「ごめん、小平太!昨夜のこと、ほんっとーに、ごめん!」
床に手を着くと、僕は思いっきり頭を下げた。
朝起きると、僕はいつものように布団で寝ていた。だから起きた一瞬、昨日のことは全部夢だったのかと思った。しかし、着たきりの忍者服と、一部ぐっしょり濡れている掛け布団が、それは夢ではないと語っていた。おそらく留三郎が布団を敷いてくれて、泣き疲れて眠ってしまった僕を布団に入れてくれたのだろう。本当に、留三郎には頭が上がらない。
ともあれ、あれが夢ではないのなら。僕にはしなければならないことがある。すぐに飛び起きると、僕はろ組の部屋に駆け込んだ。ちょうど小平太は、早起きの長次に起こされているところで、僕はその横に座り込んで手をつくと、頭を下げた。
「いさっくん……」
もそもそと、布団の動く気配。顔を上げると、きっちり起きた夜着の小平太がいた。
「ごめんね、小平太。昨日のこと、怒鳴りつけたりして……」
「あのね、いさっくん」
いつもは暴君と称されるほど、元気で威勢のいい小平太が、何故か神妙な表情をしている。
「私のこと、嫌いになった?」
「え……?」
嫌いって、僕が小平太を?逆ならともかく、どうしてそんな。
「前に長次が言ってたんだ。私はがさつなところがあるから、無神経な物言いをして、私に悪気が無くても人を傷つけることがあるんだって。だから今回もそうなのかなって思ったんだ」
「小平太……」
らしくないしょんぼりした風情に、僕は胸を衝かれた。僕の振舞いが、こんなに小平太を傷つけてたなんて。
「ごめん、本当にごめん!……あの時は、あの、お腹が痛くて。西瓜なんて食べられそうにないのに、誘ってくるから、それで。ちょっとかっときちゃって。お腹痛いのもあって、きつい言い方になって。ごめん、ごめんなさい!」
僕は床に額をすりつけた。本当のことを言う訳にはいかないけれど、こんな下らない言い訳しか出来ない自分が情けない。それでもどうか、僕が小平太のことを嫌ったりなんかしないってことを、小平太が納得してくれたら。
「うん。……いさっくん、顔上げて」
塹壕堀で鍛えたがっしりした手に支えられて、起き上がれば。そこにはいつもの、お日様のような笑み。
「いさっくんに嫌われたんじゃなければ、私はそれでいいよ。気にしてないから」
「小平太あぁー!」
その首っ玉にかじりつく。小平太はいきなり飛びついてきた僕にびっくりしたようだけど、よしよし、と頭を撫でてくれた。
「小平太、大好きだよっ!」
「うん。私も、いさっくんのこと大好き!」
長次が、やれやれ、という感じで溜息をつくのが横目で見えたけど、気にしない。僕と小平太はにっこり笑いあった。小平太の笑顔は邪気が無くて、あけっぴろげで、お日様のように温かくて、大好きだ。いつもこの笑顔に救われる。
「……で、それでね」
その大きな目をくりっと動かして笑みを収めると、急に真面目な口調になった。
「いさっくん、早いとこ文次郎と仲直りしなよ」
「文次郎?」
聞き返してから思い出した。そうだ、昨日は部屋に引きこもる直前、文次郎と喧嘩したんだっけ。
「そうだよ。昨日お腹痛くなったのは、そのせいじゃない?」
……それはストレス性の神経性胃炎のことを指してるんだろうか。それとも、腹痛は嘘でも泣いてた原因は文次郎だと言いたいのか。その真っ直ぐな視線からはどちらとも取れない。普通は前者だろうと思う、でも後者の可能性も捨てきれないところが、小平太の怖いところだ。一見がさつなようで、意外と鋭いところを突いてくる。
「ね、なんなら私が二、三発、文次郎のことぶん殴って来ようか?」
思わず返答に詰まると、元気一杯体育委員長はとんでもない事を言い出した。
「ええ?いいよ、そんなことしないでっ!」
半ば叫んだ僕の顔を見て、小平太はその、お日様のような笑みを浮かべた。
「そうだよね。私がしゃしゃり出るのは、筋違いだよね」
……つまり、自分で解決しろと。いつもこうやって小平太のペースに乗せられている。
「でも……」
昨日のあれは、文次郎がいきなり怒鳴りつけてきたんだし。仲直りといえど、どうすればいいのか。
俯いてしまった僕の背中を、その大きな手が思いっきり叩く。
「だーいじょうぶだって!だってさ、文次郎はいさっくんのこと……あわわ」
「へ?」
正直、背中の痛みであんまりよく聞いてなかった。誰が何を、どうだって?
