うちでのこづち 第五話

 その道は、なだらかに遠く続いていた。山沿いというか、山のふもとに沿った道。右側には広々と田畑が続き、左側には山に続く木立。木が適度に日差しをさえぎってくれて、田んぼの上を通り抜ける風が涼しい。歩いていて気持ちのいい道だ。
 こんな日に、学園長のお遣いにやらされた僕は、不運なのか、果たして。
 学園長のご友人に仕えている、という人が学園に来たのは、昨夜遅くのことだった。その学園長の友人には持病があって、以前頼まれて新野先生が薬を調合して差し上げたことがあった。今回もその持病が出たので、薬を分けて欲しい、とのことだった。
 しかし、新野先生は今日出張で、どうしても外せない用事があった。そこで、先生の調合した薬を持って、僕が届けに行くことになった。
 急いだ方がいいらしく、夜を徹して駆け、明け方頃に着き、薬を飲んでいただいた。しばらく様子を見たところ、容態が落ち着かれたようなので、昼前にそこを辞した。
 行きは裏々山から尾根伝いに走ったが、帰りはそれほど急がなくてもいい。日が暮れるまでには着けるだろうと、麓の平坦な道を歩いて帰ることにした。行きの山道と比べたら、極楽かと思えるほど楽だ。
 うららかに晴れ渡ったいい陽気。遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。
 ……しかし。こんな長閑を絵に描いたような田園風景なのに。
 少し前から、気配を感じていた。主に左手の木立の中から。
 この辺りは初めて来た土地で、知り合いなど居よう筈もない。忍術学園か、学園長の友人を狙う曲者かと、最初は警戒した。暢気に歩く振りをしながら、さり気なく辺りを探ったりしたのだ、が。
 よく考えれば、この感じは知ってるような気がする。
 適度に置いた距離からこちらを伺うやり口は、僕の知っているある人のやりそうな事の様な気がした。
 そしてその人は神出鬼没だ。この辺はタソガレドキ領からそんなに遠くない。あの人が現れても、それほど不思議ではない。
 昼下がり、忍術学園から遠く離れたこんなところを暢気に歩いている僕を訝りながら、それでも僕が自分に気付くか、面白がって見てるような、そんな気がした。
「……あの、今日は良いお天気ですね」
 集落が切れて人気の無くなったところで、僕は思い切って声をかけてみた。
「そうだね、良い天気だね」
 うわ、木立から返答があった。この声、間違いなく雑渡さん。
「なんだ、気付かれてたのか」
「気配がしましたので」
 むしろ気付いて欲しかったのでは?なんて言うのは少し失礼かな。僕はこの人によく驚かされてるけど、何かと世話になってたりもするし。
「それで、あの、もしよろしければ、お昼、一緒にいかがですか?」
「……え?」
「お遣いに行った先で、握り飯を沢山持たせてもらったんです。食べきれないと勿体無いですし」
 その下働きのおばちゃんは、僕が忍たまと知ってか知らずか、夜を徹して薬を届けに来た僕に、いたく同情してくれた。若いんだからこれぐらいいけるでしょ、と渡された握り飯の包みは、普段食堂で用意してもらう量の二倍近くはありそうだった。
「ふぅん。じゃあ、ご相伴にあずかろうかな」
 その声を残して、気配が消えた。どこに行ったのかと思ったら、少し歩いた先で、枝から黒覆面が飛び出して、こっちだよ、と囁いた。  誘われて木立に入り、教えられた獣道を少し行くと、薄暗い森の中にぽっかりと開けた空間があった。
 開けたといっても、教室の半分くらいの広さしかない。でも木を倒して空間を作ってあって、暗い木立の中でそこだけは明るく日がさしていた。三人くらい並んで座れそうな倒木もあって、ここは山で仕事をする人の休憩所なのかもしれない。
「よくこんな場所をご存知ですね」
「まあ、あちこちに土地勘があるからね」
 僕の真後ろに出現した雑渡さんは、僕が振り返ると、やあ、と微笑んだ。まったく、人を驚かすのが好きなんだから。
 でも僕が全く動じず笑顔でこんにちは、と言うと、つまらなさそうな表情で倒木に座った。膝をきっちりそろえて座る人の、僕もその隣に腰掛ける。
「お遣いはもう終わった?」
「ええ。そうでなければ、寄り道はしません」
 膝の上で包みを解く。と、現れたのは白く輝く大きな握り飯が六つ。いくら僕が食べ盛りだとしても、これは多すぎだよなあ。竹の皮を裂いて、三つ載せて渡す。
