「……はあ……」
あれ?ふと顔を上げると数馬と目が合った。そのまま数瞬、目を合わせていたけれど、再びどちらともなく目を逸らし。
「……はあ……」
再び、溜息が被る。何だか、数馬の溜息も重そうだ。顔にも精彩がない。
「ちょっと先輩方っ!何ですかその溜息はっ!」
左近は半ば叫ぶと、足音荒くこちらへやってきた。
「ただでさえ医務室の空気が暗いのに、更に深刻になるじゃないですかっ!やめて下さいよねっ!」
「うん……ごめんね、左近」
いけないいけない。医務室では、保健委員長の僕がしっかりしないと。僕はしゃっきりと背筋を伸ばすと、意味もなく胸を張った。
しかし。薬を煎じている小鍋の向こうでは、相変わらず数馬はしょぼんとしていた。
「……左近はそう言うけどさ。やっぱり事態は深刻だよ」
「だからっ!これ以上、深刻にしないで下さいって言ってるんですっ!」
「まあまあまあ」
左近もまた、この未曾有の危機にどうしていいか分からずにいるのだ。何とかしたいのに、何も出来ない。その事実が、数馬を落ち込ませ、左近を怒らせている。
それだというのに僕はと言えば、自分の個人的な事情で落ち込んでいるんだから、まったく救いようのない阿呆だな。
僕の個人的な事情、とは。
雑渡さんとは別れた方がいい、ということ。
まあ、別れるも何も付き合ってた訳じゃないんだけど。このままずるずるとなし崩し的に続いて行くのは良くないだろう。もともと、僕が付き合えるような人じゃないんだし。ここらで一つ、何か適当な金品でも要求して、すっぱりと縁を切るべきだと思う。
何せあの人は長屋にも侵入して、仲間達が障子一枚隔てたところにいるっていうのに、僕にあんなことをしたのだから。
こんな悪ふざけが今後も続くようじゃ、みんなにも迷惑がかかる。だからこの辺で、きっぱりさっぱり思い切ってしまうのがいいと思う。
だけど。それはそうなんだけれど。
もともと、雑渡さんは僕に借りを返してくれる筈なんだから。借りさえ返せば、僕らは何の関係もなくなる。
それは考えてみただけで辛いことだった。僕はあんな目にあってもまだ、雑渡さんのことが好きなのだ。今だって会いたいと思ってるのに。会って、ちゃんと話をして、想いを伝えたいと思っているのに。それなのに、次に会ったらお別れ、なんて。悲しすぎる。溜息の一つや二つ、出ようというものだ。
もちろん、医務室にいる以上、ちゃんと仕事はこなしている。浮かない顔もなるべく見せず、いつもの、穏やかで人当たりのいい先輩であるよう努力してる。それでも、薬を煎じている今みたいな、手だけ動かして頭が空っぽになるような作業をしている時には、ついつい、その時一番気にかかっていることが心を占めてしまう。
……いや、だから、今はそれどころじゃない。僕は居住まいを正すと、まだ目が釣りあがっている左近を、とりあえずその場に座らせた。
「ええと、左近はもう、紅朱熱にかかったことがあるんだよね?」
「はい。入学前に済ませたと聞いてますが」
「それは良かった。数馬は?」
「僕は……分かりません」
俯いて小声になるのは、これまでの落ち込みと、はっきり言えてしまう左近に引け目を感じているからかもしれないな。
「うん、罹ったかどうか分からない子が大半だからね。気にすること無いよ。そういう僕も、やったことあるかどうか、よく分からないし」
「でも先輩は、もう十五歳だから大丈夫なのでは?」
長い前髪を僅かに揺らして、左近が質問してきた。
「赤ちゃんや子供に多い病気だっていわれてるけど、大人だって罹らないこともないよ。子供の方が罹りやすいってだけの話みたいだからね。僕の場合だと、前回、四年前かなあ、やっぱり忍術学園で紅朱熱が流行った時があったんだけどね、ならなかったんだ。だからもう済ませてるんだと思うけど」
