「たあああああっ!」
裂帛の気合と共に繰り出される突きは、腕というより丸太だ。真っ直ぐに突き出されるそれに当たればひとたまりも無い。僕は避けるので精一杯だ。
しかし何度かかわした後、呼吸を読んで突き出された腕の下へもぐりこみ、その丸太のような手首を掴む。一気に背負い投げると、しかし文次郎は空中で猫のように身を捻り、ぎりぎりだが足から着地した。
躊躇してる暇は無い。着地して立ち上がる前の文次郎に蹴りを繰り出す。しかしその足は側頭部を狙ったつもりが、文次郎が地に伏せたため空振りする。ええい、空振りの勢いを利用して、留三郎直伝の回し蹴りを食らわす……つもりが、中腰まで身を起こした文次郎はこれまた器用にかわし、あろうことか、一気に間合いを詰めてきた!
「……ぐっ!」
文次郎の肘撃ちは、僕の顔の直前で寸止めされた。
かわせない。ここまで間合いを詰められては、逃げるのも難しい。
「当たればいい蹴りなんだけどな。留三郎と違ってお前のは、狙いが大雑把過ぎる」
肘撃ちしようと上げていた手を下ろし、間合いを取ると、文次郎は鼻で笑った。
「これでも手加減してるんだぞ?それでこのザマか。やっぱりヘタレだな、お前は」
「ぐ……っ!」
腹が立つ。文次郎にヘタレと言われるのはいつものことだけれど、腹が立つ。しかし、この惨敗の前では、何も言えない。
「いさっくん、そういう時はね、思いっきり蹴り上げちゃえばいいんだよ」
ずっと横で見守っていた小平太が、にこにこ笑っている。
「寸止めでやめた文次郎が甘いんだから。間合い詰められた時は、思いっきりがつんと、膝でやっちゃうといいんだよ」
思いっきり膝で蹴り上げる……急所を、か。小平太は容赦ないな。僕は溜息をつくと懐から手拭を出し、汗を拭った。
裏々々山で雑渡さんと会った次の日の夜から、僕は文次郎と小平太の夜の自主トレに参加させてもらってた。もちろん三人とも委員会やその他実習や課題があるから毎晩という訳にはいかなかったけれど、それでもなるべく参加して、小平太と一緒に走ったり、文次郎に体術を教わったりしていた。
もともと格闘はあまり得意な方ではなかったけれども。それでも、半月以上自主トレを続けて少しはマシになったかと思ったのに、この有様だ。手加減してくれた文次郎にも叶わないようじゃあ、雑渡さんには太刀打ちするどころか、抵抗さえ出来ないだろう。
それにしても、見ればあれだけやりあった後だというのに、文次郎は涼しい顔してこちらを見ている。その顔に『ざまあねえな』と書いてあるようで、ますますもって悔しい。
「あ、そうだ、文次郎」
何気ない振りをして、手拭で顔を拭きながら文次郎に近寄る。
「何だ?……ぶはっ」
頃合を見て、文次郎の顔に手拭をぶつける。一瞬ひるんだその隙に後ろへ回ると、僕は文次郎の左腕を思いっきりねじ上げた。
「んなっ……卑怯だぞ、伊作!」
「何とでも言えっ」
左腕をねじ上げた上に、右手を後ろ手に押さえつけるだけで結構大変なのだ。文次郎の馬鹿みたいに強い腕の抵抗を抑えつつ膝の後ろを蹴ると、文次郎はがくんとその場に膝を付いた。
「いいぞ、いさっくん!もっとやれ!」
楽しげに囃し立てる小平太の声。参加する気も止める気もないみたいだ。ならどうするかな、僕は折れるぎりぎりまで腕を捻り上げた。くぐもった声と同時に、文次郎の抵抗がふっと止まる。次の瞬間。
「ぐええっ!」
ひざまずいた状態から、文次郎が後ろに向けて倒れて来た!あり得ない。避けられなかった僕は、文次郎の体に文字通り押しつぶされた。文次郎の石頭が僕の鳩尾に直撃して、苦しい!
思わず手を離したら、文次郎は素早く身を返し、僕の上に馬乗りになった。それで下半身の抵抗をおさえ、右手で左手首を、左手で右手首を掴み、それぞれ耳の横あたりでがっしり拘束する。
「ふん。ヘタレのくせに、俺の後ろを取ろうなんざ十年早いんだよ」
「……もん、じろうっ……」
鳩尾に思いっきりきた。おまけに今、ちょうどその辺りに文次郎に乗っかられて、咳き込みたいのに息が上手く通らない。喘ぎながら名前を呼ぶと、苦しいのが分かったのか、文次郎はさっと僕の上からどいてくれた。起き上がって咳き込んで、ぜいぜいと息をつく。
「こ、この程度でへばってるようじゃ、まだまだだなっ。これでは鍛錬が足らん!おい小平太、裏々山を一回りするぞ、付き合えっ!」
「えー、今からあ?」
そう言いながらも、小平太に異存がある訳ない。立ち上がって、文次郎の横に並ぶ。
本当にこの二人は元気だよなあ……。もう付き合いきれない僕は、座ったまま、行ってらっしゃい、と手を振った。
「じゃあね、いさっくん。いってきまーす!」
小平太は大きく手を振りながら、塀に飛び上がるとすぐ姿を消した。文次郎は塀の上からちらりとこちらを振り返ると、同じく消えた。なんだか珍しく顔が赤かった気がするけど、まあ、文次郎の呼吸を乱したとしたら僕にとっては成果かな。
ともあれ、僕はもう長屋に帰ろう。そう思って立ち上がった時だった。
「……ひょっとして、トレーニングしてるんだ?」
「ひゃああっ!」
暗がりから突然現れた黒装束。覆面の間から覗く包帯と右目は……雑渡さん!