「伊作くん、これはちょっともらい過ぎだよ」
「いいえ、ちょうど半分になりますし。……それに、この前、助けてもらったお礼ですから」
 以前、この人には木から落ちた時に、助けてもらったことがあった。それも二度も。
 実は僕は雑渡さんに貸しがあって、ちょうどそれで相殺しようと持ちかけたものの、受けてもらえなかった。それなら、何か他の形でお礼をするしかないではないか。
「君も義理堅いねえ。じゃ、ありがたく頂戴するとしようか」
 言うと雑渡さんは覆面をずらして口を出すと、握り飯にかぶりついた。……ああ、やっぱり、食事の時も覆面は取らないんだな。
 街道を歩いてきた僕は、当然ながら忍者服ではない。もちろん、覆面も頭巾もつけてない。行きは山道を走ってきたから忍者服だったけれど、途中で着替えた。変り衣の術、という奴だ。
 僕も自分の分の握り飯を頬張った。塩加減が少しきつめだけれど、美味しい。あっという間に二個平らげてから、そういえば持って行った薬を煎じたり、枕元で様子を見たりしていて、朝食をろくに食べていないことを思い出した。
 どうにせよ、もうちょっとゆっくり食べないことには消化に悪い。しかし、僕が水筒の水を飲んでいるうちに、握り飯は残り二つに増えていた。
「雑渡さん……」
「気持ちは受け取ったから。これは君が食べなよ」
 代わりに、とばかりに手を伸ばしてくるから、水筒を差し出す。本当に、なんだか申し訳ないな、いつもいつも。雑渡さんには子ども扱いされてばっかりだけれど、それもまた致し方ないのか。まだ忍たまでしかない僕は、一軍の忍び組頭にしたら、その辺を走り回っている子供と大差ないんだろうな。
 昼過ぎの日差しが、木漏れ日になって降り注ぐ。ぽっかりと開けた空間に風が通って、どこからか小鳥の声。歩いてきた道からは少し外れるため、人の気配はない。森に暮らす生き物たちも、今は昼寝でもしているのか、とても静かだ。
 昼間に会うのは久しぶりな気がするけれども。思えばこんなのどかな午後を、雑渡さんと二人きりで過ごしていることが、なんだか不思議だった。
 何せこの人は、タソガレドキ軍の忍び組頭。有能な凄腕の忍びで、本来、僕なんかが側に近寄れるような人じゃないのだ。
 今回も、誘ってはみたけれど、実は断られるだろうと思っていた。一緒にご飯なんて、気安すぎるかな、と。でも雑渡さんは付き合ってくれた。僕にこの前の礼をさせてくれた。
 ……実は雑渡さんもお腹が空いてた、とか。
 それとも、僕に望みを言わせるために、早く借りを返すために、話をする機会を逃さないだけなのかな。
 ちらり、と目をやれば、もう覆面を元に戻している雑渡さんは心持ち顔を上に上げて、空でも見ているようだった。でもすぐにこちらの視線に気付いて、ん?と振り返ってくる。僕は慌てて、いえ、何でもないです、とか口ごもりながら、最後の一口を頬張った。
 返してもらった水筒から水を飲んで、一息つく。木々で縁取られてた空を、小さな鳥が横切って行く。握り飯の包みを片付けたら、もうすることがなくなってしまった。
 気まずいという程でもないけれど、なんだか手持ち無沙汰なような……食休み。そう、食休みなんだから。でも、先に食べ終わってる雑渡さんにはもう必要ない訳だしな。お仕事で忙しいだろうに、引き止めるのは悪いだろうし。
 何か話でもすればいいのか。でも適切な話題なんて……僕の望み云々の話はまだ何も考えてないしな。えっと。
「あの、先日は、朋輩が失礼致しました」
 いきなり僕が改まった口調で話し出したものだから、雑渡さんも少し驚いたかもしれない。
「失礼って?」
「いきなり苦無を投げつけたりして……」
「ああ、あれね」
 右目が細められた。苦笑い、といった雰囲気だろうか。
「私は曲者だから仕方ないよ。苦無の一つも投げつけるのは、当然のことだと思うよ」
「そう言っていただけると……」
「それに、いいコントロールだったね。判断の速さといい、なかなか優秀な子だ」
「あ、ありがとうございます!」
 そうか。文次郎は雑渡さんのお眼鏡に適うんだ。僕はしょっちゅう『君は忍者に向いてないね』と言われてばかりで駄目だけれど。文次郎は認められた。
「……嬉しそうだね」
「え、いえ、そんなことは」