「い、いやいやいや何でもない!ともかく、頑張りなよ、ね?」
「……そろそろ仕度しないと、遅刻する」
のそり、と長次が横に立った。そうだ、僕は忍者服とはいえ、顔もまだ洗ってない。
じゃあね、と慌てて手を振って出て行く僕の背中に、文次郎と仲直りするんだよーっという小平太の声が追いかけてきた。
あんなことがあった後だというのに、いつもと変らない一日が始まった。
食堂へ行き、朝食を食べて、授業に行く。教室で講義を受けて、昼食の後は裏々山で実習。放課後は医務室当番だった。日が暮れても仕事をして、そろそろ閉まるという食堂に駆け込んで夕食をとり、長屋に帰った。
六年長屋は、あちこちの部屋に灯が点っていたけれど、人がいないかのように静かだった。昨日みんなで月を見た廊下も、今は人の気配がない。
留三郎はまだ帰っていないようだ。灯りがついていない部屋の障子を開けて、どきん、とした。
そこに、雑渡さんがいるような気がしたから。
今日は雲に隠されて、月明かりは期待できない。暗い部屋の闇の中に、でも黒装束や白い包帯は、どこにも見当たらなかった。当たり前だ、昨日の今日で、そんな。
溜息をついて部屋に入る。明かりを点けなきゃと思いつつ、数歩進んでへたりこんだ。
昨日この辺りで、雑渡さんと。
ずっと何も考えないようにしていたけれど、流石に自分の部屋に帰れば、思い出さない訳に行かない。
思い出しただけで、全身が熱くなる。気持ちいいのか悪いのか、自分が変になりそうな、あの感じ。どうして雑渡さんは、僕にあんなことを……。
「おわっ!……なんだ伊作、いたのか」
留三郎が帰ってきたようだ。暗い中でうずくまってる僕に、驚いたのだろう。
「いるんなら灯りぐらい点けろよなーもう」
「……ごめんね、お帰り」
「ただいま。……あのさあ、伊作」
「ん?」
喋りながらもてきぱきと灯明に火を点すと、留三郎は僕の前に座った。
「そんな気になるならさ、文次郎と仲直りしろよ」
「……へ?」
留三郎までそんなこと。ていうか、留三郎が。僕がまじまじと顔を見ると、留三郎はバツが悪そうに目を逸らした。
「あいつは単純で馬鹿だけど、悪い奴じゃないっていうかさ。もう、馬鹿なのはしょうがないだろ、前からだし。だから、許してやれよ」
言ってることは散々だけど、つまり、文次郎を庇ってる?犬猿の仲の留三郎が。これは一体、どういう風の吹き回しなんだろう。
今日は一日、文次郎には会わなかった。喧嘩してるといっても、それほど雰囲気が険悪な訳でもない。それなのに、小平太といい留三郎といい、そんなに、僕と文次郎を仲良くさせたいんだろうか。
……仲良く?
昨日の今日だからだろうか、なんだか、ぴん、とくるものがあった。
その仲っていうのは、同じ学年の仲間、とか、僕と小平太の友情、みたいな仲とは違って。男同士だけど男女の仲っていうか、恋仲、とか、そういうものを指すのでは……?
僕にそんなつもりは無いんだけど……もしかして。
文次郎が、僕のことを好きだったりする!?
「……あり得ない」
思わず呟いた僕に、そっぽ向いてた留三郎ががーっと吠えた。
「ああ、どうせ柄にもないこと言ってるよっ!畜生、なんで俺が文次郎なんかの肩持たなきゃならねえんだよっ!」
「そうだよ、何で!?」
何で留三郎は、小平太は、そうまでして僕と文次郎を仲直りさせたい訳?喧嘩の原因を作ったのは仙蔵で、……ちょっと待て、仙蔵は何て言った?『奥手の伊作もようやく気付いて、恋にでも落ちたのかと思っていたのだが?』
この、ようやく気付いて、っていうのは、恋そのもののことではなく……。
そうだ、小平太も言ってた。『だってさ、文次郎はいさっくんのこと……』
「ね、留三郎」
「……何だよ」
完全に不貞腐れて横を向いた留三郎の、正面にわざわざ回り込んで、聞く。
「まさかとは思うけど、その、留三郎も、文次郎が僕のことを好きなんだと、思ってる?」
恐る恐る小声で尋ねると、その三白眼が見開かれた。
「なんだよ伊作、気付いてなかったのか」
「……!!」
なんで、なんでそんな当然のようにさらっと言っちゃうかな!