「今の子達は、友達?」
「え、ええ。クラスは違いますけど、同じ学年の、仲間です」
驚いた。今まで長屋や医務室に現れたことがあって、それは僕が居ると簡単に予測できる場所だったけれど。こんな自主トレのためにたまたま来た火の見櫓の真下に現れようとは。
まさか僕のことを学園中探し回ったんだろうか。……この人ならやりかねない。忍術学園に忍び込むというリスクを犯している以上、毒を食らわば皿まで、とか言いそうな気もする。
暗がりの中で僅かな月明かりが、黒装束の輪郭が縁取った。
「ふぅん。伊作くんってやっぱり、体術苦手なんだねえ」
……やっぱり、って。雑渡さんはいつも、さり気なく酷いことを言ってくれる。
でも確かに、さっきのトレーニングの様子を見てれば、そう思われるのも無理は無い。一方的に、文次郎にしてやられてたもんなあ……。
「だからって、そんなトレーニングとか、しなくていいのに」
「え?」
意外や意外。まさか雑渡さんの口からそんな言葉が出ようとは。
「だって、忍者になるんなら力つけないと駄目って言ったのは、雑渡さんですよ?」
「そんなこと言ったっけ?」
「言いましたよ!」
おかしいなーと言いつつ首を捻る雑渡さん。いや確かに、雑渡さんにそう言われたというそれだけが理由で、自主トレを始めた訳じゃないけど。だけど、それは大きなきっかけだったから。それなのに、言った本人が忘れてるなんて。ちょっとがっかりだ。
「でもさ、君はその医術の腕前と薬の知識があるから。それがあれば、あちこちの城から求人が来て、引く手あまたなんじゃない?」
「……そんなもんでしょうか」
就職。もう最高学年で、春が来れば学園を出なければならない。その後どうやって身を立てるか、というのは大きな問題だった。しかし学園にいるうちは、あまり大っぴらに情報収集も出来ない。
「うん。まあ、あんまり小さな城だと、何でもこなせる奴の方がいいかもしれないけどね。うちくらいの規模だと、専門性が高い奴がいてもいいと思うし」
とすれば、これはいい機会なのかもしれない。何せ目の前に、現役の忍び組頭がいる。僕は知りたかった。こんな僕にも値打ちはあるのかどうか、あるとしたらそれはどの位のものなのか。
「じゃあ……例えばの話ですが。タソガレドキ忍軍は、僕を雇ってくれますか」
ぱちくり、と雑渡さんの右目が驚いたように見開かれる。
言ってから、まずいかな、と思った。実を言えば、タソガレドキ忍軍に就職したいとはこれっぽっちも思ってない。それなのに、例え話でもこんなことを聞くのはあまりに不誠実かもしれない。
しかし、そのタソガレドキ軍の忍び組頭は、ちらりと僕の顔を見ると、首を傾げた。
「それなんだよねえ。うーん、悩ましいな」
悩ましい?それはどういうことなんだろう。見つめる僕の前で、雑渡さんは腕を組んだ。
「確かに今、手当ての上手い奴が一人くらい欲しい。だから君はうってつけだ。だけど、私は君の上司にはなりたくないんだよねえ」
それはつまり、能力的には悪くないけど、人格的に問題があるということ?うわ、それは、お前みたいな落ちこぼれは要らないと言われるより、よっぽど堪える。
しかし忍び組頭が口にしたのは、僕の思ってもみないことだった。
「私は君に『合戦場では敵の手当てはしちゃいけません、味方の手当てだけしなさい』って言いたくないんだよね。敵味方の区別無く、人を助けるのが君だと思ってるから。でも上司としては、言わざるを得ないよね。タソガレドキ忍軍に就職しちゃったら、タソガレドキのことを第一に、他を蹴落とすことを考えてもらわないとね、いけないし」
……そうか、そういうこと。
今まであまり考えたことがなかったけれど、でも確かに、そういうことなんだ。どこかの城に就職するということは、それ以外の相手を敵にまわすということ。だけどそれで僕は、やっていけるだろうか?例え敵でも、目の前に傷ついている人がいたら、手当てしてしまうだろう。でもそんな、仕えた城の利益より自分の主義を優先する奴に、城づとめが勤まる訳が無い。城づとめをしていい筈が無い。
かといって、フリーでやっていけるほど、僕に実力があるとは思えないし……。
「ところが、君を守りたいって気持ちもあるんだよね」
続けられた言葉に顔を上げる。いつの間にか俯いていたらしい。
「そもそも、君をよその城に取られたくない。君を敵にまわしたくない。手元に置いて守りたい。だけど上司にはなりたくない」