「へえ……そうなんですか。あ、だから先輩は、紅朱熱に罹った子の看病をしても大丈夫なんですね」
羨ましそうな表情で、数馬が言う。この病気にかかった友人とは隔離されたままお見舞いにも行けず、よほど寂しい思いをしてるようだ。
「うん。四年前、同室の留三郎が罹った時に、病気になったことに気付かないで、三日ほど一緒に寝起きしてたんだ。伝染しやすい病気だし、その時罹らなかったんだから、大丈夫だと思う」
紅朱熱には一度罹ると、まず二度とは罹らないという特性がある。それを説明すると、数馬も左近も熱心に聞いていた。
学園内では今、紅朱熱という病気が流行っていた。
これに罹った者は高熱を発して顔が真っ赤になるため、紅朱熱という、と言われている。
かなりの高熱になるため、幼くて体力のない者では命を落とすこともある。一命を取り留めても、熱のために耳の聞こえが悪くなったり、頭がおかしくなったり、失明したりすることもあるという、恐ろしい病気だ。
忍術学園の生徒ぐらいになると、みな十歳以上だし、日頃から体を鍛えているので死ぬことはないにしても、難聴や失明は忍者としては致命的だ。紅朱熱の流行は、かなり恐ろしいことだった。
しかし、この病には不思議と薬がよく効くのである。圭皮という、圭の木の皮を乾燥させて粉にしたものを、甘草と生姜と竜骨を一緒に煎じて飲めば、それだけで熱が下がる。
もっとも、圭の木はこの辺りに生えておらず、下野や常陸、それより北でないと採ることができない。そこで忍術学園でも、機会があれば手に入れて、いくらか蓄えていたのだが……。
「でも、気をつけてても、罹る時にはかかっちゃうんですよねえ」
はあ、と数馬が溜息をついた。左近が何か言おうとしたが、珍しく数馬の方がそれを遮って、叫んだ。
「だって、今までにもう二十人ですよ!?一年生から四年生まで、二十人もばたばたと病で倒れて……!」
普段おっとりしている数馬が、激昂するのも無理は無い。昨日、医務室に運び込まれ、紅朱熱と診断された子は、数馬と同室の子だった。
その子はすぐに、他の紅朱熱患者と一緒に、今は使われていない武道館に隔離された。他の子に病をうつさないための処置だ。しかしそうすると、この病気に罹ったかどうか判然としない数馬は、様子を見に行く事すら出来ない。数馬にとっては辛いことだろうが、でもこの処置のお陰で、感染はかなり下火になってきていた。
一時は一年生を中心に、毎日のように高熱を発する生徒が出た。学校に蓄えてあった薬は七人分。福富屋さんがどうにか三人分手を回してくれたものの、まだ十名の生徒が武道館に隔離されたままだった。
「……数馬、落ち着いて」
すみません、と俯く目元に、涙が見える。心配でたまらないんだろうな。
「きっと、新野先生が薬を手に入れて下さる。薬を飲みさえすれば、すぐに熱は下がるからね。医務室にあった薬を飲んで、しんべヱ達は嘘みたいに元気になったじゃないか。だから大丈夫、安心して」
「はい……」
鍋越しに手を伸ばして頭を撫でた。ふわふわの髪の下で、元気なく項垂れるばかり。左近はと見れば、憮然とした表情でそっぽを向いている。このしんみりした空気は苦手なんだろうけれど、数馬の気持ちを思いやれば、文句をつける訳にもいかないと我慢しているんだろうな。僕は左近の頭も撫でてやった。
「ちょ、何、先輩!僕はいいですから……!」
真っ赤になって後ずさる二年生の背後で、からりと入り口の障子が開いた。
「……新野先生、お帰りなさい!」
照れた反動でかぴょこんと立ち上がって駆け寄る。ただいま、とそんな左近に笠を預ける新野先生は、どこかお疲れの様子だった。外から帰ってきたばかりなのだから、お疲れなのは当然だけれども。何やら悪い予感がする。
