだ?」
がさっという音、座っていた枝が軽くたわみ、人の気配。横を向けばそこに、黒装束の覆面と包帯と右目と。
僕はとっさに立ち上がろうとした。が、ここは杉の枝。立ち上がる時踏みしめる床などあるはずも無く、僕は枝から滑り落ち。
「うわあああああっ!!」
落ちる!ここはかなり背の高い杉の木の、てっぺんに近い枝、しかも断崖絶壁の端のほうに生えてた木で、下手したら崖下に落ちる……!
「ほんっとに君は、忍者に向いてないねえ」
しかし僕は、崖下に叩きつけられずに済んだ。あろうことか、枝にしゃがみ込んだ忍び組頭が、僕の左手首を掴んでくれたのだった。
思わず下を見れば、断崖絶壁の真下には岩がごろごろしている。あそこに落ちていたら命は無かっただろうと思うと、流石にぞっとした。
腕一本。左手首を掴んでくれているから、辛うじて落ちずにいる状況。
組頭が今、手を離せば。僕は崖下へまっさかさま……。
「あ、ありがとうございます……」
組頭が左手を枝に捕まらせてくれたので、後は両腕でしがみつき、何とかそこから枝の上に這い上がる。組頭は場所を譲ったのか、幹に捕まらせてくれた。
「こんな高いところにいる時に、びっくりしちゃ駄目だよ。危ないからね」
……その、びっくりさせたのは誰なんですか。
そう言いたいけれども、口には出せない。何せ相手は命の恩人なんだから。その恩人は、どういう訳か、にこにこと機嫌よさそうにしていた。
「まあ、立ち話もなんだし、座れば」
「はあ……」
後から考えれば、ここで木から下りればよかったのだけれど。その時は落ちた恐怖でどきどきしていて、後先考えられず、すすめられるままに座ってしまった。
一つの枝の、幹の方に僕が座り、その隣に組頭が腰掛ける。
「しかしその笛、よく響くね」
組頭が、僕がずっと右手に握っていた笛を指して言った。
「いやあ、タソガレドキ城で昼寝してたら、笛の音が聞こえただろ?伊作くんが呼んでる、と思って急いで飛んで来たんだよ。お願い事は決まったのかい?」
右目の目じりが下がって、何やらにっこりと、嬉しそうだ。
「えーとあの。ここからタソガレドキ城まで、歩くと何日もかかると聞いたことがあるんですが」
「忍者の足ならそんなにかからないけどね。それで?」
「そんな遠くまで、笛の音が届くんですか……?」
「うん、だからよく響くね、って」
僕はがっくりと落ち込んだ。どうしたらいいんだろう。ここはやっぱり目上とか関係なく、ノリに任せて『んな訳あるかボケぇ!』とか突っ込みを入れるべきなんだろうか。
それにしても。僕はこの人に、よっぽど嘗められているに違いない。
でも仕方ないのか……。前回会った時も、あやうく悲鳴を上げそうになるのを止めてもらったし。今回はみっともなくも落ちかけたところを助けてもらったし。僕はこの人の前で醜態を晒しまくりだ。嘗められるのも仕方あるまい。がっかりだけど。
しかし、それはともかく。
タソガレドキ城は嘘だとしても、とりあえず、この笛の音が届く範囲にこの人はいた訳で。こんなところで何をしていたのだろう。
「組頭さんは、どうしてこちらへ?この辺りで何かお仕事でも」
そうだ、と言えば、それ以上は突っ込んで聞かないつもりだった。でも、忍び組頭は僕の問いかけに、変な顔をするばかりだった。
「あの……?」
さっきまでどういう訳か機嫌がよさそうだったのに。どうしたのかと思ったら、あのね、と切り出した。
「その、組頭さん、っていうのはどうなの」
「そう言われましても……なんとお呼びすれば」
「ちゃんと名乗ったよ。覚えてない?」
「覚えています。雑渡昆奈門、さん」
「よろしい」
試験じゃあるまいに。でも取り合えずこれは、名前で呼べ、ということかもしれない。
「じゃああの……雑渡さん」
「はい」