「雑渡さん……?」
月が動いたのか雑渡さんが動いたのか、その姿はまた闇の中に溶けていた。輪郭を失う黒装束の中に、包帯の白と、健康的とは言えない肌色と、白目がちな目だけが浮かぶ。
「……本当に、悩ましいよね、君は」
その目は、じっと僕を見ていた。値踏みするのでも、品定めするのでもなく。
前からずっと思ってた。この人は僕をどう思っているのだろう、と。僕はこの人に醜態ばかり晒しているけれど、何故か嫌われてはいないようだと。
そうかもしれない。何故だかわからないけれど、僕を見るこの目は何だか優しい。
雑渡さんの手が僕の頬に触れた。避ける間もなく、温かくて大きな手が、僕の頬をそっと包み込む。
「……っ!」
次の瞬間、胸を突き飛ばされた。勢いに耐えられず尻餅をつく、と同時に地に刺さる苦無。
その苦無は正確に、今まで雑渡さんが立っていた位置に刺さっていた。
「伊作、無事かっ!?」
見れば文次郎が塀から飛び降りてくるところだった。凄い勢いでこちらへ駆けて来る。
「おい、今ここに誰かいなかったかっ!?」
「誰かって……誰?」
「だから!誰かここに居なかったかと聞いている!」
文次郎は僕の襟首を掴んで引き寄せた。鬼もかくやという形相で睨みつけてくる。
「僕以外に?誰もいないよ」
「嘘をつけっ!確かに今ここに誰かが……っ!」
振り返って苦無の刺さった場所を見た。もちろん雑渡さんがまだそんなところにいる筈も無く、気配もまったくない。
「ひょっとして、幽霊でも見た?」
「なっ……!」
わざと軽く言うと、文次郎は怒りのあまり硬直した。その隙に、襟首を掴んだ手を、やんわり引き剥がす。
「まったく。僕の足に刺さってたら大怪我してたよ。物騒だなあ」
わざと不機嫌そうに言うと、しゃがんで、地面に刺さった苦無を引き抜いた。
「……そうは言うが、もし曲者が居たら……」
「だから、そんな人はいなかったって。僕はもう帰るかもうちょっとトレーニングしてくか迷ってただけ」
はい、と苦無を差し出すと、文次郎は苦虫を百匹まとめて潰したような顔をした。そのまま、ひったくるようにして苦無を取り返す。
「学園内とはいえ、夜中にふらふらしてんじゃねえ。不運野郎はとっとと帰って寝ちまえ」
「うん、じゃあ、そうするかな」
文次郎が背中を向けたところで、気付かれないように息をつく。どうにか誤魔化せたみたいだ。
それにしても文次郎は流石だな。あの距離で、闇に潜む雑渡さんを見つけ、しかも苦無を投げつけてきた。雑渡さんがあのまま立っていれば、大怪我を負っていただろう。
あのまま立っていれば。
僕は自分の頬に手を当ててみた。こんなちっぽけな手のひらじゃない。頬全体を包み込むような大きな手。
どうして雑渡さんは僕に触れたんだろう。あの優しい目は何だったんだろう。
悩ましいって。守りたいって、どういうことなんだろう。
闇に潜む黒装束。浮かび上がる白い包帯。油断ならない右目。
あの人は片目が見えていないのに、文次郎の苦無を避けた。それのみならず、僕を突き飛ばす余裕すらあった。すぐさま気配を断つ、鮮やかな消えっぷり。あれがプロの忍者。一軍の忍び組頭という凄腕。僕もあんな忍者になれるだろうか。いきなり雑渡さんは無理でも、その半分でも優秀な忍者になれたらいい。
……その前に就職の話をしていたんだっけ。
就職。城づとめがいいのか、フリーがいいのか。そもそも僕はこのままで卒業できるのか。ああ、考えなければならないことは山ほどある。
「そういえば、小平太は?」
前を歩く文次郎に小走りで追いついて、尋ねてみる。
「ああ、どうやら奴が寝ていた猪を蹴飛ばしたらしくてな」
「はい?」
多分、猪だって道の真ん中に寝てた訳じゃあるまいに、なんだってまた。
「猪がすげぇ勢いで飛び掛ってきたから、嬉々として応戦してた。俺はそこまでは付き合いきれんから、先に帰ってきた」
「……それって、かなりやばいんじゃない?」
いくら小平太とはいえ、夜中に猪と渡り合うなんて。大丈夫なんだろうか。でも僕が行っても二次遭難になりそうな気がするし。
「大丈夫だろ。明日の朝は猪鍋だぜ、きっと」
あたふたする僕に代わって、文次郎は平然としたものだった。
……きっと、小平太も文次郎も、大物の凄腕忍者になるだろう。朋輩にまでしっかり差を付けられていて、僕は思いっきり溜息をついた。