数馬にお茶を淹れるように言うと、作りかけの薬の小鍋を火から外した。
「それがねえ、どうにも……」
いつもの服に着替えて、数馬の淹れたお茶を一口飲んだ先生は、溜息をついた。
「圭皮は、ありませんでしたか」
町にはいくつもの薬屋さんがある。懇意にしている大店をはじめ、薬問屋さんから町医者まで、先生の人脈や忍術学園のネットワークを駆使しても、見つからなかったらしい。
「その代わり、何やら妙な噂を聞きましてね」
「噂……ですか?」
「ええ。どこだかの城の跡取りが、紅朱熱に罹ったとかで。まだ幼い跡取りのために、城主は圭皮を買い占めたというのですよ」
「そんな……!」
ひどい、と後輩たちは口をそろえて呟いた。確かに紅朱熱を治すためには圭皮が必要だけれど、買い占めまですることはなかろうに。
「ですから、跡取りが無事に治ってくれたら、その圭皮を譲ってもらえるかもしれませんが……」
「そんなの待てません!いつ治るかなんて、誰にも分からないのに」
声を荒げた左近を、手で諌める。怒りのためか、左近の頬は紅潮していた。
「ええ。でも、薬屋さんたちも圭皮を取り寄せているところですが、何分、遠いところのものですから。あと半月、下手すれば一ヶ月ほど、かかるらしいんですよ」
「一ヶ月……」
呆然と数馬が呟く。今高熱に喘いでいる者が、あと一ヶ月も持つとは思えない。
なんとかならないんですか、と言いそうになって、慌てて引っ込めた。なんとかなるんなら、今頃何とかしている。今も何か、手を打って下さっているのだろう、きっと。信じて待つより他にはない。
だけど。
僕は胸元を押さえた。雑渡さんなら、あるいは……。
あの人は優秀な忍びだし、タソガレドキという大軍の組頭だ。きっとなんとかしてくれる。必ず圭皮を用立ててくれる。
けれど。これを使ってしまえば、終わりだ。貸しを返してもらえば、もう知り合う前の関係に戻る。忍たまと忍び組頭、会うこともなければ口を利くこともない。
それでいいのか、と言われれば、全力で心が嫌だと叫ぶ。ずるくてもいい、卑怯でもいい。それでもいいから、あの人と繋がっていたい。
でも今そんなことを言っている場合だろうか。新野先生が手を尽くしても駄目なんだから、今まともに薬を手に入れるのはおそらく無理だ。なのに多くの生徒が苦しんでいる。僕は保健委員長として、力を尽くす責務がある。
どうすれば。どうすればいい。
その時、廊下をばたばた走る足音がして、医務室の戸が乱暴に開けられた。
「新野先生!大変です!」
伏木蔵だった。一年生は今日は校外実習で、全員裏々山に登っているはずだったのだが、もう帰ってきたのだろうか。
「あの、山で、前からおかしいなーって思ってたんですけど、とにかく先生が知らせに行けって、保健委員だから、僕が、それで」
よほど慌てて走って、途中何度か転んだのだろう。制服は泥だらけで、頭には枯葉がたくさんついてた。荒い息で切れ切れに吐く言葉は、一つ一つでは意味を成さない。
「いいから伏木蔵、まずは息を整えて。はい吸ってー、吐いてー」
側へ寄って背中をさすりながら、一緒に呼吸してやる。それで少しは落ち着いたのか、伏木蔵はまた、新野先生大変です、と叫んだ。
「乱太郎が熱を出して倒れて……紅朱熱の疑いがあるから、すぐに医務室に連れて行きますと伝えてくれって、土井先生から」
「何だってえ!?」
数馬と左近が叫びながら立ち上がるのを、僕は呆然と見守っていた。
今は使われていない小さな武道館が、紅朱熱患者の隔離場所だった。
日が暮れると、真っ暗になるこの武道館に、灯りは一つきり。入り口近くに灯明を置いて、僕はその側に座り、館内の様子を見渡した。外出でお疲れの新野先生に代わって、今日の不寝番は僕だった。