「どうしてこんなところにいらしたんですか?まるで僕が笛を吹くのを見計らっていたかのように……」
「そりゃ、見計らってたからね」
「え?」
ぎょっとした。確かにこの人は凄腕だろうけれども。それでもまさか、うちの授業が自習になったことまで筒抜けなんてことはない筈。
脇の下に冷たいものを感じながら凝視すれば、組頭は淡々と種明かしをしてくれた。
「君は笛をもらった。でも、翌日すぐふらりと笛を吹きに行けるほど、君も暇人じゃない。時間を作って、しかし昨日は朝から昼過ぎまで雨だった。……昨日の夕焼けを見てね、明日あたりかなあと思って、休暇取って様子を見に来たんだ」
「休暇って……」
授業の有無とかが漏れてた訳じゃないと分かってほっとしたけれども。でもこの人は、そもそも僕が試し吹きをしなかったらどうするつもりだったんだろう。
「ま、それ以外にも色々あってね」
色々。気にはなったけれど、それこそ仕事絡みかもしれない。なら聞かない方がいい。
隣で雑渡さんが少しこちらに詰めて座りなおしたので、僕も幹側へ寄って座りなおす。
「それにしても、我ながらいい音色だ。よく響く」
うんうん、と、覆面の顔を何度か頷かせる。
「これならお堀端に立てば、かなり聞こえるんじゃないかな。ああ、東側に山があるから、そこに登ってみるのもいいかもしれないね」
こうして居場所のヒントをくれるからには、やっぱり使えということなんだろうな、この笛を。ひいては、打出の小槌を。
「ところで、何をお願いするか決めたかな」
ほらきた。いきなりそんなことを聞かれても。
「えーと、あ、じゃあですね、今さっき助けてもらったので、それで貸し借りなし、っていうことで……」
我ながら名案だと思ったのに、雑渡さんは、えー、と口を尖らせた。
「驚かせたのはこっちなんだから。それに、最近は部下もしてくれないようないいリアクションだったからいいんだよ。こんなことで借りを返したことにしちゃ、君に悪い」
……この人は、部下にもこんな悪戯をしてるんだろうか。なんだか、この人の下についたら色んな意味で鍛えられそうだ。
それはともかく。願い事、と言われても。
今回は頼みたいことがあって吹いた訳じゃなくて、ただ試しに吹いてみるだけのつもりだったから。何も考えていない。大体、今回は三日前に会ったところだし、そうかと思えばその前は十日以上放置されていて。この人もマメなんだかそうじゃないんだか。
また雑渡さんがこちらに詰めて座りなおす。僕も幹側に寄って、ほとんど幹にぴったり体をくっつける形になる。
「例えば、今現在、特に望むものが無くても、何か金目のものとか、金品を要求すればいいのに。そうすれば後で何にでも使えるだろう」
「まだ学生の分際で、あまり多すぎる金品を持つことはよくありません。無駄遣いを覚えそうで」
「真面目だねえ」
「というか、持ちなれていない物は管理するのが大変そうですし」
「まあね。確かに、私もそういうお茶を濁すようなことじゃなく、ちゃんと君の役に立つようなことがしたいよ」
「ありがとうございます。ですが、あの……」
「何だい?」
「どうしてそう、こちらに寄って来られるのですか?」
さっきから頻繁に雑渡さんはこちら側へ寄ってきて、僕はすっかり幹と雑渡さんの間に挟まれてしまっていた。身動きの取れない状況で、それでも何故かこの人は身を摺り寄せてくる。
「いや、この枝がね。さっきからみしみしいうんだけれど……」
「え!?」
そういうことは早く言って下さい!と、僕が言おうとした時だった。
みしっ……めりめりめり……ばきっ!
「わ、うわあああああっ!」
腰掛けた尻の下で、枝の折れる音がした。
体が宙に投げ出される。落ちる。何か掴まるもの……とっさに見えた枝に腕を伸ばすけれども、細すぎてあっけなく折れる。さっき見た岩場が目の前に甦る。流石にあそこに落ちたら!