「でも、でも、顔を合わせればいつも、人のこと不運だのヘタレだのって文句ばっかり」
「あいつは不器用でしかもその上馬鹿だからなー」
「それに、実習で困ってたって何一つ助けてくれないし、委員会の予算だってばっさり切るし、それに、それに……」
「手助けしたらお前のためにならんと思ってるんだろ。それも一つの思いやりだと言えんことはない。委員会のことは関係ねえし」
「そりゃそうだけど……」
本当に、文次郎は僕のことが好きなんだろうか?どうして。僕のどこがいいんだ?
いつから?どうしてみんなそれを知ってたんだろう?僕だけ仲間はずれ?
僕は本当に、文次郎にはどやされてばかりで。いつも不運だのヘタレだのって、そればっかり言われてて、昨日だって、……昨日?
いやちょっと待て。今また何か、ぴん、ときた。
真偽の程はともかく、そういう仮定で、昨日の出来事について考えてみよう。
まず仙蔵。仙蔵は別に面倒見がいいわけじゃないけれど、興味を持ったことにはとことんこだわるタイプだ。もし文次郎の気持ちに気付いて、一肌脱いでやろうと思えば、お団子を奢って僕を誘い出すくらいやってのけるだろう。
そして文次郎。仙蔵の挑発に乗って、怒鳴り込んできた。もし文次郎が僕のことを好きなら、僕の想い人が誰か、確かにそれは気になるだろう。
そして僕。あの時僕は、文次郎に見透かされそうで、大慌てだった。でも普段の僕なら、怒鳴りつけられたぐらいであそこまで泡食ったりしない。あれは充分怪しい素振りだった。普段滅多にキレない僕が、何故あんなに頭に血を上らせたのか。
……それは、文次郎が鈍感だから。『想い人とはお前のことなのに何そんな剣幕で聞いて来るんだ、察しろよ馬鹿!』という理由なら、僕があそこまでキレてもおかしくは無い。
つまり、あの一幕を見れば、充分、僕と文次郎が両想いだと誤解できる。
そうか、それで小平太も留三郎も、仲直りをしきりに勧めた訳か。おそらく、挑発してきたくらいだから仙蔵もそれを狙ってるんだろう。長次がどう思ってるかは知らないけれど、六年全体の和を乱すようなことは望まないだろう。
そして、更に恐ろしいことに。
おそらくそれを雑渡さんも聞いていた……ということだ。
雑渡さんも誤解したんじゃないだろうか。僕が文次郎のことを好きなんだと。だから、恋仲の僕達をからかってやろうと思って、あんなことしたのかもしれない。文次郎がすぐ近くに、障子越しにいるところで、僕にあんなことを。
……酷い。ひどすぎる。
例え雑渡さんが人を驚かせたりからかうのが好きだったとしても。このやり口はあまりにも非道すぎる。人をからかうためにあんなことをするだなんて、許せない。
だけど。
雑渡さんの目の奥に光る、暗い炎。あれは一体なんだったんだろう。顔は笑っていたけれど、あの暗い炎は雑渡さん自身を焦がしているようだった。あの時、僕が本気で抵抗出来なかったのは、あの目が怖かったから、というのもある。
雑渡さんが凄い人だというのは知っていた。それでも怖い人だと思ったことはなかった。あんな雑渡さんは初めて見た。だって、僕の知るあの人は……。
胸の中に、ありとあらゆる雑渡さんが甦る。曲者だよと名乗った時の顔。笛を渡してくれた時の目、助けてもらった時の腕、頬に触れた手。心の臓が締め付けられたかのように苦しい。雑渡さんはずっと僕に優しくしてくれた。僕は雑渡さんのことが好きだった。
でも、あの人も凄腕の忍び。凄い人なら、怖い人であるのも当たり前なのだ。
それでも僕はあの人のことが好きで。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
……分かっている、僕のせいだ。僕がだらだらと、望みを言わず、この関係を引き伸ばしたから。これは当然の報いなのかもしれない。
それなら。僕も覚悟を決めるしかない。
いい潮時なのだ。文次郎やみんなに累が及ぶ前に、すっぱり切ってしまわないと。もともと僕の望みを叶えるために、雑渡さんは僕のところへ来ているのだから。はっきり望みを言って、叶えてもらえば、それで貸し借りなし、綺麗に縁が切れる筈。
もちろん、そんなことをすれば、もう二度と雑渡さんには会えない。
だけど……だけど。でも。
「……おい、伊作、どうした」
俯いて考え込んだっきり動かない僕を心配して、留三郎は僕の肩に手を置いた。
「そんな難しく考え込むなよ。それに、俺がそう思ってるってだけで、文次郎がどう思ってるかなんて、本当のところはわからねえしな。文次郎本人に聞いてみないと」
「……俺がどうかしたか?」
突然降ってきた声に顔を上げれば。
開けっ放しの入り口に、いつの間にか立っていたのは……文次郎!