どんなに気をつけても軋む床の上には、十一組の布団が並べられている。落ち着いて眠っている子もいれば、寝苦しそうな寝返りを繰り返す子もいる。何度も喉の渇きを訴える子もいれば、ぐったりと虚ろな目で横たわる子もいる。ただみんな静かに、高熱に耐えている。
顔を真っ赤にした乱太郎が、土井先生に背負われて医務室に姿を現したのは、あれから間もなくのことだった。
すぐに新野先生が診察し、項垂れるように頷かれた。紅朱熱だ。僕は乱太郎の布団を武道館へ運び、そこへ新野先生に連れてきてもらった乱太郎を寝かせた。
乱太郎はしんべヱと同室だ。感染する確率は、他の人より高かったかもしれない。もちろん、患者のいるこの武道館へ近寄らせたりしていない。でも、医務室では働いていたため、紅朱熱患者と接する機会も多かった。それに、新野先生や僕が、ここや薬作りにかかりきりになることが多くなったため、下級生は毎日が医務室当番だった。その疲れのせいで、病に勝てなかったのかもしれない。
乱太郎はここ数日、ちゃんと元気だっただろうか。顔色は。思い出せない。伏木蔵はちゃんと、乱太郎の変調を見抜いていたというのに。
普段ならともかく、こんな大変な時に。紅朱熱が流行して、保健委員がその矢面に立たされているという時に。僕は個人的な事情に囚われて、下級生達の様子をちゃんと見てあげられなかった。守れなかった。
何のための保健委員長だ……!
「いさく、せんぱい……?」
ぱちぱち目がしばたかれた。乱太郎は乱視だ。そうでなくても、この薄暗さでは、誰が誰だか分からないかもしれない。
「起こしちゃったかな、ごめんね」
静けさを乱さないよう、出来る限り小さな声で囁く。乱太郎の額に乗せた手拭で、顔の汗を拭いてから、そばにある盥で手拭をすすぐ。絞りなおすと、また額に広げた。
「何も心配しなくていいからね。薬なんてすぐ手に入るんだから」
「はい……」
力ない返事。乱太郎は医務室で、何度か薬を買いに出かけた新野先生が空振りしているのを見ていたから、いまいち信用できないのも無理ないな。僕は懐から、小さな笛を取り出した。
「いいものを見せてあげよう。これは打出の小槌だよ」
「うちでのこづち……?」
熱で目が潤んでいる上に、乱視の乱太郎には、これがどう見えているのだろう。知りたかったけれど、病人に根掘り葉掘り尋ねる訳にはいかない。
「そう、打出の小槌。これを使えば薬なんてすぐ手に入る。そしたらすぐに良くなるからね。安心して眠っているんだよ」
「はぁい……」
目を手で覆ってやると、素直に目をつぶったようだ。ほどなくして寝息が安定する。ちゃんと眠れているようなら、とりあえず一安心だ。
待ってててね、乱太郎。みんな。
僕は笛を懐へ戻すと、服の上から強く握り締めた。
天頂は青いのにそれがどんどん薄くなり、白っぽい色から順に赤みが増して行く。
太陽がそろそろ山の端へ沈もうとしていた。陽の沈む辺りは空が真っ赤に焼けている。この分なら、今夜、雨の心配はない。
今日の不寝番は、新野先生が務めて下さる。僕は本来なら今頃は、仮眠を取る新野先生の代わりに医務室に詰めていなければならないのだけれど、患者がいないのをいいことに、薬草園に水遣りに来ていた。
ずっと医務室にいたから体を少し動かしたくなったのと、空の様子を見たかったからでもある。
無論、雨だろうと嵐の中だろうと走る訓練は受けているけれど、歩いて数日かかる道のりだ。持ち物も少し減るし、雨の心配がないのはありがたかった。
僕は今夜、タソガレドキ城へ行く。
無論、城へ行ったって、雑渡さんに会えるとは限らない。