 ある。実はかなり嬉しかった。ずっと僕ばかりを見て『忍術学園なんて大したことない』と思われてたらどうしようと思っていたからだ。うちの学園にも優秀な奴はいるし、その優秀さを知ってもらえて嬉しかったのだ。
 でも、それを口にするのは、あまりにも自分の駄目さをひけらかしているみたいでみっともないので、やめておいた。
「伊作くんは、体術とか苦手そうだね」
「苦手というか……苦手ですね」
 忍者は格闘者に非ず。それを考えれば体術なんてさほど重視しなくてもいいだろうに、うちの学年の連中は、みな体術が得意だ。火薬のエキスパートである、一見細くて非力そうに見える仙蔵でさえ、美しい見事な身のこなしで相手を投げ、転ばせ、倒す。武闘派の文次郎や留三郎相手に少しも引けをとらない。そういう連中の中にいるから、僕は体術が得意とは決して言えなかった。実際、さほど好きでもないし。
「どうして。体の構造とかよく知ってそうだから、人の知らない弱点とか知ってるんじゃない?」
 百戦錬磨の忍び組頭は、面白そうに聞いてくる。自分こそ、どうすれば人が抵抗出来なくなるか、知識ではなく経験から、熟知しているだろうに。
「そりゃ、急所なんかは心得てますが。体術だと、相手の攻撃をかわしながら攻撃しなければならない訳で、大抵、かわすのに精一杯で、上手く急所を突けません」
「ふむ。……でも、忍者の格闘は、始めの号令がかかってから始まる訳じゃないからね。いかに自分に有利な状況を作り出すか、だよ。例えば、相手を動けなくしておいてから攻撃する、とかね」
 そのコツは多分、体術の練習にも応用できるだろう。だけど。
「そうそう思う通りに出来ていたら、体術が苦手だなんて思ってません」
「はは、そうだろうね。でもね、伊作くん」
 雑渡さんは不意に真面目な声音になると、右目が剣呑な光を帯びる。
「ひとたび忍者になってしまえば、出来ません、は通用しないよ。出来なきゃ、やられちゃうからね。出来ないことでも、やるしかないんだよ」
 無茶な理屈のようでも、これが真実だ。僕がこれから行く世界は、とても厳しい。
「だからまあ今のうちに、せいぜい、練習しておくといいよ」
 瞬き一つで剣呑さが消え、声音ものんびりしたものに戻った。
「……はい」
 時折見せる、プロ忍者の凄み。この有能な凄腕の前では、僕なんか本当にひよっ子だ。いや、まだ単なる卵に過ぎない。
 それなのにどうして、雑渡さんは僕に構ってくれるんだろう。こんな凄い人が、ただの卵に肩入れしてどうしようというのだろう。
 借りを返す、そう雑渡さんは言った。それが僕達の関係の全てだ。
 その筈なんだけれど。こうして関係のないところで、昼ごはんを食べたり、のんびり話をしたりして。
 これじゃあまるで、貸しとか借りとか、関係ないみたいだ。そんな殺伐とした言葉ではなく、もっと、別な感じの……。
「……伊作くん、ほっぺにご飯粒付いてるよ」
「あ、すみませ……!」
 雑渡さんが頬に手を伸ばしてきた時、どきりとしない訳じゃなかった。でも、この前のことがあったから。ただご飯粒を取ってもらうだけなのに、遠慮して変に意識してるように思われたら悪いと思ったのだ。
 だから。だからまさか、手のひらがこの前のように頬を覆って、そこに顔が近づいてきて、一部分が触れようとは、思ってもみなかったのだ。
 警戒が足りない。文次郎にそう叱られても文句は言えないところだけれど。だけど。
 何だ、今のは。何なんだ。
 呆気に取られる僕の目の前から、すっと黒覆面が引いて行く。
 今さっき、僕の唇に触れたのは、覆面の布。だけどその下にもし雑渡さんの唇があったとしたら……あったと思うんだけど……。
 これはもしや、接吻というもの?
 僕はただ、目を見開いて瞬くことしか出来なかった。
「じゃあね、伊作くん。……あんまり寄り道してないで、真っ直ぐ帰るんだよ」
 雑渡さんは、呆然としている僕ににっこり笑いかけると、いきなり姿を消した。
 辺りの木がざわざわと揺れる。それが雑渡さんが飛び移ったせいなのか、急に強くなった風のせいなのか、もう分からない。
 ……雑渡さんが僕に、接吻を?
 しかも覆面越しに。何故。一体どうして!?
 あまりのことに固まったまま動けない。そんな僕の頭上を、何度も何度も鳴きかわしながら、小鳥達が飛び去って行った。
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