訓練された体は受身の態勢を取ろうとするけれど、それでもきっと無理っ……!
「大丈夫かな?」
……この人は、どういう手品を使ったんだろう。
背中の一部と膝の裏に重さがかかるのを感じたと思ったら、僕は雑渡さんの腕の中にいた。もちろん、岩場ではない地面の上、今までいた杉の木の根元に。
「あ……」
僕は抱きかかえられているようだった。肩の後ろと、膝の裏に雑渡さんの腕を感じる。まるで小さい子供にするみたいに抱きかかえられて、なんだか恥ずかしい。
「あの、ありがとうございます」
見上げれば、ちょうど顔の後ろ辺りに太陽があって、逆光になって眩しい。でもお礼を言うのに顔も見ないで言うのは失礼なので、眩しいのを我慢して見上げていたら……なんだろう。
子供のように抱き上げられてるだけなのに。引き寄せられて、抱きしめられてるような。守られているような。そうだ、今日は二度も助けてもらった。
「しかし伊作くん、君は意外と華奢だね。思ったより軽いし」
一度ならず二度までも助けてもらって。なんとお礼を言ったらいいかと考えていたら、これだ。
「忍者になりたいんだったら、もっとちゃんと力つけないと駄目だよ」
「……ほっといて下さい!」
この人に言われると、なんでこう堪えるんだろう。相手はプロでしかも一軍の忍び組頭で、僕とは比べようもないほど凄い人なのに。比べるほうが間違ってるのに。それでも自分の至らなさを思い知らされる。
この人は自分も落ちながら、僕を引き寄せ、足場のあるところへ、僕という荷物を抱えながら着地し、なおかつ今もこうして抱き上げたままでいる。どう鍛えたら、こんなことが出来るようになるんだろう。
「あの、降ろしてもらえませんか」
そう言うと、ようやく雑渡さんは僕を解放してくれた。ご丁寧に足から着地させてくれる。
「今日は二度も助けて頂いて、どうもありがとうございました」
「どういたしまして。……でもこれで借りを返したとは思ってないよ」
なるべく丁寧に頭を下げる僕に、しかし雑渡さんはさらっと言う。
「前にも言ったけど、私は君に、望みを言わせてみせるからね」
僕の望み。何なんだろう。僕も知らない僕の望みを、この人は知っているというのか。何故。どうして?
よく分からないけれど、望みを言うというのは、心のありようを露にすることと同じ。服を脱がされるような、何か自分というものを暴かれるような、不安な感じがした。
雑渡さんは、僕なんかを暴いてどうしようというのだろう?僕はただの忍たまで、保健委員という以外には特に取柄も無い、どうでもいい存在だろうに。
視線に不安なものが混じるのを感じとったのか、雑渡さんは右目だけでにっこり笑ってみせた。
「試し吹き以外にその笛を使ってくれることを、待ってるよ」
そう言い残すと、僕の前からその姿が消えた。斜め前方の枝に飛び移ったところまでは見たけれども、その後すぐに、いくつもの枝が揺れ、もうどこにいるのか分からない。いつもながら、鮮やかな消えっぷり。
こんな凄腕の忍者が、どうして僕に関わるのだろう。雑渡さんは何を考えているのだろう。去り際の笑顔は何だか楽しそうだった。リアクションがいい僕をからかっているんだろうか。
人を驚かすのが好きで。
義理堅くて。
手先が器用で。
タソガレドキという大軍の忍び組頭で。
僕なんか片手で抑え込めるような、凄腕の忍者。
「はあ……」
この笛を使う日が来るとは思えない。できればこのまま、うやむやにしてしまいたい。
笛を使わなければ、雑渡さんに会うこともないだろう。……いや待て、神出鬼没のあの人のことだから、またいつ何処で出会うか分からない。
とりあえず、筋トレでも始めてみようかな。またあの人に会っても、へこまなくていいように。
うん、そうしよう。体術は苦手だけれども、もう少し鍛えるんだ。そう決意し、心の中のもやもやを押さえ込むと、僕は学園に向けて走り出した。