それでも、僕は行かなければならない。行って……雑渡さんに会って……そして。
僕は懐を押さえた。打出の小槌を、使う時が来たのだ。
桶に残っていた水を、傍らの桃の木にかけてやる。そろそろ戻ろうかと、手杓を桶に戻した時だった。
「茜さす紫野行き標野行き……か」
声がした、と思った瞬間には、後ろから抱きすくめられていた。僕の体がすっぽりと包み込まれている。ゆるく抱きしめられているようで、要所をおさえられており、振りほどけない。
「さしずめ私は、人妻ゆえに、といったところかな」
「雑渡さん……」
わざと耳元で囁かれる言葉。人妻、だなんて。やっぱりこの人も、僕が文次郎のことを好きだと思ってるんだ。じわ、と目に涙が浮かんできた。
こうやって抱きしめられて、本当は嬉しいのに。心の蔵が胸から飛び出しそうなくらい高鳴っているのに。でもこの人は誤解している。それを元に人をからかっている。本気じゃないのにこんなことをする雑渡さんが、あまりにも悲しい。
「……もう、こういうこと、やめてもらえませんか」
自由になる手で、雑渡さんの手首を押さえた。僕が全力を込めたってゆるがせそうにない力強い腕に、そっと手を添える。
そういえば僕から雑渡さんに触れたのはこれが初めてだった。
「どうして。……もんじろうくんに悪い?」
泣くまい、と思った。目頭が熱くて、今にも涙が溢れそうで、瞬きすれば泣くのは必至だったけれど。泣くまい、と思った。懸命に目を見開いて、涙を堪える。
「伊作くん……?」
不意に、上半身を絡めていた腕が解かれた。前に回った雑渡さんは、じっと僕の顔を見下ろす。
黒覆面に、白い包帯。不気味ないでたちの中でその右目は、いつも何かを面白がっている。時に無機質に、時に笑み崩れて。そう、この人の右目が笑うのを見るのが好きだった。僕の言動がこの人を笑顔にさせたんだと思うと、どんなに嬉しかっただろう。
雑渡さん。
貴方のことが好きです。
僕は睨みつけるように目に力を込めて、雑渡さんの顔を見上げた。
でもそれを伝えて何になるだろう。この人は僕の手の届かないところにいる、いわば雲の上の人。たまさか雲から降りてきて、下界で右往左往する僕をからかって面白がっているだけの人。住む世界が違うのだ。
それに、今からその縁を切るのだから。
「雑渡さん」
「はい?」
「お願いがあります。僕の望みを言いますから、どうぞ叶えて下さい」
黒覆面に囲まれた目が、一瞬、眉をひそめるように、細められた。
「……何かな」
「圭皮を十一人分。どうしても必要なんです」
「ふむ」
雑渡さんの目線が僕からそれた。腕組みをして小首を傾げる。
「圭皮というのは、確か何かの病の特効薬なんだってね」
「特効薬というか、圭皮と甘草と生姜と竜骨で作った薬は、紅朱熱によく効きます。飲めば必ず治るという訳ではないでしょうが、大抵は」
「圭皮以外の材料はある?」
「はい。薬の調合によく使われる材料ですから、あります。圭皮だけが手に入らなくて……」
「ふむ」
腕を組んであさっての方角を見て。漠然とした考え事というよりは、何かの計算を組み立てているように見えた。
やがて計算が終了したのか、腕組みをしていた腕が解かれる。
「物が物だけに今すぐとは言えないが、出来るだけ早く用意しよう」
「ありがとうございます。あの、これを」
僕はかつて雑渡さんにもらった笛を差し出した。
今頼みごとをしたから、この笛の約束は無効になった。雑渡さんの手作りだと思うと手放したくなかったけれど、けじめをつけるためには、返してしまうのが一番だろう。
しかし忍び組頭は、自分が作ったその笛を見ると、ふーと息を吐き出した。
「伊作くん、切り札というものは最後まで取っておくものだよ」
そう言いながらも手を出すと、笛を受け取った。そして。