「いや、別に……」
そこに文次郎が居たことに、留三郎も気付いてなかったのだろう。驚いたせいか、歯切れ悪く口ごもる。
「あ、俺ちょっと図書室に本返してくるわ」
やおら立ち上がると、留三郎は文机から冊子を引っつかんだ。そのまま入り口に立つ文次郎の脇をするりと抜けて出て行ってしまう。
留三郎を見送ると、文次郎はずかずか上がりこんで来た。僕の前まで来ると座る。正座だ。慌てて僕も座りなおす。
「伊作」
「な、何?」
「……昨日は、悪かった」
短く言うと、軽く頭を下げる。その時、隈の濃い文次郎の目元が、僅かに赤らんでいるような気がした。
「その、仙蔵が変なことを言うからよ、ついかっとしちまってな。すまん」
人に謝っている時だというのに、目を合わさないなんて文次郎らしくない。でも、思えばずっと前からそうだったような気がする。文次郎にそう何度も謝られたことがある訳じゃないけど、いつも僕とは目を合わさない。他の時なら、目を合わすのに。
「えーと、それでよ……」
そらしたまま視線が泳ぐ。目元の朱を見て、僕はようやく分かった。
文次郎は、僕のことが好きなんだ。
気付いてみれば、それははっきりしてることだった。どうして今日まで気付かなかったのか、その方が不思議なくらい。
「……ごめん!」
僕は床に手をついて、頭を下げた。
「なっ、なんだよ急に……」
「ごめん、文次郎、ごめん!えと、昨日、馬鹿とか言っちゃってごめん!」
床を見ながら言葉を捜した。今朝、小平太に言ったような方便ではなくて、もっとずっとちゃんとした、本当の気持ちを言わなきゃいけない。本当の気持ちで、応えなくちゃならない。
「想い人がいるんだ。……だけど、その人はこの学園の人じゃなくて、なかなか会えなくて、そんな風には思ってなかったんだけど。でも昨日、仙蔵に言われて、気がついたんだ。その人のことが好きなんだって。そう思ったらかっとなって。頭に血が上って。だから、八つ当たりみたいなものなんだけど、文次郎に当たってごめん。馬鹿とか言って、本当にごめん!」
今までずっと、文次郎の気持ちに気付けなくて、ごめん。
文次郎の気持ちに、応えてあげられなくて、ごめん。
本当にそれが申し訳なくて、文次郎に悪くて。何万回ごめんと言っても足りない気がするのに、なのに僕は床に頭を擦り付けるぐらいしか出来なかった。
「……もう、いい」
「文次郎……」
顔を上げた時。相変わらず僕から目を逸らしていたけれど、目元の赤みはもう消えていた。
「そういうことなら、しょうがねえだろ」
立ち上がると、踵を返した。入ってきた時と同じように、ずかずかと廊下に出る。
思わず後を追いかけて、廊下を行く文次郎の後姿を見送ってしまった。床を踏み鳴らすでも、足音を殺すでもなく、普通に歩いて行く、いつも通りの文次郎。その姿は本当に、学園一忍者しているという評判に相応しく、いつも通りの格好良さ。僕の憧れる、忍者の姿。
「伊作……」
「あれ、留三郎」
文次郎が消えたのと反対側の廊下には、何故か留三郎がいた。
「いや、本を間違えてな。課題のプリント持ってきちまって、それで途中で引返したんだが……」
こちらへ歩いてくる留三郎の顔色は、何故か蒼白だった。
「いや、引返す必要なんかなかったんだけどな。ついうっかり引返しちまって。それで」
「それで、聞いちゃったんだね」
「……すまねえ」
頭を下げるというより、項垂れるという方がしっくりくる感じだった。
「いいよ、もう」
歯切れの悪い物言いといい、なんとも留三郎らしくない。ともあれ僕は袖を引っ張って、同室の友人を部屋に引っ張り戻した。
文次郎と仲直りさせたがってた留三郎としては、まさかこんなことになろうとは、思ってなかったんだろうな。
僕だって思ってなかった。人生、思わぬことの連続だ。
それでもちゃんと、明日は来る。今日が、最初と最後に人に謝り倒したことを除けば、あとは普通の一日だったみたいに。明日という日を、普通に、これまで通り穏やかな気持ちで過ごせたらいいな。
ああ、そういえば。今日はまだ終わってない。まだやることが残ってる。
「……留三郎、お風呂行こっか」
僕はまだ呆然としている留三郎に、にっこりと笑いかけた。