ぱきん。
意外と軽い音を立てて、笛は真っ二つに別れた。
「あ……」
そしてそれを、放り投げた。笛の残骸は弧を描いて飛び、夕陽を浴びて輝き、やがて草むらに落ちて見えなくなった。
もうこれで、僕と雑渡さんを繋ぐ物は、何もなくなった。
「ところで伊作くん、私は前にも言ったよね。君の役に立つことがしたいと」
「はい」
「見たところ君が紅朱熱にかかっている訳ではなさそうだけれど。それでも、圭皮を用意することが、君のためになるのかな?」
そう言いながら、僕の顔を覗きこんでくる。何だろう。からかっているような、面白がっている口調。
いつもこの人は僕をからかっているんだと思うのに。今は殊更にからかわれているような気がする。
「なります」
どうにせよ、僕は本当の事を答えるまでだ。嘘をついたり誤魔化す理由など何もない。
「僕は心の底から、紅朱熱に罹っている子達を助けたいと思っています。みんなが元気になってくれることが、今僕が一番に望んでいることです。だから、薬を手に入れて下さるならば、それが一番僕のためになることです」
僕は真っ直ぐ雑渡さんを見上げた。
雑渡さんは、僕より頭一つ分くらい背が高い。だから真っ直ぐ向き合うと、僕がやや雑渡さんを見上げる形になる。
その態勢で、じっと雑渡さんの目を見つめた。露になった右目と、包帯に守られた左目を。
ふ、とその目が和らいだ。かすかに目じりが下がって、笑っている……?
「君はそうやっていつも、私の価値観を揺るがせてくれる」
一歩で距離を埋めると、組頭の手が僕の頬に触れた。
「そんな君が、好きだったよ」
「えっ……」
雑渡さんが身を屈めた。次の瞬間、反対側の頬に温かくて柔らかなものが触れる。
強い風が吹いて、桃の木が揺れた。根元に置いてあった手桶が倒れて、中の手杓がからからと音を立てる。
何処を見回しても、姿なんて見えない。気配もない。相変わらずの鮮やかな消えっぷり。だけど、だけど。
「雑渡さん……!」
好きだったって。どういうことですか。貴方ほどの人が、僕を?
そんなまさか。あり得ない。また、からかわれてるのに違いない。
……でも、そう、思い出してみれば。あの人は僕を守りたいと言ってくれた。実際、何度も守ってくれた。助けてくれた。
君を敵にまわしたくないと。手元に置いて守りたいと。悩ましいと。
覆面越しの接吻の後、とてもいい笑顔で笑っていたのは。僕の間抜け面が面白かったのではなく、照れていたから?接吻しようと思ったのは、からかうためではなく、そうしたかったから?つまり……好きだから?
好きだから……僕が文次郎のことを好きだと知って、それであんなことを?
『若い子には、渡さないよ』
あの時雑渡さんの目にともっていた、暗い炎。あれも全て、僕を、想っていてくれたせい?
それなら。もし、そうだとしたら。
「雑渡さん……!」
叫びは折からの強風に吹き消された。もう、どこにもいない。叫んでも届かない。だけど、だけど。
せめて想いを伝えれば良かった。気持ちを告げれば良かった。
無論、それでどうなるということでもない。今、別れを告げた。借りを返してもらうことは、そういうことだ。それは雑渡さんも分かっていると思う。
でもせめて、好きだって言えば。この気持ちを伝えられたら。
……大丈夫、まだ、機会はある。
あの律儀な雑渡さんのことだから。薬が用意できたら、きっと自分で届けに来てくれる。忍術学園には何度も忍んで来てるし、しかも生徒のための薬を持ってきてくれるんだから、誰に遠慮もいらない。
きっと雑渡さんが来てくれる。だからその時には、必ず……!
西の山に日が沈んだ。暗くなる前に帰らないと。僕は転がった手桶を拾うと、学び舎に戻るべく走り出した。